第51話 織田信勝、立つ

 カンナは、伊与の瞳を見据えながら、朱色の唇を動かした。


「伊与。あたしね。……アンタに言わないかんことがある。……前々から、アンタにだけは話さないかんとは思うとったけど、せめて今回の戦いが一段落したらって、そう思いよった。――やけどやっぱり、こういうことがあったなら、言わないかん。あたしもアンタも弥五郎も、いつ死ぬか分からんのやけん。……そうよね、弥五郎?」


 その言葉で、カンナがなにを話題にしようとしているのか、俺には分かった。

 だから、俺は小さく首肯し「そうだな」と告げたのだ。

 カンナは、うなずいた。

 そして、言った。


「伊与。あたしは、弥五郎のことが好き。そのことを、弥五郎にもはっきりと伝えた」


「え」


「……ごめんね。……信濃の山奥で、温泉におったころよ。あたしは弥五郎に、女として、これからもずっといっしょにおりたい。そのことをはっきりと伝えた」


「…………」


「それで、弥五郎も――弥五郎も、あたしといっしょにおりたいち。……そう言うてくれた」


「……!!」


 伊与は、その綺麗な瞳をはっきりと見開かせた。

 俺とカンナ、俺とカンナ。……2度、俺たちふたりの顔を見比べる。

 俺は、そこで、またもうなずいた。カンナの言っていることは事実だと、そう告げるために。


 数秒間。

 間が開いた。


 風が吹き、屋敷の壁がカタカタと揺れた。――それから、


「それは……おめでとう」


 伊与は、低い声で、薄い笑みを浮かべながらそんな言葉を口にした。


「よかったじゃないか、ふたりとも。私は祝福するよ」


「……本当に? 本気で、そう言いよる?」


 カンナは、弱々しいまなざしを伊与に送る。

 伊与は、あくまでも笑顔を保ったまま、


「……当たり前だ。弥五郎とカンナがお互いに想い合い、夫婦になるというのなら、祝着なこと、この上ない。……私が祝わないはずがないだろう。神砲衆のためにもいいことだ」


「…………」


「…………」


 俺とカンナは、伊与の笑みを、ただ黙したまま見つめるのみだ。


「……これは落ち着いたら祝言だな!」


 沈黙を破るように、伊与は言った。


「いや、まったくめでたいことだ。弥五郎とカンナが夫婦になり、子を作り家族となっていくのなら、それは私にとっても本当に嬉しいことだ! カンナ、そういうことなら早く怪我を治せ。三郎さま(信長)の戦が終わり、お前の怪我が治って、そこでめでたく婚姻だ。……よかったなあ、本当によかった!」


「伊与」


 明るい声を出す伊与に向けて、カンナはにこりともせず。

 静かな声で、いつもの彼女からは想像もつかないような落ち着いた表情で、


「伊与。いっぺんだけ聞くけど」


 小さく、言った。


「アンタの答えはそれでええんやね?」


「…………」


「…………」


 一瞬、また、沈黙が訪れる。――そして、


「私は……弥五郎の幼なじみで。仲間であり。……姉だ」


 伊与は落ち着き払った声を出す。


「これからも弥五郎と神砲衆のために尽くす。その気持ちは変わらない。……あくまでも、仲間としてな」


「……伊与」


「…………」


 俺とカンナは、そう答えた伊与の顔を見つめつつ――

 しかし俺は、なぜだか胸が切なくなった。なにか、なにかを彼女に伝えねばならないと、そう思い、しかしその気持ちは言葉にならなかった。


 そのときである。


「カンナさん、割粥を持ってきました」


 あかりちゃんが、部屋の外から声をかけてきた。

 それで、場の雰囲気は崩れた。……この会話はもう終わり。そういう空気になった。

 あかりちゃんが、割粥をカンナのために持ってきた。津島でも一番美味いと評判の、彼女の割粥は、実に美味そうだった。


「お兄さんと伊与さんの分も、台所にありますよ。持ってきましょうか?」


「いや、私は台所で食う。……弥五郎の分だけここに運ばせてくれ」


 伊与は、やはり薄い笑みを浮かべながらそう言うと、立ち上がって部屋から出ていった。

 その瞬間。……伊与と俺の視線が交錯した。彼女は、不思議な、なにか哀愁を帯びたような瞳をしていた。




 ――俊明としあき




 なぜだろう。

 銭巫女の配下に襲われたあと、夢の世界から戻ってきたとき、伊与に、俺の名を呼ばれた――あの瞬間のことを、俺は思い出していた。






 山田弥五郎が、神砲衆の屋敷で過ごしているころ。

 熱田の屋敷では、織田勘十郎信勝が、銭巫女に向けて吼えていた。


「なぜ、兄上を逃がしたか!」


 熱田の銭巫女が、織田信長を幽閉しきれなかったことを責めているのだ。


「兄上の身柄さえ抑えておけば、使い道はどうとでもあったものを」


「申し訳ございません。……あたくしがちょっと留守にした間に、神砲衆の山田弥五郎が屋敷を襲ったとのことで」


「また、山田弥五郎か。……あの男、やはり兄上が絡むとどこまでも出しゃばりくさる。やはり最初に出会ったあのときに、殺しておくべきだったか」


「あたくしの配下の尾行を撃退したときから、ただ者ではないと思うておりました。……いかがいたしましょう?」


「山田は津島の屋敷に戻ったのだろう。……こうなると、なかなか手が出せぬ……」


 織田信勝は、実のところ、ずいぶん焦っていた。

 初めて山田弥五郎と出会ったころ。……あのときとは、状況が違う。




 山田弥五郎と初対面を果たしたのは、1554(天文23)年、1月。

 まだ織田信長がその器量を発揮していないころだった。そのころの信勝は、兄よりも自分のほうが上だと確信していた。なるほど信長は、前田利家ら一部の悪童どもには好かれている。それをうらやましいと思う気持ちも、ないではなかった。若者にとって、男友達が多いという事実は充分に羨望に足るものだ。


(しかし、それだけだ。大名としての器は、余のほうが上だ。兄上は悪童受けしているだけよ)


 そう思っていた。

 ところが、1555(天文24年)4月。信長は尾張の中心たる清洲城を手に入れた。

 このころから、信長の器量はにわかに評価され始める。信勝もまた、兄の実力を(あるいは)と思い始めていた。そういえば、かつて山田弥五郎も言っていたではないか。


 ――上総介さまは、噂されるようなうつけでは、決してございませぬ。……あの方は、英雄でございます。


(まさか)


 信勝はおのれの中に芽生えた思いを、必死になって打ち消した。

 兄が、あのさんざん『うつけ』と呼ばれていた、母からも嫌われているあの兄が、自分よりも上?


(そんなことはない)


 と思いつつ、しかし現実が信勝を襲った。

 織田信長は、現に清洲城を手に入れたではないか。

 それに比べてお前はどうだ。兄と比べて礼儀正しい英邁な弟。そういう評判を得てこそいるが、しかしお前はなにをした?

 城のひとつでも手に入れたのか。いくさで活躍でも成し遂げたのか。槍働きのひとつでもしたのか。さあ、なにをした。さあ、さあ、さあ――


(黙れ。余のほうが、兄上よりも上だ!)


 そして織田信勝は行動に出た。

 織田家の家老、林秀貞の屋敷に信長が休憩に来たところを――

 林に命じて、捕らえてしまい、そして熱田に移送して、幽閉したのである。


(見たか、兄は余の手中になる。生かすも殺すも、余の気持ちひとつ!)


 その事実は、織田信勝をひどく満足させた――




 だが。

 現実はこれである。

 山田弥五郎が登場し、信長を奪回してしまった。

 もはや、自分と兄の対決は避けられまい。これからどうなるのだろう。国衆は自分の味方をしてくれるだろうか。柴田勝家や林秀貞は味方をしてくれると思うが、果たして他の連中は――


「勘十郎さま」


 そのときだ。

 熱田の銭巫女が、口を開いた。


「どうか、そのようにご不安そうな顔をなさいますな。あなた様には、あたくしがついております」


「……銭巫女」


「よくよくご思案なさいませ。三郎信長は、斎藤家、岩倉織田家、勘十郎さまと周囲が敵だらけ。まさに四面楚歌。敗亡の寸前にある身でございます。この期に及んで三郎の味方をする者もおりますまい。……勘十郎さまは絶対に有利なのです。まずは三郎を亡ぼし、それから他の勢力と手を結ぶなり戦うなり、ご決断をされたらよろしい、それだけのこと」


 銭巫女は、静かに語る。


「なにも悩む必要はないのです。勘十郎さまはいま、独立なされた。三郎に遠慮などする必要があるものですか。思うがままになされませ」


「…………銭巫女」


 信勝は、薄く笑った。

 かと思うと、大きくうなずき、


「よくぞ申した。余は考えすぎていた。……兄との決別、そして対立。いずれも元より覚悟の上であった! かくなる上は、弾正忠家の家督を巡り、兄と雌雄を決し、この戦国乱世におのれの旗を盛大に掲げん! ……銭巫女。協力せよ! いまこそ織田勘十郎が名乗りをあげるときじゃ! ……参るぞ、敵は織田三郎信長なり!!」


「ははぁっ……!」


 信勝は完全に決断した。

 兄を倒し、織田家を、そして尾張を手に入れると。

 信長を倒す。銭巫女たちと共に、織田信長を倒し、戦国大名として立ち上がるのだ!




 信勝は気付いていなかった。

 銭巫女が、彼の背中を見て、ニヤリ。

 ――小さな笑みを浮かべたことに。

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