第12話 なまず屋長兵衛
「な、なに言ってんだ」
俺はドキドキしながら答えた。
「お、俺は弥五郎だよ。他の誰に見えるんだ?」
「……………………」
伊与は、じっと、その大きな眼でこちらを見つめてくる。
だが、やがてふっと笑った。
「そうだな。お前は弥五郎だ。すまない。私、どうかしていたな……」
「…………」
「なぜかな。……少し前から、弥五郎が弥五郎ではなくなったような気がして……」
「…………」
「なんだか……弥五郎がどこか遠くへいってしまったような気がしたんだ。……だから、お前は誰だ、なんて言ってしまって……。ごめん。私、疲れているんだな……」
伊与は「もう寝るよ」と言うと、そっぽを向いてしまった。
程なく、寝息が聞こえてくる。今度は本当に寝たらしい。
あ、危なかった。
本格的に追及されたら、ボロが出てもおかしくない。
……もし本当のことを言ったら、どうなるんだろう。
いや、信じてもらえるはずがない。頭が変になったと思われるのがオチだ。
やっぱり転生者ってことは、なるべく隠したほうがいいな。
能力を使うのも、もっと控えめにしないと。未来語を使うのも気をつけよう。
――それにしても。
お前は誰だ、か……。
伊与の言葉が、なぜだか妙に胸に刺さった。
翌日、父ちゃんは言った。
「またお前に、商売をやってもらうぞ」
今日こそが本番だ、とも言った。
「いいか? いま、ここにある銭は420文だ。もとからこの牛松が持っていた300文と、お前が昨日稼いだ残りの120文を合わせて、420文だな。そして商品は炭50束だ。今回はこの炭を道行く人々に売ってもらうぞ。これを記しておけ」
《弥五郎 銭 420文》
<目標 炭50を完売する>
商品 ・炭 50
というわけで、俺は紙に現状を記した。
なお、これに加えて前回買った火打石も持っている。
だが、これは商品ではなく自分のアイテムとして使うことにした。
たぶんこれからも、役立つことがあるだろうし。
「では働いてもらうぞ、弥五郎。といっても、今回は炭を売るだけだ。簡単だろ? 気軽にやってみろ」
まあ、確かにそうだ。炭を売るだけでいいなら、すぐに終わるだろう。
昨日だって商人に売ったわけだし。
今回は相手が通行人になっただけだ。なんとかなるだろう。
……そう考えていたのだが。
「さァー、さァー、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! なまず屋印の炭でござる。加納市場の皆々様、黒光り致すこの炭を、とくと間近でご覧じろ! 本日出血大安売り。炭1束につきまして、なんとたったの25文! そう、25文でお売り致す! 買った買った、買わなきゃ損だよ!!」
「な、なぬッ!?」
その光景を目の当たりにして、父ちゃんは絶句した。
市場のど真ん中で、ひげ面の商人が、炭を大安売りしているのである。
「父ちゃん、あれは?」
「なまず屋長兵衛だ。美濃国でも有数の炭商人……儂らのような、田舎からちょっと出てきただけの兼業商人とは規模が違う。……くそっ、冬に備えてみんなが炭を買う時期だからな。なまず屋め、炭を大量に仕入れていたな」
「ど、どうするんだい、お前さん。こっちの炭も25文で売るかい?」
「馬鹿言うな。村の連中には、銭3貫は稼いで帰るって約束してるんだよ。そんな安値で売ったら、みんなに合わせる顔がないだろ。こっちは村を代表して売りに来てるんだ」
「だけどお前さん、こんな状況じゃ……! せめて少しでも売らないと!」
両親が、往来で言い争いを始めてしまった。
行き交う人々が、ちらちらと見てくる。
なまず屋長兵衛は、そんなこちらをちらりと見てきて、
「おやおやァ、大樹村の牛松さんは路上で夫婦喧嘩ですかな!?」
突如、大声を張り上げてきた。
父ちゃんも母ちゃんも「うぐ」と言葉に詰まる。
「はっはっはァ、無理もない。せっかくド田舎からえっちらおっちら、炭を運んできてみれば、どうにも売れる気配がない。これじゃァ、喧嘩もしようというもの。のう、おふたりさん。どうせ喧嘩をするのなら、喧嘩の見物代でも通行人から取ってはどうじゃ!? ――ぷ。ふはははっ! そうすりゃァ、ちっとは貧乏生活の足しになりましょうぞ!! ふははっ、ふははははは……!!」
なまず屋の大笑い。
その笑声につられたのか、周囲の通行人も、父ちゃんたちをげらげらと笑い始めた。
「なんだ、あの商人は。義父様たちをこうまで馬鹿にするとは!」
「よせ、伊与。昔からああいう男なんだ。いちいち怒っていたらキリがない」
「しかし義父様。私は腹が立って、腹が立って!」
伊与は怒り狂っている。
そしてそれは、俺も同様だった。
思わず、くちびるを噛みしめる。
なまず屋長兵衛。
とことん、人をこき下ろす男……。
ああいうやつは、前世の学校や職場でずいぶんと出会った。
そのたびに俺は、さんざん嫌な思いをしたもんだ。
俺は決めた。両親のためにも、なんとかしてやる。
なまず屋長兵衛の上をいき、大樹村の炭を売ってやる!
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