ブロックスの17
事態を甘く見ていたところがあったのは紛れもない事実だ。あれだけ熱心に語るラフィを前にしたところで、結局のところ彼女の勘を信用しきれていなかった。
疑うべきではなかった。理屈を超えた直感を、言葉にできない実感を、どんなに証拠に乏しくても、結局のところ、火のない所に煙は立たないのだから。
その結果が目の前で燃え盛る家だとするなら、どれほど後悔してもしきれない。瞳を乾かす高熱を前にしても、リュージは瞬き一つできなかった。
リュージ達がたどり着いたのは黒煙を見て数十分後のことだった。
たどり着くと同時に、リュージは脇に抱えていた二人をその場に落とした。
反応が間に合わずに顔面から地面に落ちたヴィートが、恨みがましそうにリュージを見上げている。
「……お、降ろすなら先に言ってくださいよ」
鼻血が出ていないか確かめながら起き上ったヴィートは、膝をついて呼吸を荒げているリュージを見て驚いた。
「だ、大丈夫ですか!」
「ああ、心配ねえよ」
「大丈夫に見えませんって! あんな速度で走り続けたらそうなりますよ! 疲れたんでしょ!?」
「いや、体力っていうか、集中力がな、頭が痛え……けど、時間もないか」
ステゴロソウルは調節が非常に難しい力だ。
ここに来る時の移動、ヴィートとラフィには気づかれないようにしていたつもりだが、繊細なガラス細工を脇に抱えたまま全力疾走しているのと変わらない状況だった。
集中力と精神力が限界まで削られるような事態だったのだ。おかげで今頭痛で倒れそうになっている。
だがリュージの言葉の意味が分からないのか、ヴィートは今一つ要領を得ずに困惑を露にしていた。
それでも体中から汗が吹き出し、呼吸もままならない今のリュージを動かすわけにはいかないことくらい分かる。
膝に力を入れて立ち上がろうとするリュージをヴィートは押しとどめた。
「無理ですよ! 少しは休まないと!」
「本当ならそうしたいとこなんだけどな、そうもいかないみたいだ」
リュージが目を注いでいるのは今も煙を吐き、崩れ落ちている一軒家、そしてその家の前に倒れている、傷だらけの老人、たった一日で変わり果てた姿になったヤコポだ。同時にそれに気づいたラフィが、立ち上がると、覚束ない足取りで老人の方へ歩き始めた。
その後ろ姿は、明らかに何も考えていない者のそれだった。リュージは慌ててその背中に呼びかける。
「ラフィ! ――ああくそ、聞こえてないか」
「動いちゃダメですって!」
「だったら肩貸してくれ、じっとなんてしとけるか」
「あ、え、わ、分かりました!」
ヴィートの肩を借りてラフィを追う、ぐるりと首を動かして荒らされた村を眺めた。教会以外の建物はすべて破壊されつくしていた。
不思議なことに燃えているのはヤコポの家だけだ。顔を険しくするリュージとは対照的に、ヴィートはその惨状に顔を青くしていた。
数歩先を歩くラフィが、ヤコポのもとへたどり着かんとしたその時、教会の中から、大柄な男が現れた。リュージには見覚えがある。
「なんだよ、帰ってきちまったのか」
「お前、マルチャーノと一緒にいた奴だな」
「お、兄ちゃん、まだいたのか、関わらない方がいいって言わなかったか――言ってねえか」
「……これ全部、お前がやったのか」
「うちの雇い主は元はアルカディアの出身でね、知ってるか、建物って大事な柱をいくつか壊すだけですぐ崩れるんだってよ、こんな時のために既に印はつけてたんだよ、楽な仕事だったぜ」
「う、嘘だ、こんなたくさんの家一人で壊せるわけない!」
「……その制服、ブロックスから来たのか」
ヴィートの騎士服を見て、男は焦燥を感じているようだった。無理もない、ただでさえ一般人と騎士の間には歴然とした力の差が存在する。それがブロックスの騎士ともなれば猶更だ。
男は付近をせわしなく見て、他にいないか確かめているようだったが、すぐにやめた。事ここに至っては、今さらだと気づいたらしい。
「……ここまでやっちまったんだ、おれだって覚悟を決めてる、騎士が何だ! 一緒にぶち殺してやる!」
怯えて後ずさるヴィート、眉間にしわを寄せるリュージを、男は無視する。
むしろ男が見ているのは、立ち止まることなく歩み続けているラフィだ。下を向いているから表情は見えないが、ふらふらとした足取りながら、一歩一歩前には進んでいる。
男はラフィがこの教会のシスターだということも知っている。シスターがけが人のもとに向かってすることなんて一つだ。
「おい、そこの女!それ以上その爺に近づくな、治されると面倒くせえ!」
ラフィは返事をしない、できないのかもしれない。
ただ何を言われても足だけは止めることなく、ヤコポの傍までたどり着いたラフィは、かがんで手を当てようとした。男は大きく舌打ちをする。
「面倒くせえって言ってんのに、あ、でもどうせ見られたからにゃ全員やるしかねえのか」
「ラ、ラフィさん!」
男は大股でラフィへと距離を詰める。
リュージは悲鳴を上げるヴィートから離れると、男の前に立ちはだかった。人を見上げるのは久しぶりの経験だ。二メートル近い身長の男は、リュージを見下して、鼻で笑った。
「そこどけ、素直に言うこと聞くなら楽に殺してやるぞ」
「悪いが寝言に付き合ってやる暇がなくてな――取り込み中だ、さっさと失せろ」
「……見たところお疲れみたいだが、手加減なんぞしてやらねえぞ」
「お喋りが好きなんだな、俺はさっさと失せろって言ったんだ。どこにも行く気がねえなら――悪いが寝ててもらうぞ」
男の額に浮かんだ青筋がぴくぴくと痙攣していた。明らかな侮辱に耐えるような忍耐力を、男は持ちあわせていなかったのだ。
男は野太い咆哮を上げながらリュージに掴みかかった。遅い、避けるもいなすも選ぶ時間さえある。だが、リュージはあえて手を合わせて掴んだ。
男はすかさず残った腕でリュージの首を狙った。しかしリュージはその手も掴んだ。結果として、両手をがっちりと組んで、正面からの力比べの形になる。
男は一瞬呆けていたが、唾を散らして笑い始めた。正面にいるリュージはいい迷惑だ。
「馬鹿め! おれと力比べをしようってか、相手をよく見てからにするんだな! 全身砕けてくたばれ!」
人の頭はあろうという腕がさらに盛り上がった。
確かに恵まれた体格だ。体格も才能だと言ってしまうなら、きっとこの男は人生を力任せに生き抜くだけの才能を持っていたのだ。
もったいない、それがリュージの純粋な感想だった。どれだけ豊富な才能を持っていようと、磨かなければ錆びるのは自明の理だ。
「――ど、どうなってんだこりゃあ!? ありえねえ!? なんでそんな腕で――!?」
現に今、全力を出してなお、顔色一つ変えないリュージを前に、男はただ驚愕することしかできていなかった。
客観的に見れば、男に比べてリュージの体ははるかに細い――あくまで比較なので、リュージの体も十分に筋肉質だが――にも関わらず、額に汗まで浮かべている男に比べて、リュージの腕は震えてさえいなかった。
リュージは驚いている男に向かって、面倒くさそうに息を吐くと、ぎろりと睨み付けつつ、声をかける。
「おい、二つだけ言っとくことがある」
「な、なにぃ?」
「ひとつはな、お前の言うとおり俺は疲れてんだよ、あんまり無駄なことさせるな、それともう一つ――」
「うぅっ!?」
たまっている疲れと自分でも恐ろしくなるほどの機嫌の悪さは、リュージの生来持ち合わせている眼力を増強させた。
それなりの修羅場を生き抜いてきたであろう男が情けない声を洩らす。理解してしまったのだ、自分が踏んだのが龍の尾であったと、
「相手をよく見てから喧嘩売れってのは、俺のセリフなんだよ!」
一瞬だった。リュージが全力で腕に力を込める。
腕から聞こえてきたミシミシという音を聞いて、たまらず男は膝をついた。
リュージは腕に込めた血からはそのままに、後ろの風景が見えるほど体を後ろに反らす。
自然と上がった右足を地面に叩きつけると、渾身の頭突きを男の顔にぶちかました。
人体同士がぶつかったとは思えない鈍い音が響き渡る。
男たちは数秒間そのまま固まっていたが、リュージが手を離したのを合図に、男は崩れ落ちるように倒れた。
リュージは男の鼻血で汚れた額を手で拭うと、こめかみをもみながら、忌々し気に吐き捨てた。
「ただでさえ頭が痛いってのによ……」
怯えて一声もあげられないまま一部始終を見ていたヴィートがつい漏らしてしまった、「頭突きしなきゃいいのに」という呟きには誰も返事を返さなかった。
リュージは背後のラフィに声をかける。
「ラフィ、爺さんはどうだ」
「……」
「ラフィ? どうかしたのか?」
リュージが振り返ると、傷だらけだったヤコポはきれいな姿に戻っていた。
返事がないから不安になったが、そこは本職、精神的に不安定でもやることにミスはないようだ。
これでようやく一安心と言ったところか。
「ヴィート! 悪い、手伝ってもらえるか!」
「――は、はい!」
「とりあえずこの二人を教会のなかに運ぼう」
「僕が二人とも運びますから! もう休んでてください!」
「……そうか、じゃあ頼む」
当たり前のように、ラフィを抱えようとするリュージを、ヴィートは今度こそ止めた。
リュージだって怪我はしていないが怪我人みたいなものだ。これ以上無理をさせるわけにはいかない、現に頼むと言ったきりリュージはその場に座り込んでしまった。
ヴィートはヤコポを背中に、呆然自失となっているラフィの手を取って立ち上がらせると、教会の扉を開いた。
「あ、中からロープ持ってきてくれ、こいつ一応縛っとかねえと」
「そ、その人は大丈夫なんですか?」
「一応手加減した、ラフィが戻ったら頼んでみようぜ」
「そ、そうです――ひっ!?」
ヴィートが声にならない悲鳴を上げる。
リュージは嫌な予感が膨らましながら、ヴィートの見ている方向に目をやって――案の定後悔することになった。
まだ遠くではあるが、馬に乗った男たちが、ぞろぞろとやってくるのが見えたからだ。遠目からでは確かなことは言えないが、騎士ではない、先頭にいるのは、マルチャーノだ。
休む暇もないのかと溜息をつきながら、リュージは体に鞭打って立ち上がった。
眩暈が酷い、しかも、対処は一人でする必要がある。見ずともわかるほど足を震わせているヴィートを戦力には数えられない。
少し近付いて見えてきた。大群と言うには少なく実際は十数人程度だが、ひと騒動終わり、落ち着いていたヴィートの心を搔乱させるには十分すぎる人数だった。
「ももももお、もうだめだあ!」
「慌てんな、二人を連れて教会のなかに隠れろ」
「何言ってるんですか! それなら逃げた方が――」
「馬相手に逃げきれるならそれでもいいんだけどな、言っとくがさっきの移動を期待してるなら止めてくれ」
「で、でもリュージさんは!?」
「心配すんなさっきもなんとかなったろ、今度も平気だ」
「へ、平気って、平気なわけないでしょう!? あんなにたくさんいるのに!」
逃げることもできない、しかしリュージを見捨てて隠れることもできない、落ち着きなく視線を彷徨わせるヴィートは、決断ができる状態ではなかった。
地面から震動が伝わってくるほどの距離になった。生まれて初めて見る騎馬隊は、茶色の波となって村をのみこもうと押し寄せている。もう時間は残されてない、リュージは呼吸を整えて、できる限り朗らかに言葉を紡いだ。
「適材適所って言葉がある、人には人のやらなくちゃいけないことってのがあるんだ……俺は戦うことしかできない男だから、ここが俺の場所なんだろうよ」
「そんなの、リュージさんのやることじゃないですよ!本当は、本当ならさっきだって僕が――」
「いいからさっさと二人を運べ! お前は騎士だろ! お前の仕事は戦うことじゃない! 守ることのはずだ! その二人はお前が守るんだ!」
その一言でのヴィートの反応は劇的だった。目を見開き、次いでぎゅっと閉じて、痛みに耐えるように、歯を食いしばる。
申し訳ないがその逡巡に時間を与えてやるほど、時計の針は遅くはなかった。
リュージはヴィートの胸のあたりを軽く押す。ヴィートはそれに逆らわず、二人を抱えたまま尻もちをつくように教会の中へ入った。
リュージはそのまま背中で扉を閉める。
当然その体勢ではリュージが気づくことはなかった。閉まる扉を見たヴィートの頬が、隠しきれずに緩んでいたことなど――。
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