第40話 弘治二年の友情

 逃げる、逃げる。

 西に向かって、ひたすら逃げる。

 川を越え、山沿いの林の中を通る。

 昼は林の中で休み、夜にこっそりと進んでいく、俺たち。


 籠の中は、決して快適とは言えなかった。やたらに揺れが激しく、疲労と怪我のせいもあって、途中、何度も吐き気をもよおした。

 だがそれでも、歩いたり走ったりすることに比べれば、よほどマシだ。――籠の中で、あかりちゃんが採ってきた薬草を使い、次郎兵衛がくれた兵糧丸を食べて、少しでも体調の回復に務める。


「兵糧丸も、たまには役に立つでしょうが?」


 次郎兵衛はニヤリと笑ってそう言った。

 川中島のときに、貰うのを拒否ったことをまだ覚えてるな、こいつ。案外根が深いやつだぜ。――俺は微笑を浮かべた。

 さらに道なき道を進み、通常の行程よりも時間をかけて西へ向かうと、途中、五右衛門が言った。


「オヤジの砦のあたりにいくのはどうだい? 砦は壊されたらしいけど、跡地に宿営くらいはできるでしょ」


 妙案だ。

 すでに一度滅びた砦の跡地なら、人が来ることはまずないだろう。

 俺たちは全員うなずき、石川砦の跡地へと向かった。……とにかく、駿河からずっと逃げずくめで、さすがに少し落ち着いて休みたかったのもある。


 砦の跡地に辿り着いたころには、いよいよ雪が降っていた。

 石川砦はほぼ完全に破却されていて、石垣の一部がそのまま残っている程度だった。

 しかしその石垣の陰ならば、風くらいは凌げそうだ。たき火を起こしてお湯を沸かし、身体を拭いて温まれば、体調も回復するだろう。


「……はあ」


 お湯を飲んだあかりちゃんが、白い息を吐き出した。

 湯飲みで、細い指をあたためながら、目を細めている。


「あかりちゃん、ごめんな」


「え……?」


「正直、ここまで追いつめられる事態になるとは思っていなかった。あかりちゃんみたいな普通の子を、こんな目に遭わせてしまって、申し訳ないと思ってる」


「そんなこと……。やめてください。わたし、自分の意志でお兄さんたちのお手伝いをしているんですから」


 あかりちゃんは、穏やかな声で言った。


「尾張を、そして天下を泰平にしたいと思って、お兄さんたちは頑張っているんですよね? だからわたしも、少しでもなにかお力になれたらって……。できることなんて、炊事と洗濯くらいしかないけれど……」


「そう言ってくれると助かる。……ありがとう」


「あかりにはいつも感謝しとるとよ。アンタの美味しいごはんが、どれだけあたしたちの力になりよるか」


 カンナも、笑顔でフォローしてくれる。

 それで俺もあかりちゃんも、わずかに口許を緩めることができた。


「しかし、ここからどうするかのう。西に向かって、三河を抜けていきたいところじゃが……」


「いちおう使いを出して、織田家に俺たちのことを知らせてはいますが、援軍は望み薄でしょう。ここは今川の勢力下ですからね」


 俺は、自称・聖徳太子たちのうち、足の早いふたりを先行させて尾張に戻していた。

 とにかく織田家に現状を伝えておきたいと思ったのだ。

 元気な彼らならば、間道をくぐり抜けて尾張に戻ることができるだろう。


 問題は、怪我をしている俺と藤吉郎さんだ。

 跳んだり走ったりはとてもできない。街道をゆっくり歩いて戻りたいところだが……。


「街道は今川の兵が見張っていると思っていいッス」


「じゃろうな」


「道なき道を突っ切っていくしかあるまい。そうとう苦しいし、時間もかかるだろうが……」


 伊与が、静かにつぶやいた――

 そのときだった。


「ッ、誰だ!?」


 伊与が、顔色を変えて振り向いた。

 俺たちも、首をそちらに向ける。――すると、そこには。




「……梅五郎」




「……嘉兵衛さん!?」




 俺たちは仰天した。

 たき火の炎に照らされているその顔は、なんと松下嘉兵衛さんだったからである。

 全員がとっさに身構えた。今川の兵が、やってきたのかと思ったからだ。――だが、


「誰もいないよ。ここに来たのはそれがし一人だ」


 嘉兵衛さんは首を振りながら言った。


「そなたたちの立場になって、考えてみた……。駿府から尾張に逃げるなら、どう逃げるだろうと。……そして、おそらく山沿いの森の中を突っ切っていき、この石川砦の近くを通るだろうと考えた。この砦の跡地を利用して、休憩をとる可能性も。……だから某は、ここ数日、砦の近くでずっと様子をうかがっていた」


「…………」


「案の定、この砦にやってきたな。……梅五郎。いや、山田弥五郎……!」


 嘉兵衛さんは、まなじりを吊り上げて俺のことを睨みつける。

 続けて、「与助!」と叫び、藤吉郎さんにも鋭いまなざしを送った。


「某のことを、騙していたわけだな。間諜として松下家に入り込み、情報を尾張に流していたわけだな……」


「…………申し訳ありません」


「申し訳ないで済むか!」


 嘉兵衛さんは、叫び、ツカツカと俺のほうへと駆け寄ってきて――

 とっさに、伊与と次郎兵衛、さらに五右衛門が構えを取る。

 だが嘉兵衛さんは、刀を抜くでもなく、ただ無言のまま。


 がつんっ!


 と、俺の左頬を殴った。……俺は、吹っ飛んだ。

 続けて、藤吉郎さんも殴られた。藤吉郎さんは、俺よりも激しく吹っ飛んで、その場に尻もちをついた。


朋友ともだと思っていたんだ!」


 嘉兵衛さんは、涙と共に咆哮した。


「身分は違うけれど。主従ではあるけれど。……年齢も近いし……いっしょに働いて……戦って……。これからもいっしょにやっていける仲間だと、そう思っていたのに……!」


「……ごもっともでごぜえます……」


 藤吉郎さんは、その場でばっと平伏した。

 俺も平伏し、伊与たちもひざを突き頭を垂らす。


「わしらは松下さまを騙しておりました。織田家の人間であることを偽り、遠江の情報を流しておりました。言い逃れはできませんで。どう罵られても文句は言えません……」


「………………」


「ただ、ひとつだけ言わせてくだされば。……わしも、弥五郎も。……松下さまのことが好きでござった!」


「…………!」


 嘉兵衛さんの瞳が、開いた。

 涙が、わずかに浮かんでいる。

 藤吉郎さんは、続けた。


「これはまことでごぜえます。確かにわしらは、情報を得るために松下家に入った。しかし! わしらを納戸役としてお引き立てくださり、何事もよく相談してくださり、わしらに食事までおごってくださった松下嘉兵衛さまを、わしらは――確かに大好きになっていたのでごぜえます! こりゃ、嘘偽りでもなんでもありませんで!」


「藤吉郎さんの言うことは本当です! 俺も、俺も――嘉兵衛さんには恩義を感じていました。友情を感じていました。だから、だからせめて、硯を売ったり、兵糧を届ける仕事は全力で……命を懸けてでもやろうと思いました! せめて少しでも、嘉兵衛さんに恩返しがしたいと……嘉兵衛さんの気持ちに応えたいと……その一心で!!」


「口ではなんとでも言える!」


「「ごもっとも!!」」


「ひとを騙しておいて!!」


「「ごもっとも!!」」


「なにがごもっともだ!!」


「「ごもっとも……!!」」


 俺たちは、平伏するしかなかった。

 それ以外になにをしろというのか。

 謝ることしかできない。それだけしか。


「…………」


 嘉兵衛さんは、押し黙る。

 俺たちはやがて、そっと顔を上げた。

 嘉兵衛さんは雪の中、熱い涙を流しながら、俺たちをじっと見つめている。


 そして、


「織田三郎は――尾張の大将は、いい殿様なのかい?」


 ふいに、別の話題を出した。

 俺は二の句が継げず、数秒間、呆然とする。

 すると藤吉郎さんが叫んだ。


「日ノ本一の大将にござる!」


 藤吉郎さんも、泣いていた。


「お優しくて、強い殿様にごぜえます。わしがボロボロだったときに、優しくしてくださり……。尾張で誰よりも優しく……。……だからわしは、あの方のためならなんでもやろうと……どんな汚い仕事でも引き受けようと……」


「……梅、いや、弥五郎もそうかい?」


「……織田三郎様は、この乱れた天下を収めてくれると確信しております」


「…………」


 嘉兵衛さんは、また、しばし黙ってから、


「羨ましいことだ」


 ぽつりと、そう言った。


「そなたたちに、そこまで愛されて……織田三郎……うつけの殿様との評判だったがな……」


 嘉兵衛さんは、空を見上げた。

 雪が降っている。頬に落ちると、冷たい雪が体温に溶けて雫となった。


「弥五郎、藤吉郎」


 嘉兵衛さんは、小さな声で言った。


「三河は、今川と松平の兵で埋まりきっている。これを突破するのは容易じゃない。……この砦から北に向かい、信濃のほうから美濃へ抜け、尾張に向かったほうがいい」


「え……」


「遠回りになるけれど、殺されるよりマシだろう」


 それだけ言うと、嘉兵衛さんはくるりと振り向き、俺たちに背中を見せた。


「嘉兵衛さん」


「今日からそなたとは敵同士だ。武運は祈らぬ。……しかし生命の無事だけは祈るよ」


「…………!」


「某も、そなたたちが、好きであった。……きっと、これからも」


 嘉兵衛さんの、若い肩が震えていた。

 それだけで、もうよかった。その心は、十二分に伝わった。

 俺も、藤吉郎さんも、伊与たちも、ただその場所で平伏していた。

 松下家の若き頭領、松下嘉兵衛。……彼もまた、確かに俺たちの朋友ともだった。




 後になって気付いたが――

 この日は、大晦日であった。

 1555年が終わり、1556(弘治2)年がやってくる。




----------------------------------


 近況ノートのほうではすでに触れましたが、5月19日(土)に東京・飯田橋で開催される『戦国商人立志伝』のゲームイベントに、声優さん3人がゲスト出演されることになりました。

 おかげさまで、リアル転生ゲームイベント、どんどん規模が大きくなっていきますね。作者としても嬉しい限りです。これも『戦国』を応援してくださっている皆様のおかげです。ありがとうございます。


 ……というわけで声優さんも出演される「リアル転生ゲーム」イベント、まだ参加を決めかねている方はぜひ、これを機会に、参加を検討してみてくださいませ。きっと楽しいイベントになります。お待ちしております。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る