ブロックスの20

 男は、自分がどこにいるのか分からなかった。

 どこにいるのかだけではない、気を失ってどれほどの時間が過ぎたのかも、なぜこんな所にいるのかも、そして、目を開いているのかも――。



 絶対的な暗闇が眼前に広がっていた。いや広がっているらしかった。何しろ瞼が開いているのかどうか確かめるすべがなかった。腕が動かないのだ。足も動かないのだ。首すら、回せないのだ。



 人は完全に暗闇に慣れることが出来ない、そこは人間が存在する領域ではないと、何か途轍もない存在が定めているからかもしれない。

 まあ今はそんな理由などどうでも良かった。男の内面を様々な感情が渦巻いていた。不安、怒り、憎しみ、恐怖、ないまぜになったそれらが、男のちっぽけな器を満たし、口から叫びとなって洩れるのに、さして時間はかからなかった。



 だが叫べない、声帯を震わすことさえできない、それすらも許されていない。そこまでで、男はある一つの可能性に至った。

 自分は、死んだのではないかと。



 今までの比ではない感情の激流が体内を渦巻いた。

 そしてその恐ろしい推測を否定せんと、男は存在しない口で叫び、存在しない喉を震わせ、存在しない目を見開き、存在しない耳をふさぎ、存在しない頭を搔き毟り、存在しない首を振り、存在しない唾を撒き散らし、存在しない涙を流し、存在しない血を吐き、存在しない我が身が、在ることを願った。



 しかしいくらたっても願いが届くことはない。

 いっそ夢だと、妄想だと、逃げだしてくるってしまいたかった。

 しかし何も存在しないこの場において何故だかこれが現実であると、その確信だけが存在していた。狂うことも死ぬことも許されず、ただ魂が震えていることだけが持てる実感のすべてだった。



 ガタガタと、

 ガタガタガタガタと、

 ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ。





 声が、聞こえた。



 「マルチャーノ、どうしたんだマルチャーノ、そんなに震えてかわいそうに」



 声は芝居がかった口調で、男を、マルチャーノを憐れんだ。

 実際は違う、憐れんでなどいない、心底軽蔑しているのだと、嫌悪を隠そうともしない声で、しかしマルチャーノはその声に縋りつきたい気分だった。

 この何もない世界で、ようやく見つけた他者の存在、頼らずにはいられない。



「かわいそうなマルチャーノ、哀れなマルチャーノ、愚かなマルチャーノ、お前はどうしてこんな所にいる?」



 マルチャーノは思い出す。

 子飼いの盗賊の一人が勝手な行動を始めてしまったこと、仕方なく全てを終わらせに行ったこと、そして、予想外の障害に躓いてしまったこと。



 ――そうだ、あの女が!あの男が!



 同時に思い出した。自分の邪魔をした二人、端から目障りで仕方なかった不良シスターと、どこから来たかも知れないおせっかいな男、シスターの自分を見下している目、いともたやすく自分を投げ飛ばした男、あの二人のせいだ。あの二人さえいなければ!

 マルチャーノの、中にあった感情が集約され、怒りに塗りつぶされていった。



「そうだ、君を邪魔した奴らのせいで君はここにいるんだ。今どんな気持ちだ?」



 ――腹立たしい、腹立たしい、腹立たしい!



「そうだ、腹が立つだろう、そしてきっと君の邪魔をした奴ら今頃こう思ってる、『かわいそうな村を救った、傷だらけの老人を救った、君と言う悪者を見事打倒した、自分たちは正義の味方だ世界一の英雄だ』とな」



 ――許されない、許されない、許されない!



「そうか、しかし彼らには信念がある、君は彼らの信念に、それに追従する正義に負けたんだ、今の君では太刀打ちできないだろう」



 今の今まで、自分の感情を受け入れてくれいた声が、突然否定的なこと言った。

 マルチャーノは激しく不安になった。自分は奴らに負けたままで、何一つできずに終わってしまうのだろうか、そしてそのヴィジョンは驚くほど鮮明に、マルチャーノの頭に浮かんだ。怒りが一気に萎え始めた。



「落ち込むことはない、君がすべきことはたった一つ、思い出すんだ、そもそも君は何がしたかった?」



 マルチャーノは考えた。自分の目的、やろうとしていたこと、そんなことは決まっていた。

 金だ、金が欲しかった。あの土地の『価値』はまだ自分しか知らない。あの土地は金になる、想像もできないような、だから自分はあの土地を狙ったのだ。貧乏人どもに与えて腐らせて良い土地ではないのだ。



「そうだマルチャーノ、君は金が欲しかったんだよ、裕福になりたかったんだ、富みたかったんだ、浅ましくて醜い人間の欲望だ。だが、それは君の信念に他ならないはずだ――そう、君の、君だけの、信念だ、心の叫びなんだよ」



 ――そうだ、私は、心の底から金が欲しいと思った。



「そう、君は何も悪ことはしていない、自分の信念に従っただけだ、彼らと何も変わらないんだ、彼らが信念と正義を盾に取るならば、君は君の信念を槍に戦わねばならないんだ! 分かるね?」



 ――戦う!戦う!戦う!



「いい子だマルチャーノ、ならば私が君に戦う力をあげよう、立って行きなさい」



 マルチャーノは言われたとおりにした、今度は動くことができたし、どこへ行けばここから出られるのかもぼんやりと分かっていた。

 マルチャーノは進んだ。信念とは名ばかりの、こびりついたら落ちない汚れのような彼の性根に従って――。











 誰もいなくなった暗闇の世界で、雰囲気をがらりと変えた声が、響いた。



「――嘆息する。今の三文芝居の意味は分からないが、目的は達した。後は静観すべきだ」



 それは感情を一切感じさせない声だった。人形劇の人形が、舞台上での役目を終えて降りてきた。そんな声だった。





※   ※   ※   ※






 眼前に広がっているのは暗闇、しかし絶対的な暗闇というわけではなかった。

 空に浮かぶは円い月、それが放っている光は、優しさを内包した柔らかい輝きだった。もっともその光を頼りに走り続ける男二人に、その優しさを感じるほどの精神的余裕はなかった。



 カフナを出て随分走り続けていた。

 沈みかけていた日が完全に暮れ、頼りが月と星しかなくなっているほどには時間がたっていた。

 リュージはついてきているヴィートに向かって叫んだ。



「まだ走れるか!」

「……はい」



 返事が一拍遅れた。さっきからずっとこの調子だ。

 ヴィートの様子がおかしいのは村にいたときから、襲撃を乗り切った後からだ。ヤコポの家を消火し、盗賊をまとめて崩れかけの納屋に押し込んだ。

 必要な作業はすべて手伝ってくれるのだが、声をかけても返事が遅れて、心ここにあらずといっふうなのだ。

 夕方になって空に星が出始めると、空を見上げて動かなくなってしまったので、ショックが抜けきらないのだと、放っておいたが……まだ治っていないのだろうか。



「本当に大丈夫か? 無理して後で走れない方がまずいぞ」

「……はい、大丈夫です」



 これは重症だ。自分が疲れているかどうかも定かではない感じだ。

 できればこのペースを維持したまま走り続けて、日付が変わってしまう前にたどり着く予定だったが、途中でヴィートに倒れられても困る。リュージは休憩を決めた。



「やっぱり少し休もう、気づいてるか? 結構時間経ってるぞ」

「……そうですね」



 腕時計を見せてもリアクションは薄い、打っても響かないとはこの事だ。

 ブロックスに戻ると言った時だって、もっと大騒ぎして理由を聞いてくると思いきや、「はいわかりました」で終わりだ。

 話が早いのは助かるが、それ以上に気になってそれどころではなかった。



 どうしたものか、頭を悩ませるが、リュージはカウンセリングなんてしたこともないし、気が利かない人間である自覚を人並み以上に持っているので、余計なことしか言えない気がして話すことを躊躇っていた。



 ちらりと見ると、ヴィートは一心に空に、浮かぶ星に視線を注いでいた。

 その形のまま釘で打ちつけられたように固まっている姿に、リュージは一瞬前までの躊躇いを忘れてしまった。



 「……空、好きなのか」



 とっさに聞いてみたものの、返事はなかった。

 自分でも何でこんな問いを発したのか分からなかったリュージは、想像通りの展開に大きく息を吐いた。と、ヴィートが口を開いたのはその直後だった。小さく開いた口から聞こえた声は、予想に反してよく響く声だった。



「好きかどうかは、分からないです」

「……じゃあなんでさっきからずっと見上げてんだ」

「星を、見てるんです」

「星か、あいにく俺は星座とかはさっぱりでな、詳しいんだったら教えてくれ」

「違います、星を、見てるだけなんです」



 話題を見つけたかと喜んだリュージは、ヴィートの口から出たその否定の言葉に混乱した。

 その二つの間に違いがあるのか、リュージにはそこに差異を見出せなかったからだ。このままでは会話が終わってしまう、次の言葉を探していると、不意にその必要はなくなった。



「昔、父さんと一緒に騎士団の、訓練を見に行ったことがあったんです、十年くらい前かな」

「……よく覚えてるな」

「その時父さんが言ってたんです」



『いいか、世の中には星の数ほど人がいる、だから騎士は星を見るたびに、今から守っていかなければならない人を思い、守れなかった人を悼むんだ。星は騎士がそのことを忘れないために、女神が作ったものなんだよ』



 訓練場でヴィートを肩に担ぎ、父はそう言った。

 ランニング中の見習いたちの姿と共に、その言葉はヴィートの心に今でも残っている。幼いヴィートにはよく分らなかったし、正直今でも意味を完璧に理解しているかと言われると自信がない。



 ただ、父の肩に乗れないくらい背丈が伸びた今でも、ヴィートは夜ごと星を見る。

 あの日父の言葉に、意味も分からないのに胸が震えた自分を覚えておくために、これからの生き方を見失わないために、父の教えてくれたこと間違ってないと、証明するために、だが、だが今は――。



「――僕には、あの輝き一つでも重すぎる」

「……」

「あの大きな人がラフィさんのとこに近寄って行った時、僕、足がすくんで動けませんでした、本来僕がしないといけないことを、リュージさんに押し付けてしまいました」

「そんな言い方するな、俺は俺の意志でやったんだ、それにお前にとっては初めての経験だったんだろ、恐いのは当然だ」

「分かってます、でもそれが僕の仕事で、覚悟の上で騎士になるなんて言葉使ってたんです」



 だが実際は違った。守らなければならない存在を前に、自分が傷つくことが恐かった。自分が考えていた覚悟も、いざという時なんて言葉も薄っぺらいものでしかなかった。

 何一つ分かってはいなかったと、思い知らされた。



 人は死ぬ、殴られただけでも、刺されたり切られたら、もっと簡単に――自分が足を踏み入れた世界はそういう世界だった。

 そして何より、何より少年を絶望させたのは、自身の気持ち、恐怖を前にしたときに感じてしまったこと。



「僕は、リュージさんが一人で戦うって言った時、喜んでたんです、これで僕は死なないかもしれないって、誰も傷つけなくていいかもしれないって、そう思ったんです」



 涙があふれて止まらなかった。

 涙の源泉は悔しさか、情けなさか、あるいは生き残った安心感か、自分でも分からなかった。

 どうしようもなく溢れてきた。拭っても拭っても、意味がないくらいに――。



「父さんは、たった一人で盗賊に襲われてる村に行ったこともあった、巨大な組織のアジトに乗り込んだことだってあった、ここにいるのが父さんだったら、きっと全部うまくいってた。僕じゃだめなんです、僕にできることなんてなにも――」



 今度はリュージが空を見上げる番だった。星が輝いてる、地上の星なんて存在しないこの世界の星空は、まるで毎日が天の川だった。

 少年の悲痛な叫びを聞いても、星は変わらずに彼を照らす、残酷なのか、慈悲深いのか、リュージには判別が付かない。

 ――でも、自分のやるべきことは何となくわかった。



 リュージは立ちあがる、立ち上がってヴィートの前に立った。少年は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、リュージを見上げる。

 リュージは涙で濡れたその瞳を正面から見返すと、ゆっくりと語り始めた。



「本当はな、本当は、お前が逃げたいって言うんだったら、逃げてもいいって言おうと思ってた」

「え……」

「どうあがいたって人には向き不向きってのがある、それはどうしようもないことだ、お前がどうしても辛いなら、騎士になるだけが生きる道じゃねえ、そう言うつもりだったんだ」



 リュージは頭をガシガシと掻いた。

 元気づけようとしてた。その為に言葉を尽くそうとしてた。でも違った。千の飾った言葉なんて柄じゃないにも程がある。

 正しいことなんて言えない、リュージにできることはただ一つ、真正面からぶつかるだけだ。



「――でも駄目だ、お前にはそれは言えない、きっと今逃げたらお前は一生後悔するだろうから、俺には言えない、だから、行くぞヴィート」

「でも、でも僕は――」



 ヴィートは唇を震わせて俯いた。そんな少年にリュージはなおもぶつかっていく、手加減なんてしない、できない。

 今を必死に生きている男に、誤魔化しなんてしたくなかった。口から出てくる言葉が何なのか、リュージは確かめもしない。



「お前が自分をどう思ってんのかなんて、俺にはどうにも出来ない、だが言えることが一つだけある」



 リュージは、ヴィートをしっかりと見据えた。

 視線が交差する、あれだけ鋭すぎて恐ろしいと思っていた視線に正面から向き合っているのに、ヴィートの心に恐怖はなかった。ただ、視線を通して、熱のようなものが伝わってきた。



 「ここにいるのはお前だ、ヴィート・マッシ! 今あの村を守れるのは、お前だけなんだ!」



 カフナ、滅びかけの村、居るのはラフィと、ヤコポ老人、待っている、助けを求めている、そんなことを言われてもヴィートはどうしていいかわからない、分からない、分からないのに、気づけばヴィートは立ちあがっていた。涙は全く止まっていないが、立ち上がっていた。

 火種というには些細な、くすぶっている程度の何かを胸に覚えて――。



「行くぞ、ヴィート」

「……行っていいんですか? 僕は、また、動けなくなっちゃうかもしれないけど」

「それでいい、悩みながら、動けなくなりながら、進めばいい――どうしようも亡くなったら、背中くらい押してやるさ」



 二人は走り出した。

 スピードはさっきまでとは比較にならないくらい速くなっていた。何一つ吹っ切れてなんかいない中、ヴィートは何となく気になったことがあった。

 父も、強く、凛々しく、誰よりも勇敢であった父も、自分と同じように悩んだことがあったのだろうか、と――。

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