第43話 転生者の朝焼け

「カンナ……?」


「…………」


 カンナは無言のまま、俺の右手をそっと手に取った。そして――

 湿った声音で、そっとつぶやく。


「……酷い怪我やね」


「え」


「右腕のことよ」


 言われて気が付く。

 俺の二の腕には、青っぽいアザができている。

 今川家で痛めつけられたときに、できたものだ。


「腕だけやなかよ。弥五郎、全身が怪我だらけ」


「そりゃ、さんざんやられたからな」


「……見ちゃおれん」


 カンナは何度か、小首を振った。

 そして大きな瞳を潤ませて、


「ねえ、弥五郎。覚えとる? あたしが、弥五郎と――子作りしてもええ、って言うたこと」


「そりゃ……まあ」


 忘れようとしても、あれは忘れられない。


「あたしの気持ちは、あのときとまったく変わっとらんよ。……ううん、もっと強くなっとる。だって、弥五郎……こんな風に傷付いて……」


 カンナは切なそうな眼差しを送ってくる。


「尾張に戻ったら、ちゃんと話をしたいって思うとった。でも、それじゃ遅いんよ。だって、あたしらの生きとるのはそういう世界やん。弥五郎は、明日には死んどるかもしれん。あたしだって……伊与だって、藤吉郎さんだって、他のみんなだって……いつ死ぬか分からんやろ。今回だって、こんなに怪我だらけになって。――もしかしたら明日の朝には、弥五郎が冷とうなっとるかもしれん。そう思うたら、あたし、もう、気が狂いそうになる……!」


「…………カンナ」


「だから、だから、あたし」


 少女は顔を歪めて、涙を流しながら、俺への距離を詰めてくる。

 気が付いたとき、彼女はほとんど俺の眼前にいた。――白く、細い首筋と鎖骨がお湯に浸っている。


「もう、我慢できんもん。後悔もしたくない! ……いまここで、話を決めか。こんな急かすようなこと、したくなかったし、自分が重い女になっとるのも、よう分かっとる! やけど……あたしは……」


 カンナは、ぽろぽろと涙を流しながら、情愛を込めた蒼い双眸を見せ、


「あたし、弥五郎のことがすき」


 はっきりとした声で、言った。


「初めて出会ったあのときから。ならず者たちから守ってもらったあのときから、ずっと」


「……カンナ」


「……弥五郎。聞かせて。……アンタは……アンタは、あたしのこと……どう思いよると……?」


 温泉のためか羞恥のためか、顔を赤くしながら彼女は問うてくる。

 俺は――この俺は、心臓をバックンバックンと高鳴らせながら、しかしカンナからわずかに目をそらし、


「……カンナのことは、可愛いと思う。大切な仲間だと思っている。だけど――」


 本音で、答えた。


「正直、そういう……妻にするとか、子供を作るとか、そういう目で見たことは――なかった」


「……それは、伊与がいるから?」


「……いや。それは……それも違う」


 そこも、本音で答えた。

 俺は伊与のことを、大事な幼馴染であり仲間だと思ってはいるが、しかし結婚したいとかそういう目で見たことはなかった。

 というより、相手が誰であれ、俺は――転生してから、というより前世のときから――正確にいえば、前世の二十歳ぐらいのときから、女性に対してそういう気持ちを抱いたことが、ほとんどなかった。……何故かというと。


「自信が……ないんだ」


「自信……?」


「俺は……誰かと……女の子と想い合えるような、そんな男じゃないんだ……」


 思いを、ゆっくりと吐露した。

 昔から、自分が常に弱者だったこと。

 誰かに評価されることがなく、常に負け組だったこと。異性から愛情を受けた経験もなかったこと。


 その結果、俺は自分に自信がもてなくなった。

 前世でも、二十歳を過ぎたころから、誰かに思いを寄せることもなくなった。

 心の中で自然にブレーキをかけたのだ。誰かを好きになっても、両想いになんかなれるはずがない。むしろ俺みたいな男に想われたら、相手は迷惑なんじゃないか。誰に言われたわけでもなく、勝手にそう思い込むようになった。


 だから、だろう。

 この時代に転生してもなお、俺は、女性に対して――

 伊与やカンナのような美しい女性たちに対してさえ、恋愛感情を持たないように努めてしまっていた。

 いや、もちろん、つい最近まで彼女たちが、前世の俺より大きく年下だったことも大きいのだが……。


 その気持ちを、俺は、包み隠さずカンナに語った。

 もちろん、転生したことだけは話さなかったけれど……。それでも。

 俺は、誰かを愛し、また愛されるような、そんな立派な男じゃないんだと、そう言いたくて。


 だが。

 彼女から返ってきた言葉は――


「……弥五郎。アンタ、そんなこと言わんでよ!」


 悲痛な、そう悲痛な音を伴った叫びだった。


「あたしはね……あたしは、アンタのこと、とっても素敵な人やと思うとるよ。だからこうして、アンタに思いを打ち明けたんに。それやのにアンタ、自信がないって、だから人を好きにもなれんなんて、そんなバカなこと……言わんといてよ! 聞きとうなかったよ、そんな言葉!」


「か、カンナ……」


「山田弥五郎がそんなにダメな男なら、好きになったあたしはなんなんよ。……ううん、あたしだけやのうて! アンタを生涯の相棒と定めた藤吉郎さんは、なんなんよ。アンタのことを守ろうと命がけになってる伊与や、こんなめちゃくちゃに寒い信州にまでついてきた、あかりや次郎兵衛も、なんなんよ! みんな、あんたのことを大事な男だと……大切な人だと思っているから、ついてきてくれて、一緒に戦ってくれとるんやないの?」


「わ、分かってる! そんなことは分かってるんだ! だけど俺は――俺は……!」


 理屈じゃないんだ。心の問題なんだ。

 前世の頃、心の奥底まで染み込んでしまった劣等感は、容易に拭えるものじゃないんだ。

 そして俺は、この俺は――いまカンナが言ったことが100パーセントの正論だというのも分かっているが、それでもなお、自分の中の敗北感をぬぐえなくて――


「アンタがそこまで自分を認められんなら、あたしが言っちゃるよ!」


 カンナは、俺の両頬を、その白い両の手のひらでつかみ。

 ぐいっと、無理やり俺の顔面を自分の顔の前に持ってきてから――

 そう、俺とカンナの瞳がまっすぐに向き合ってから、叫んだのだ。


「アンタはこの世で一番素敵な男よ! 少なくとも、この蜂楽屋カンナにとっては、誰よりも大事で大切で、愛おしい人! 女の子と想い合えるような、そんな男じゃないなんて、絶対にそんなことはない!」


「…………!」


「やから……せやから……」


 ひっく、ひっくとうわずりながら、彼女は言った。


「……やから……あたしの気持ちに応えて……。少しでも……あたしのことを想うてくれるなら――」


「…………」


「あたしのこと、女として見て」


「……カンナ……」


「…………」


「…………」


「…………これ以上、言わせんといてよ。……恥ずかしい……」


 ――いまなにか。

 心の中のすべてが、溶けだした気がした。

 自分の魂にえぐり込まれたような傷痕が、すっと消え去った。そんな気がした。

 そして、目の前にいる彼女が、心から愛おしいと。――熱に浮かされたように、欲しい、と。……本気で、そう思った。


「カンナ」


 名を呼んで。

 彼女を、抱きしめる。


「あ……」


「…………」


 もはや、言葉はいらなかった。

 細く柔らかく、それでいて温かな肉体が、いま、俺の腕の中にある。

 そして俺はそのまま、自然な流れで、彼女をお湯の中に横たえた。


 白い肉体が、露わになった。

 少女は顔を赤くしながら、ぎゅっと目をつぶる。


 ……カンナって、こんなに可愛かったのか……。

 そんなことを改めて思いながら。

 俺は、そっと彼女の胸元に手を伸ばして――


 そのときだった。




 ごとんっ! ……ばしゃん!




「「ッ!!」」




 近くにあった、人間の頭ほどのサイズの岩が、バランスを崩して温泉の中に落下した。

 俺とカンナは一気に身を固くさせて、思わず温泉の中に身を沈める。


 ……1分。

 …………2分。

 ………………3分。


 なんとなく、気まずい時間が流れた。

 ちらりとカンナの顔を見ると、やはり彼女は真っ赤になりながら、


「や、弥五郎」


「う、うん」


「……ここはさ、その。……みんなが近くにおるし」


「……うん」


「弥五郎も、まだ、怪我が完全に治っとらんし」


「うん」


「それに、もうすぐ……夜明けのごたあし」


「え」


 空を見上げる。

 確かに、東の空間がわずかに白ばみ始めている。


「今日は……その、もう、我慢しとかん?」


 おずおずとした、照れたような声音。

 俺もまた、なんとなく気恥ずかしくなって、


「そ、そうだな……」


 なんて、返す。

 それでカンナは、ニコッと笑った。――そして、


「ねえ、弥五郎」


「ん……」


「もっかい、ぎゅっ~……ち、してくれる?」


 はにかんで、うつむきつつ。……そう言った。


「……ああ」


 俺は、彼女をまた、力いっぱい抱きしめた。

 もう、ためらいはなかった。彼女が俺の中にいるのが、嬉しかった。


「弥五郎」


「ん?」


「尾張に戻ったら、きちんとしようね?」


 耳元でささやかれる、甘い言葉。

 なにをするんだよ、と思わず返しかけたけど。

 俺は、その言葉をぐっと飲みこんで。……しかし確かに返した。


「ああ」


 ――そのとき一瞬だけ、伊与の顔がちらついた。

 なんのための一瞬なんだか。……俺はもう一度、カンナを抱きしめた。

 温泉の湯気が、霧のように、あるいはもやのように広がっている世界の中、わずかに光が、はるか彼方から射し込んできていた。




 やがて本格的な朝がくる。

 俺とカンナは、何事もなかったように、みんなに――伊与に接した。

 伊与も、いつもの伊与だった。クールで穏やかな伊与。あかりちゃんと一緒に、炊事を始めている伊与。

 その横では、カンナもまたいつものカンナでいる。……どうもこういうときは、女のほうが強い気がする。

 なんて言うか、よくこうも、みんなの前でしれっとしていられるもんだ。


 でも。

 カンナを抱きしめたことに、後悔はまったくしていなかった。……一生、しないと思う。




 俺と藤吉郎さんの全身打撲が完治したのは、それからしばらく経ってのことだった。

 信州の奥深くで、ゆっくりと休息ができたのは、長い目で見れば正解だったと思う。

 俺たち一行は久しぶりに、心から休むことができたのだから。


 もちろんその間、ただノンビリしていただけじゃない。

 俺は自称・聖徳太子たちのうちのひとりをさらに、濃尾へと走らせ、津島の神砲衆、そして大橋さんと前田さんに手紙を届けさせたのだ。

 すなわち、山田弥五郎と木下藤吉郎は健在である、と。――怪我が治り次第、尾張に戻る。安心されたし、と。




 だが結果から言えば。

 俺たちは少し、信濃で休みすぎていた。

 怪我を治し、信濃を離れ、山道を行き。

 やがて尾張に戻ってきた俺たちを待っていたのは、驚愕の知らせだったのだ。




 すなわち。




「織田信長が、行方不明になった」




 そんなとんでもないニュースが、俺の耳に飛び込んできたのだ――




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