ブロックスの2

 この世界には大陸と言えるものは四つしかない。

 それ以外は島と言えるサイズの大地もほぼなく、海が随分きれいな世界地図を見て、この世界を作った存在はずいぶんきれい好きだったようだとリュージは思ったものだ。

 今いるここが西のボアル大陸、四大陸中その面積は最も小さく、東のアルド大陸と比べると、ユーラシア大陸とオーストラリア大陸ほどの差がある。



 そんな最小のボアル大陸だが、街道の整備、開発は四大陸中最も進んでいると言われている。

 その理由は面積が狭く、管理しやすいと言うこともあるが、『建設都市アルカディア』があることが大きい。世界中の都市の中でも、最も進んだ工事技術を持つアルカディアが、近年すさまじいスピードで開発を続けていているのだ。



 そしてもう一つ、住んでいると気づかないが他の大陸から見てこのボアル大陸は圧倒的に治安が良く、工事が進めやすい。

 そしてその理由となっているのがリュージの現在の目的地となっている『防衛都市ブロックス』だ。それを目指している我らが勇者リュージ・キドは、



「無理か?」

「そ、そうですね、多分難しいです」



 絶賛馬車の修理中だった。仕方ないと言えば仕方ない。アルビオンから一番近いブロックスですら馬車で二週間近くかかり、しかもその間宿と言えるものはほとんどない。この二週間毎晩御者と共に夜を過ごした。取り留めもない話をするうちに友情も芽生えて、楽しい旅だった。



 ――と、そう思っているのはリュージだけで実は御者はこの二週間常に気を張っていた。アルビオンの外から来た彼は、リュージのことなど知らず、国の重鎮に見送られる、見たこともない服を着た目つきの悪い男としか思えなかったからだ。



 隣で寝ている間も、話しかけられている間も、鈍いリュージは気づかなかったが常にびくびくしていた。

 日に日に睡眠不足のため隈は深くなり、このままではブロックスまで持たない、といったところで幸運にもと言うべきか先に馬車がイカれた。



 もちろん気づいていないリュージは、やけに晴れ晴れした顔で馬車の不調を伝えてくる御者に首をかしげながらも、素直に修理を待っている。

 御者は、しばらく車輪を眺めていたが、直に分かりやすいため息をついて――それこそまるで見せつけるためだけにしたかのようなため息をして――リュージへと向き直った。



「すいませんお客さん、どうやら直りそうにないです」

「……そうか、なら仕方ないな」

「ホントに申し訳ない、ここからだと歩きじゃ一日はかかるってのに」

「いいさ、気にするな、ブロックスへはこの街道をまっすぐでいいのか?」

「はい、道なりに進めば」



 確かに少し長いが、それでも一日の距離だ。たどり着けないことはないだろう。リュージは大きなリュックを背負うと御者に頭を下げる。

 二週間も世話になった。ずいぶん大きな借りだ。馬車に慣れていないリュージにはそのように感じられた。



「世話になったな、いつかまた会えたら礼はするよ」

「れ、礼ですって!? い、いや待ってください、すまないとは思いますけど、俺には五歳になる娘がいるんです!どうか、勘弁を――」

「ほう、娘がいるのか、ならその娘にも土産物を買っとくよ」

「ひぃぃぃぃ!? 娘には何もしないでください!」



 持ちつ持たれつが世の常だ。恩を忘れるようになったら人間はおしまいだ。

 御者の顔を忘れないように心に刻む、当の本人は礼という言葉をどう勘違いしたのか、後ろで真っ青になって震えているのだが、気づかない方が皆幸せになることだって世の中にはたくさんある。





※   ※   ※   ※






 馬車のなかで、魔法の便利さを深く味わった。例えば桶に水を出し、それを温め、水を回転させながら石鹸を一緒に放り込めばもう簡易版洗濯機だ。聞けばこれを生業にしている洗濯屋もいるそうだ。

 アルビオンにいるときは知らないうちに毎日洗っていてくれたので気付かなかった。

 スーツの仕上がりは最悪に近いが、流石に御者にプロの仕事を求めるのはあんまりというものだろう。少し生地が痛んだスーツを手で伸ばす。



 こいつが限界を迎えて、服としての役割を終える日も遠くはないかもしれない。

 就職活動のためにバイトをして、生まれて初めて買った一張羅だ。もし破れたりしたらショックは大きい。



「まぁ今気にしてもしょうがねえか」



 幸いにも今の季節は初春、走り回ったりしない限りは汗もかかないほどの気温だ。ブロックスに着くまではスーツが汚れることもないだろう。

 まだ見ぬブロックスに思いを馳せる、何といっても最初から中にいたアルビオンを除けば、初めて入る都市なのだ。いったいどのような土地なのか――



「だから、いくら積まれてもこの土地は譲らんといっとるだろう!」



 のどかに行く末を想像していたリュージは、久しぶりに聞いた人の声に反応した。

 いまいち聞き取れないほどだったが、気のせいでなければ怒鳴り声だった気がする。

 辺りを見渡すと、街道を外れた辺りに、柵に囲まれた小さな村が見えて、リュージは目を丸くした。

 ここに来るまで、二週間近く、一度も見ていなかったからだ。



 見ればその村にある一つの建物の前で、三人の人間が立っていた。一人は老人、ひとりは小太りの男、その後ろに屈強な男がいる。

 話の内容までは聞き取れないがどうやら、穏やかに話をしているふうには見えない。リュージは何の気なしにゆっくりとその三人に近づいて行った。





※   ※   ※   ※






 古びた教会、屋根には黒ずんで見えなくなりかけているが小さなエンブレムが飾られている。

 鋭い剣を、傷つくことも恐れず両手で包もうとしている。

 この世界では一目見れば誰でもわかる、女神教のシンボルマークだ。



 草が風に揺られる音が聞こえる草原にある小さな村の古びた教会、これだけ聞くと風情がありそうなものだが、残念ながら平和の象徴である教会の前で繰り広げられているのは人間の浅ましい姿だった。



「何度来ても無駄じゃ、さっさと帰れ!」

「ヤコポさん、冷静になりましょう? これ以上粘ったっていいこと何もないじゃないですかぁ? 計画が進行した今、あなたがどんなに頑張っても最後には出ていくことになるんです。だったら今お金をもらって出て行った方がきっとこれから先幸せに生きていけるとは思いませんかぁ?」



 唾を飛ばして怒鳴る老人を宥めようとしているのは、小太りの男だ。

 余裕たっぷりの態度で顎の肉をぶるぶる揺らしている。言葉とは裏腹にその態度は宥めるどころか煽っているようだった。

 老人もそう思ったのか、男に対して、目に入れるのも忌々しいとばかりに顔を逸らした。



「ぺらぺらと、よく回る口じゃのう、わしの幸せは自分で決める!お前にとやかく言われる筋合いはないわ!」

「何が不満なんですかねぇ、他の皆さんはもう納得して出て行ってくれたじゃないですか、ヤコポさんが一人でここにいてももう生きていくのも難しいでしょ? 足腰立たなくなったらどうするんです? 一人寂しく餓死するまでここにいるつもりですか」

「何を偉そうに、金をばらまいて他の皆を追い出したのは貴様じゃろうが! この守銭奴! わしは金なんぞに屈したりせん! もういいから帰ってくれ!」

「それは困りましたねぇ、私どももできる限りの努力をしてきたつもりですのでぇ、これ以上わがままを言われるのでしたらぁ、申し訳ありませんが方法を変えさせていただきますよぉ?」



 小太りの男が右手を上げると、後ろに控えていたもう一人の男が前に出てきた。身の丈二メートルは超えている巨大な男は、身なりはいいのだが、老人を見下す表情に浮かぶ暴力性までは隠し切れてなかった。

 巨漢は眉間にしわを寄せて老人の前に来る。それでも老人は一歩も引かなかい。



 「やれるもんならやってみぃ!この土地とられるくらいなら死んだ方がましじゃ!」

 「……こう言ってますけど」

 「構わんよぉ、どうせ爺の死体一つだ、何とでもなる」

 「だそうだ、悪いな爺さん、これも仕事だ、恨まんでくれ」



 振り上げられた拳は老人の頭ほどもある。岩のように握られたそれが振り下ろされればどうなるか、火を見るよりも明らかだ。老人は目を瞑ることだけはすまいと必死に男たちを睨みつける。それが老人にできる最後の抵抗だった。



 「おい、その辺にしとけよ」



 ――突然声が聞こえてこなければ。

 リュージはリュージで、近寄ってきて正解だったと一息ついていた。あまり友好的な会話には見えなかったが、まさか手まで出すほどこじれているとは思わなかった。

 会話の内容は、聞こえてもあまり理解できるものではなかったが、目の前で暴力を受けようとしている人間がいるのなら話は別だ。

 無関係だと白を切ることもできない。



 「何があったのかは知らねえが、話し合いがうまくいかねえからって、随分と大人げないな」

 「……誰でしょうかあなたは?」

 「ただの通りすがりだよ」

 「部外者はぁ、引っこんでいてくれませんかねぇ」

 「もう遅い、首突っ込んじまった」



 小太りの男が不機嫌になった。老人の相手をしていた時のどこか面白がっている様子ではなく、自分の予定に全くない人物の登場に気分を害されたようだ。



「おせっかいはほどほどにしないとぉ、命がいくつあっても足りませんよ」

「悪いが二十五年も生きてると今更生き方変えられないんだよ、とりあえず一旦落ち着いたらどうだ?」

「……あんちゃん、悪いことは言わねえから逃げな、俺のせいであんちゃんが怪我することはねえよ」



 老人は、ぶっきらぼうにそう言った。しかし口調は荒くとも、リュージを見る視線は明らかに気遣いのそれだ。

 だったら猶更逃げるわけにはいかない――というより逃げろと言われて逃げるくらいなら、最初から首など突っ込まない。

 老人の言葉にも、動く気配のないリュージを指さすのは、老人を殴ろうと拳を振り上げていた巨漢だ。



「……こいつはどうします?」



 こちらを見降ろしたまま出された低い声は明らかに機嫌が悪い。爆発寸前だったところ強引に止められたせいで、苛立っているらしい。

 小太りの男は、その問いには何も答えず、ひらひらと手を振ってリュージ達に背を向けた。

 


 ――そういうことに、なったらしい。



 何だか最近はこんなのばかりだ。なぜ異世界の人間たちはこうすぐ荒事に訴えるのか。

 こちらを見下ろしたまま、嫌悪しく頬を吊り上げる巨漢を前に、リュージは渋々拳を顔の前まで上げた。

 人を見上げるのは久しぶりの経験だ。見るからに離れしてそうだが――当然負ける気はしない。


 相手の男は、拳を構えたままピクリとも動かないリュージを見て、おびえていると勘違いしたのか、浮かべていた嘲りの笑みをさらに深くして、拳の骨を鳴らした。

 

 

 その時だった。

 古い扉の開く音があたりに響く。音はすぐ傍にある教会の扉から聞こえていた。咄嗟にその場にいた全員が、教会に顔を向ける。

 開かれた扉から出てきた一人の人物を見て、リュージは目を見開いた。



 立っていたのは、何所か人間らしさを欠くほどの美貌をもった若い女性だった。白い肌に切れ長の眼は、決してとけない氷を連想させる。

 緩やかな曲線を描く体を包んでいる修道服は改造が激しすぎて原型が残ってない。白を基調としたそれに頭巾はなく、一切絡まることのない白銀のロングヘアを惜しげもなく晒し、スカート部分に大胆に入れられたスリットは、一種暴力的な色気を醸し出していた。

 


 彼女は無表情で、その場にいる人間を一人一人見てから――突如花が咲いたように笑顔になった。

 そのリアクションに眉を潜めるリュージの前で、シスターいそいそと教会のなかへ戻っていった。



 今の今まで戦う直前だった一同は、呆気にとられて動きを止める。

 しばらくすると再び扉が開き、シスターが再び出てきた。その手に酒瓶を握って――。

 その表情はきらきらと輝いており、彼女が目の前の光景に抱いている期待を如実に示している。

 彼女はリュージ達のすぐそばまで来ると、どっかりと胡坐をかいて座り、一言こう言った。



「さあ、やりさない!」

「さあじゃねえよ」



 思わず冷静にツっこんでしまった。

 突然出てきた修道女――この態度を見ていると自信がなくなってくるが――はリュージ達を止めるために出てきたわけではなかったようだ。それどころか上機嫌でコルクを抜いている。



「え? だってあなたたち今から喧嘩するんでしょ?」

「あ、あぁ、そうなりそうだが……」

「いやぁ、最近退屈だったのよ、こんな辺鄙な村じゃ楽しめるものなんて何もないし」

「おいお前、シスターだろ? 喧嘩は止めろよ」

「無駄だぜ、そいつにそういうまともなのを期待しちゃ」



 老人が額に手を当てて首を横に振っている。

 ということは彼の知り合いだろう。同じ村のなかにいるのだから当然と言えば当然だが、呆れながらもその口ぶりは気を許している親しみがあった。

 老人の態度に女は、頬を膨らませ抗議する。



「ちょっとヤコポ爺ちゃん! 五年も一緒にいるのに冷たいんじゃないの、そいつじゃなくてラフィって呼んでよね」

「ええい、いい年して子供のような顔をするな!」

「まだ二十代だもん!」

「紛うことなき大人じゃろうが!」



 ラフィと名乗った女は、ふいと顔を背けると抜いたコルクを捨てて、酒瓶から直接酒を飲み始めた。

 一息でビンの三分の一近くを空にして、「ぷはー!」と息を吐くと、ほんのり酔いを滲ませた瞳をリュージ達に戻す。



「いーのいーの、お互いが同意してるのならばんばんすればいいのよ喧嘩くらい、大丈夫、私がいればねどんな怪我してもすーぐ治したげるから」

「聖職者の言葉とは思えないな……」

「あら、偏見だわ。だって女神さまは人間を愛してるっているのが、女神教の根幹なのよ?」 

「……だから?」

「たとえ争いを続ける醜い人間だって、女神様は愛してくださるから、問題なし! だからさあ! やりなさい!」



 そんないい顔で言われても困る。囃し立てて手を叩く女を見ていると、場に膨れ上がっていた殺気が薄れていった。

 毒気を抜かれるというのは、このことだろう。

 対して歯ぎしりをしながら、ラフィを睨むのは高みの見物を決め込んでいた小太りの男。

 よっぽど彼女と折り合いが悪いのか、男は隠そうともせずに舌打ちをしてラフィを睨み付けた。



「何であなたがまだここにいるんですかねぇ、もう任期はとっくの昔に終わってるでしょう?」

「あら、半年も付き合いが続いてるのに、冷たいのねマルチャーノ、そんなかりかりしてると禿げるわよ。ただでさえお腹出てるんだから」

「余計な御世話ですよこの似非修道女が!」



 小太りの男はマルチャーノというらしい。

 マルチャーノはラフィに向って唾を吐き散らしながら喚く。ラフィはそんなこと気にもせずに、また三分の一ほど一気に酒をあおった。

 マルチャーノは顔を真っ赤にしていたが、短く息を吐くと踵を返した。



「もういいです、白けましたのでぇ、ただ次来たときに私たちが、まだ優しいとは思わないことですねぇ」

「次来るときはお酒持ってきてねー、そろそろ果実酒が飲みたいわ」

「くっ! もういい! 行くぞ!」



 何とも小悪党が言いそうなセリフを残して、マルチャーノは連れてきていた男と共に去って行った。

 その後ろ姿を油断なく見送っていると老人――ヤコポ――が後姿に石を投げつける。しかし悲しきかな、老人の衰えた肩では届かせるどころか、気付かれすらしなかった。



 小さくなる後ろ姿に向けられる視線には、強い憤りと憎しみが混じり合っている。

 それは重なっていく年齢と共に衰えていく老人の身の丈には、余ってしまうのではないかと疑ってしまうほど濃密で過激な感情だった。

 その老人の頭が叩かれる。もちろんリュージではないので叩いた人間は消去法で考えるまでもない。



「お爺ちゃん、だめじゃないあんな安っぽい挑発に乗って」

「ふん、貴様みたいな小娘には分からんだろう、わしがこの村を思う気持ちなんてな」

「あら嬉しい、まだ小娘なんて言ってくれるのね」

「小娘以外の何者でもないわ、年ばかり重ねて、何も変わらんの、お前は」

「……お爺ちゃん、女性の年齢をからかうなんて、さっきは状況が状況だったから見逃したけど次はないわよ」

「はん、女神様は醜い人間も愛してくださるんだろ」

「女神が許したって私が許さないわ!」

「お前は何で聖職者をやっとるんだ……」



 返事もせずに酒瓶の残りを一気にのどに流し込むと、ラフィの視線はリュージへと向かう。

 そして確認するように足もとから頭まで不躾に眺めると、突然相好を崩した。

 面食らったのはリュージの方だ。自慢にもならないが、初対面の相手に笑いかけられた経験などない。

 リュージの困惑を気にすることなく、ラフィは立ち上がるとリュージのすぐ傍まで歩み寄る――もちろん酒瓶はそのままだ。



「初めまして旅の人、私はセラフィーナ・クィンよ、ラフィでいいわ」

「あ、ああ、リュージ・キドだ」

「――やっぱり」

「……おい、今――」

「なーんにも言ってないわよ?」



 確かに今ラフィの口から、『やっぱり』という言葉が聞こえた気がしたのだが……。

 リュージはじっとラフィの顔を見つめるが、朗らかに笑うラフィの顔に悪意は感じられなかった。

 ならば、警戒しすぎるのも良くないだろう。とりあえず相手を信用することに決めたリュージの前で、ラフィは「そんなことより」と会話を再開する。




「こんな辺鄙な村に何か用? 見たらわかると思うけどなんにもないわよ?」

「いや、何かもめてたからな、つい見に来ただけだ」

「――なるほど? ただの親切なおせっかいさんと」

「まぁ……そういうことだな」

「それにしても随分腕に自信があるのね、あんな大男が相手なのにわざわざ来るなんて、邪魔しない方が良かった?」

「……いや、助かった」



 そう言われて初めてさっきの男と戦うことを当然のように選択肢として数えていた自分に気づいた。

 いくらここ最近の生活が物騒だったからといって、それに馴染むのが早すぎだ。

 相手を暴力的だと心中で責めておきながら、自分がこれでは笑えない。深く反省するべきだ。

 表情を苦くするリュージに、ラフィが軽く手を振って応じる。



「冗談よ、そんなに気にしないで、助かったのはほんとなんだから、ほら、お爺ちゃんもお礼言いなさいよ」

「……誰も助けてくれなんて頼んどりゃせん」

「あー、そういうこと言うんだ、カフナ村の村長がそんな恩知らずな真似するんだ」



 ヤコポはキッとラフィを睨むが、すぐに勢いをなくし、弱弱しささえその顔に浮かべ、ため息までついた。

 そうして柵に囲まれた小さな村を見渡す。ぽつぽつと建っている家々を見ているうちにリュージは気付いた。

 人が、一人もいない。

 ヤコポは自嘲気味に笑うと、教会に背を向けて歩き始めた。



「村民が一人もいないのに村長も何もあるもんか」



 小さくなる背中から聞こえた呟きは、リュージの考えが正しかったことを教える。

 この村には誰もいない、今話していたこの二人以外誰もいないのだ。

 唯一生活感を感じさせる小さな家、教会から十数歩も離れてないそこに、老人は入っていった。ドアのしまる音さえリュージに物悲しさを感じさせた。



「……ごめんなさいね、ヤコポ爺ちゃん、いつもはもう少し素直なんだけど、マルチャーノと会ったあとは機嫌が悪いの」

「構わないさ、勝手に近寄ったのも勝手に首突っ込んだのも俺だ」

「リュージはどこに向かってるの?」

「ちょっとブロックスまでな」

「ブロックスかぁ、今からここを出ると着くのは深夜になるわよ」



 旅をしていて気づいたことの一つに電気の偉大さがあった。

 街道の脇で馬車を止めて寝ると本当に何も見えない。日本の夜がいかに明るいか、夜の闇を侮っていたことを後悔させられた。



 それにリュージの荷物のなかには明かりを作るのに使える道具が何もなかった。

 最初にそのことに気づいた時はさすがに焦ったが、普通の長旅の場合は魔法で明かりを作り出すそうなので、おそらく準備をしてくれた人が入れ忘れたのだろう。

 とはいえ月の明かりもあるので道まで見えなくなるほどではない。いざというときは強引に進むつもりだったのだが――



「この辺は獣とかはあまり出ないって聞いたぞ、夜も前が見えなくなるほどじゃないし、寝ずに進もうかと思ってる」

「そりゃこの辺にクマやイノシシなんて出ないけど――そっか、知らないんだ」

「なんだ、何かあるのか?」

「最近ね、迷惑なことに盗賊が元気なのよ、幸いこの村には来てないけど、近く通りかかる人は結構痛い目にあってるんだって、夜は特に危ないわ」



 今までは幸いにも出くわさなかったが、街道を通っているときに盗賊に襲われるのもあり得ないことではない。

 だから都市間の移動馬車にはだいたい護衛のために騎士か、民間の警備会社――護衛屋――と呼ばれる職業を連れていく。最もリュージの場合客兼護衛だったので必要なかったが。



「まぁ貴方なら大丈夫かもしれないけど、そんなに急ぎの旅?」

「いや、長旅になる予定でな、ブロックスが一番近かったから寄ろうとしてるだけだ」

「なるほどなるほど、じゃあ今夜はここに泊まればいいじゃない!」

「なんでそうなった」

「だって近所に宿なんかないわよ? それとも野宿する気? いくら春だからって朝は冷えるわよ?」

「それは、そうかもしれないが……」

「だったらいいじゃない、礼拝堂で寝ていいから、ちょっと付き合ってよ、たまには誰かと一緒に飲まないと孤独死しちゃうわ」

「使い方間違えてないかそれ」

「まあまあ細かいことは言わないのよ――で、どうするの?」

「……じゃあ、一晩頼む」

「よろしい!」



 酒瓶を片手にカラカラ笑う目の前のシスターが寂しくて死んでしまう人種にも見えないが、そうまで誘われては断る理由もない、これも何かの縁だ。

 教会へと体の向きを変えたリュージは、後ろからラフィがついてこないことに気づいた。見ればヤコポの家の前にいる。そして力強く扉を叩き始めた。



「おじいちゃーん! 開けて! お客さん教会に泊めるから食べ物ちょうだい! 今お酒しかないのー! ていうか一緒に食べましょう? ねえ! 開けて! 今すぐ! ヤコポ爺ちゃーん!」

「お前何もないのに泊まれって言ったのか……」

「お酒はあるって言ってるでしょ、おーい! おじいちゃーん? あれ、もしかして倒れてたりする? 扉壊しちゃっていい? あと五秒したら壊すからね? いちにさんし――」

「聞こえとるわ喧しい!」



 扉が勢いよく跳ね開けられる。

 ラフィは器用にそれをかわすと、見惚れるような笑顔で出てきた老人を出迎えた。

 顔を真っ赤にしながら――言うまでもないが怒りで、だ――その手に食品を抱えた老人は、自棄になったように二人を置いて教会へと入っていった。なんやかんやで仲がいい二人なのかもしれない。

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