防衛都市ブロックス

ブロックスの1

 部屋に置いてあった燭台の火はとうの昔に消えた。

 それが数分前か数十分前のことか、それは少年には分からなかった。もともと顔を枕に埋めている少年からすれば火はついていてもなくても変わらなかったからだ。

 ついでに言えば彼は視覚だけでなく、嗅覚も使い物にならなくなっていた。埋めている枕から強い塩の匂いがして、他の匂いを遮断していた。



 かぴかぴになってしまった枕が吸っているのは少年の悲しさか悔しさか、それとも恐れか……涙も感情もいくら垂れ流しにしても一向に尽きなかった。

 それでも残っている聴覚は扉のそとから聞こえてくる足音を拾う。それが扉の前まで来たとき、少年は枕をさらに強く顔に押し付けた。



「ヴィート?そろそろ何があったのか話してくれない?」

「……」

「なにも、言いたくないの?」

「……」

「わかったわ、お母さん待つ、ヴィートが言いたくなるまで待つからね」

「……」

「これだけは覚えておいて、お母さんは何があってもヴィートの味方よ」



 やめてくれ、少年は叫びだしたかった。

 頼むから今そんなことを言わないでくれ。余計に苦しくなるだけだ。兄も姉も母も、皆少年を受け入れようとする。少年の痛みをわかろうと努力をする。その温かさが今だけは少年を苦しめる。

 皆が自分に優しいのは、自分の欠陥を知らないからだ。それを知れば、知ってしまえばきっと皆自分から離れていく。そうに決まっている。



 行き場のない悲しみが憎しみへと姿を変えるまで、そう短くない時間だった。少年は自身を取り巻く環境を呪う。こんな環境に生まれてきた自分を恨み、家族すら恨んでいる自分の胸中に驚いてまた自己嫌悪に陥る。

 このどす黒い感情の螺旋が行き着くところまで行ってしまった時、自分はどうなるのだろうか。

 その時俄かに部屋の外が騒がしくなった。


「あなた!? なんでここにいるのよ!?」

「細かいことは気にするな! ちょっと抜けてきただけだ!」

「いやいやパパ隊長でしょ!?」

「俺は騎士であるが、同時にお前たちの父親なんだよ! こんな時に仕事なんかできるものか!」

「……少しは立場を気にするべきだと思うけど」

「おお生意気言うようになったなガイオ! あとで稽古つけてやろう!」




 母と姉の慌てた声、どこか呆れたような兄の声。

 そして、足音が――今までと違う重量を感じさせる足音が部屋に向かってくる。次第に大きくなるその音はなんだかずいぶんと久しぶりに聞く音のようで――。

 扉の向こうから聞こえた声が、少年に確信を与えた。



「ヴィート」

「……父さん?」



 だれが来ても反応しなかった少年がようやく声帯を震わせた。ひどく声が震えているのはもう一週間近く何も食べてないせいか、いや違う。理由は分かっている。

 ――最も聞きたくなかった声が聞こえた。それだけだ。



「ヴィート、ここを開けてくれないか」

「や、やだ!!」



 ベッドの上に寝転んでいた少年は布団から転がり落ちるように降りると部屋の隅で頭を抱えた。

 父は仕事で他の都市に行っているはずだ。なぜ今部屋の前にいるのか、抱えた頭に爪を立ててがりがりと頭を搔き毟る。


――なんで、なんで帰ってきちゃんだよ……! 僕は、ぼくは父さんに合わせる顔がないから、ないからこうやって――。



 少年の葛藤もつゆ知らず、少年の父親は突然部屋の中から聞こえた音に、驚いて扉をたたきながら呼びかける。



「ヴィート!? 今何か大きな音がしたぞ! 大丈夫か!?」

「――何でここにいるの?」

「なんでって……どうしたんだ、お父さんがいるのがそんなに嫌か?」

「今はお仕事でしょ!なんで家にいるのさ!」

「帰ってきたんだよ、お前がもう三日も飯も食わずに部屋から出てこないって、母さんがわざわざ早馬使って教えてくれたんだ、飛んで帰ってきたよ」



 事もなげに言うが早馬だってただじゃない、父の勝手な行いだってきっとあとでお咎めがある。そうまでして何故――。



「ヴィート、何か辛いことがあったんだろう?」



 やめてくれ。



「父さんに話してみないか?」



 もう頼むからやめてくれ



「何でもできるわけじゃない、きっとできないことの方が多いんだろうけど、きっと力になる、約束する」

「もういいよぉ!!」



 もう限界だった。エネルギーを摂取してない体のどこにこんな力があったのか、自分でも分からないほどの大声が出る。

 叫ぶたびに頭ががんがんするが、今は扉の前から父をどかせるのならば後のことはどうなってもいい、死んだって構わない、それくらいの気持ちだった。



「もう勘弁してよ!うんざりなんだ!なんでみんな揃って僕に優しくするんだ、僕にそんな価値はないんだ!」

「価値……?」

「何で凹んでるかって? そんなに知りたいんなら教えてあげるよ! 一週間前に学校で模擬戦があったんだ、結果どうだったと思う!? 全敗さ! それもただの全敗じゃない!僕は誰にも攻撃できなかったんだ!僕の持ってる剣が、誰かを傷つけるって考えるだけで手が震えて剣が持てないんだ!」

「……ヴィート」

「父さんには分からないよ!父さんだけじゃない、兄さんにも、姉さんにも、皆は勇敢だから、守る者のために剣を握れるから、そんな皆には分からないよ!」

「……」

「皆には、皆には――」



 口から飛び出した言葉達は渦を作り、少年を囲む。ここから先には誰も入れない、無敵の要塞だ。自分自身でそれを作り出し、閉じこもる。きっと自分がここから出ることはもうないのだ。

 実際は大人が強引な手を使えばこんな引きこもりはすぐに終わってしまうだろう。実際にこのまま絶食を続けていれば、いつかは誰かが少年を無理矢理外に出す日が来る。

 それでも、少年は本気で思っていた。自分の一生は、ここで終わるのだと……。

 ただ、最後に伝えたいことがあるとすれば――。



「――ごめんなさい、僕はマッシ家の面汚しだ」



 謝罪だけだった。輝かしい功績を持つ家族たちへの圧倒的な心苦しさ、申し訳なさ、この部屋を占めているものは暗くてドロドロしていた。

 言いたいことをすべて告げた少年は、自分を囲む渦をさらに分厚くして、その深みへと足を踏み入れようとする。扉の向こうから声が聞こえたのはその時だった。



「ヴィート、扉の近くにいたら離れなさい」

「え?」



 轟音、そして吹き飛び強制的に役目を終わらせられた扉は真っ二つになって地面に落ちた。

 突然の事態に少年は今まで考えていたことも忘れて絶叫する。



「ほわぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

「お、その悲鳴を聞くのも半年ぶりだな」

「いやいやいや、何してるの父さん!」

「顔が見たくなった」

「顔が見たくなったからって扉を蹴破る人がありますか!?」

「おいヴィートよ、一つ勘違いをしているな」



 ピッと人差し指を立てる父親。

 その真剣な瞳に、とっさに少年は言葉を発さずに続きを待つ、その様子に満足した父は、精一杯もったいぶって愛しい息子の勘違いを正してやった。



「蹴ったんじゃない、殴ったんだ」

「同じ事だよ! 結果は何一つ違わないよ!」

「ははは、思ったより元気そうで安心したぞ」

「……早く出てってよ」



 父のペースに乗せられたことが悔しかったのか、ぶっきらぼうな口調で本来の目的を達成しようとする。

 しかし突然の衝撃的な出来事に少年を取り巻いていた悪感情がどこかへ行ってしまった。なくなったわけではないから混乱していると言ったほうがいいかもしれない。



「それにヴィート、お前はもう一つ勘違いをしているな、それも飛びきりのやつだ」

「なに? 破ったんじゃなくて吹き飛ばしたんだとか言ったらほんとに出てってもらうからね」

「騎士とは敵を打ち倒すものではない」



 雰囲気ががらりと変わる。

 さっきまでのふざけていた父の姿はそこになく、立っているのは、歴代多くの騎士を輩出してきたブロックスでも、最強と名高いライモンド・マッシその人だった。その堂々とした佇まいに震えが走ると共に、父の言葉の意味が分からなかった。

 数多くの犯罪者たちと戦い、その多くを地に沈めてきた男が、騎士はそういうものではないと言う。ライモンドは溢れ出る威厳はそのままに少年に微笑みかけた。



「騎士とは、皆を守るものだ」

「……だ、だから、そのために悪いやつを――」

「それは、手段の一つでしかない――ヴィート、お前は優しい子だ。人を傷つけることができないのは決しておかしいことじゃない、人間として胸を張れることだ」

「そんなことあるもんか! みんな言ってるよ僕は臆病ものの根性無しなんだ!」

「言いたい奴には言わせておけ、誰が何と言おうと、父さんはお前を誇りに思う、母さんも兄さんも姉さんだってきっとそうだ」

「うそだ……」

「本当だ、お前はきっと立派な騎士になる。俺よりも、もっともっと偉大な行いをする騎士になるさ」



 少年は長い前髪の間から見える父の瞳を、自身と同じ碧眼に灯る光を見る。

 そこにあるのは確信だった。自分の言ったことは真実になると、誰よりも信じているのはライモンド本人だった。

 なぜそんなことが、自信満々で言えるのか、少年には理解できず、それでも湧き上がってくる感情が抑えきれなくなり父に飛びついた。

 ブロックスの騎士の証である緑色の制服を涙で汚しながら、ヴィートはくぐもった声を出す。

 ライモンドはその小さな頭に、大きな掌を乗せてゆっくりと撫でた。



「……ごめんなさい」

「何を謝ることがある、お前は面汚しなんかじゃない、私たちの世界一大事な家族だ」



 いつの間にか自分を抱きしめている手が増えているのに、少年は気づいた。それは母で、兄で、姉だった。

 どこから聞いていたのか、みんな一様に泣きじゃくって少年を抱きしめている。力強く、ともすれば痛みさえ感じるその腕が、嬉しくてたまらないというと、調子のいい奴だと思われるだろうか。



 その時大きな音が部屋に響く、音源は少年の腹。

 家族は顔を見合わせた後、堪えきれなくなったように噴き出した。少年も笑った。こんなに笑ったことはない。



「よし!カーラ、飯にしてくれ!」

「はいよ!それよりあんた、帰る前にその扉、直していくんだろうね?」



 母に睨まれて小さくなる父にまたひと笑いして、少年は家族と共に食卓に向った。

 少年はその日のことを忘れたことは一日たりともない、そのあと食べたシチューの味も、みんなの笑顔も、翌朝仕事のために馬で駆けて行った父の背中も、すべてを覚えている。

 その日は、少年にとって自分の存在を受け入れた日、少年が、ヴィート・マッシになった日だった。




 そして同時に、防衛都市ブロックスが誇る『英雄』ライモンド・マッシ、つまりは彼の父が姿を消す、ほんの数年前の話である。

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