第59話 愛憎劇の終焉

 薙刀が、俺の脳天を目がけて振り下ろされる!

 俺は眉間にしわを寄せ、歯を食いしばり、わずかに冷や汗を流してから――


 右手を突き出した。

 瞬間、乾いた音があたりに響く。

 と同時に漂う、火薬の香り。




 パームピストル。




 俺の右手には、かつて製作したその武器が握られていた。

 今川家で没収されたものじゃない。こちらに戻ってきてから改めて、作り上げていたものだ。この武器は護身用として必ず役立つときがくると、そう信じて。


「が……はっ」


 銭巫女は、くぐもったうめき声を漏らすと、全身を震わせ。

 それでもなんとかその場に佇立を続けようとして。……だが叶わず。

 その場に、膝を突き、やがて前からぶっ倒れた。俺の放った銃弾は、彼女の身体に正しく命中していたのだ。


「……あ、ぐ……」


 銭巫女は、そのまま動かない。

 その様子を見て、伊与が動いた。

 銭巫女の薙刀を奪い取ると、それを天高く掲げ、


「熱田の銭巫女! 神砲衆頭目・山田弥五郎がみずから討ち取ったり!!」


 戦場すべてに轟く声音で、吼えたのだ。

 銭巫女が負けた。熱田衆の女大将は、敗北した。

 その現実を、敵側に突き付けたのだ。――案の定、わずかに生き残っていた銭巫女軍団は、誰もがその場に突っ伏した。


「……負けた?」


「銭巫女さまが、負けた」


「討ち取られた? やられたのか……」


 銭巫女軍団は、士気を失い、その場に座り込んだり倒れたりし始めた。

 それを見て、滝川さんと小六さんが、素早く行動する。滝川さんたちは部下に命じて、銭巫女軍団の武器を取り上げ、縛り上げ始めたのだ。銭巫女の敗北はそれほど彼らにとって大きな衝撃だったのだ。


 銭巫女はまだ、死んでいない。

 だが、死ぬのは時間の問題だろう。

 彼女の脇腹からは、どくどくと赤い血が流れ始めた。


 助けるべきか、とわずかに思った。

 人道論ではない。彼女を生かしたほうが、熱田や、織田信勝側の情報が得られるかもしれないと思ったのだ。

 だが、俺の隣にいた五右衛門が「こりゃもう、助からないね」と小さくつぶやいた。それで分かった。銭巫女はもう助からない。


 俺は彼女の、整った顔の近くに膝を突き、顔を近づけ、


「言い残すことはあるか?」


 と、尋ねた。

 せめて最後に言葉を聞いてやろうと思ったのだ。――だが、


「ペッ!」


 銭巫女は、血の混ざった唾を、俺の頬に飛ばしてきた。


「そういうところが、反吐が出るんだよ、偽善者……」


「…………」


「腐った時代を変えるだなんて、いい気になって、結局やっていることは自分が気に食わない人間をブチ殺していってるだけじゃないかい。変えられるもんか。こんな腐った世の中がどう変わるっていうんだい。神武降臨からこっち、弱肉強食の世相が変わったことなんて一度もないじゃないか。変わらないよ。人間が人間である限り、弱い者は虐げられ、強者は常に敗北者たちを蹂躙する。違うかい、山田!」


 ――蝋燭ろうそくの最後のともしびとでも言うのか。

 銭巫女は、吼えまくった。命を賭けて叫んでいた。


「織田勘十郎も柴田権六もそうだったよ。あたくしのことを見下して、とことん利用して、自分たちが尾張の大将に這い上がろうとしていた。腹の立つ連中さ。殿様ってやつはいつもそうさ。他人を道具みたいにしか見ていない……! あいつらはあたくしを売女上がりの糞女だと見下しながら、しかしあたくしの持っている軍団と金だけはさんざん利用していたんだ。糞なのはあいつらだよ!」


「……それほど嫌いな織田勘十郎に、なぜ協力していたんだ?」


「決まっているじゃないか! 馬鹿だからだよ! あの男に三郎信長を討たせ、尾張を支配させ――だけど、だけどね、あいつを裏から支配して、この銭巫女が尾張の支配者になってやるつもりだったんだ! ……それだってのに……あともう少しだったのに! 三郎を拉致したあと、殺せばよかったのにあの馬鹿な弟は、土壇場でビビりくさりやがって! おかげでこのざまだ……! 気に食わないったらないね……!!」


 怨嗟の声を、ぶちまけ続ける。

 初めて対面したとき、妖艶な雰囲気さえ漂わせていた、ミステリアスな美女の印象は、もはや残っていなかった。

 そこにいるのは、子供のころから周囲に利用され、なぶられ、なじられ、心を壊し、世の中のすべてを恨みまくっているひとりの人間だった。


「……時代は変わる。俺たちが変えてみせる」


 銭巫女の顔を静かに見つめつつ、俺は答えた。


「弱き者が虐げられない未来を、俺たちが築きあげる。そうしてみせる。少しずつでも、一歩ずつでも、そういう世界を作ってみせる。できないという理屈はない。人間の世の中は必ずそうなる。俺は信じている」


「あたくしは信じないよ。人間なんてみんなクズさ……! ゴミどもの集まりさ!」


 もはや理屈でもなんでもない、感情を吐き捨てる銭巫女。

 人間不信が心の奥底まで根付いていた彼女だ。死の間際に出てくるのは、恨み言だけのようだ。

 俺はそんな彼女を、憐れむべきなのか、それとも断罪するべきなのか迷いつつ、しかし口ではまったく別のことを口にした。


「カンナって子がいてね」


 その名を口にした瞬間、隣の伊与がはっと顔をこちらに向けた。

 構わず、俺は続ける。


「俺の仲間のひとり、蜂楽屋カンナ。……銭巫女。あんたほどじゃないが、彼女もずいぶん苦労をした子なんだ。父親と死に別れ、昔の仲間に裏切られ、ならず者に追い回され、生まれと外見のことで人々からずいぶん白い目で見られ……。その子も昔、俺に向かって言ったことがあるんだよ」


 ――あたし、もう。……人間全部が嫌いになりよった。


「本音だと思うよ。その気持ちは俺にも分かった。俺も、あまり良い人生を歩んでこなかったからな。――だけどカンナは、こうも言ったんだ。世の中には嫌な奴もいればいいやつもいる。さっき、そこの石川五右衛門も言っていた言葉だけどな。陳腐な言葉だが、当たり前の事実だと思うんだ。……銭巫女、あんたが世の中に絶望するのはよく分かる。否定はしない。だが――俺は、それでも世の中は、絶望だけではないと思う。カンナの言うところの『いいやつ』と力を合わせられる。少しずつでも世の中は良くなっていく。そう信じている」


 ――あたし、これからも頑張るけん。……人間をもっと信じたいから。


 カンナが俺に向かってそう言った夜のことを、昨日のことのように思い出しながら俺は言った。

 あれは海老原村のイノシシ退治を終えたあとのことだった。もうあれから、5年の月日が流れている。

 思えば遠くへ来たものだ。しかしあの日のカンナの言葉は、いまでも俺の、心の奥底に深く深く突き刺さっているのだ。


「…………」


 銭巫女は、無言。

 やがて、ごほ、と、血を伴った咳を吐いた。

 彼女の人生は終わろうとしている。それが理解できた。


「銭巫女」


 俺は最後に言った。


「もう一度だけ聞こう。最後に言い残すことは?」


 静かに、尋ねる。

 すると銭巫女は、薄目になり。

 穏やかな微笑を口許に浮かべながら、告げた。




「くたばれ、偽善者」




 彼女は、濁った声で言った。


「なにが、信じている、だ。希望や信念で世の中が変わるもんかい。あんたがいま言ったような話を、この銭巫女がこれまでの人生で経験していないとでもお思いかい? けったくそ悪い! ……何度でも言ってやる。希望も未来も信頼も、愛情も、そんなものはたわ言だ。賭けてもいい。山田、お前も強者になればきっと変わる。必ず変わる。笑顔で人を虐げられる、そういう男に成り下がる。必ずなるんだ!」


「……なるものか……」


「なる! 必ず! 強さは人を腐らせるんだ! 絶対にだ! 仮にあんたが腐らなくても、あんたの周りが腐っていく! あたくしも何度裏切られたか!!」


「…………」


「山田弥五郎! この偽善者が! ――お前がこのまま勝利を続け、天下を変えるほどにまで、成り上がっていったなら――そのときお前が腐らないかどうか! 誰にも裏切られないかどうか! それでもなお、人を信じるなんて綺麗ごとを貫けるかどうか! ――地獄の底で見ていてやるよ……!!」


 ――げほっ!


 もう一度、激しい咳をして、銭巫女は、死んだ。

 目は開いたまま、なにかを憎み続けるように。阿鼻叫喚の形相で、人生の終焉を迎えたのだ。


「…………」


 俺は呆然としていた。

 圧倒的な感情をぶつけられた。

 悲しいとか、怒るとか、そういう気持ちも湧かなかった。ただ、その場に立ち尽くしていた。


「山田」


 滝川さんが、落ち着いた声で言った。


「勝ちは勝ちだ。……勝ちどきだ」


 えいえいおう、と滝川さんは右手を挙げた。

 えいえいおう、えいえいおう。滝川さんに続いて、伊与が、次郎兵衛が、五右衛門が、小六さんが、大橋さんが、神砲衆の面々が腕を突き上げ勝利を喜ぶ。


 俺は――俺もまた勝利したことを喜んでいた。

 仲間たちを守れた。これでカンナのところにも帰れる。

 信長も勝利した。ひとまずハッピーエンドなのだ。それは間違いないのだ。


 俺は、右手を掲げて口許を綻ばせながら。

 しかし目だけはついに笑えなかった。




 戦いは終わった。

 俺たちは津島に戻った。

 そして――これはのちに、藤吉郎さんと前田さんから聞いた話なのだが――

 稲生の戦いが終わったあと、信長は信勝と対面したそうだ。


「兄上、今更つべこべと言い訳はいたしません」


 織田信勝は、信長に対して堂々と頭を下げ、いかなる処分も受け入れる、と言ったそうだ。


「勘十郎、なにゆえ余に背いたか」


 信長は、静かに問うた。

 信勝は、穏やかに答えた。


「それがしも、男でございますゆえ」


 そのときの声は、実に信長に似ていたらしい。やはりふたりは兄弟だった。

 男である、という回答は、意味が分からないようだが、要するに、乱世に男として生まれた以上、大将の座を狙うのが当然だ、ということを言いたかったのではないか――と、藤吉郎さんは推測している。

 信勝の答えに対して信長は、「で、あるか」とだけ言ったらしい。

 兄弟同士、それだけで分かる何かがあったのだろう。


 熱田の銭巫女は、信勝を馬鹿だと表現していたが、俺は彼がまるっきりの無能だったとは思わない。

 ただ、稲生の戦いで前線に出てくることはなかったり、一度は捕らえた織田信長を殺さなかったりするなど、覚悟が足りなかった、と思える部分はあった。


 信勝は、けっきょく殺されなかった。

 信長と信勝、ふたりの母である土田御前がとりなしたことで、助命されたのだ。

 柴田勝家と林秀貞についても同様だった。謀反の罪で首を斬られても文句は言えないはずだったが、信長は勝家たちを許した。

 土田御前がとりなしたとはいえ、ずいぶん寛大な処置である。もっともこれは、いまの織田弾正忠家が、柴田勝家や林秀貞を処分するほどの余裕がなかったという事情もあると思う。北は岩倉織田家と斎藤義龍家が、南には今川義元家が控えている。家中の混乱は早急に解決する必要があったのだ。


 かくして織田弾正忠家を真っ二つに引き裂いた内乱は終わった。

 少なくとも表面上は、すべてが解決したのである。

 



 熱田の銭巫女についての話題は、どこからも出なかった。




 信勝も柴田勝家も、銭巫女が死んだと聞いても「そうか」としか答えなかったらしい。 

 熱田の裏社会を束ねていた銭巫女は、しかしその銭は熱田を表向きに支配している加藤家に没収された。

 熱田の銭巫女の名前は数日と経たず、関係者の間から忘れ去られた。まるで、そんな女がいようがいまいがどうでもいいことだ、と言わんばかりに。


 なぜだろう。

 俺はそのことが、なにやら無性に悔しかった。




 そして。

 稲生の戦いから半月が過ぎたころ、俺はある場所に赴いていた。


 清州城である。

 言わずと知れた織田信長の居城だ。

 俺は今日、信長と対面する。――思えばシガル衆との戦いのあと、顔を合わせる話はあったのに、俺の体調不良や、甲賀や駿河への旅立ちのせいで、今日まで俺は、織田信長と一度も面会していなかった。それが今日、果たされるのだ。


 清州城内の一室に、通される。

 そこには、丹羽長秀さん、前田利家さん、佐々成政さん、そして藤吉郎さんが揃っていた。

 誰もが、俺に向かって目を細めた。お前、ついにここに来たんだな、と言わんばかりに。藤吉郎さんも、無言でにやにや笑っている。俺もわずかにニヤついた。


 やがて。

 部屋の引き戸が開かれ、小姓と共に、ひとりの男が入ってきた。

 高い上背、引き締まった体躯、女性のような美しい顔立ち、厳しさと優しさを同居させたような不思議な佇まい――


 男は、上座に座る。

 俺はむろん、藤吉郎さんたちも平伏する。

 男の顔が見えなくなった。しかし、わずかに笑っているような気配を感じた。


「山田弥五郎か」


 男は言った。甲高い声だった。

 俺は「はっ」と答える。男は、うむ、と小さく答えると、続けて言った。


「余が、織田三郎である。――面を上げい」

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