第60話 堤伊与の告白

「面を上げい」


 と言われて、俺はゆっくりと顔を上昇させた。

 信長がいる。微笑を口許に浮かべた、実に涼しげな男ぶりだ。


「そちには、一度会いたい。いや会わねばならぬとずっと思っていたが、ついに会えたな」


「はっ」


「固いあいさつは抜きじゃ。山田弥五郎。まずはこれまで働いてくれた事について礼を言う。そちはこの三郎のために随分と尽くしてくれた。藤吉郎と又左から、いちいち聞いておる。その働きぶりは実に見事じゃ。この三郎も、頭が下がる思いである」


「恐れ入ります」


 少し当惑しながら、俺は答えた。

 戦国大名である信長が俺に礼を言うと言ったのだ。あの織田三郎信長から! 嬉しくもあり、恥ずかしくもある。


「あの熱田の銭巫女とも、よく戦ってくれた」


 信長は、続けて言った。


「あれも敵ながら、この三郎を捕らえるなど、なかなかあっぱれな働きをする手強い女であった。……その銭巫女に監禁されていた余を救い出し、また稲生の戦いで勘十郎の軍に合流しようとする銭巫女の軍団と交戦したそちの働きは、古今に比類がない。また思い返せば、この清洲城を奪い取るにあたっても、そちと藤吉郎の情報が実に役立ったことは言うまでもなく、さらに申せば連装銃や銃刀槍などの開発も、そちの手柄と聞いておる。こうして考えてみれば、ここ数年の織田家の躍進は十の内、八、九までそちのおかげではないか。弥五郎――」


「は……」


 なんと返したらいいか分からず、生返事をしてしまう。

 信長から、ここまで褒められるとは思わず、俺は恐縮しきってしまったのだ。


 だが。

 ここで信長は、わずかに声を低めて言った。


「それで、なぜじゃ?」


「…………は?」


「そちはどうして、この三郎にそこまで肩入れしてくれた?」


 信長は、笑みを消し、まっすぐにこちらを見据えてきている。

 怒っているわけではないようだ。ただ純粋に不思議そうだった。


「余が、うつけと呼ばれていることは知っていよう。国中の侍や民百姓から馬鹿にされきっている男じゃ。その余を、なにゆえそちは延々と助け続けてきてくれたのだ? そちは余の家臣でもなんでもあるまいに」


「それは――」


 なかなか、答えにくい問いかけだった。

 この戦国乱世を泰平に導くには、信長や秀吉の存在が不可欠だ。だから俺は助け続けた。

 しかしこの時点で、信長はもちろん自分の未来など知る由もない。そんな彼に対して「あなたはいずれ天下人になるから、助けなければならないんです」と言っても、信用してはもらえまい。いくら聡明な織田信長であろうと、そこまでの回答をすれば、俺は頭がどうかしていると思われかねない。


 だから俺は――

 転生者であることを隠し、しかしある本音を口にした。


「三郎さまこそ、天下万民の信を得るお方と思い、加勢したのでございます」


「天下万民の信を?」


「左様。……藤吉郎さんから、餅の話を聞きました」


 そう言うと、藤吉郎さんがちらりとこちらを見た。

 笑っていない。真顔である。――俺は続けた。


「飢えて死にそうになっている藤吉郎さんは、三郎さまから餅をいただいたそうですが……。そういったお優しい三郎さまのことを、俺は――この山田弥五郎は、大好きになってしまいました。また駿河で出会った松平二郎三郎(徳川家康)さまも、三郎さまから以前、瓜を貰ったことを話しておりました。三郎さまは、本当に慈悲深いお方だと」


「松平の竹千代が、瓜、だと? ……ふむ、左様なこともあったのう」


 信長は、懐かしそうに目を細めた。

 少年のような顔だった。

 俺はなお、続ける。


「些末なことのようですが、そのように、弱き立場の者に慈悲をかけられる殿様を、民は欲しているのです。無論、この山田弥五郎も欲しております。それゆえに、陰ながら織田家を、三郎さまを、お支えすることにしたのでございます。……三郎さまに尾張を、そしてやがては天下を制していただきたく!」


 これは本音だった。

 弱きを助ける織田信長だと、藤吉郎さんから聞かなかったら、俺はここまで信長のために動いていたかどうか。


「三郎さまが天下を征したとき、この日の本から悲しみは消え去る。そう確信すればこその手助けでございます」


「……随分と評価されたものだ」


 信長は苦笑いを浮かべた。


「天下万民の信とか、天下を制するとか……藤吉郎も時おり、左様なことを口にしおる。このほらふきどもめ。天下を制するなど……余は考えたこともないわ」


 おや、と俺は思った。

 織田信長はのちに天下布武をスローガンに掲げる人物となるのだが、このときの信長は、まだ天下のことを考えていなかったのか。

 確かに、まだ尾張一国さえ支配しきれていない織田信長が天下を求めるなど、常識的に考えればありえないことだが……しかし――


「畏れながら、法螺でもなんでもありませぬ!」


 藤吉郎さんが、叫んだ。


「わしゃ、三郎さまが本当に天下人になれると信じております。この弥五郎もそうです。三郎さまのお力ならば、きっとこの日の本すべてを制し、か弱き者たちすべてを救ってくださる。この藤吉郎は心より信じておりますで!」


 その声は真剣だった。

 それゆえに、その場にいた誰も藤吉郎さんを茶化さなかった。

 信長さえも、わずかに目を見開いて藤吉郎さんへ目を向ける。……そして俺も。


「藤吉郎さんの言う通りです。三郎さまはやはり天下を制するべきお方。こうして直に話をして、ますますそう思うようになりました」


「ほう。なぜじゃ」


「……銭巫女のことです」


「銭巫女? 熱田の銭巫女じゃと?」


「はい」


 俺はうなずいた。


「熱田の銭巫女は、織田勘十郎さまのために尽くしておりました。心の内はどうであれ、銭を出し、人を出し、三郎さまを捕まえて、八面六臂の活躍をしておりました。しかし、織田勘十郎さまも、柴田権六さまも、稲生の戦いが終わったあと――銭巫女の死を聞いて、ほとんどなんの反応もされなかったと聞いております」


「…………」


「しかし三郎さまは、先ほど、銭巫女を褒めたたえました。――あれも敵ながら、この三郎を捕らえるなど、なかなかあっぱれな働きをする手強い女であった、と。……憎むべき敵であったとしても、ちゃんと評価をし、そしてその存在を忘れない三郎さまこそ、やはり大将の器であると弥五郎は思いました。――天下人は、家来や民は言うまでもなく、それ以外の、この日の本の国に生きる、すべての衆生に目を向ければなりません。ありとあらゆるか弱き者に。……敵対者に、敗北者に。……弥五郎は、三郎さまはそれができるお方だと確信しております!」


 いまのこの国には、悩み苦しむ人間が多すぎる。

 俺はそれを、今回の東征の旅で学んだ。


 銭巫女は言うに及ばず。

 松平家の夜明けを待つ、岡崎城の鳥居さん。

 今川家の代官と揉めていた、三河の百姓たち。

 家来や民のことを思う、思いやりのある君主だった松下さんや、父との関係に悩んでいた、五右衛門もそうだ。


 尾張と、その近辺しか知らなかった俺は、今回の旅で、どれだけ多くの人がそれぞれの苦しみを抱えているかを知った。

 絶望に涙するのは自分だけじゃない。傷付き苦しみ悩む人間が、無明長夜の明ける日を待つ者たちが、この世にはこんなにも多い。いや、もっともっとたくさんいるのだろう。


 その人たちを救うために、この無道極まる乱世は終わらせなければならない。

 織田信長や豊臣秀吉、徳川家康ら――英傑たちの手によって。


「餅だの瓜だのを、行き倒れや人質の子にくれてやっただけで、えらく持ち上げられたものだな」


 信長は、再び苦笑いを浮かべた。


「――余は別に、深い考えをもって情けをかけたわけではない。……自分自身が、あまりにも世の中から、馬鹿だうつけだと言われ続けておったから……。――余に情けをかけてくれる者はいなかった。母親や弟でさえ、余を殺そうとしてくる始末を思えば、よく分かるだろう。父親だけは、どうやら余のなにかを見込んでいたようにも思えるが、腹を割って話さぬうちに死におった。……馬鹿な親父だ」


 信長の横顔には、わずかに寂しさを感じる。


「そういうことだ。だから余は、せめて自分くらいは、困っていた者がいたら食い物くらいは恵んでやろう、情けをかけずばなるまいと思ったのだ。それだけの話だ。おのれが天下人になるなど、夢にも思っておらなんだ」


「…………」


「……だが」


 信長は、微笑を浮かべた。


「山田弥五郎。そちの言葉には奇妙な真実味がある。……余は天下人になれるかな?」


 いたずらっぽく笑う信長からは、不思議な可愛げを感じた。

 引き込まれたように、俺も笑顔を作り「必ず!」と返す。すると信長は首肯した。


「うつけが天下を取るなど、痛快やもしれぬな」


 その一言で俺は、今日、そう、まさに今日、織田信長が天下布武に向けて動き出したことを知った。

 なんとまあ、不思議な運命の流れ。俺と藤吉郎さんが天下人にと叫んだことが、まさかのまさか、信長の天下布武の第一歩となろうとは! それこそ俺は夢想だにしていなかった!!


「山田弥五郎。これからも力を貸してくれ」


 信長の――いや、これからは三郎さまと呼ぶべきだろう。

 三郎さまの言葉に、俺は「ははっ!」と叫び、激しく頭を下げたものである。

 この日、織田信長が天下布武に向けて歩み出した日、神砲衆と山田弥五郎もまた、正式に織田家の所属となったのだ。




 その後は宴となった。

 用意された酒と肴を楽しみながら、織田家の人たちと語り合う。

 俺は酒がさほど好きではないのだが、軽く口をつける程度には付き合った。


 やがて宴には、滝川さんも登場した。滝川さんは三郎さま救出の手柄が認められ、三郎さまから別個に褒美をもらい、かつ、今後は織田家の所属となるらしい。甲賀衆に仕えながら、織田家にも仕える。そういう立場だ。――のちに明智光秀が、織田家に仕えつつも足利将軍家に仕える、いわばダブル奉公の立場となるのだが、それと似たようなものだ。


「オレたちも、ずいぶんなところまで来たな、山田」


 宴もたけなわになったころ、滝川さんは言った。


「オレとお前と蜂楽屋、それにあかりちゃんの4人で、海老原村のイノシシ退治をしたりしたっけな。あのころが遠い昔のようだぜ」


「俺も同じ気持ちですよ。……まさか、こんな日が来るなんて」


 うっかりすると、涙が溢れてしまいそうなほど、それは強い感動であり感慨だった。


「おっ、ご両所。ふたりだけで盛り上がっておりますな~」


 そこへ、藤吉郎さんもやってきた。


「なんだ、木下。山田はいまオレと飲んでいるんだ。邪魔するんじゃねえ」


「なんとケツの穴の小さいことを。わしも混ざって3人で飲めばよいでしょうが。のう、弥五郎?」


「はい……」


 俺は微笑を浮かべた。

 滝川さんは、しょうがないとばかりに首を振る。


 豊臣秀吉と滝川一益……。

 史実通りに歴史が進めば、のちに対立することになるふたりは、すでになんとなく相性が悪い。

 それでも、このときは、この夜ばかりは勝利の余韻に酔いしれているのか、とりあえずは一時休戦とばかりに、盃を交わしている。

 藤吉郎さんと滝川さん。俺にとって深い関わりのあるふたりが、ひとまずは友情の乾杯を果たしたことに、俺は内心安堵の息を漏らしたものだ。


「山田。なにを固い顔をしておる。今日は無礼講ゆえ、もっと気楽に楽しめ」


 上座から、三郎さまが声をかけてくださった。

 俺は笑顔を返し、小皿に酌まれた酸っぱい酒を、のどの奥へと流し込む。

 おおお、と、場が盛り上がった。前田さんなどはニコニコ顔で囃し立てた。


 織田信長。豊臣秀吉。丹羽長秀。前田利家。滝川一益。佐々成政。

 のちに天下の中枢を動かしていく武将たちと酒を飲んでいる。

 それはとても不思議な気分だった。

 悪い気持ちではなかった。




 津島の屋敷に戻ったのは、翌朝のことだった。


「弥五郎、戻ったのか」


 自室に戻ると、伊与が出迎えてくれた。


「いま帰ったよ。他のみんなは?」


「ほとんど寝ている。カンナもな。……昨日は清州に泊まったのだな。戻ってくるかもしれないと、ずっと待っていたのだが」


「悪い。使いを出せばよかったな。――三郎さまと宴になったんだんだけど、まさかあんな流れになるとは思っていなかったから」


「いや、別に責めているわけではない。三郎さまとの宴なら、それも仕事のうちだな。……お疲れ様」


 伊与が柔らかな笑みを浮かべる。

 俺の心は、その笑顔を見るだけでなんだか安らいだ。


 それにしても、少し眠い。

 昨晩はちゃんと寝たはずだが、酒が入っていたせいで深く眠れなかったかな?

 まだみんなも寝ているのなら、俺も少し休もうか――そう思ったときだった。


「……なあ、弥五郎」


 伊与が、神妙な声音を出した。

 その声だけで、なにかを言わんとしていることが分かった。


「お前、銭巫女との戦いのとき……最後に言っていたな。カンナとの話を」


「カンナとの話? なんの話だっけ?」


「カンナがイノシシ退治のときに『人を信じるために戦いたい』と言った話だ」


「ああ、あれか。あの話がどうした?」


「いや、つまり……」


 伊与は、わずかに視線をさまよわせた上で言う。


「……その話、私は聞いていなかったな、と思って」


「なんだ、そんなことか。いや、別に――話すほどのことじゃないと思ってさ」


「そんなことはない、大事な話だ。……カンナがどうして神砲衆で頑張るのか。その動機を、私は知らなかったが、お前は知っていた。……そういう大切なことを話せるほど、お前とカンナは深く心を許し合っていたということだ」


「……伊与?」


 伊与の落ち着いた顔が、なんだか奇妙に見えた。

 彼女はなお、続ける。 


「弥五郎。お前とカンナは夫婦になるかもしれない。……先日、そう話していたな」


「……ああ」


「その話。……昨日、今日に出た話じゃない。ずっと前からお前とカンナは、深いところで繋がり合っていたわけだ。カンナはもう5年も前から、お前に心を許していた……」


 伊与は静かに、しかし薄い笑みを浮かべている。

 なんの話なのか。いまいち読めない。怪訝顔を浮かべる俺。

 そんな俺に、伊与はハッキリと、わずかに潤んだ瞳を見せる。


「……私は、お前の幼馴染だな? 弥五郎」


「……そうだよ。なにをいまさら」


「お姉さんだな? 弥五郎」


「だから1日だけだろ。イバるなって」


「そうだ。1日だけの姉で、一緒に育った幼馴染だ。……だからだろうな。私は、ずっと怖かった」


「え……?」


 伊与の静かな声音に、片眉を上げる。


「幼馴染で、1日だけの姉で、神砲衆の仲間。そういう関係が、あまりにも居心地がよくて。……少しでも刺激が入ったら、その関係が崩れてしまいそうで……。それが怖くて、ずっと自分の気持ちに見て見ぬふりをしていた。――とっくに気付いていたんだ。あのとき、萱津の戦いのとき、お前と再会したときに」


「…………」


「……カンナとお前の距離が近づいていくのを、目の当たりにするたびに、辛かった。心が張り裂けそうだった。カンナが良い子だからなおさらな。……1度はそれでもいいと思った。カンナなら、いい。彼女ならお前を任せられる。そう思っていた。いや、そう思い込もうとしていた。……だけど、やはり……。お前が……お前たちが、もうずっと前からそういう、仲間以上の関係になっていたと知ったら、もう、切なくて……。……どうしようもなくて……。……だから、ここで伝えなければならない。お前に、告白しないといけない」


「なにを……」


 半ば以上分かっていながら、俺は問い返す。

 伊与が、くちびるを動かそうとしている。なにを言おうとしているのか。

 分かる。分かっていたんだと思う。俺だって、ずっと前からそうじゃないかと悟っていたその言葉。

 いつかは来るんじゃないかと思っていたその瞬間――


「好きだよ、弥五郎」


 震えもせずに、彼女は言った。


「きっと、ずっと前から。うんと小さかったころから。……はっきりと悟ったのは、さっきも言った萱津の戦いのあとだけどな。……それだって、もうずいぶん前の話なのに……。今日ここまで伝えられなかった。女子一生の不覚だ。……だが、もう遅れはとらない。……これまでは、仲間でもあり家族でもあったけど、これからは――」


 伊与は、顔をほんのりと朱色に染め上げながら、しかし俺のほうを見据えつつ、言った。


「夫婦にもなりたい。そう、思っている」


「……伊与」


 なぜだろう。

 そのとき、かつて伊与に、名前を呼ばれたときのことを思い出した。




 俊明、と。




 前世から続く、俺の名乗りを。

 あのとき、俺の魂を現世に呼び戻してくれた、確かに愛情の伴った呼び声を。


 心が、かすかに震えた。

 自分の生命と心が確かに必要とされた、あの瞬間。忘れようはずがない。




 俺はこの世に生きていていいんだ。




 その理屈が、言葉ではなく、理屈でもなく、確かに魂として実感したあの瞬間。

 あのとき、俺は。――伊与の声をもう一度聞きたいと思った。伊与の手をもう一度握りたい、伊与の身体をもう一度抱きたい。そのためにもう一度、現世に戻りたいと。二度も死にたくない。別の時代に行くのもごめんだ。俺は、この時代のこの場所で、生をまっとうしたいと、そう願ったんだ。


 伊与が。

 ――伊与が、俺に、命を与えてくれた。

 この美しい幼馴染が。……この温もりをもった眼差しで、俺のことを見つめてきてくれる女性が。


「……伊与」


「……なんだ、弥五郎」


「……俺……俺は……」


 思いを打ち明けてくれた伊与に、なにか返事をしなければならない。

 俺は、言葉にならない思いを脳の中で整理しつつ、次の声音を紡ぎだそうと口を開いて――




 どたばたどんっ!




「「わっ!?」」


 突如、部屋の引き戸が倒れた。俺と伊与は揃って声を出す。


「あ、あたた……」


「お、押しすぎだ、あかり。お前、案外力が強いな……!」


「え、えへへ。……ご、ごめんなさい」


 そこには、カンナ、五右衛門、あかりちゃんの3人がいた。

 神砲衆の美少女3人。……どうやら、戸の向こう側で聞き耳を立てていたらしい。


「カンナ……あかり……五右衛門……」


 伊与が、それぞれの名前を呼ぶ。

 3人は、「えへへ」となんとなくごまかしたような笑顔を浮かべたが――

 そのうちのひとり、カンナだけは、やがておもむろに立ち上がると、キッと眼を鋭くさせて、


「弥五郎」


 あっ、ヤバい。

 これはなにか修羅場の予感。


「ついに伊与から告白されたっちゃね、アンタ」


「……あ、ああ。……まあ、ね」


「ふうん。……それで? 信濃の温泉であたしに言ったこと、忘れちゃおらんよね?」


「そ、それは……それはもちろん……」


「そうよね~。あれだけふたりして一生懸命抱きしめおうたもんね、弥五郎?」


「だ、抱きしめ……」


 なぜか、一同の中で一番関係なさそうな五右衛門が赤面した。

 あかりちゃんが、ちょっと呆れたような眼差しを五右衛門に向ける。


 カンナは、そんな五右衛門たちを完全にスルー。

 それからじろりと俺と伊与を交互に見て、


「で、これはどう決着をつけるん?」


 ……見てから、ちょっと赤面して、


「……あたしを奥さんにするん? それとも伊与?」


「いや、それは――」


 俺は、詰まった。

 いま、目の前にいる女性ふたりは、俺にとって、とても大事なふたりだ。


 俺に生命を与えてくれた伊与と、俺の心を復活させてくれたカンナ。

 非常に、非常に情けないというか最低なことだとは思うが――俺は、ふたりとも、大切な存在であり、つまり、その。


「……俺は……どっちも……」


「……どっちも?」


「ふたりとも……大切だ……」


「……は」


「両方、愛おしいって……そう、思っている……」


「そ、それって……」


 カンナは、口をぱくぱくさせた。

 唖然としたような顔をして、頬をますます赤くさせて、


「だ、だって、だって、先に約束したの、あたしやん!? 尾張に戻ったら、夫婦になろうって――」


「カンナ。お前と弥五郎は、まだ正式に夫婦になったわけではない。それならばまだ私にも機会があるはずだ」


 負けじとばかりに、伊与は言い返す。

 するとカンナは、むっとしたように口を尖らせ、


「伊与、アンタ! ちょっと前には、よかったじゃないか、とか、私は祝福するよ、とか言いよったやん!? やんやん!? やんやんやん!?」


「そんな時代もあったかな。あのころは私も若かった」


「はぁ!? ずるかこすかきたなかー! そげなことよう言うねえ! だからあたしはあんとき、何度も念を押したやん! アンタの答えはそれでええんやねって! それやのに……女侍おんなざむらいが聞いて呆れるばい!?」


「カンナは侍を誤解している。武士道とは犬と言われようが畜生と言われようが勝つことこそ本分なのだ。越前のなんとかいう武将の口癖らしい」


「そんな武将のことなんかどうでんよかっ! それよりも、それよりも――あたしのほうが、弥五郎に早く好きって言うたとに!」


「それを言うなら、私は幼馴染としてもっと前から弥五郎とずっと一緒にいた」


「関係なかろうもん、そんなの! 弥五郎はあたしと夫婦になると! 絶対ばい!」


「それは弥五郎が決めることではないか? カンナ」


「む。……それも確かにそうやね。……ねえ、弥五郎――」


 ふたりの美少女は、吊り上がった目を俺のほうへと、じろり。

 この上なく鋭く向けてきながら、




「「はっきり決めてほし いな」 かね」




 低い声音で問うてきた。




「「どっち?」」




「あ、いや――」


 どちらの名前を出しても、この場が戦場になるのは避けられなかった。

 俺は、この俺は。……ひとまずどちらと答えても大揉めになりそうだし。なんていうか、こういう話はのちのち落ち着いてから、そうみんなが冷静になってからやったほうがいいんじゃないかと思い――ああ、我ながらなんてヘタレな。しかしこの場の伊与とカンナの放つ殺気に、俺はもう耐えられません。ごめんなさい。


 そこで俺は。

 あさっての方角を突如指さすと、


「あっち!」


 と叫んで、全力で駆けだした。


「あーっ、逃げた!」


「カンナ、追うぞ! はっきりと決着をつけるのだ!」


「承知っ!」


 なんで今度は同盟を組むんだよ!?

 ヤバい、とにかく逃げないと! 捕まったらえらいことになりそうな気がする!


「おっ、アニキ。おはようござ――あれ?」


「御大将、お帰りでしたか――おや?」


「「「「「ういっす!?」」」」」


 屋敷の中で出会っていく、次郎兵衛、加藤さん、さらに自称・聖徳太子たち5人の横をすり抜けつつ、伊与&カンナのコンビから逃げまくる俺。だ、だって、だって。……ふたりとも本当に好きなんだから、仕方ないだろ!? ふたりどっちか選べなんて、無理だって!


「弥五郎! 待てっ!」


「アンタ、男ならはっきりしんしゃいっ!」


 美少女ふたりに追い回されながら、しかし――

 俺は心のどこかで、この状況を喜んでいた。

 こんな日常を送ることのできる幸せを。




 ――強さは人を腐らせるんだ! 絶対にだ! 仮にあんたが腐らなくても、あんたの周りが腐っていく!

 ――それでもなお、人を信じるなんて綺麗ごとを貫けるかどうか! 地獄の底で見ていてやるよ……!!




 銭巫女の声が、心の底に沁み込んでいる。

 変わるのだろうか。楽しく酒を酌み交わした、織田信長や豊臣秀吉や滝川一益。それにこうして俺を慕ってくれる仲間たち。


 俺は、あるいはみんなは、変わってしまうのだろうか。

 そんなことはない。きっとみんなで明るく笑える、完璧な未来に辿り着けるはずだ。

 俺は伊与とカンナから逃げ回りながら――あかりちゃんや五右衛門や次郎兵衛の笑顔を横目に見ながら、そんなことを考えていた。




 涼しげな秋風が、屋敷の庭を吹き抜けていく。

 平和の息吹を肌に感じて、俺たちは、少しずつ未来へ進んでいく。きっと誰もが笑える未来へ。






第二部 相克東往編 完





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これにて第2部完結です。

第2部は書籍版第2巻として書籍化しておりますが、そちらはウェブ版とは異なるエンディングとなっております。そちらも合わせて注目していただければ幸いです。よろしくお願いします。

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