建設都市アルカディア

アルカディアの1

木漏れ日がリュージの顔に注がれた。

地面を見れば昨日降った雨のせいで湿った地面に、積み重なった葉っぱの裏から虫が這い出てくる。

 こうして馬車に乗ったままさわやかな風を感じていても、小さい生き物からすればこの馬車そのものが、覆しがたい脅威なのだ。必死に逃げていく虫たちを見ているとなにか申し訳なささえある。

 同時に風がリュージのもとへぬれた森の匂いを運んだ。泥や落ち葉の匂いは、人によって好みも別れるだろうが、リュージは好きだった。心を静かにしてくれる匂いだ。泥に轍と蹄の跡を残しながら、馬車は着々と森の出口に向かっていた。



「ひーまーひまーひまーひまーひーまーひーま」



 静けさが美しい、そんな旅のひとコマを率先して妨害してくる声があった。

 歌に歌詞など関係ないとでも言うのか、たった二文字に珍奇なメロディを加え、延々と繰り返している。

 リュージは折角の風景に水を差された気持ちになって、馬車の幌の上に座って歌っているであろう女に、苦言を呈した。



「おい、うるさいぞラフィ」

「ひまーひまひまひーまひまー」

「人の話を聞けよ……というか幌に乗るなよ、破れたらどうすんだ」

「ひまーひまひーまひまひま」

「……おい? そろそろ静かにしろよ?」

「ひまひま、ひまひーまひま――」

「……」



 言っても止めない相手に言葉を尽くすほど優しさを持って生まれた覚えはない。

 容赦なく振り上げられたつま先が、幌の凹んでいる部分、つまりは誰かが座っているところを蹴りあげる。



「うひゃあ!?」



 蹴られた方は頓狂な悲鳴をあげて危うく馬車から落ちそうになったが、なんとか踏みとどまると、猛烈なスピードで馬車の内部に戻ってきて、リュージに食って掛かった。



「ちょっとー! 何考えてんのよ、落ちたらどうするの!」



 そう文句を言うのは、初めて地上に降りてきた粉雪のようにまっ白い女だった。

 髪は輝くようなシルバー、左足に大きなスリットを入れて改造している修道服も白、全身の色調が統一されている中、唯一瞳だけは満月が飛び込んだような金色であった。



 その美麗さは、どこか人間離れしているほどで、おそらく彼女を作り上げるために神は――この世界風に言うなら女神は――他の人間よりもよっぽど手間暇をかけたことだろう。

 しかしリュージは目の前の彼女が見かけどおりの人物でないことはよく知っている。故に気を使ったりなど勿論しない。



「ひまひまうるさいって何度も言ってるだろ」

「だからって蹴ることないでしょ!? ちょっと歌っただけじゃない、頭に血が上るの早すぎるんじゃないの!? 牛乳飲みなさい!」

「ついさっき歌い始めたようなこと言うな、三十分以上聞かされる身になってみろ、精神的に辛くなるから」

「私の美声と天才的作曲センスの一端に触れることができたんだから、明らかにプラスでしょ?」

「ああ、声はいいのが余計に腹立たしいんだよ……」



 そこは認めねばなるまい、ラフィの声は確かに美声といって差し支えない、どころか稀に見るレベルだ。

 これでハミングでもしといてくれるのならリュージとしてはなんの文句もなかったが、その有り余る才能を使って暇だと主張されたところでどうしようもない。こちらの気が滅入るばかりだ。



「お前も少しは景色を楽しめよ、緑が綺麗じゃねえか」

「綺麗? そりゃ私だってこの景色は素敵だと思うわよ? でもこの森に入ったの昨日よ、いくらいいものだって二日連続で見続ければ飽きるのよ! むしろ何であなたはまだ楽しめるの!? お爺ちゃんなの!? 他に潤いがなくても平気なほど人生枯れてるの!?」

「もう、うるさいですよ二人とも、そろそろ森も抜けますから、あんまり騒がないでください」



  御者台で馬を操っている青年、ヴィート・マッシは、その長い前髪越しに幌を覗き込んで呆れていた。この道が近いと言ったのは彼だ。

 ラフィは疲れを含んだ視線と共に、ヴィートに訊ねる。



「ねえヴィート、ホントにこの道が一番良い道だったの? すごい暇なんだけど」

「近いって言っただけですよ、暇かどうかまでは分かりません」



 都市外に出たことのない彼でも知っているほど有名な近道のようで、緑がきれいなうえに危険な動物も出ないし有害な植物もない。

 商人たちの間では有名な場所らしい、みんな通りかかっては休憩に使うとかいう話だ。



 リュージ達も旅に出てからは、一応夜の間は交代ごうたいに見張りをしていた。

 都市の外は街道以外は手つかずの自然ばかり、滅多にないことだが、盗賊だっているし、そうでなくとも広い場所なら狼くらい出る。

 しかし昨日は、安全な場所と言うお墨付きもあったので、久しぶりに見張りを立てずに眠ることができた。

 おかげで気分爽快、活力に充ち溢れている。若干一名は元気になり過ぎたようだが――。



「ラフィさんだって朝までぐっすり寝てたじゃないですか、それで良かったってことにしましょうよ」

「あんな薄い寝袋で寝たって、疲れも取れないわよ」

「だったらヴィートに返してやってもいいんだぞ? 誰のせいで毎晩毛布だけで寝てるんだろうな」



 リュージが腕を組んで目を細めた。

 ラフィはへたくそな口笛を吹いてリュージと顔を合わせようとしない。

 こっそり着いてきたラフィだったが、何を考えているのか荷物らしい荷物をほとんど持ち合わせていなかった。大方何も考えていなかったのだろう。せいぜい数日分の着替えくらいだ。寝袋なんてもってのほか、泣き叫ぶヴィートから寝具を強奪し、すやすやと安らかな寝息を立て始めた時には、きっとこいつは人の皮をかぶった別の生き物に違いないと戦慄したものだ。



 結局持ってないお前が悪いとも言えず、次の都市に着くまではリュージとヴィートが一つの寝袋を交代で使うことになった。

 ラフィは男二人からの負の視線に、不利を悟ると強引に話題を戻した。



「そ、そんなことより、暇すぎるって話よ、胸のドキドキが全くないのよ」

「いいことだろうが、平和で」

「えー! だって勇者の旅なのよ!? もっと波乱万丈に満ちて一歩一歩ごとになにか起きるような――」

「そんな旅じゃ体持ちませんよ……」

「じゃ、じゃあゴブリンとかドラゴンと戦ったり、エルフや妖精と仲良くなったり――」

「物語の読みすぎですよ、そんなのおとぎ話にしか出てきませんって」

「でも勇者は居たんだから!」



 それを言われるとリュージとしてはぐうの音も出ない。

 前にもいったがこの世界、リュージの居た世界ととても似ている、数少ない差異は魔法があるかないかくらいで、それ以外ならば共通点も多々ある。

 当然モンスターなんていない、妖精もエルフもいない。冒険を生業とする人間もいないことはないが、少数派だ。

 なんとも夢のないファンタジーだが、そもそもそれらの存在を知らないリュージには気にならないのであった。



「はあ、せめて獣人とかそのへんから出てこないかな」

「あの人たちは南のドガ大陸から出てきませんよ」

「獣人、なあ……」

「ああ、リュージさんの世界にはいないんでしたっけ」

「もしかしたらどっかでひっそり隠れて暮らしてたのかもしれないな……けど少なくとも俺は聞いたことがない」

「それで魔法も使えないんでしょ? どんな世界なのか想像もつかないわね」

「俺にとってはその獣人ってのがよく分らないんだけどな」



 獣人、そう呼ばれる人種がいる。そう聞いてもリュージにはピンとこない。

 獣と人が合わさったような外見で、高い身体能力を誇る種族だそうだ。

 語尾がはっきりしないのには理由があって、さっきヴィートが言ったとおり獣人は南に位置するドガ大陸に住んでいる。

 ――そしてそこから出てこない。本当に出てこない。

 種族としての資質か内向的で、他の大陸と関りを持とうとしない。


 

 世界が『帝国』に支配されていた時でさえ、資源が少ない割に屈強な戦士が多いドガ大陸は、実質的に『帝国』の支配を逃れていた唯一の大陸だ。

 かといって積極的に世界平和のために立ち上がることもなく、非獣人に対しては我関せずの態度を貫いてきたのが、獣人と呼ばれる彼らである。



 そこまでして不干渉を貫いていた獣人たちだったが、何故か一番の激戦にして、最終決戦となった『帝国』首都での戦争のみ、協調の姿勢を見せた。

 結局その後、ちゃっかりと連盟には加盟しており、現在では『敵ではないけどよく分らない人たち』程度の認識をされている。



「……って獣人は別にいいのよ! 何か起こらないかなって話よ」

「自分から言い出したのに――」

「だいたい、あんなことに巻き込まれて悪魔まで見たのに、よくそんなこと言えるな、平和を喜べよ」



 あんなこと、リュージは事もなげに言うが、ラフィとヴィートの表情はその一言で曇る。

 生まれて初めての悪魔との遭遇、死闘、それはラフィの記憶に色濃く残っていた。

 ヴィートに至っては治したはずの背中が疼いて体をもぞもぞとさせている。

 丸一日痛みで呻いて、起き上がれなかったのは一刻も早く忘れたい記憶だ。ラフィは唾を飲み込んで、不承不承頷いた。



「……確かに不謹慎だった、平和がいいことなのは認めるわ」

「だろ? 命の危険なく生きていけるのがこんなに幸せなんて、俺も知らなかったよ」

「でもあたり見てるだけなんて退屈だって気持もわかるでしょう?」

「……まあ言いたいことは分かる、寝るか本読むかくらいしかやることがないのはな、せめてトランプかボードゲームでもあればいいのにな」

「何それ面白い話?」



 娯楽が発達してない、どんな道を辿ればそんな状況が作り出せるのか、歴史学者になる気はさらさら無いものの、気になってしょうがなかった。    

 トランプもなければチェスや将棋もない、住人が普段やっていることと言えば読書か運動か、もしくは仕事か、なんて健康的な生活だ。確かに暇を持て余して仕方ない。

 トランプくらい作ってみるかと、リュージは密かに検討している最中だ。



「まあ考えても今は何もないな、諦めろ」

「えー、このまま森を出るまで自然と戯れてろって?そんなのやーよ、ほっといたらまた歌い始めるわよ私」

「だ、だったら普通の歌をやればいいじゃないですか、ラフィさん良い声してるんだから、それなら誰も文句言わないと思いますよ?」

「最近の歌知らないのよ、あと歌えるのって讃美歌か民謡くらいだし、両方好きじゃないし、それなら新たな出会いを求めて作曲に励むしかないっていうか――」

「別にこうして話してるだけでもいいだろ? それくらいなら森でるまで付き合うぞ?」



 ラフィは「えー?」と顔を顰めたり、腕を組んで何かを考える仕草などをしていたが、やがて何かの折り合いがついたのか、精一杯、妥協したふうに、リュージを見てのたまった。



「ま、それで我慢してあげる」

「……なんか引っかかる態度だな、いいけどよ」

「よし!じゃあ盛り上げるためにとりあえず飲まなきゃね!えっとどこにしまってたかなーっと」



 広くもない馬車のなか、多くもない荷物を、ごそごそと漁りながら、話にかこつけて酒を飲みたいだけなのは、どう見ても明らかだった。

 別にそんな言い訳を今更のようにしなくても、いつだって理由なく酒瓶を持っているというのに、そしてほぼ毎日それに付き合わされるリュージは、そろそろ休肝日が欲しかった。

 酒に強いからといって、皆が皆始終飲みっぱなしで楽しいわけではない。



 しかし、いつもならひょいと出してくるはずなのに、今日に限っていやに時間がかかっていた。探すラフィの表情も険しい。



「……これは空き瓶、これも、これも、あれ? これももう空――おっかしいわね、あと三本くらい残ってたはずなのに」



 懸命に探しているラフィに、ヴィートが振り返らずに声をかけた。



「あの、もうありませんよ」

「えっ」

「だってラフィさん夜中にこっそり飲んでたじゃないですか、昨日飲んでたあれで最後ですよ」

「……」

「お、おい? ラフィ?」

「……土に、還る時が来たようね」

「ラ、ラフィさーん!?」



 元から白い顔から血の気が引き、真白になったラフィはぱたりと倒れて、ぴくりとも動かなくなった。

 前を向いているせいでその光景を見れなかったヴィートは、音だけ聞いて大いに慌てている。

 伏せっているラフィを見て、このまま放っておいた方が静かかもしれないと、リュージの頭の隅を邪念がよぎった。



 しかしまあ、この暫定世界一シスターらしくない彼女が、どれほど酒精に心酔しているか――文字通り心まで酔っているか――は分かっている。

 それこそ酒瓶から生まれてきたといっても信じられる。

 飲まない日でもなぜか瓶を弄っているくらいだ。無視しても問題ないだろうが、それはそれで忍びない、リュージは頭の上にしゃがみ込んだ。



「そんなに落ち込むなよ、今日中に着くんだから、また買えばいいじゃねえか」

「うぅ、今飲みたいのに……」

「諦めろよ、無いものは無いんだから」

「……今度は百本くらい買い込まなきゃ、もう二度と無くならないように」

「それを聞いて俺が良いって言うと思ったか?」

「けちぃ! どうせタダなんだからいいじゃない!」

「あのなぁ、贅沢するために援助してもらってるんじゃないからな? 必要なものを必要なだけしか貰わん、酒は自分で金払って買え」



 この終点のわからない旅において、一番不安なのは旅費のことだった。

 どんなお題目を掲げても、食っていくには金が必要になってしまうわけで、リュージ一人でもそうであったのに三人旅になってしまったわけで、金銭面の問題はさらに深刻になってしまうはずだった。

 それが一気に解決したのは、ブロックスを出発するときのこと、出発の朝に、ひとり挨拶を済ませるリュージに向かって、団長であるエルモは一つの事実を告げた。



 即ち、この先のリュージたちの旅にかかる費用はすべて寄られた側の都市が受け持つことになったということを――。

 聞いた当初はリュージも申し訳なさからこれを断ろうとした。

 旅にどれほどの費用が掛かるのかは分からないが、場合によっては数年単位の旅になる。その全てを相手に払わせるなんてあまりに図々しすぎると――。

 だがいちいち稼いでいる時間があるかといえば、難しいところであるのは確かだった。



 口には出さないリュージの葛藤を、あっさり見抜いていたエルモは、ヘルムの中から籠った笑い声を響かせた。



『君は自分がどれだけのことをしているのか自覚が薄いんだろうねぇ、これは決して大げさな処置じゃないんだ、報告に聞いた悪魔とやらがこれから先各地に現れるようなことになったら世界がどうなるか分かったもんじゃない、君にはそっちに集中してもらわんと困るんだよ』



 ブロックスの騎士たちはこの世界でもトップクラスの戦力を保持している。

 その騎士たちが束になってあしらわれるような化物、そしてそれを撃退できる力を持っているのはただひとり、誇張なしに世界の命運はリュージの双肩に懸かっているのだ。



『それにね、これは尽くさねばならない礼だとも思っている、結局君に頼るしかないこの世界をどうか許してくれ、そして共に、世界を守ってくれないか』



 深々と頭を下げるエルモに、リュージはそれ以上何も言わなかった。

 人を守るための騎士が、自分たちだけではどうしようもないと、守りきれないと頭を下げることが、どれほどの情けなさを彼に与えているのか、推し量ることもできなかった。

 そんな相手からの精一杯の好意だ。受け取らないなんて選択肢はない。

 言うなればこれは世界中の人の思いを受け取ったもの、無駄遣いなどもってのほか、飲んだくれるなど有り得ない。

 背後に『タダ酒最高』という文字が見えるこのシスターに酒を与えてやるためのものではないのだ。

 しかしそんな理屈は駄々っ子には通じない。ラフィはきっとリュージに視線wpぶつけながら、大げさに騒いだ。



「やだぁ! お酒飲む! タダで飲む! 一円も払わずに飲む!」

「ふざけんな! 嗜好品は自腹って決めたろ」

「生活必需品ですぅ! 私にとっては他に何を捨てることになっても生活必需品ですぅ!」



 このまま威言い合っていても埒が明かない、おもちゃ屋の前の駄々っ子に、理屈を言っても通じないのは分かり切っていたことだ。

 ここは何とかお互いが譲歩できる場所に着地せねばと考えたところで、いい年こいた大人が二人でする言い争いかとリュージは悲しみに襲われる。

 やむを得ず、リュージは深いため息とともに、妥協案を提示した。



「……全く貰うなって言ってるわけじゃない、たくさん買うんなら自分でも出せって言ってるだけだ」

「たくさんってどのくらいよ、二十本くらい?」

「五本以上は払ってもらうからな」

「論外よ! 三日でなくなるわ!」

「節制って言葉を覚えろ! 一日の量を減らすんだよ」

「嫌よ! だいたいここから先はお金稼ぎなんてしてる時間ないんでしょ? いつかは自由にできるお金もなくなるわ、どうせそうなったらお酒だって貰う生活になるんだからどうせ変わらないじゃない!」

「最低の開き直り方をするな!」



 言っていることは否定できないのが辛いところだ。

 今手持ちの金を使い切ったら、そうなる可能性は高い。しかしそれに甘えてしまうと金銭感覚を失ってしまいそうで怖かった。もらうのが当然の生活なんてごめんだ。確実に元の生活に戻れなくなる。

 頑として譲らないリュージに、唸っていたラフィだったが、ふっとその体から力が抜けた。不審に思っていると、その肩が震え始めた。



「……ぐすっ、開き直りじゃないもん、ホントに必要なんだもん」

「おまっ――泣くほどのことじゃないだろ」

「だって、ホントに要るんだもん、嘘じゃないんだから」

「分かった、分かったよ悪かった、言い過ぎた、泣くなって、な?」

「……お酒」

「……あのな、俺が言いたいのは、人の金で飲むことに慣れ過ぎるのは良くないってことなんだよ、だから――」



 頭をガシガシと掻いて言葉を探す、リュージには理解できなくとも、そこまで言うなら止めることはできない。

 それでも必要最低限の枷となるものを用意しておかなければならない、迷った挙句リュージはため息をついて、



「お前の良心に任せるから、ほどほどにしとけよ……」

「やった! さっすが話が分かる男!」



 その瞬間にラフィが飛び跳ねた。目もとにたまっていたはずの涙は跡形もなくなっていた。

 騙されたのだと、今になって気づいたリュージは額に青筋を浮かべる。

 それを見てもラフィは悪びれもせずにからからと笑っていた。



「なによう、一回言ったことは守ってよね、男に二言はないんでしょう? なーに、安心しなさいって、私だってあなたが心配してることくらい分かってるから」

「……信じてるからな」

「さぁて、そうと決まればさっさと目的地に向かいましょ、ヴィート、そろそろ森は抜けるでしょ?」



 その問いかけに返答はなかった。

 リュージとラフィは不審に思って眉を潜める。

 間を阻むものは布一枚しか無いのに聞こえなかったなんてことはないはずだ。

 まさかなにかあったのかと、リュージも声をかけようとしたとき――馬車が止まった。

 突然の事態にリュージはバランスを崩して危うく転びそうになり、隣のラフィは尻もちをついている。



「いったぁ……ちょっとヴィート! 止まるなら止まるって先に言いなさいよ!」



 ラフィの小言に、しかしまたしても返答はない。

 流石におかしいと思ったラフィが直接声をかけようと幌から顔だけ出して、そのまま動かなくなった。



「どうしたラフィ」

「リュ、リュリュ、ル、リュージさぁん……」



 返事をしたのは今の今まで何のリアクションも返さなかったヴィート、最近ようやく馴染んできたのか堂々と喋るようになっていたのに、まるで会ったばかりを思い出す震え声で、何とか絞り出したふうにリュージを呼んでいた。

 やはり何かあったようだ。リュージは後ろから馬車を降りると、回り込んでヴィートの方へ向かい……何が起こっているのかを一瞬で理解した。



 それは身の丈が三メートル近くあった。体を覆う黒に近い剛毛、瞳は意外とつぶらであったが、口元からのぞく牙のおかげか、それの威圧感は薄まることがなかった。

 本物をこんな距離で見るのは、初めてだなぁと、リュージの意識はは現実から逃げた。

 ふとヴィートの後ろから顔を出しているラフィに目をやると、元から大きな目をさらに見開いて、金色の瞳でそれを――熊を凝視している。

 リュージはそんな彼女に、現実逃避気味に声をかけた。



「胸ドキドキしてるか?」

「……こういうのじゃないわ」



 咆哮、次いで突進、静止していた熊は突如として動き出し、森への侵入者である三人を排除せんと両の手を振り上げた。



「ほわあああああああああああああああああ!!」

「くそっ! 素手喧嘩魂ステゴロソウル!」



 とっさにリュージは馬車の前に飛び出すと、ステゴロソウルを瞬時に発動、熊が振り下ろす剛腕を腕をクロスさせて防いだ。  

 熊と戦ったことなど勿論なかったが、恐ろしい筋力だ。

 今の状態なら負ける気はしないが、生身で飛び出していたら酷い目じゃ済まなかった。  

 一人と一頭の間で、暫し状況は膠着する、それを気が気じゃない思いで見ていたヴィートは、自らの横に立つ人影に気づいた。馬車から降りたラフィだ。



「ラフィさん! 何を――」

「加勢するわ! リュージ、そこから離れて!」



 その声にリュージが目を向けると、右手をリュージと熊のほうへ、そして瞳を閉じて集中状態に入っているラフィがいた。

 近くの草木がざわざわ揺れる。地面の葉っぱが渦を巻くように吹きあがる。危険を察知したリュージは言われたとおりに熊の手を放して横へ跳んだ。

 直後に、ごう、という音と、目を開けていられない程の強風がリュージを襲う。一瞬で止んだ風に、恐る恐る視線を熊に戻せば――。




「……不思議な画だな」



 小型の竜巻に巻き込まれて中でくるくる回っている熊の姿があった。     

 こんなことができるなら慌てる必要はなかったのではないだろうか、リュージは能力を解除すると呼吸を整えた。 

 熊も空中に浮かせられるとどうしようもないのか手足をばたばたさせてもがいている。

 現金なもので身の危険がなくなると途端に気の毒に思えてくるのが人間という者だ。



「おい、そろそろどっか遠くに連れてって降ろしてやれよ」

「え? 出来ないわよ」

「あ?」

「いや、竜巻って発生させるのは簡単なんだけど、消すのとか動かすのが難しくて」

「扱えないなら出すなそんなもん!」

「怒らないでよ! 周りに被害でないように竜巻出すの大変なんだからね!」

「どうすんだよこれ……」

「ほっとけば消えるようにしてるから大丈夫」



 リュージは再び渦に翻弄される熊を見た。

 あとどれだけの間こうしているのかはわからないが、あとは魔法が解けた時に熊が無事であることを祈るしかなかった。



 この時、三人は完全に油断していた。

 もう安全だと思いこんでいた。

 ――だから熊が渦から弾き飛ばされたとき、全員の反応が遅れた。

 数メートルの高さに持ち上げられていた熊は、山なりの軌道を描いてある一点に落ちていく。

 即ち、ヴィートの頭上に――。



 ヴィートの頭の中に、十六年の人生が次々と浮かび上がる。

 母の作ってくれるスープ、肩車をしてくれる父、遊んでくれる兄と姉、ブロックスでの日々、そしてこの十日間ばかりの旅路、いつの間にか自分の担当になっていた炊事、いつの間にか自分の担当になっていた洗濯、いつの間にか自分の担当になっていた掃除、いつの間にか自分の担当になっていた――。



「ふざけんなちくしょう『自業自得きいろ』ー!!」



 意地と執念を原動力に未だ嘗てない速さで黄色の薄い楕円形がヴィートの頭上に構築される。

 熊はその楕円形に落下、間一髪ヴィートの命の危機は去った――かに思えた。

 ヴィートの『オリジナル』である『自業自得きいろ』は強靭なゴムのような性質を持っている。

 そこに落下した熊は再び宙へと跳ね上げられ、くるくると回転しながら今度こそ落下した。



 馬車へと――。



 布が破れる音、木がへし折れる音をあたりに響かせて、もう使えないという事実が一目瞭然である程度には、馬車は壊れた。

 一番初めに動き出したのは熊だった。

 手を出してはいけない相手に喧嘩を売ってしまったことに気付いた熊は、痛む体を押してその場から猛然と逃げ出す。

 その足音が聞こえなくなった頃、やっと三人はそれぞれ動き出した。

 ヴィートは真っ青になって震え、ラフィは堪えきれずに吹き出し、リュージはとりあえず荷物の無事を確かめるために粗大ごみと化した馬車に手を伸ばした。


 ――なんでこうなるんだと、独り言ちながら……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ステゴロソウル~たとえば俺が勇者なら~ 寅猛 @toratake

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ