第30話 徳川家康登場
駿府の外れにある、小さな屋敷。
門前には、今川家の足軽と思われる男たちが2人、槍を持って佇立している。
ここが、松平元信の――すなわちのちの徳川家康の屋敷か。
徳川家康。
江戸幕府の初代将軍となる男。
織田信長と同盟し、豊臣秀吉の家来となり、最終的には戦国乱世を終焉に導く人物だ……。
三河の松平家に生まれた家康は、しかしそのときまだ幼く、松平家の率いるだけの能力をまだもたなかった。
そのために、織田家の人質になったり、あるいは今川家の人質になったりもした。――松平家の跡取りである家康が、いま駿府の離れ屋敷にいるのは、そういうわけだ。
――家康。その老獪な政治手腕や、タヌキ親父とも称される裏表のある人格。
さらには信長や秀吉などのライバルが全員死んでから、天下を手に入れたことで、棚ボタ天下人、なんて言われることも多いこの戦国大名。
しかし、実際のその業績を見てみると、やはり家康は傑物なのだ。
10代後半で岡崎城主として返り咲くと、ありとあらゆる手段を講じ、戦場においても活躍し、少しずつ、しかし確実に勢力を伸ばしていく。最終的に、豊臣氏から天下を簒奪したのは紛れもない事実なのだが、しかしその土壇場においても、なるべくなら豊臣宗家を滅ぼすまいと動いていたことが、最近の研究では指摘されている。
なによりも、血で血を洗うような戦国乱世。100年以上続いた内乱状態の日本国を、のちに200年以上続く泰平の国として作り上げたのは江戸幕府であり、その礎を築いたのは、なんといっても家康なのだ。
人によって、評価や好き嫌いは当然あると思うが、俺は徳川家康を、やはり戦国史上でも稀にみる英傑だったと思っている。
――まあ、この人から見たら、家康はどういう風に見えていたのかは分からないけどさ。
俺は、ちらりと、隣にいる藤吉郎さんに目をやる。
今日、俺と藤吉郎さんは家康に会いに来たのだ。
鳥居さんから、手紙で「殿に、三河や商いの話をしてやってくれ」と頼まれたからだ。
鳥居さんの頼みならば断われない。それになによりも、家康と会ってみたかった。
「松平の殿様か、どんな男なんじゃろうなあ」
藤吉郎さんは、のんきに笑っている。
「まだ14歳(数え年)なんじゃろ?」
「ええ。ことしの3月に元服したばかりのはずです」
「ほほう、若いのう。なんにせよ、人物を見るのが楽しみじゃ」
そういうわけで、俺たちはいよいよ松平屋敷の前に立った。
門番をしている兵に向かって、
「飯尾豊前守寄子、松下嘉兵衛が納戸役、梅五郎」
「同じく、与助」
と、俺たちふたりは名乗りをあげる。
そして鳥居忠吉さんの手紙を門番に見せてから告げた。
「商いの話や、三河の物語などをするために参りました」
すると門番のひとりが「しばし待て」と言って屋敷の奥へと入っていった。
どうやら、取り次いでくれるようだ。いよいよ家康と対面か。ちょっとドキドキするな。
だが、そのときだ。その場に残ったほうの門番が、
「おぬしら、悪いときに来たのう」
と、気の毒そうに言った。
「え、どういうことです?」
「いや、実はな。……今日、次郎三郎さま(家康)はちと機嫌が悪い」
「え……」
「いや、なんというか――つい先ほど、ちょいと揉め事があっての――」
と、門番が話を始めたそのときだった。
「ちくしょう! 殺す! まじめに殺す! 殺してオレも腹を切る! 死にゃあいいんだろ、どうせオレなんか! ちくしょう! 死ぬ! 死んでやる!!」
金切り声が聞こえてきた。
「
「声が大きゅうございますよ、殿様……。孕石殿の屋敷は隣でございます。そんなに叫んだら聞こえます……」
「聞かせりゃいいだろ! オレがあとで腹を切れば済むことだ! あーーーーーもう全部嫌になってきた。オレやっぱ腹切るわ!」
「部屋が汚れるので、外で切ってくださいね」
「……与七郎。おぬし、本気にしてないな?」
「殿様の短気はいつものことなので」
「あーーーーーーーますます腹立ってきた。こんちくしょう、やっぱり孕石殺すわ! 殺してオレも腹切るわ!!」
「だからそのときは、外でよろしくお願いしますね……」
繰り返される、声と声。
喚き散らされる大声と、それを諫めるようなそうでもないような、低血圧気味の声。
俺と藤吉郎さんは、思わず呆気にとられた。……いまのふたつの声は、もしかして。
「この屋敷の主、
門番が告げる。
「「…………」」
俺と藤吉郎さんは、思わず目を見合わせた。
松平次郎三郎こと、徳川家康。――なんというか。
えらく、短気な人物らしい……。
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