第3話 丹羽兵蔵の忠節
兵蔵さんは、低い声で言った。
「美濃のなまりに、ヒソヒソ声の間から、確かに聞こえる斎藤義龍の名前。間違いはござらぬ」
「ふうん。……隣室のやつらが斎藤家だとしたら、なぜこんなところにいるのでしょう?」
「分かりませぬ。もしや上総介さま(信長)の上洛となにか関係があるのやも」
「……ありえますね。よし、明日にでもその集団と接触し、それとなく情報を得てみましょう」
「承知」
兵蔵さんは、うなずいた。
翌日。
俺たちは宿を出ると、すぐ近くにある雑木林の中に身をひそめる。
数分も経つと、宿から、30人ばかりの集団が登場した。
「やつらが、それがしの部屋の隣に宿泊していた連中でござる」
「思っていたよりも、数が多いな」
と、伊与が感想を告げる。
仲間たちとは、朝までの間に情報を共有している。
あの集団が斎藤家の連中だろうということは、伊与たちも知っているのだ。
「あの集団が仮に敵とすると、まともにやり合うのは不利だ。こちらは10人しかいない」
「まあ、戦うかどうかはあちらの目的を確かめてからでも遅くはないさ。……行こう、みんな」
俺たちは雑木林の中から登場して、30人の後ろを尾けはじめた。
広い街道である。
旅人たちが、行き交っている。
その間、俺たちは、行商人のふりをして、30人の背後を歩いている。
やがて、30人と、それに続く俺たちは志那の渡し(滋賀県草津市。琵琶湖)に到着した。
船に乗って、向こう岸に渡らねばならない。30人は5,6人ずつ小舟に乗って向こう側に渡ろうとする。
そこを見逃す俺たちではない。俺と兵蔵さんは、すかさず船に乗り込んで、30人のうちの3人と同船した。
穏やかな水上を、小舟がゆっくりと進んでいく。
2月の風が吹いていた。頬を突き刺すようだが、さんざん歩いたあとなので、その冷たさは逆に少し心地よかった。
さて。
心地よさに浸っている場合でもない。
役目を果たさねばならない。
俺は兵蔵さんと目配せをしあったあと、それとなく、同船した者に声をかけた。
「やはり船の上は、少し冷えますね」
声をかけると、同船者は、ちょっと笑みを浮かべた。
「いや、まったく。早く暖かくなってほしいもので」
「我々は南のほうから商いに来たもので、どうも近江の寒さは身に沁みます」
「ほほう。どちらの国から参られたので?」
「三河でござる」
兵蔵さんが答えた。
本当は尾張の出身だが、しかし兵蔵さんはもっと若いころ、三河に武者修行をしに行ったことがあるので、まんざら大ウソでもない。なまりも、三河風になっている。大したものだ。
「三河からですか。我々は美濃から、所用あって京の都を目指している者」
「美濃からでござるか。あそこはいま、斎藤治部大輔(斎藤義龍)さまのご威光が盛んだそうですな」
さらりと、義龍の話題を出す。うまいな、兵蔵さん。
同船者は、破顔してうなずいた。
「いや、まさしくそうです。治部大輔さまは稀代の名君。畏れながら、天道をも恐れなかった悪鬼のごとき先代さまに比べると、民草への慈悲も深く、百姓たちも皆、殿さまになついておりますな」
先代さま……。
斎藤道三のことか。
美濃のマムシと呼ばれ、主を殺し、下剋上でのし上がった斎藤道三。
偉人でもあり英雄でもある人物だが、同時代の美濃人からは、決して好かれてはいなかったというが、どうやら本当らしいな。
「先代さまといえば」
兵蔵さんは、さらに続けた。
「先代さまの娘婿――すなわち尾張の織田上総介さまは、なかなかの名君のようですな。一時はうつけとも呼ばれていましたが、どうしてどうして……。乱れた尾張の国をまとめ上げ、いまでは優れた武将と噂されております。――なあ、梅五郎さん?」
兵蔵さんが、俺のことを偽名で呼ぶ。
と同時に、彼は片目をつぶった。うまく話を合わせてくれ、ということか。
「おお、もちろんですとも」
俺は大きくうなずいた。
「我々は三河国を出て、尾張を通ってきましたが、あの国では上総介さまの威勢に、民百姓がいずれも心服しております。我々も尾張を通るときは、ずいぶん遠慮をしたもので」
三河なまりを駆使して、ぺらぺらとしゃべる。
数年前、藤吉郎さんたちと三河に旅をした甲斐があったぜ。三河なまりの会話ができる。
さて、俺と兵蔵さんはそうやって信長を持ち上げたわけだが、すると同船者は「くくっ」と皮肉げに笑った。
「織田上総介、か。……いまは少し威勢がいいようだが、なに、その武運もそう長くはあるまい」
そのセリフに、俺と兵蔵さんは目を光らせた。
「……それはどういう意味ですか?」
尋ねる。
すると同船者は、さすがにしゃべりすぎたと思ったのか、
「なに、さほどの意味ではない」
と言って首を振り。
そこからは、雑談しか口にしなかった。
やがて、船が対岸につく。
俺たちは船頭に銭を払い、大地に降り立った。
そこにはすでに、30人の集団のうち、残りのメンバーが待っていた。
同船者たちは「それでは失礼する」と言って、俺と兵蔵さんの横を通り、集団と合流した。
俺はそのとき、すっと息を吸って――
そこで、わずかに片眉を上げた。
30人の集団は、京へと向かう街道を、進んでいく。
俺たちは、その背中を見送りつつ、
「あれは間違いなく、斎藤家の手の者ですね」
「いかにも。なにかよからぬことを考えてござる」
と、お互いに意見を交換しあった。
数分もしないうちに、また船が到着して、伊与たちがこちらへやってきた。
「どうだ、弥五郎。やつらがなにを企んでいるか分かったか?」
「さあ、まだはっきりとした確証はないが、想像はつく。……やつらはもしかしたら、上総介さまを鉄砲で撃つつもりかもしれん」
「鉄砲で? 山田どの、なぜそれが分かるのですか?」
兵蔵さんが尋ねてくる。
俺は、みずからの鼻を指さした。
「においで、分かりました」
「におい?」
「そう。――先ほど、同じ船に乗ったあの侍とすれ違ったでしょう。そのとき、やつの肩からはかすかに火薬ににおいがしたのです」
俺は眼を鋭くさせて、言った。
「我々も京へ向かいましょう。あの斎藤家の連中は、ここで叩いておかねば」
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