ブロックスの25
高速でリュージの背後に回り込んだ悪魔は、鋭く尖った腕でリュージを狙った。その腕の根元、尖ってない部分を掴んで強引に攻撃を止める。
蝿悪魔がにやりと笑った。リュージが止めることができるのは二本、まだ後四本の腕が残っている。脇腹に生えている腕が、リュージを襲おうと、蠢いた。
リュージはその場で跳ねると、瞬時に蝿悪魔の腹部を踏みつけるように蹴って距離をとる。
蝿悪魔もそのタイミングを見逃さずに、着地と同時に毒液を飛ばしすが、リュージは受け身も取らずに倒れ込むことでそれを回避した。
次々と飛んでくる毒液をかわしながら、地面を転がって更に距離をとる。
蝿悪魔の毒液は、さっきのように撒き散らすタイプではなく、野球ボールくらいの球体になっていた。
直線的で避けやすいが、連射力とスピードがまるで違う、距離をとったのは失敗だった。近づく暇がまるでない。
「……さっき殴られたときはぁ、驚きましたがぁ、さてはあなた強化魔法しか使えないんですねぇ、放出も操作も苦手と見ましたぁ、だったらこの距離から撃ち続ければ、なにもできませんねぇ」
「この、小賢しい野郎だな……!」
魔法ではないと、言い返す隙間などない。
なにせ当たれば一発でその部位が使えなくなる、必殺の一撃ではないが、相手をなぶり殺しにするにはこれ以上適した攻撃もない。
どれだけ皮膚を失ったところで死ぬことができるかなんて、絶対に試したくなかった。
「なーにやってんのよ! 情けない! 殴ることしかできないならぱっと近づいてガッとやっちゃいなさい!」
「それができたら苦労しねえんだよ!」
「ああもう!仕方ない、この一回だけだからね!」
リュージに確認することができなかったが、ラフィはリュージ達の方へ手をかざした。
すると思わずリュージがたたらを踏んでしまうほどの強風が彼の背後から吹き、向かってきていた毒液はあらぬ方へとんで行った。
戦闘は手伝えないと言っていたのに、と感心している場合ではない。
リュージはこの機を逃さず、爆発的な踏み込みで蝿悪魔に肉薄、その腕をつかんだ。蝿悪魔は一瞬驚いたふうだったが、すぐに嘲笑を浮かべる。
「馬鹿ですかぁ!あの距離で避けられなかったのに、この距離にきてどうするつもりで――がぶっ!」
リュージの強烈な右ストレートで、強制的に黙らされた蝿悪魔は、色を変えることのできない顔を歪めて怒った。
「こ、この、ブギっ! がっ! どっ! ちょっ! まっ! 」
とっさに毒液をはこうとするが、止まらない連打に、毒液を溜める暇もなかった。
蝿悪魔は選択肢を明らかに間違えていた。腕の本数という絶対のアドバンテージがあるのだ、現にさっきもそのせいでリュージは距離を取るしかなかった。
そしてラフィの言葉から察するに同じ方法でもう一度近づくことは難しい、詰んでいるのは本来ならリュージのほうだったのだ。
だが人間として……マルチャーノとしての人生のなかで、暴力に対しては無力であった自分が、騎士団の人間を圧倒した。
蹂躙する側に回った優越感が、自分の望んだ倒し方以外を認めなかった。よって、顔面が変形するほど殴られても、蝿悪魔は毒液を履き付けることに拘ってしまった。
「ぐっ……このっ! 調子にのるんじゃあない!」
「うおっ!?」
追い詰められた悪魔は、空へと飛び立った。
目測で十メートル、もちろん腕をつかんだリュージはそのままで――。
縦横無尽に飛び回る悪魔、手放してなるものかと、リュージは手に力を込める。
それだけで精いっぱいだ。強烈な負荷が体にかかり、攻撃するどころではない。
蝿悪魔が顔を下に向けた。身動きの取れないリュージに向かって毒液を放つつもりだ。そうはさせるかとリュージはとっさに体を捻った。
結果として、リュージはその攻撃を回避することに成功した――正確に言うならば、体に当たることは避けられた。
悪魔の放った毒液は、リュージのワイシャツの襟を、ほんの少し溶かす。
「うおおおおおおおおおおおおおおお!?」
聞いたこともないリュージの絶叫に、はるか地上にいたラフィとヴィートがびくっと震えた。
蝿悪魔はリュージが恐怖のあまりに叫んだのだと、ほくそ笑む。
優位なのはやはり自分だと。
「ふん、今更恐れてももう遅い、このまま全身の皮溶かしつくして――」
「何やってくれてんだ、おい?」
リュージの左手にあり得ないくらい力がこもった。
握られている腕がつぶれるのではと心配するほどの激痛に顔を歪める蝿悪魔を、リュージは鬼の形相で睨みつけた。
「俺の一張羅に、なにしやがんだ蠅野郎!」
「ぐぅぉぼぉっ!」
自分が天空にいることも忘れて、リュージは力任せに蝿悪魔の胴体を殴りつけた。地に足が付いていないので腰も入れてない、ただ力任せに振り下ろしただけの一撃――それでも感情が多分に籠った一撃に、悪魔は体勢を崩して、飛行は緩やかなものになった。
機を見て敏、リュージは即行で蝿悪魔の体をよじ登り、背中までたどり着くと、立て直そうと躍起になっている悪魔の翅を片方鷲掴みにする。
「き、貴様!止めろ、う、うわああああああああああ!!」
空への切符を奪われた蝿悪魔は、重力の世界に帰ってきた。
急速に落下スピードが増していく中、リュージは残った手で蝿悪魔の頭を掴むと、後頭部に膝を置いた。
――見よう見まねの、カーフブランディング。
「この一着しかねえんだよ馬鹿野郎!」
リュージの絶叫と共に、両者が地面に激突する。
地面を揺らす振動は、離れてみていたラフィ達まで届いた。
だが同時に、もうもうと巻き上がる土煙りのせいで視界を塞がれたラフィ達には何も見えない。立ち上がってくるのはどちらか、固唾を飲んで見守るしかなかった。
次第に煙が晴れてくる、中からこっちに向かってくるシルエットは――人間のもの。
「か、勝った! リュージさんがやりましたよ!」
「……服を汚す系のいたずらは、しない方がよさそうね」
削れてしまった襟を気にしながら、珍しく舌打ちなんかしているリュージだけが、その場には立っていた。
自分も世間的に見れば非常識な奴だが、本当に常識の外にいる存在を見ると、自分もまだまだだ。そんなことを考えていたラフィはリュージに打ち倒された蝿悪魔に目をやり、
――その腕がぴくりと動いたのを見てしまった。
「リュージ! まだ終わってないわ!」
リュージはその言葉に、振り返ったがもう遅い。
蝿悪魔はその鋭い腕でリュージの背中を――とはならず、再び空へ舞い上がった。
「しまった!」
地上を見下ろすその顔は、辛うじて顔のパーツをそろえていた今までとは違う、三つだった穴は繋がって一つの大きな穴になってしまっていた。
そこから抑えきれない毒液をぼとぼとと垂れてきては、地面を溶かし、穢していく。
パーツがなくなったように見えても、視覚が失われたわけではないようで、蝿悪魔は地上を見下ろした。
顔はなくとも、溢れる怒気は隠しきれていない。
「……認めましょう、私は慢心していたようだ、あなたのような化物がいるなんて、知らなかったものでね」
「今のお前には言われたくないな」
「だけどそれもこれまでです、空を飛べないあなたでは私の攻撃を妨害することはできない!」
悪魔は、大きくなってしまった穴から毒液を噴き出した。しかしそれはリュージに向かってではない、真上に向けてだ。
意図はすぐに分かった。打ち上げられた液体は重力を無視した巨大な球体を形作る。
しかも悪魔の噴き出す量に比例して大きくなっていく。
確かに脅威だが、大きくなればスピードも落ちるはずだ。それに賭けて、避けるしかない。
蝿悪魔はそんなリュージの考えを見透かして、
「確かに巨大な分スピードは落ちます――でもいいんですよぉ? あなたを狙うわけじゃない、狙うのはあっちだ」
蝿悪魔が指をさすのはラフィとヴィート、そして今だ治療中の騎士たちだ。
「お前! 何のつもりだ!」
「簡単な話ですよ、もしあの人たちをあなたが庇えば、この液体はあなたに直撃、もし庇わなかったとしても、あなたみたいなタイプは人が目の前で死ねば動揺してくれますから、どっちに転んでもメリットしかない」
頭に上りそうになる血を必死に下げる、残念だが奴の言うとおり、リュージにはあの攻撃を防ぐすべはなかった。
ならば盾になるか、論外だ。リュージは死にたいわけではなし、そもそも盾になったところであのサイズの液体など防ぎきれない。
皆と一緒に死ぬだけだ。残された道は――。
「ラフィ!」
「無理よ! 毒が強すぎるの! 移動なんてしてたら治療が間に合わなくなる!」
リュージの考えを読んだラフィが、先んじてその可能性はないと告げる。一人で逃げる気もさらさらないようだ。
逃げることもできない、防ぐこともできない、リュージ達の焦る様を見て、蝿悪魔は哄笑を大きくした。
もう手はないのだろうか、できることはなく、死ぬか守れないかの二択を迫られるしかないのだろうか。
――そのときリュージが、どういう理由でその選択をしたのか、リュージ自身にも説明できなかった。
ただ、守るということに、人一倍悩み続けた少年に、ヴィートに頼るという選択肢をリュージは自然に選んでいた。
「ヴィート!」
剣を抱えて迫りくる運命に震えていたヴィートは自分を呼ぶ声に、顔を向けた。そこにいるのはリュージ・キド、強い男だ。父を思い出すくらいに――。
あの悪魔と互角以上に渡り合っていた彼がこのタイミングで声をかけてきたのだ、何か思いついたのかもしれない、ヴィートはすがる思いで答えた。
「はい! なんですか!」
「剣を抜け! お前が皆を守るんだ!」
リュージが何を言っているのか、ヴィートには理解できなかった。
目を丸くして、ぽかんと口を開けて止まってしまう。
「じょ、冗談ですよね!?」
「そんな余裕はないぞ! 頼む、お前しか頼れるやつがいない!」
「馬鹿じゃないですか!? 無理ですよそんなの! むりむり、できるわけない、僕に出るわけないじゃないですか!」
「できなくてもやるしかねえんだ! じゃないとみんな死ぬぞ!」
「そんなもの僕は背負いたくない! 怖いよ! 嫌だよ! 死にたくもないよ! なんとかしてくださいよお!」
ヴィートは頭を抱えて座り込んでしまった。
どうせどうにもならないのなら、せめて何も見たくなかった。自分は悪くない、見ていなかったのだから、こんなことが起きるなんて予想もできなかったのだから、作りだした暗闇の中に、ヴィートは閉じこもった。
知りもしない祈りの言葉を必死に紡ぎ、女神に祈った。もう終わりだと思った。
「おい、目開けろ」
だから、その声がすぐ近くから聞こえた時、ヴィートは心の底から驚いて、とっさに顔をあげてしまった。
そこにあったリュージの姿がある。一人安全地帯にいたはずの、リュージの姿が――。
その事実がヴィートには理解できなくて、いろんなものを撒き散らしながら、情けなく喚いた。
「何でこっち来ちゃったんですか!? 向こうにいたら助かったのに!」
「そんなことはどうでもいい、目は開いたな……だったら周り見てみろ、それでだめなら、俺も一緒に死んでやる」
リュージは言い終えると、その場にどっかりと腰を下ろした。
もう一歩も動かないと、顔が言っていた。
ヴィートはその迫力に、言われたとおりに周りを見た。
リュージがいる、今から死ぬかも知れないのに恐怖していないように見える。
ヴィートにはよく分らない。
ラフィがいる、彼女も流石に焦っているのか顔色は悪い。
でもその口からはヴィートの見よう見まねではない祈りの言葉が聞こえた。運命を受け入れ、さしだされた杯を飲み干すという内容だ。
ヴィートにはよく分らない。
悪魔がいる、恐い。
――そして、倒れたままの騎士たちがいた。
普段からヴィートをいじめてる奴らばかりだ。
どの顔も痛みのせいで意識が朦朧としている、それでも今が命の危機なのは分かるようで、どの顔も恐怖のため歪み、涙でぐしゃぐしゃだった。
こんなものを見たからといってなんだというのか。
命を賭けて後悔しな様な正義感などいつまでたっても生まれない。
やはり無理だ。自分を信頼してここまで来てくれたリュージに内心頭を下げて、ヴィートはまた眼を閉じようとした。
目を閉じきる、寸前だった。ヴィートは見てしまった。
倒れている騎士たちの一人、喉を焼かれたおかげで、言葉を発せなくなっている彼女の口が一生懸命動くのを、傷のせいで音が出ない、空気のみがヒューヒューとなっていた。
そしてその形は――。
た す け て
「ヴィート、あなた……」
ラフィの驚嘆の声が、背後から突き刺さった。
そう、気づいた時にはヴィートは皆を背中に庇う位置にいた。歯の根が合わない。
平衡感覚もなくなっていく。恐ろしくて堪らなかった。
「ああくそ、恐いよ、嫌だよ、死にたくないよ戦いたくないよ! 傷つけるのも傷つけられるのも大っ嫌いだ!! ――でも、でも体が動くんだよ……父さん、僕は、僕は――」
ヴィートは叫んでいた。
それは自分を鼓舞するためのものか、あるいは、誰かに届けたかったものか
少年は泣いた、滂沱の涙を流した。
一度傷つける覚悟をして鞘から抜けば、もう二度と戻れないという直感がある。
それでも少年は歯を食いしばって、父の形見を、人を殺すための剣を、鞘から力いっぱい抜いた。
「へ……?」
少年はそれを、抜いた剣を見て、目を見開いた。
それは剣と呼べる代物ではなかったからだ。なにせ剣の命である、刃が付いてなかったからだ。
柄頭、握り、鍔、それでこの剣は完成していた。戦いになど使えない、人を傷つけることなど考えられてもいない、剣としての役割を与えられていない、もどきでしかない。
ヴィートは、リュージを見た。
リュージは、ふっと微笑んで目を閉じていた。
なぜかその姿に父を思い出した。ヴィートはリュージが、戦う前に言っていた言葉を思い出す。
『――少なくとも、お前に自分らしく生きてほしいって、親父さんはそう思ってたんだ』
自分は、できそこないなんだと思っていた。
騎士としては欠陥品だと、自分を認めてくれた家族まで、いつしか疑っていた。
だが、この剣から、確かに伝わってきたものがあった。ヴィートは、メッセージを、もう会うことはないかもしれない父からの、最後の言葉を受け取った。
お前は、お前でいていいんだと――。
それだけの誰だって言いそうなありきたりな、きれいごと。たったそれだけが、ヴィートの震えを止めた。
「……ありがとう、父さん」
中空にとどまっていた液体は、五メートルもあろうかいう、超巨大な球体になっていた。
蝿悪魔は静まり返っている地上を見て、全員が諦めたのだと気分を良くして声高に叫ぶ。
「仲良くあの世に行く準備はできとようですねぇ」
「そんなもの、できてません」
「……んん?怖がって黙ってた坊ちゃん、どうかしましたぁ?」
「ここにいる誰一人、傷つけさせたりしません、皆、僕が、守ります! 守って、見せます!!」
「そんなおもちゃで何ができるんだかねぇ」
毅然とした態度で宣言するヴィート、蝿悪魔は、大かた恐怖のあまり妄想に走ったのだと決め付け、ヴィートのことを無視した。
「まぁ、もういいですよぉ、全員肉の塊に、変えてあげますからねえ!」
悪魔は、満を持してために溜めた液体を打ちだした、当たるだけで戦意ごと皮膚を持っていかれる、凶悪な液体、それを前にしても、ヴィートは目も閉じなかった。
ヴィートは剣を掲げ、存在しない切っ先を液体のほうへ向ける。
『護るもの』に、なるために――!
「
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