アルビオンの24

 全身を襲う痛みで、龍二は目を覚ました、どうやらケビンの攻撃の余波で吹き飛ばされて数秒ほど気を失ったようだ。

 身体だけを起こしてあたりを見る。

 その光景に、改めて魔法と言うものがいかに埒外であるかを実感する。玉座は天井がなくなり、壁も吹き飛び、広大な床を残して吹きさらしになっていた。雨が降ったら寒そうだ。

 ふと横を見ると、斬撃の切り口が見え、それが地上まで続いているのを見てもう苦笑いしか出なかった。



「何を笑っているんだい、頭を打ったか?」

「お前のせいだよ……ルイスたちは?」

「ちゃんと安全な場所まで送り届けたさ――まあアリス様が君を心配していたからね、もしかしたらすぐにここまで来るかもしれないが」

「……まぁ、その前に終わってよかったってとこか」



 返事もせずに瓦礫をどかしている騎士をはたいてやろうと、立ち上がろうとするが、予想以上に披露が溜まっていたようで、尻もちをついた状態のまま体が動かない。

 龍二は素直に近くで瓦礫を持ち上げてなにかしているケビンに向かって声をかけた。



「おい、肩貸してくれ」

「少し待っていてくれ、どうせすぐにルイスさまのところに連れていくよ」

「少しってお前人ごとみたいに……さっきから何やってんだ?」

「怪物とはいえ元はアロマだ、体の一部だけでも回収してあげた――」



「なかなかの一撃でした」



 声が、聞こえたのが先か、割れ目から何かが飛び出してきたのが先か、結果として龍二の眼に映ったのは空高く吹き飛ばされるケビンの姿だった。

 なにが起こったのか分からず呆然としているうち何か生温かい、粘ついた液体が顔に降りかかる。口に垂れたそれはきつい鉄の味がした。無意識に拭うと掌が真っ赤に染まる。



 そこまでの動作が終わったとき、ようやくケビンが空中から戻ってきた。ずいぶん高く飛ばされていたのだなと、頭の隅で場違いにのんきな感想が思い浮かんだ。

 落下音は二つ、ケビンと、ケビンの左腕だ。肩口から噴き出す血を浴びて、龍二は我に帰り、のどが張り裂けるほどに絶叫した。



「うぉ、あ、うあああああああああああああ!?」

「素直に認めましょう、とても痛かったです、これでお相子ですよ」



 悪魔は健在だった。無事とは言い難い。五つの爪を備えていた左腕は肘から切り落とされており、そこから緑色の血が流れ続けている。

 ――それでも、悪魔は健在だった。



 だが龍二にそれを気にしている暇はない、動かない体を無理に動かし、ケビンに駆け寄る。

 慌てて胸に耳を押し当てれば、確かな鼓動を感じた。

 まだ生きている。だが時間の問題だろう。龍二は身に着けていた胸当てを引き剥がし、下に着ていた服の袖を破るとケビンの肩をきつく縛った。これが出来ることの限界だ。魔法が使えないなんて当たり前のことを心の底から呪った。



 頭上から、悪魔の声が降ってくる。



「無駄ですよ、どうせ遅かれ早かれみんなそうなります」

「黙れ! 黙ってろ!」

「見苦しい、もう終わらせましょう」



 足のけがと底を尽きた体力のせいで、悠々と近づいてくる悪魔から距離をとることも、もうできない。

 それでも、諦めるわけにはいかない、龍二は蹲った状態から思い切り地面をけると、飛び込むような形で、握った拳を悪魔に突き出した。



 ――それが悪魔に突き刺さるよりも早く、右手の塊が龍二をごみきれのように吹き飛ばした。

 味わったこともない衝撃が体中を襲う、内臓がかき回されているのではないか、龍二はそう錯覚した。肺が痙攣して呼吸もままならない。



「あ……ぐ、がぁ……」



 ゆっくりと近づいてきた悪魔が、頭上から覗き込んでくる。

 悪魔は、淡々と龍二に確認を取った。



「もう、降参しませんか……そうしたら、終わらせてあげられる」

「ふざ、けろ……誰も、殺させたり、しない……!!」

「そうですか」



 そこからは一方的に寝ころんでいる龍二に悪魔が右手を振り下ろすだけだった。龍二が覚えているのは三発目まで、人間の体はここまでされても原型を保つことができるのだと我ながら感心した。

 どれだけ時間が過ぎたのか、あるいは時間はそこまで過ぎていないのか、朦朧となった意識で龍二は悪魔が遠ざかっていく足音を聞く。



 逃がすわけには、いかない。

 もう動けないはずの体で、這って進む。

 進んでいるのか、いないのか、霞んでしまった視界では、それすらわからない。

 だが長い時間をかけて進んだ先で、龍二の指先に何かが当たる。

 ごつごつした、岩のような何か、殴った龍二にはわかった――これが悪魔の足だと。

 龍二は、我武者羅にその足を掴んだ。足から生えている鋭利な突起が掌を切り裂くが、それでも龍二は離さない。



「……なぜここまでするんです。あなたはこの世界の人間じゃあない。ここまでする義理なんてないはずでしょう?」



 それは、確かなことだろう。

 龍二に、命を懸ける義理などない。

 どのタイミングで逃げ出しても、だれも龍二を責めることなどなかっただろう。

 それでも、戦う理由があるとすれば――。



「……誰も……死なせたくない……もう、誰も、姉貴みたいに……」

「――もう、意識もないようですね」



 虚ろな瞳でぶつぶつと呟く龍二に、悪魔は緩やかに首を振ると、龍二の手を振り払った。

 悪魔は、右腕を大きく振り上げた。

 その光景が、龍二にはいやにスローモーションに見えていた。



 ――これで、終わりか。



 何故だか冷静にそんなことを考えていた。

 自分はこの世界で死んでしまうのだろうか。それは別にいい、どこでどのタイミングで死んでも、文句が言えないような生き方を今までの自分はしてきた。

 流石に化けものに殺されるとは思っていなかったが、それも仕方ない



 だが――

 龍二の脳内に小さな痛みが走った。

 あの悪魔はこれからどこへ向かおうとしているのか。龍二たちを殺して、この都市を破壊するといったあいつは、次に殺すのは誰だろうか。

 ルイスか、アリスか、住民か、帰ってくる騎士団か、誰かは分からない。その誰かは何か悪いことをしたのだろうか。

 怪物に、殺されなければならないような、切り裂かれなければ、潰されなければ、恐怖させられなければ、いけないような何かをその人はしたんだろうか。



 ――いない、そんな悪人は、死ななくてはいけないような極悪人には、龍二はこの街では会っていなかった。

 この街の住人は、子供の幸せを喜べる人たちだ。この街の騎士団は、市民のために躊躇いなく戦場に向かう人たちだ。この街であった全員が、人の誕生日を祝える人たちだ。



 なぜその人たちが、死ななくてはいけない。そんなのは間違っている、正しくない、そんなのは――



「理不尽だろ……」



 途端に、龍二の体を何かが支配しようとした。

 龍二は思い出す、ケビンと戦った時、自分の意識がなくなる直前、感じていたのはこの感覚ではなかったか、だとすれば自分が求めているのはこの先――



 ――赤いもや、ケビンを一撃のもとに沈めたその力なら



 何でもいい、守れるのなら何でもいい。赤いもやだろうと、この心に広がるどす黒い感情だろうと、皆を守れるなら何でもいい。

 どんな一線だろうと踏み越えてやると龍二は感情を押さえつけずに解き放つ。

 この力を使って、あいつを、あの悪魔を、完膚なきまでに、粉々に、ちり一つ残さず、殺――





――いけない――





 突然、目を開いていられなくなるような光が視界を奪った。

 心に満ちかけた黒いものを払い飛ばすような、そんな声がどこからか聞こえる。同時に龍二は違和感に気づいた。

 ――痛みがない。感じていた苦しさも消えている。恐る恐る瞼を開ける。



「ここは――」



 見渡す限りの白一色――。

 覚えている。ここは龍二が元の世界からこちらへ来てしまった時に通った道だ。

 なぜ今自分はここにいるのか、もしかして死んだら帰ることだ出来るという仕組みだったのだろうか。

 そんな都合のいい展開はさすがに想像できないが……。



 それくらいならもうひとつ可能性が、最も大きな可能性が残っている。

 もう死んだのかもしれないというものが――

 意外と現実味のあるその考えに龍二は顔を青くした。しかしその考えはすぐさま否定された。響いてきた声があったからだ。



――ごめんなさい――



「この、声……」



 忘れもしない、龍二をこの世界に招いた声だ。

 あの時もこうやって謝っていた。当時の龍二にはなにも理解できなかったが、今なら分かる。根拠はないが、なんとなく自分の推測があっている自信があった。



「あんたが、女神なのか」



――ごめんなさい――



「何を謝ってるんだ、俺は訊いてるんだぞ!」



――ごめんなさい、誰よりも優しいあなたを、巻き込んでしまって――



「……優しい?俺がか」



――こうするしかなかったなんて、聞き苦しい言い訳だって分かってる。でも私は、この世界が好きだから、心の底から大好きだから、だから、ごめんなさい――



「……」



――こんなことお願いできる立場じゃないって自覚してる、してるけど言わせて、この世界を救って――



 龍二はため息をついた。次いで湧き上がってくるのは呆れに近い何かだ。

 女神ともあろう者が、ここまでの人選ミスをするとは思ってもいなかったからだ。

 堪えきれない苦笑を、それもあきらかな嘲笑を浮かべながら、龍二はどこにいるのかもわからない女神に話しかける。



「いいか女神さん、俺はな、あんたが思ってるような人間じゃない、いっぱい人を傷つけて、いっぱい人を悲しませて、それでものうのうと生きてるようなやつなんだ。言うに事欠いて、そんな馬鹿に世界を救えだ? 見る目がないにもほどがあるぞ」



 一度堤防が崩れた口は、相手が神だということも忘れさせた。

 だが全てが全て偽らざる龍二の本音だった。目を閉じれば生まれてから今までの二十五年間が容易に思いだされた。孤独と暴力にまみれ、伸ばされた手を、振り払ってきた時間を――。



 ――そうやって生きた結果、姉を死なせたあの時から、自分が幸せになる資格のない人間だということは、誰よりも知っているつもりだ。

 だから、これは明らかな女神のミスだ。

 何故なら――。



 勇者と言うのは――。



 ヒーローと言うのは――。



 皆を幸せにする人のはずだから、世界をあったかいもので満たす人のはずだから――。



 だから龍二に、務まるはずが――。










 ――貴方ならできる――



 心臓が止まりそうになった。

 あまりにタイミングが良かったから……。

 ――だがその言葉は、龍二にとっては一番言われたくない言葉だった。

 歯が砕けそうになるほど食いしばって、龍二は咽が張り裂けんばかりに叫ぶ。



「お前が俺の何を知ってる!? 俺は碌でなしなんだ! この先何をやったってそれは変わらない! ごみがどんな善行積んだってごみなんだよ! 俺に人を幸せにすることなんて――」



 こみあげてきた思いが抑えきれない、いつもなら我慢がきくのに、全てを吐き出したくてたまらない。堪え切れない思いを叫びにして相手にぶつける。まるで子供だ。自身の情動すら御せない愚かな幼子だ。

 それでも、聞こえてくる声は変わらない。



――絶対に、できる――



 なぜだろう、こんな言葉いくらでも言い返せるはずなのに、何の言葉も出てこない。

 ありきたりな慰めに、罵倒で返してやりたいのに、そうすると自分の大事にしてきたものが全てなくなってしまうような気がして、今立ち上がる気持ちすら消え失せてしまいそうな気がして、龍二には何も言えなかった。



 それどころかこの声に心地よさすら感じて、龍二は知らないうちに涙を流した。止まらない、涙を流すのは嫌いなのに――



 自分の思いを肯定していいのだろうか。

 こんな罪人の自己満足を肯定していいのだろうか、自分の生きる価値すら見いだせないような奴でも心の底から何かを望んでいいのだろうか、もしそれが許されるのならば――



「俺は、守りたい」



 口から洩れた言葉は心のどこにあったものか。

 龍二すらも知らない引き出しに閉じ込められていたそれは、鍵を壊し、内側から強引に引き出しを開いて出てきた。もう誤魔化すことはできない。



「たった一か月しかいなかったけど、皆と一緒に生きたから、俺は、この世界を守りたい!」



 返事はすぐに返ってきた。愛しさと喜びと、ほんの少しの憐憫を込めたその声は、空間に溶けていくような柔らかい音だった。



 ――ありがとう、最後に一つだけ――



 不意に龍二は何かに抱きしめられているような感覚を覚えた。

 さっきからまるで本当に子どものようだ。こんなことで安心感を覚える自分はどこかおかしくもあったが、抗いがたい温かさに瞳を閉じる。瞼の上からでもわかる眩しさは、徐々に光度を上げていった。



――誰かを傷つけるということは、あなた自身が傷つくということ――



 それは、警告のようでもあって、



――忘れないで、忘れないで、あなたの道を、生き方を、忘れないで――


 懇願のようでもあって、


 忘れないで――。



 願いのようでもあった。



 この空間の終わりを感じる。

 最後に一つ、あの声に対してか、それとも自分自身にだろうか、龍二は呟いた。それは誓いだ。この先何があろうと決して曲げることない、曲げることのできない一つの約束。



「忘れない、絶対に」






※   ※   ※   ※





 戻ってきた。痛みが覚醒を実感させる。

 目覚めとしては最悪の部類に入るが、そんなことを意識している暇もない。まだ頭に霞がかかっているような感覚が抜けないが、幸いさっきまでと違うことが一つある。それは体が動くということだ。



 手足に力をこめ、自然な動きで立ち上がる。

 空にかかる雲が、とても邪魔なものに感じた。これから気合いを入れて戦うのだ、空がこれじゃあ、盛り上がらないってものだ。



「まだ起き上がれるとは、しかしもう終わりにしましょう、あまりに気の毒だ」



 悪魔はそんな龍二を見て、右手を振り上げたまま驚きの声を上げる。

 もはや龍二は動かなかった。動けなかったのではない、動かなかったのだ。その違いに気づかない悪魔は、振り上げた右手を力任せに振り下ろす。

 ――頭に向かってくる一撃を、龍二は両手で受け止めた。



「なっ!?」



 受け止められるとは思っていなかった悪魔は完全に動揺していた。

 上手く働かない頭に、一つの言葉が浮かんでくる。

 龍二にはその言葉が何なのかわからない、何の意味があるのかも何故浮かんだのかも理解できない。それでもただ一つ、分かることがある。

 この言葉は、希望だ。龍二の願いを叶えるための、希望の力だ。



 ――ありがとう、本当に



 どこにいるのかもわからない誰かに感謝の言葉を捧げる、龍二がこの世界に来たことを無駄にしなかった何かに――。

 悪魔を見るその瞳にはようやく元の光が戻ってきていた。

 理屈などどうでもいい、俺には既に分かっている。

 圧倒的な確信を持って、龍二はその言葉を口にする。



素手喧嘩魂ステゴロソウル!」



 その瞬間龍二の体から途轍もないエネルギーが放出された。

 体から立ち上った光は、天まで届き、空にかかっている雲まで晴らした。

 生まれた雲の切れ間から差し込んだ太陽が、龍二を照らす。

 悪魔の方向からは、龍二が太陽を背負っているかに見えた。

 悪魔は落ちくぼんで無くなったはずの瞳を細め、蹂躙する対象でしかなかった生命の輝きに目を奪われている。



「そうか、これがあなたの――」



 光が治まったとき、そこにはぼろぼろのままの龍二が立っていた。

 だが明らかに違う、銀色の陽炎を体から立ち上らせる龍二は、まっすぐな目で悪魔を見据えていた。



「もう誰も、傷つけさせたりしない、もう誰も、泣かせたりしない! ――それでもお前が止まらないってんなら――」



 龍二は悪魔に向かって拳を突き出す。

 それは改めて示される、戦いの意志――宣戦布告に他ならない。

 意志は、声となって龍二の喉を、魂を震わせた。



「――先に俺を、倒してからにしろ!!」



 傷だらけの体で悪魔に挑むその姿は、希望を捨てずに、脅威から目を逸らそうとしないその姿は――間違いなく物語に出てくる英雄そのものだった。

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