ブロックスの21

 教会の一室、いつまでも明かりが途切れないその部屋には古ぼけたベッドが一つ、上に寝ているのは一人の老人、他の者が見捨てた村で、村長として踏みとどまっていた男、ヤコポがいた。

 その体には外傷は見られない、長時間の治癒魔法の成果だ。

 ヤコポの寝ているベッドの隣には、物憂げな表情で椅子に掛けている女性がいた。



 その表情はまるでこの世のありとあらゆる全てのことに、深い憂いを覚えているかのような深みがあった。

 それは彼女が生まれついて持っている人並み外れた美貌も手伝って、一枚の絵画のような世界を作り上げていた。透き通った白磁ような唇が動き、絵画の君は、満を持して、自らの内を言葉として形にした。



「はあああああああ、お酒飲みたい……」



 絵画の世界は一瞬にして崩れた。

 自らの膝に肘をつき、眉間に思い切り皺をよせ、口をとがらせるその姿に、つい数秒前までの面影はかけらも存在していない。ラフィは眉をハの字にして、悲しげに呻いていた。



「あーもうこれ日付変わっちゃってる? もし変わってるとしたら私丸一日飲んでない、お酒の瓶にすら触ってない……いけない、いけないわセラフィーナ・クィン! こんなこと、あってはならないことよ!」



 とはいえ今日は事が事だ。

 リュージの言葉を信用するなら、もしかするとラフィ一人では対処できないことが起きるのかもしれない。そんな時に酔っぱらうことがどれほど愚かなことかくらい、いくらラフィでも分かっていた。だから流石に自重しようと思っていた……思ってはいたのだ。



 だが待てしかし、危険が身に迫っているからと言って、自分で決めたことを簡単に曲げてるなどいかがなものか。

 ラフィのモットーは『一日一本』だ。ほぼ確実にその数倍近くは一日に消費しているのが実態だが、そんな細かいことはラフィには何の意味も持たない。

 たとえ昨日世界中の酒を飲みつくしたと言われたって、今日飲まない理由にはならない、モットーとはそれほど固い決意を持って決めるのだ。



「それにあれよ、普段と同じように過ごすことで、いざって時にいつもと同じように動けるに違いないわ! 今そう決めた!」



 確かに生物にはそのようなルーティーンなるものが存在するようだが、当然ラフィはそんなことは知らない。知らないなりに自分の飲酒を肯定するためのロジックを組み立てていく。



「逆に今飲まないと緊張しちゃって動けなくなる可能性だってゼロじゃない、いや、多分にあるわ! なんならお酒を控えることによって良いことなんて何もない、そう、これはすべて村を救うために必要なこと、私の飲酒がカフナを救うのね! そうでしょお爺ちゃん!」



 首を下に向けてベッドに寝転ぶ老人を見ると、急に夢見が悪くなってしまったのか、寝ているにも関わらず顔を青くして、ゆっくりと首を横に動かしていた。

 どう見たって肯定からは遠い仕草だが、ラフィはヤコポに向かって笑顔で親指を立てた。



「ありがとう! お爺ちゃんがそう言ってくれるなら私も安心できるわ! それじゃ私は少し楽しんで――もとい村を救うための努力をしてくるわね!」



 嬉々として部屋を飛び出すラフィのには、村を救う使命感などはなく、ただただ、これからリュージ達が帰ってくるまでのパーティタイムに胸を躍らせるばかりだった。

 残されたヤコポはよほどの悪夢を見ているのか、さらに首を動かしながら呻く。



「ラフィ、お前はいつになったら分別ってものを覚えるんじゃぁ……」



 おそらく寝言であった、はずだ。



「げ、そういえばお酒って納屋に置いてきたんだったわ」



 一階に降りてきたラフィが思い出したのはその事実だった。

 盗賊たちを縛りつけて納屋に閉じ込めた時、反省した様子が全くなかったことに怒ったラフィは、盗賊たちの手がギリギリ届かない場所に買ってきた食料や酒を置いてきた。

 餓えと渇きに一晩苦しむ彼らの姿を想像して溜飲を下げようとしたのだ。もちろんラフィはシスターであるからして、明日の朝になれば水くらいはあげるつもりだった。



 たっぷりと、浴びせてあげる予定だ。



「まあいいわ、どうせあいつら縛られてるし、さっととって帰ってくれば……いっそ目の前で自慢しながら飲んでやろうかしら」



 何せ村を破壊されたのだ。それくらいの仕返しならかわいいものだろう、ひとりで頷くと、コルク抜きを持って教会の外に出る。

 あっさりと酒を求めたラフィだったが、それは彼女に不思議な安心感があったからかもしれない。即ち、リュージとヴィートは必ず何かが起こる前に帰ってくるだろうという、何の理由もない信頼だ。



 自分が楽観的なお気楽人間であることは、自他共に認めることではある、それでも人を見る目は養ってきたつもりだ。

 リュージは一度口にしたら曲げられない人間だ。少し見ていれば簡単にそれが分かる、ヴィートは、なんだか深く考え込んでいたようだが、多分大丈夫だ。



 ――なにせ、異界の勇者のお気に入りだもんね。



 リュージが口にした根拠のない勘と同じくらい、根拠のない信頼を二人に向けている自分は、どこか可笑しくもあったが、嫌ではなかった。



 納屋は教会のすぐ裏手にある。ここに閉じ込めたのは、原型をとどめている建物がこれしか無かったこともあるが、なにかあったときにすぐに駆けつけるためだった。

 そう――だったはずなのだ。



「……どういうことよ、これ」



 目の前の惨状にラフィは開いた口が塞がらなかった。

 納屋の扉は、無くなっていた。破壊されたとか、粉々にされたとかそんなことじゃない、影も形も、無くなっていた。

 扉があったはずの場所はただの空洞になっている。

 ラフィは意を決して、納屋の中に踏み込む――そこにはもう誰もいなかった。



 ラフィは険しい顔であたりを見回したが、誰かがいる気配はなかった。

 いったい誰が、どうやって、疑問は尽きないが、ラフィが一人で考えても答えが得られるとも思えない。

 考えても無駄なことに思考能力を割くのは、無駄な行いだ。ラフィは小さく呼吸を整えると、納屋の奥へと足を進めた。



「ま、それはそれとして、酒は無事っと」



 ラフィは置いてあった酒瓶を一本取ると、器用にコルクを抜いて一気にのどに流し込む。そして空いた手で口元を拭うと、聞こえるはずもない二人に向かって呟いた。



「思ったより時間ないかもしれないわよ、二人とも」



 感じた不安をかき消すように、もう一口だけ含んでから、ラフィは室内に戻った。




 ※   ※   ※   ※



 二日ぶりのベッドだというのに、感触を楽しんでいる暇はなかった。

 睡眠とも言えない程度の仮眠を取って、リュージが目覚めたのは今から東の空が赤くなるかといったころだった。

 ブロックスに着いてから、本部の受付が止めるのも構わず、二人は夜中にエルモのいる執務室に飛び込んだ。

 朝出かけていったはずのヴィートが返ってきたことに、エルモはとても驚いていたが、二人の説明を聞いて、顔色を変えた。



 エルモは、朝一番で出発できるように準備を進めることを約束すると、それまで二人には休んでいるように告げて去っていった。

 ひとまず安心したリュージは、どこかへ行くのも面倒だからと、本部の空いている椅子でも使って休もうとしていた。

 そうならなかったのは、ヴィートが言ったからだ。



『あの、確かめたい、ことがあって……一旦家に戻ってもいいですか』



 拒む理由も特にない、リュージはその提案を受け入れて、再びマッシ家に世話になることにした。

 突然帰ってきたヴィートに、カーラもまた驚いていたが、そこは騎士の都市で育った人間だ。事情を説明するとすぐさま部屋を貸してくれた。

 そして、もう朝が来たようだ、もうすぐ約束の時間、予定では門の付近に騎士たちが集まっていることになっている。



 足元にきれいに畳まれているスーツは、時間もない中、カーラが洗って乾かしてくれたらしい、突然のことなのに、感謝してもしきれない。

 リュージはワイシャツを着て上着に袖を通すと、部屋を出て、階段を下りた。

 向かう先はリビング、ヴィートがそこにいるはずだ。ついでにカーラがいるのなら、ひと声かけてから行くべきだとも思う。



 結果として、リビングの近くでリュージは立ち止まることになった。

 ヴィートの震え声が、聞こえたからだ。

 震えていながらも、強い意志を持った声が――。



「母さん」

「あら、どうしたのヴィート、もう時間はないでしょう、準備はできてるの」

「……はい、できてます」

「そう、じゃあ何か食べていきなさい、サンドイッチくらいならすぐに作れるから」

「母さん、聞きたいことがあるんです」



 外にいる時のおどおどした態度でもない、家にいる時のような穏やかな態度でもない、いっそ刺々しさすら感じさせるほど張りつめた声を出すヴィートに、カーラは包み込むように返事をした。



「どうしたの? そんな怖い顔をして、今から人を助けにいくんでしょう?」



 身を案じるその言葉には応じず、ヴィートは重々しくしゃべり始めた。



「……僕は今まで、父さんはすごい人だって思っていました、強くて、かっこよくて、悩んでるとこなんて想像もできなくて……僕なんかとは違うんだって」

「ヴィート……」

「父さんがいなくなって、父さんのことを考えるのも辛くて、何でいなくなったのとか、何考えてたのとか――いや、そうじゃなかった、僕は最初から父さんのことなんて知ろうとしてなかったんだってやっと分かったんです」



 見ていたのは、いつだって英雄ライモンド・マッシで、勇敢な騎士で、自分を導いてくれる父だった。

 父を一人の人間として見たことなど、ヴィートには一度もなかった。それが少しだけ分かってしまったのだ。

 だから、思う。



「僕は戦うのが恐い、でも父さんはそんなことないんだって最初から決めつけてた。母さん、僕は父さんのことが知りたい、知りたいんだ! 父さんは、父さんは――」



 その先は言葉にできなかった。

 ここまできても、ヴィートには父の何を知りたいのか、言葉が見つからなかった。舌が回らない、口をパクパクと動かすことしかできなかった。言葉にできないことが不甲斐無かった。

 だがそこまでで十分だった。母は子供が何を言いたいのかを十分に察する。



「……お父さんは、ライモンドはね、いつだってちゃんと悩んでたわよ?」



 ヴィートが勢いよく顔を上げた。

 カーラは悲しいような嬉しいような、不思議な顔をしている。閉じた瞳からは涙が流れているように、ヴィートには見えた。



「ライモンドは強かった。とっても強かった。だからこそ彼はいつだって悩んでたわ、騎士は守るための存在なのに、自分は敵を打ち倒すって方法でしかそれが出来ないってね」

「そんなの、当たり前のことじゃ――」

「その当たり前が、許せない人だったのよ……傷は魔法で治せても、人を傷つけたって事実が、ずっとあの人を苦しめてた」



 ――父さんが、苦しんでた。



 自らの記憶の中の父とは、まったくつながらない言葉だった。だって父はいつも笑っていたのだ。どんな辛い任務を終えてきても、家では冗談ばかり言って、そんなこと毛ほども感じさせない、強い人だったのに……。

 カーラはヴィートの顔を見て、力なく微笑んだ。



「周りがそうさせたのよ、世界の安全を守る、ブロックスの、それも最強と謳われる騎士が、戦うことに悩むわけにはいかなかった、あの人は、先頭に立たないといけなかったから」



 カーラは椅子に座ってわが子を見た。

 背丈も伸びた、顔つきも少し大人っぽくなった。

 ――もう、子供ではない、父の奇麗なところだけ見せていくわけにもいかない。



「覚えてる? あなたが騎士学校の模擬試合で、誰にも攻撃できずに負けちゃって、三日くらい部屋から出てこなかった時のこと」

「忘れるわけないよ、あの時皆が、父さんが受け入れてくれたから、僕は今ここにいるんだ」

「……受け入れてあげたんじゃない、本当にうれしかったのよ」

「え?」

「ライモンドにはあの時あなたが眩しかったの、人を傷つけることを頑なに拒み続けるあなたが、自分が諦めてしまった道を、『護る者』としての騎士として歩んでくれるかもしれないあなたが眩しくて……きっと憧れたのね」



 母の言葉が、わからなかった。ヴィートには本当にわけが分からなかった。

 父が、自分に憧れていた? そんなことはあり得ないことで、想像もできないことだった。

 ヴィートは混乱から気が昂ってしまったのか、カーラに向かって大声で言い放った。



「……嘘だ! そんなわけないよ! だって、だって僕は今そのせいで、守りたいものも守れなくて――」



 そうだ、何も傷つけずに守りたいものを守るなんて、綺麗な妄想でしかない。

 自分が間違っていて、父が正しいのだ。夢を見続けるより、現実との妥協点を見つけた父のほうが、正しくて、そうに決まっている。

 ヴィートの叫びに、カーラは無言で立ち上がると、部屋のなかにあった戸棚の一番下の引き出しから、何かを取り出して戻ってきた。それは細長いケースだった。背負うためのバンドが付いている。



「これを見なさい」

「それは……」

「これは、ライモンドがいなくなる直前に、あなた宛てに届いていた荷物よ」

「そ、そんなものがあったなんて、教えてくれなかったよね!?」

「渡すべき時はお前に任せるって、手紙が付いててね、でも今のあなたには必要なものだと思う」



 ヴィートは恐る恐るそれを受取って、机の上に置いた。

 自分宛ての、正真正銘最後の荷物、もう二度と会うことはないであろう父の、遺言と言っても過言ではない、指が震えて、ふたを開けるのに何度も手を滑らせた。



 なにかが、分かるかもしれない、自分が何をすればいいのか――。



 ヴィートは思い切って、ケースのふたを開けた。



「……え?」



 そこにあったのは、ひと振りの剣だった。

 鞘に盾の意匠を凝らし、装飾品もふんだんにあしらわれた。ひと眼で高級品だと分かるもの。

 いったいこれを作るのに、いくらかかったのか、だが、ヴィートにはそんなことはどうでもよかった。



 ――急激に、心が冷めていった。

 胸にあった何かが崩れていくようだった。乾いた笑いが、自然と出てきた。



「……なんだ、母さんやっぱり、僕をからかってたんですね」

「ヴィート?なにを言うの」

「だってそうじゃないですか、これが本当に父さんの最後の贈り物なんだとしたら、そういうことじゃないですか、結局父さんは僕に戦うことを、自分と同じ道を進むことを選ばせたかったんじゃないか!」

「違うわ! それは違う! ヴィートよく聞いて!」



 ヴィートはカーラの声など聞こえていないかのように、両手で耳を塞いで頭を振り乱した。

 またしても、またしても少年は、自らを檻の中に閉じ込めようとしていた――孤独と言う名の檻に――。



「違わないよ! 何が僕に憧れてただ! やっぱり父さんは僕のことが情けなかったんじゃないか! だからこれを使って戦えってことでしょ!? ――僕が僕のままじゃ、父さんは恥ずかしかったんだ!!」

「ヴィート!!」



 乾いた音が部屋の外にまで響いた。

 カーラは自分が何をしたのかに気づいて、瞳に涙をためてヴィートに手を伸ばした。

 しかし少年はその手を避けて、部屋を飛び出て、出た先で、リュージとはち合わせた。



「……ごめんなさい先に行きます、ちゃんと行きますから」



 ヴィートは早口に言うと、外に飛び出していった。

 遅れてリビングから出てきたカーラは、途方に暮れて、玄関で座り込んでしまった。

 リュージは無言で、カーラに手を差し伸べる。

 カーラは、力のない笑みを浮かべて、リュージを見上げた。



「……ごめんなさい、嫌なもの見せちゃって」

「いいんだ、むしろ盗み聞きして悪かったな」



 リュージが差し伸べた手をとって、カーラは立ちあがった。

 リュージはそのままカーラをリビングの椅子に掛けさせた。憔悴し切っている、無理もないことだ。

 かけられる言葉もないまま、リュージはふと、話に上がっていた剣を見た。本当に立派な剣だ、ここまでのものを作るのに、どれだけの手間がかかったのか、知ることはできない。

 ライモンドは本当にヴィートに、息子に戦いの道を示したのだろうか。少なくとも、この剣からは、息子への思いを確かに感じられるというのに――。



「……それ持ち上げて見ていいわよ、抜いてみてもいい」



 カーラに言われるまま、ヴィートはその剣を持ち上げて――どうしようもない違和感に気づいた。それは、一度でも剣を持ったことがある人間なら確実に気付くであろうこと――。



「あはは……気づいた? ホントに抜いてみてもいいわよ? もっと面白いもの見れるから」


 いたずらを仕掛けた子供の用な笑みを浮かべたカーラを一目見て、リュージは躊躇いながらも、その剣を抜いて――絶句した。

 同時に理解する。言葉では伝わらない、本当のことを。



「……なるほど、そういうことか」

「ねえリュージさん、それを見てもあの人は、ヴィートに戦わせたかったって思う?」

「思うわけないだろ、これ見て」

「それ、持って行ってちょうだい、渡すべき時、私は間違えてしまったみたい」

「……いいのか、俺に任せて」

「ええ、あの子は貴方のことは信頼してるわ、見てればわかるの……だから、貴方に託す、渡すべき時に、渡してあげて」



 リュージは深く首肯した。

 どっちにしろこれを見てしまったからにはヴィートの勘違いをこのままにはしておけない。

 ライモンド・マッシは、彼の父親は、誰よりも彼を信じているのだから、リュージはケースを担ぐと、門へ向かった。ヴィートを追って――。

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