第31話 英雄は英雄を知る

 と、いうわけで。


「石川与七郎でございます」


 松平屋敷の中の一室である。

 あれから門番の取り次ぎによって屋敷内に通された俺たちは、屋敷の中で、徳川家康と石川数正のふたりと対面していた。俺たちふたりが、尾張の商人・梅五郎と与助として名乗ると、まず石川さんがそう名乗ったのだ。そして、


「こちらは我が主、松平次郎三郎でございます」


 石川さんは、家康のことを紹介した。


「松平次郎三郎じゃ。鳥居が世話になったようじゃな。礼を言うぞ」


「あ、いえ。大したことはしていませんが……」


 俺は、低い声でそう答えた。

 まだ月代も青く、それでいて体も小柄な少年。

 しかし目元のあたりに、一種の眼力のようなものを感じる。

 それがこの俺の、徳川家康こと松平次郎三郎元信への第一印象だった。


「梅五郎とやら。おぬし、武器もずいぶん扱うそうだの。武田家に火縄銃を手配したのはおぬしじゃと、駿府でも噂になっている。まことか?」


「は、そのような噂が。……まことでございます」


「大したものだな。……どうだ、梅五郎。出会ったばかりでなんだが、オレにも武器を手配してくれぬか?」


「それはご入用とあらば。……いかような武器をご所望ですか?」


「決まっている」


 家康は、くわっと目を見開いて叫んだ。


「こっそり人を殺せる武器だ!」


 ちっともこっそりではない声音で、のちの江戸幕府初代将軍は叫んだ。


「はっきりいえば暗殺用の武器だ。毒でもいいぞ! 人をあっさりブッ殺せる武器を、オレは求めている!」


「い、いや。いやいやいや。な、なにをいったい、あなた――ご冗談を!」


「冗談であるものか! オレは隣の屋敷に住む孕石ってやつを殺したくて仕方ないんだ! しかし堂々と殺したらバレる。松平家もえらいことになる。だからこっそり殺ろうと、そういう話なのだ!!」


「あの、さっきから声が本当に大きいですよ!? 屋敷の外にまで響いてますよ!?」


「……松平の殿さまは、その――孕石とかいう男になにか恨みでもあるんですかの?」


 藤吉郎さんも、呆れたような顔である。

 家康は、その呆れ顔に気付いているのかいないのか。「うむ」とノーマルなテンションに戻って、


「オレは鷹狩りが好きなんだがな。……オレが飛ばした鷹が、隣の孕石の屋敷に、よくウンコを落としていくんだ」


「……ウンコ……」


 半眼でうめく。

 夢にも思わなかった。

 日本史に燦然とその名を輝かせることになる家康との初対面で、ウンコの話をすることになるなんて。


「で、オレの鷹がしょっちゅう、孕石の屋敷にウンコをしていくもんだから、向こうは苦情を入れてきた」


「それは……なんというか、当然の流れでは……」


「いや、そこまでならまだいい。だがあの孕石の野郎、オレのことを『これだから三河の田舎者は』だの『人質の顔は見飽きた』だの『松平は糞の始末もできぬ家か』なんて、さんざんバカにしてきやがった。――ナメてやがる。この松平次郎三郎をナメてやがるんだよ! それが許せねえ! だからブッ殺す!」


「…………」


「というわけで梅五郎、武器をよこせ、毒をくれ。孕石を殺してスッキリしたい!」


「梅五郎どの。相手にしないで結構ですよ。この殿様、すぐにこうなるので」


 石川さんがフォローした。

 それで助かった。俺は武器を売らなくて済む。


「こら、与七郎! 相手にするなとは何事だ。それでもお前、オレの家来か!」


「家来なればこそ殿さまを諫めるのです。だいたいあなた様は、いつもいつもカッとなりやすい。そこを直さなければ、いつまで経っても一人前の武将にはなれませんよ?」


「ぐぬ……」


 石川さんの言うことを、頭では正解だと分かっているのだろう。

 家康は、顔を憤怒で赤くしながらも、むっつりと押し黙り、やがて爪を噛み始める。

 えらくセカセカしているし、本当に短気っぽいなあ。殺すだの死ぬだの、初対面の人間相手に物騒なワード、使い過ぎだし。


(おい弥五郎、妙な男じゃの)


 すぐ隣にいる藤吉郎さんが、くちびるさえ動かさずに、か細い声で言ってくる。

 俺にしか聞こえないほどの、本当に小さな声だ。


(わしゃいろんな人間を見てきたが、松平の殿様はずいぶん変わり者じゃ)


(……そうですか)


(ただの短気なあほうかと思うたが、家来の諫言はちゃんと聞くし。……いまいちよう分からぬ。初対面で相手の人となりがここまで読めないのは、わしゃ初めてじゃ)


(…………)


 藤吉郎さん、いや豊臣秀吉。そして徳川家康……。

 のちの歴史を築き上げていくふたりが、こうして奇妙な初対面をしていることに、俺は不思議な、形容しがたい感覚を覚えていた。

 今日この日の出会いは、のちの歴史にどう影響を及ぼしていくのか。想像もつかない。


「ところで梅五郎」


 家康が、口を開いた。


「そなたは尾張の出身と聞く。……オレも昔は尾張に住んでいた」


「は。……織田家の人質となられていたそうで」


「そうだ。うんと小さいころ、熱田で世話になっていた。そしてそのとき一度だけ、あのお方と出会った」


「あのお方?」


「織田三郎(信長)どのだ」


「……!」


 俺は、思わず息を呑んだ。

 小説などでは、幼いころからの親友同士という扱いになっていたりする、織田信長と徳川家康。

 確かにふたりは幼いころ、同じ時期に、尾張国内にいたことがある。信長は織田家の跡取りとして、家康は人質として。

 このとき、ふたりが出会って意気投合したという話もあるが、史料の上での確認はできず、あくまでも伝説の類でしかない。

 しかし、信長と家康は――やはり出会っていたのか。……もっとも、たった一度だけのようだが……。


「当時、三郎どのはまだ12か、3か……そのくらいだったかな。うつけというか、悪童のような雰囲気で……。『そちが三河の松平の息子か』と声をかけてくださって――瓜をひとつ、くれたのだ」


「…………」


「その瓜が、とても甘かったことをよく覚えている。……そのときはなんとも思わなかったが、あとにして思えばあの甘さ。あれは貴重な真桑瓜まくわうりではなかったか……」


 真桑瓜……。

 美濃で採れる、甘みのある瓜だ。

 あまり大量に取れない貴重な瓜なので、けっこうな値がするのだ。……それほどの瓜を、子供に与えたのか、信長は。


「おそらく三郎どのなりに、オレを気遣ってくれたんだろうな」


(……そういうお方だ)


 藤吉郎さんが、また小声でぽつりとつぶやいた。

 信長から、餅を恵んでもらったことを生涯の感激として心に刻み、そして織田家に仕えることにした藤吉郎さん。

 その藤吉郎さんだからこそ、家康の言葉に込められた思いが、よく分かったに違いない。


「その三郎どのが、いまや清洲城を奪取して、ひとかどの大将になり始めていると聞く。時の流れは早いものだが……そなたたち、尾張の出身ならば、あるいは三郎どのの話をもっと知らぬか? どうなのだ、実際のところ。三郎どのはいま、どのような生活を送っておられるのだ」


 家康は興味深げに尋ねてくるが、俺は信長と会ったことがない。

 信長の詳しい様子など知る由もない。藤吉郎さんのほうがよほど詳しいだろう。

 もっともいまは、どじょう売りの与助という身分を詐称しているから、信長について詳しく語るわけにはいくまいが――


「相変わらずのようでございます」


 藤吉郎さんは、平伏したまま、淡々とした声で告げた。

 家康は、怪訝そうな顔を見せる。


「相変わらず、とは?」


「は。……わしは、その。ただの商人でございますゆえ、三郎さまについては、噂を耳にしただけなのでございますが」


 と、藤吉郎さんはあくまでも与助としての立場を貫きつつ――


「相変わらず、うつけのような格好で、口数は少なく、厳しくて、お強くて――しかし、飢え死にしそうな者には餅を与えるなど、非常に慈悲深いところもおありで――すなわち――」


 やがてわずかに顔を上げ、藤吉郎さんは、告げた。




「……か弱き者には、とてもお優しい方のようで」




「……なるほど。それは確かに、相変わらずだ」




 いま、交わった。

 わずかに顔を上げた藤吉郎さんと。

 その藤吉郎さんを見つめている家康。

 ふたりの視線は、確かに交差したのである。

 目に見えないなにかが、この場を支配したのを俺は感じていた。




 ――この瞬間の空気と、ふたりの英傑の会話は、のちに、異様な感慨と伏線となって、俺の人生に影響を及ぼすことになるのだが――

 ――しかしこのときの俺は、もちろんまだ、知る由もないことだった――




 信長論が、終わる。

 そのときだった。屋敷の外から、


「こらぁ、三河の小せがれぇ!」


 馬鹿でかい声が聞こえてきた。


「おぬし、わしを殺すだのなんだのと騒いでおるそうじゃな! おう、殺されにきてやったぞ。出てこい! 次郎三郎!」


「う。……あの声は」


「孕石さまですな」


 家康と石川さんが、顔をしかめる。

 例の孕石が、やってきたようだ。……そりゃそうか。あれほど大きな声で、殺すのなんだの騒いでいたら、そりゃ聞きつけてやってきたりもするだろう。屋敷が隣同士なんだから。


「こらぁ、臆したか! かかってこい、次郎三郎! 表で決着をつけようぞ!」


「どうも……また面倒なことになりそうじゃのう」


 藤吉郎さんが口を開く。

 そのセリフに、俺はまったく同感だった。

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