ブロックスの11

 都市のはずれ、ブロックスの工業地帯とでもいうか、付近には工場はあれど住宅街からは遠く離れているから人が住んでいる家はまるでない、

 そこに一軒の小さな家が建っていた。決してみすぼらしいわけではないが飾りっ気のない小さい家だ。無人の民家にも見えるが、干してある洗濯ものから辛うじて残っている生活感が見て取れた。



 ちょうど一人の女性が洗濯物を取り込み終えて、家の中に戻ったところだった。洗濯かごを机に置き、ことことに立っている鍋のふたを開けた。今日は彼女の息子が一番好きなシチューだ。きっと帰ってきたら喜ぶだろう。



 それにしても、火に薪をくべて火加減を調節しながら、彼女は不思議に思った。今日はずいぶんと帰りが遅い、いつもならこの時間は夕食を食べ終わっているくらいの時間だ。息子の仕事はそんなに時間を使う仕事ではないはずなのだが、それに正午の鐘も聞こえなかった。生真面目なのが取り柄な息子にしては随分珍しい。

 よもや何かあったのではあるまいか、ちょっと臆病なところがある息子だ、またいじめられて泣いてやしないか、少しだけ不安が母親の心を刺激した。



「迎えに、行ったほうがいいのかしら」



 部屋はいつもよりも深い静けさを彼女に与えていた。窓から見える沈みかけの夕日がやけに不安を掻き立てて、強くしたばかりの火を彼女自ら消そうとした時、玄関の扉が開く音が聞こえた。



「あの、母さん帰りました」



 聞きなれた声に、ほっと胸を撫でる。無事で帰ってきたのなら何よりだ。火もそのままに台所から玄関へ歩いて行った。

 遅くなった事情は後で聞けばいい、今は仕事を終えて帰ってきた愛しいわが子を労おうと顔を出して――。



「ずいぶん遅かったねヴィート、今探しに行こうかと思って――」



 玄関に向かった女性は、見なれた息子の後ろに見慣れない二人組を見た。

 シスターにしては砕けた格好をしている美しい女と、見たこともない服を着て紙袋を抱えている目つきの悪い男だ。少なくとも自分の知り合いではないし、息子の知り合いでもないはずだ。三人を交互に見ていると、不意に息子が口を開いた。



「あの、母さん、突然で悪いんだけど――」



 かわいい息子の、久しぶりの頼みを、母親は、カーラ・マッシは快諾した。

 疲れ切っている息子が、どこか楽しそうに見えてしまったことも理由の一つだったかもしれない。





※   ※   ※






 ヴィートの母親を最初に見たとき、リュージは不思議に思った。親子揃った金髪を、後ろでくくり、口元に小さく笑みを浮かべる彼の母親は、どう控えめに見ても「お淑やか」とか「儚げ」という言葉のほうがよく似合う女性で、どう見ても聞いていたような豪快な人には見えなかったからだ。



 隣に立っているラフィも微笑みこそ絶やさずにいたが、小さく口を動かしているのをリュージは見逃さなかった。

 「話が違う」と、多分そう言っている、確かに抱えた紙袋の中身が無駄になってしまうのは金銭的にも痛手ではあるが、いったいこのシスターは当初の目的を覚えているのだろうか心配になってきた。



 快く宿泊を許可してくれたヴィートの母、カーラに礼を言いながら、これは思っていたよりも静かな夜を過ごせるかもしれないとリュージは期待した。

 騒がしいのも嫌いではないが、日中よく騒いだ。

 もういいだろう、グイドに暴力を振るったせいで明日はややこしいことになりそうだが、明日のことは明日でいい、とりあえず今日は穏やかに過ごせるのだから。



――そう思っていた時期が、リュージにもあった。



「ええー!? 二人ともグイドに手出しちゃったんだ!」

「いけなかった?」

「全然! むしろよくやったわ!あのガキは昔からうちのかわいいヴィートに意地悪ばっかりするから、たまにはいい薬よ! よくやったわ二人とも」

「でもリュージは、やり過ぎたなんて言ってるのよ?」

「男の言うことなんて気にしちゃダメよ、いつも最後の最後にしり込みするんだから、今回は私が褒めてあげるわラフィちゃん!」

「わーい、カーラさん大好き―!」



 真っ赤な顔で、ひしと抱き合う二人を見て、リュージは自分の想像こそが楽観的だったのだと悟った。

 最初は何の変哲もなかったのだ。食卓を囲み、カーラが作ったビーフシチューに舌鼓を打ち、会話に少しずつ花を咲かせていった。誰しも酒を飲むことなど忘れていた。



 その内にラフィがせっかく買ってきたのだからと、一本の果実酒のコルクを抜き、せっかくだからとカーラに勧め、やんわり止めるヴィートを無視して、カーラが一口含んだ――平和はそこまでだった。

 もはや室内は足の踏み場のないほど転がっている酒瓶から洩れる酒気で満たされていて、酒に弱いものなら部屋に入っただけで倒れそうなほどだ。



「ほら、私たち良いことしたって!」

「ああ、わかったわかった」

「何が分かったってのよ! なにも分かってないでしょ! だいたい今日は人の頭何度も叩いて!」

「ああ、悪かった悪かった」

「絶対悪かったとか思ってないし!」

「ああ、思ってない思ってない」

「カーラさん!」



 適当に酔っぱらいをあしらっていると、酔っぱらいは仲間のもとへと帰って行った。

 カーラは泣きついてきたラフィを優しく慰め、ラフィは嘘泣きに拍車をかけて、たまにちらりとリュージを見てくる、断固として無視する所存だ。



「うう、世間は冷たいわ、私この家の子供になろうかしら」

「おいでおいで、ラフィちゃんみたいに可愛くてお酒飲める娘なら大歓迎よ、ヴィート! あんたももう一人くらいお姉ちゃん欲しいでしょ」

「いや、いらないですけど……」

「うるさーい!酒持ってこい!」

「もう飲みすぎですってお母さん」

「つまみもってこーい!」

「ラフィさんもですよ!もう……」



 肩を落として台所へ姿を消すヴィート、母親が早々に酒の桃源郷にめくるめく冒険を開始してからは、彼が調理も片付けも一手に担っていた。エプロンで台所とリビングを往復している姿は、こんな事態に慣れてしまっている彼の苦労を感じさせた。

 流石に任せきりは気が引けた。何か手伝おうとリュージも立ち上がって、台所へ向かう。

 家の外観は西洋風であっても、土足ではないので気をつけて一歩一歩進んで行った。



「何か手伝うか」

「ああ、ありがとうございます、じゃあこっち洗ってもらっていいですか」

「洗うのはいいがこれどうやって流すんだ」

「え?普通に水出して流すんですよ」



 ヴィートは首をかしげて、空中に生み出した水の球に皿を突っ込んでじゃぶじゃぶと洗った。

 りゅー次はそれを見て、久々のカルチャーショックに思わず苦笑する。

 不思議そうにこっちを見てくるヴィートに、リュージは何でもないことのように言った。



「悪いが俺は魔法が使えないんだ」

「つ、使えない?それってどういう――」

「詳しい話すると長くなるからいい、とりあえず洗うから流すのは頼んだ」

「はあ」



 いまいち理解できてないヴィートを気にすることなく、スポンジに石鹸をこすりつける、スポンジと石鹸はそのままでよかった。泡まで体から出せと言われたら、もう手伝えることなど何もなかった。

 積み重なった皿を少しずつ片付けていく。



「お母さんは、元気だな」

「今日は特別ですよ、久しぶりのお酒だし」

「久しぶり? お母さん普段は飲まないのか? 酒好きなんだろ?」

「一人で飲むのは嫌いな人なんです、僕はまだ飲めないし」



 リュージが皿を洗うのをも待ちながら、肉に火を通しているヴィートは、柔らかい笑みを浮かべて、額の汗をぬぐった。

 ガスコンロなんて便利なものはない、燃えるまきの上では火加減が難しいだろうに決して焦がすことはなかった。



 飲酒が可能な年齢は二十歳だそうで、都市によって厳しかったりそうでなかったりするものの、このルールも世界共通なのだとか、根がまじめなヴィートは律義に守り通していたようだ。リュージもこう見えて二十歳まで我慢したくちなので、親近感が増すというものだ。



「それにしてもリュージさんも、なんて言うか、片付け慣れしてますね」

「ん、そうだな、俺は一人暮らしが長かったから、そういうお前は二人暮らしか、他の家族は?」

「兄は仕事で、姉は嫁入りで、他の都市に行きました。二人になったのはもう四年前で――あ、でも寂しくはないですよ、二人ともよく手紙をくれるし」

「――兄弟で仲がいいのは良いな」



 この家があるのは所謂重工業地帯だと思う。

 ここに来る際に、周囲には家が無く、人が住んでいる気配もなかった。本当に仕事場ばかりで、この時間になるともう誰もいない。寂しくないという言葉がやけに引っかかった。彼らは選んでこの場所に住んでいるのか。



 考えながら、手を動かしているリュージの洗い物が終わったのと、ヴィートが皿に料理を乗せたのはほぼ同時だった。

 胡椒が香ばしい焼き鳥だ。フライパンで作れるものなのかと、リュージは感心した。もう充分にシチューを食べたはずなのに見ているだけで食欲が湧いてくる出来だった。



「よし、できた!」

「大したもんだな」

「い、いやあ、僕なんか全然、むしろ手先が器用なだけだから、女々しいって馬鹿にされてばっかりで――」

「料理がうまいことは悪いことじゃないだろ、少なくとも俺にはできないことだ」

「料理人を目指してるならいいんですけどねぇ」



 何と言うべきか、彼はあまりにも卑屈なところがあった。

 自分への自信のなさが滲み出ている。リュージは旨い料理が作れるのも、立派な才能だと思っている。しかし頬を掻きながら俯いているヴィートは、自らを本当に恥じているようだった。

 それ以上の追及を諦め、リュージはその皿を手に持った。



「あ、僕が持っていきますよ!」

「いいよ、それよりお前はその皿流しといてくれ」

「そうですか、じゃあお願いします」



 リュージは一人酔っぱらいたちもとへ向かった。台所から出ると、もともと無かった足の踏み場は更に消失して、もはや瓶を足で除けながら進むしかなかった。

 当の本人たちはようやく満足いったのか、ペースが落ちていた。

 飲むのを止めているわけではない。ここまで飲んで肝臓が無事な時点で人体の神秘と言ってもいい。



「この匂いは、焼き鳥かしらね、ヴィートったらめんどくさくなったらすぐ楽なもの作ろうとするのよね」



 カーラが匂いだけで品を当てた。その口ぶりから察するにヴィートが頻繁に作るメニューのようだ。



「でもいい匂い」

「でしょ?ヴィートはね、料理の腕は抜群よ、なんせ私が仕込んだからね、これだけならお姉ちゃんよりも上手だったわ」

「それ本人に言ってやれよ、こんな旨そうなもの作れるのに、なんであんな態度なんだか」

「……なんか言ってた?いいえ、言わなくても予想はつくわ、あの子の自分不信は相当なものだからね」



 カーラは呆れたように溜息をついた。

 自分不信とは、ヴィートを指すには随分的確な言葉だ。

 今日一日だけでも、彼が「僕なんか」と言うのを何度も聞いた。

 若い時分だ。自信がなくなることも自分が分からなくなることも確かにある年代だが、ヴィートは明らかに程度が重いのだ。



 そしてその何かとは十中八九、あのことなのだろう。

 人の事情に土足で踏み込むのは良くないことかもしれないが、あの場でグイドを殴り飛ばしてしまったからには、もう首を突っ込んでしまったというわけで、一度首を突っ込んだからには、気になってしまうのが人情だ。



「なあカーラ、あの中央の像のことなんだが」



 明らかに場の雰囲気が変わった。カーラは一瞬表情を硬くした後、ふっと力を抜いて寂しそうになった。

 横から見ていたラフィが、リュージに湿った視線を向けた。



「料理がまずくなるんだけどー?」

「気が利かないのは百も承知だ、けどお前だって見ただろ」

「……どれのこと?今日はいろんなことがあったもんね」

「しらばっくれんな、最初はあのグイドってやつとだけ折り合いが悪いのかと思ったが、そういうことでもないみたいだしな」



 胸糞悪い空間だった。あの中央広場は――。

 周りの騎士たちはグイドに言われたからではない、明らかに自分の意志でヴィートを馬鹿にして、嘲笑っていた。そしてそれは見ている人たちも同じだった。直接的な暴言はなかったが、あの場にいた人間でグイドを非難する者はいなかった。素振りを見せる人すらいなかったのだ。



 暗に、言う通りだと認めていたのではないだろうか。少なくともリュージにはそう見えてしまった。



「あの像は何なんだ、英雄だの、裏切り者だの、色々聞いたぜ、それに――」



 もう一つ、聞いてしまった言葉、決定的な言葉だ。

 本当はもうあれが誰なのかは分かっているのだ。それでも言い淀んでいるのは、何と言えばいいのかが分からないだけだ。



 カーラが、その言葉を引き継いだ。



「父親、でしょう?」

「……ああ」

「あのお坊ちゃんも困ったもんね、初対面の人に他人の家庭環境教えちゃうんだから」

「やっぱりあれは、ヴィートの父親なんだな」



 吐いたため息は、もしかしたら自分のものだったかもしれない。

 壁に掛かっているガラス玉――中にはラフィの作った光球は入っている――が室内を照らしているはずなのに、カーラの顔にできた影は消えなかった。

 カーラは目を閉じて短く一つ息をつくと、明かりでは照らせないものを表情の奥へしまい込んで、台所へ向かって声をかけた。



「ヴィート!ちょっとおいで」

「何ですか! 今ちょっと忙しいんですけど」

「お風呂洗ってきて」

「今忙しいって言ってますよね!? 後にしてくださいよ、うちのお風呂おっきいから洗うの時間かかるし」

「いいから、行ってきなさい」

「もうすぐ終わるからそれからでいいでしょ?そんなに急がなくてもどうせまだまだ飲むんだから」

「ヴィート」

「もう母さんも歳なんだから、体のことを考え――」



 ヴィートが失言に気づいたのは直後だった。ハッとして母親の顔を見る、そこには表面上は一切変わらない笑みを浮かべながら、額に青筋を浮かべる母親がいた。

 逆らったら、どうなるかわからない、ヴィートはがくがく震えながら一目散にリビングを飛び出して浴室へと駆けて行った。



「はぁ、家では好き勝手言うんだから、情けないったら――」

「あの年齢なら素直な方よ」

「で、追い出してどうするんだ?」

「追いだしたなんて人聞きの悪い、子供を守りたい親心ってね……あの子にとってはまだ過去の話じゃないもの」



 カーラは手近にあった瓶を傾け、その中身を空にするとテーブルの上に音を立てて置いた。若干ラフィが残念そうな顔で「それ飲んでなかったのに」とひとりごちた。



「普段ならこんな話人にはしないんだけど、今日のあの子はいつもより楽しそう、あんた達のおかげ?」

「……迷惑しかかけてないかもしれないな」

「私のほう見て言わないでよ、あなただってやってたこと似たようなもんでしょ?」

「服を脱がそうとした記憶はねえよ」

「危うく殺しかけたりしてたじゃないの」

「あれは俺に何の落ち度もねえだろ!?」



 ラフィと睨みあっていると、堪えきれなくなったカーラが声をあげて笑った。微笑ましいものを見る目を向けられ、リュージはそんなものに慣れてないからか体がムズムズした。



「なるほどねぇ、あの子には二人くらい変なのと関わらせたほうがいいのか」

「変なのなんて酷いわ、カーラママ」

「ごめんなさい、でも褒めてるのよ?お兄ちゃんとお姉ちゃんが出ていってから、あの子が私以外とまともに喋ってるのなんて久しぶりに見たもの」



 それは、いくらなんでも言いすぎじゃないだろうか。

 確かにヴィートはオドオドしたところがあって、人と一緒にいるのが得意そうには見えないが、話してみれば人当たりのいい青年だ。友人の一人もいないなんて信じられなかった。



「……本当よ、て言っても昔は違った、元気はつらつって感じじゃなかったけど、友達もちゃんといた、今でも私に気を使って、家では今まで通り振る舞ってるけど、あの像ができてからずっと元気なかった。もう四年も前からね」



 立ったカーラは窓から外を眺める、視線の方角は、言わずもがな像がある広場、視線に含まれている感情は、リュージには分からなかった。分かるのは悲しみと、それだけじゃないことだけ。



「あんたの言うとおり、あれはこの『ブロックスの英雄』になるはずだった人、今は『裏切り者』なんて言われてる人、ライモンド・マッシ、私の旦那で、あの子の父親」

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