アルビオンの25

 直後、龍二は本能のままに地面を蹴ると、完全に反応できていない悪魔の腹に抉りこむように拳を打ち込んだ。

 下からアッパー気味に打ち上げられた悪魔の体が、宙に浮いた。

 



「――かはっ!?」



 悪魔の顔が苦悶に歪む。

 今までどんな攻撃を受けても、片腕を失っても平然としていた悪魔が、たった一発の拳で少なくないダメージを受けていた。

 身の丈五メートルを超える巨体が、軽々と宙に浮いた直後、それを逃がさないとばかりに、龍二は両の拳を打ち付ける。



「おぉぉぉぉぉおおおおぉぉらあぁぁぁあぁぁ!!」



 一発、二発、三発、四発、五発、六発。

 一発ごとに体が強制的に浮かせられる、いったい何トンあるのかもわからない悪魔の体を、龍二はその拳一つで吹き飛ばす。

 六発目を入れたところで、宙を舞う悪魔に向かって龍二自身も跳躍した。生身の人間が飛ぶには不可解な高度で、龍二は一瞬悪魔と視線を交わすと、そのまま体を回転させ、悪魔の首筋に延髄切りを浴びせる。

 悪魔は、打ち出された砲弾のように地面にたたきつけられた。



――が、それでは当然終わらない。




「ナぁぁめるなぁぁぁぁ!!」



 悪魔はもうもうと舞う土煙りの中から即座に起き上がると、猛烈なスピードで、着地した直後の龍二に襲いかかった。

 今までよりも断然早い、悪魔も余力を残していたのだ。猛然と迫りくる右手が、龍二の胴体に直撃する。



「ぐぅっ!!」



 龍二の口から血が噴き出した。

 威力としては間違いなく今までよりも軽減されている。精々体格の良い人間に思い切り殴られた程度と言えるだろう。

 ――問題は、それが致命の一撃になるほど、既に龍二が満身創痍だということだ。



 龍二は遠のきかけた意識を、取り戻すために口の中をかみ切った。

 そして叩きつけられた右手を掴むんで両腕に渾身の力を籠めると、自らの何倍もあるその巨体を、弧を描くように振り回して地面にたたきつけた。

 轟音、地震と紛うような衝撃に、崩れかけていた部屋の崩落がさらに進む。



 「まだ、だ! まだ、終わらない――!!」



 悪魔は大きく気を吸うと、三度となる地獄からの叫び声を放つ。もはやそれを受けて龍二がひるむことはないが、悪魔の体には異変があった。

 なくなったはずの左腕がぐずぐずと形を変えつつ伸びていく。それは五爪を戻すには至らずとも一本の鋭い槍のようになり、龍二を襲う。

 突き出される槍も、振り回される鉄塊も、力任せの攻撃でしかない。だがそこに人ならざるものの腕力が加われば立派な脅威である。

 空を裂き、残された床を砕く。破壊の嵐が玉座に吹き荒れていた。



 ――だが一つとして龍二には当たらない。焦った悪魔は、大きく振りかぶって槍を突き出した。

 龍二は軽いフットワークでそれを避けると、地面に突き立った槍を駆け上がる。

 腕を上りきり、肩に足をかけて跳ねる、目の前にある悪魔の角を掴むと、体を引き寄せる勢いで鼻に膝蹴りを喰らわせた。



「がぁぁぁぁぁぁ!!」



 悪魔は苦鳴をあげて、後ろに倒れこんだ。

 その質量が持つエネルギーは、ただでさえぼろぼろだった床に更にひびを増やす。



 倒れる悪魔を見て、龍二は気づいていた。

 このまま続ければぎりぎりではあるが自分が勝つ。未だ嘗て無いほどに研ぎ澄まされた感覚はもう悪魔の攻撃が当たらないことを龍二に教えていた。



 ――それでいいのだろうか。

 全ての攻撃を避け、攻撃を重ねていけばいつかは龍二は勝つだろう。

 だが、そんな消耗戦で、作業のような過程を経た末での勝利で、世界を滅ぼさんとするこの目の前の悪魔の意志を、折ることはできるか――。

 龍二は思った。無理だと。

 龍二は立ち上がろうともがいている悪魔に歩み寄ると、その腕を掴み、強引に立ち上がらせる。

 悪魔は龍二の行動が理解できないようだった。



「……なんのつもりで?」



 龍二はその言葉には答えずに、低く響き渡る声で言った。



「次で、終わりにしよう……お前の全部をかけて来い、それをぶっ飛ばして――俺が勝つ」

「……いいでしょう」



 ここに至り、もはや言葉は邪魔でしかない。

 それを分かっているのか二人は静かに、歩いて互いに距離をとる。

 火花など知らない、音のない睨みあい、この瞬間だけは、世界はここにしか無い。



 これが最後の攻防だ。二人はそれをなんなく受け入れた。

 悪魔が腰を落とす、すると両腕が胴体に吸い込まれるように消えた。手を失った代わりと言わんばかりに、二本角の間に、さらに鋭利で巨大な、一本の角を生やす、それだけで二メートル近くある。

 悪魔は、闘牛のように足で地面を掻いた、龍二も残された全ての力を込めて右手を握りしめる。その手に纏うように漂っていた銀の陽炎が集まってくる。



 辛うじて形を保っていた玉座が崩れ、大きく避けた床から落ちていく。

 それは一直線に地上部分まで落ちていき大きな音と共に粉々に砕ける。

 


 ――それが合図になった。



 悪魔は、その長大な角で龍二を串刺しにすべく突進する。

 龍二もそれに合わせ、拳を振りかぶって駆けだした。

 その二つが交差する瞬間、龍二は思う。



 訳の分からぬうちに呼ばれ、何も知らないうちに繋がり、そしていつの間にか捨てられなくなっていく。

 脳裏に浮かぶのはこの世界で繋がった人々。

 見た景色、聞いた音、嗅いだ匂い――その全部が、今龍二に力を与えてくれる。

 龍二は拳を固く握って、思う。


 たとえば俺が勇者なら――



 固められた拳は角を粉々に砕きながらなお進む、届く直前に見えた悪魔の顔は、どこか満足そうに見えた。



 ――出来るはずだ。悲しみを、減らすことくらい。



 吹き飛んでいく悪魔の体はボロボロと崩れていく、心の奥底に染み付いた妄執とともに、チリのように風に消えていった最後には、見慣れた老人が裸で地面に転がっていた。





※   ※   ※   ※






 龍二の体から陽炎が消える。

 とたんに身体を動かしていたエネルギーが消え、龍二は地面に倒れ込んだ――こんどこそ、正真正銘すべてを使い果たした。

 もう、何も残ってない。龍二はもぞもぞと動いて、体を仰向けに直す。

 曇っていた空は、すっかり快晴になっていた。目に飛び込んでくる太陽の光に、龍二は目を細めた。

 それと同時にもはや扉の体裁を成していない扉から、アルビオン親子が飛び込んできた。



「リュージ!」

「ア、アリス、か」

「大丈夫!? 何があったの!? それに、さっきの光って――」

「まて……いろいろ聞きたいことはあるだろうが、ケビンがまずい、ルイス……俺はまだ大丈夫だから、頼む」

「分かった!」



 ルイスは片腕を失ったケビンのもとへ駆け込んだ。

 その両手から放たれる白色の光、多分あれが治癒魔法なのだろう。

 そういえば自分でもお世話になったのに、見るのは初めてだった。

 アリスが見ているのは、地面に倒れ付したまま動かないアロマのほうだ。



「リュージ……アロマは――」

「もう大丈夫、だと思う」

「流石ですなぁ」



 聞こえてきた声に龍二はとっさに立ち上がろうとしするが、全身に走る痛みに耐えかねて虫のようにもぞもぞ動いただけだった。

 もう無理だ。流石に気合いではどうしようもない段階にいるのだと嫌でも理解させられる。



「ご安心を、私ももう動けません」

「安心できると思ってんのか」



 アロマはもはや会話をする気は無いようで、痛みをこらえるように笑うと、何の気なしに喋り始めた。



「……リュージ殿、こんなときですが、頼みがあるのです」

「ああ?」

「動けるようになってからで構いません――殺してくれませんか」



 龍二は視線だけアロマに向ける、他に動かせる所がないのだ。

 アロマは仰向けに転がり空を見上げながら続ける。何か吹っ切れたような、思い残すことは無いとでも言いたいのか、晴れやかな顔で空を見上げて、



「都市を裏切り、裏切ってまで求めた目的も達成できませんでした。もはや生きている意味もありません」

「なんで俺が――」

「怪物に止めを刺すのは勇者の仕事でしょう?」

「…………」

「あなたのおかげで、都市の被害は最小限ですんだ。後は私が死ねば、きっと皆さん納得してくださるでしょう」



 殺してください、とアロマは掠れた声で言った。

 龍二は返事をしない、する必要はないと分かっているからだ。

 首だけをアリスに向けて、今日最後のお願いをする。



「アリス、悪い、重たいと思うが肩貸してくれないか」

「……リュージ、あのね――」

「大丈夫、大丈夫だ」

「……うん」



 龍二がアロマのところに向かうまで、随分時間がかかった。

 半分引きずられる形で、歯を食いしばってアリスは龍二を運んでくれた。龍二はなんとかアロマの横に腰かける。

 アロマは覚悟を決めたのか、目を閉じていた。



 龍二はボロボロになった上着を脱ぐとアロマの下半身にかける。



「リュージ殿?」

「白昼堂々下半身晒しといて殺してくださいだ? 冗談としちゃ面白すぎるぞ」

「私は本気で――」

「甘ったれんな!」



 もはや叫ぶことすら面倒な体に今日はこれで最後だからと、鞭を打って龍二は叫ぶ。自分の三倍は年齢を重ねている人間に怒鳴るのは不思議な感じだった。

 怒鳴られた本人は納得できないのか、悲痛な顔を龍二に向けてくるが知ったことではない。



「人間は、掛け替えのないものを、絶対に失っちゃいけないものを失ったって、それでも生きていくんだよ――生きていかなくちゃいけないんだ」

「何故です……」



 答えるのも面倒だ。龍二は無言で指をある一点に向けた。

 アロマが見たそこには、今にも破裂しそうなほど頬を膨らませ、大きな瞳いっぱいに涙を溜めるアリスの姿があった。



「アリス様……」

「アロマのばか!」

「……申し訳ありません、私はあなた達を裏切って――」

「違うわ! なんで死ぬなんて言うの!」



 アリスはアロマの顔を上から覗き込む、温かい滴が、その頬に垂れた。それは次から次へとアロマの頬を濡らす。

 その一滴一滴にアロマの心で固まっていたものが揺らいでいくのが、見ているだけで分かった。



「なんでこんなことしたの!なんで黙ってたの!なんで――なんでよ、お爺ちゃん!」



 アロマに目の端にも滴が浮かぶ、あるいはそれは降ってきたアリスの涙かもしれなかった。



「なにか理由があったなら、なんで言ってくれないの! 私たち家族でしょ!」

「……ごめんな……ごめんなあ、アリス」

「死んじゃだめなんだから! みんなにごめんなさいってして、みんなにいいよって言ってもらえるまで、生きてなきゃだめなんだから!」



 気が昂っているのか言動がいつもより幼い、だからこそ心に飛び込んでくる。一切の取り繕いがない思いは、最短距離で伝えたいことを送るものだから――。

 もう今度は間違いなくアロマの眼から涙が落ちる、それは止まることなく、アロマの下に温かい水たまりを作っていく。



「それで、皆にいいよって言われたら、一緒に生きようよ、お爺ちゃん」

「うん、うん……」



 顔をぐしゃぐしゃにして泣き崩れる二人は、きっと今本当の意味で家族になったのかもしれなかった。

 血が繋がっているからといって家族になるわけじゃないと龍二は知ってる。それはもっと別の、約束ともいえる何かで繋がっている関係のことだ。

 命よりも大切な、それこそ忘れたら生きていくことさえままならないほどの――。



 アロマには家族がいる。他にどんな理由があろうと、その一点だけでも龍二は彼を殺すことはできない。

 それに龍二にはもう一つアロマを殺さない理由がある。それはきっと伝えれば笑われてしまうほどささやかな理由。龍二の新たなポリシー。



 勇者は皆を幸せにするものだと、そう思っているから――

 だから誰も殺さないのだ。誰が何と言おうと、これから先もきっと。

 一人空を仰ぐ龍二の耳に、涙にぬれたアロマの声が飛び込んでくる。


「リュージ殿」

「ん?」

「感謝します」

「――ああ、それなら礼代わりに訊きたいことがたくさんあるぞ」

「はい、傷が癒えた暁には――あぐっ!?」



 アロマの顔が突然歪む。

 不審に思った龍二は、傍らに転がっているものが光っているのを感じた。

 アロマが姿を変えるのに使っていた、あの石だ。

 その輝きが増すと共に、アロマの痛みは強くなっていくようで、直視できないほどの光度になったとき、アロマの絶叫があたりに響き渡った。



「アロマ!? おいアロマ!」

「お爺ちゃん!?」

「ぐああああ!! あぐう!! リュージ、殿ぉ……」

「なんだ!?」

「ま、魔王様の……実験は、もう……始まって、しま、いました」

「魔王? 実験? おい! 何の事だ!」

「これ、からは、ジャンクスピリット、の被害者が各地に、出るでしょう。あな、たはもう、逃げ、られない、この、実験、の、最も重要な、役割を担わされて、いる」

「ジャンクスピリットってこの石か?実験の役割って何なんだ!」

「あ、ぐ、むが、ががががががっがががががががぁっ!!!」

「分かったもう喋るな、おいルイスそっちはまだ終わらないのか!」

「やだ、こんな……こんなのやだぁ!」



 取り乱すアリスの頭をアロマは優しく撫でる。

 それは孫をいつくしむ祖父そのものだった。それが最後の力を振り絞ったのだと、直後に知らされる。

 ――断末魔の様な声をあげて、アロマの手が地面に落ちる。



「アロマ? おい、起きろ! 起きろアロマァ!!」



 全てが終わった。

 終わりがいつでも爽快感を伴うわけではないと、たいして長くもない人生で十分わかっていたはずなのに、龍二は叫び続けた。

 こんな結末は認められないと、叫び続けた。

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