アルビオンの2
コツン、と音が響く。
無意識に一歩下げてしまった足が、地面とぶつかった音だった。
地面だけではない、視界いっぱいに広がるのは石造りの町並み。
そこが何処であるかは全く分からなかったが、大きな通りであることは分かった。
だがきょうび日本でこんな古風な通りは見たことが無い。
龍二は驚愕のあまり呼吸を忘れた。自分は数分前まで会社のまえにいたはずなのだ。だが彼の視界に映るのは明らかに外国の風景だった。
少なくとも視界に映る人ごみの中に日本人らしき人種はいなかったし、何よりも服装が日本のものじゃない。
龍二は岩永に付き合わされて、一緒にやった有名なRPGの町を思い出していた。
「ちょっと、立ち止まってるんなら退いてくれない?」
突然正面から聞こえた声に下を向くと、自分の腹くらいの身長の少女が立っていた。背中に届く金髪と、翡翠のような透き通った緑色の瞳――通りの人々と同じ、明らかに日本人ではない。
それにまだ幼い、十歳くらいじゃないだろうか。
一見男の子のようにも見えるオーバーオールを着た少女は、流ちょうな日本語でリュージに文句を言っていた。
そう言われて初めて龍二は自分が立っているのが建物と建物の間――路地の入口にあたる場所だと気づいた。
「あぁ、すまない」
「大通りで立ち止まってると怪我するわよ、まぁお兄さんならさせるほうかもしれないけど」
「……ちょっと待ってくれ」
「何? 私今急いでるんだけど」
あからさまに機嫌が悪くなる少女、年下の少女の横柄な態度にも龍二は引かなかった。
通りを見渡す限り、言葉が通じそうな人間は少ないような気がする、このやけに日本語が達者な少女を逃がすことはできないのだ。
「すぐに終わる、一つだけ聞きたいことがあるんだ」
「さっさと言って」
「あー、なんて言えばいいのか」
何から聞けば、むしろ何を聞けばいいのか分からない。龍二はまだ混乱から立ちなおることさえできてないのだ。とっさに話しかけてきた彼女に声をかけたは良いものの、その後の行動につながらない。
「……お兄さんもしかしてナンパ?」
「なに?」
「それなら全くセンスないから止めた方がいいわよ」
「違う、ナンパじゃない」
「それならさっさと要件言ってよ、私急いでるんだから」
「あ、あぁ」
年の割にてきぱき喋る少女に龍二は完全に押され気味だった。
とにかく端的にまとめよう、今自分が一番聞かなければならないこと、今の自分の状況、それを端的に表す言葉、考えた末龍二はたった八文字を言葉にした。
「ここはどこなんだ」
「……大通りだけど」
「ああいや、そうじゃ無くて、俺にも良く分かって無いんだが――」
煮え切らない態度だと自分でも思うが龍二もこれ以上の質問が思いつかなかった。
そんな龍二にいぶかしげな視線を送っていた少女は、ふっと慈愛に充ち溢れた表情で、背伸びをして龍二の肩にポンと手を置いて、ある方向を指さした。
「良い? あっちが病院だから――」
「待て、頭がおかしいわけじゃない」
「おかしい人は皆自分はおかしくないっていうのよ、大体何よここはどこなんだって、そこにいるってことはそこまで歩いて来たんだから分からないわけないじゃない!」
「普通に考えればそうなんだが、普通じゃないことが起こったと言うか……」
「もう! 何度も言わせないで、私は急いでるの! 妄想だかいたずらだか知らないけどよそでやって!」
それだけ言うと少女は歩いて路地の奥へと向かって行った。龍二は一歩も動けず、その後頭部に揺れる金色の馬の尻尾を呆然と見送っていたが、あまりといえばあまりな事態に壁に背を着けて座りこんだ。
街をゆく人々がちらちらと龍二に向ける奇異の視線すら無視して、空を見上げる、太陽だけは変わらず龍二を照らし続けていた。
「とにかく、立ち止まってもしょうがないな」
とりあえずここにずっといても埒が明かない、誰でもいいから事情を説明して助けてもらおう、立ちあがって適当に歩いている人物に――
路地の奥から、甲高い、悲鳴が聞こえた。
龍二は反射的に声のした方へ走った。女の子の声だ。
そしてこのタイミングで聞こえてきたということは――
「離して、離してよ!」
やはりというべきかついさっきまで龍二が話をしていた――ほぼ一方的に罵られただけだが――女の子が、男に掴まれた腕を振りほどこうと必死にもがいていた。
「本当に一人で歩いてるとはなぁ」
「誰かぁ! 誰か助けて!」
「おい! 口ふさげ! 人来ちまうだろ」
「分かってるよ!」
男は、いや、二人組の男達だ。片方はターバンのような布を頭に巻きつけている。
ターバンが少女を肩に担ぎあげると、もう一人――頬に傷のある男――が慣れた手際で手足を縛り猿轡を噛ませた。最早悲鳴を上げることすら封じられた少女は瞳に涙をためながら息をもらすことしかできなかった。
「馬車は?」
「すぐ向こうに用意してある」
少女はその言葉に深く絶望した。乗り物に乗せられるということは、男たちは明らかに長距離を移動するつもりなのだろう。そうなればもう見つけてもらえないかもしれない。
思う通りになってたまるかと、暴れ続けていた体から力が抜け、心は蛇に睨まれた蛙のように、もう萎縮しきっていた。
――誰か、助けて
都合のいい妄想だと分かっていても、自身を追い詰める絶体絶命の危機に、少女は助けを求めた。
幼い頃読んだおとぎ話のように、捕らわれた姫を助けに来る英雄が現れることを――
世界はいつだって都合のいい想像を嫌う、甘い夢を見ていても、いつかはたたき起こされる。
英雄など、いない。
「おい、何やってる」
だがこのとき、この瞬間、世界はそのおとぎ話を受け入れた。
涙でぼやけた少女の視界にかろうじて映ったのは、見たこともない衣類に身を包んだ奇妙な男だった。
※ ※ ※ ※
間に合ったことに内心安堵した。出会って数分とはいえ、一回顔見知りになってしまった以上攫われましたでは後味が悪い。
そしてその少女を抱えている誘拐犯二人組はというと、
「あー、お前がちんたらしてっから」
「うるせえな! しょうがねえだろ見つかっちまったもんは、がたがた言うな――」
抱えていた少女を適当に壁際に投げ捨て、面倒さそうに二人は龍二に向き直った。
全く焦るそぶりのない、後ろめたい場面を見られたはずなのに落ち着いている男達を見て、龍二はいやな予感を高めていった。
その直後、予感はいともたやすく的中した。
「――どうせ殺すんだから」
「違いねえ」
男達は自然体で懐から刃物を取りだした。
それは龍二をとっさに構えさせるには十分な脅威だ。
赤黒いシミが目立つそれを見るに、日頃から使いなれていると見た方がいいだろう。
「おいおい、素手でやるつもりか?」
傍から見れば明らかな蛮行に、男のうちの一人が鼻で笑う。
リュージはそれに構わず、拳を高く上げたままどすの利いた声で言い放った。
「――来るならさっさと来い、来ないなら消えろ」
「ちっ、余裕ぶってんじゃねえぞ!」
急に投げ捨てられた痛みに苦しんでいた少女は、龍二のほうに目をやると大声で唸り始めた。
早く助けろとでも言いたいのか――
否、その目を見れば分かった。
武器も持って無いのに何をやってるんだと、さっさと逃げろと、言葉にしなくてもメッセージだけは届いた。
届いたからこそ――
「子供は余計な心配しなくていいんだ、おとなしく見てろ」
龍二はそう言った。この状況で自分以外の心配ができる子どもを見捨てて逃げたら、明日から日の下を歩く資格は無くなるだろう。誰が違うといっても自分がそう思うのだ。
大きな緑の瞳が零れおちんばかりに目を見開いた少女から視線を切り、再度男達を睨みつける。
ターバンは下卑た笑みで、手にしたダガーを振った。
「最後の言葉はそれでいいんだな」
「それはこっちのセリフだ、もっとも、こんな誰にでも見つかりそうな場所で誘拐なんざ狙う、小悪党らしいセリフだけどな」
「いけすかねえ野郎だな!」
二人の男達が先に、同時に動いた。
凄まじいスピードで駆け出したターバンは、一直線に、持っているダガーで、龍二の喉元を狙う。
それを捕らえていた龍二はカウンターで右拳を突き出した。
「おせぇんだよノロマ!」
しかし、その拳すら見切ったターバンは、勢いを殺さずその頭部に刃を突きたてようとする。
龍二は半歩ずれてそれをかわすと、その腕を掴んで力任せに壁へと投げつけた。
「くたばれ馬鹿力がぁ!」
そのタイミングで、背後に回り込んでいた傷の男が龍二に斬りかかる、龍二は瞬時に回避できないことを悟り、ダガーが振り下ろされる前に背中からぶつかった。
タイミングを崩された男がたたらを踏んでいる隙に、その鼻っ柱に肘鉄を食らわせる。
完全に体勢を崩した男に、振りをつけた右フックをたたき込む。
きれいに吹き飛ばされた男はもう白目をむいていた。
「くたばんのはテメエだチンピラ」
同時に、背後からの殺気、壁に投げつけられて倒れていたはずのターバンが、猛然とナイフを突き出しながら、走って来た。
龍二はこの二人のコンビネーションに内心舌を巻いていた。
一見二人同時に来た方が良いように思える、しかしこの二人は、龍二が最も片方に集中しているタイミングで襲いかかって来る。
見事な波状攻撃だ。現にこの突き出されたダガーも恐らくかわせない。軌道の先にあるのは自分の心臓、普通なら動けなくなるその状況で、龍二は迷わず足を振り上げた。
あと数ミリで、龍二の肌をダガーが突き破り、その中の赤い臓器を傷つけ、血と命を溢れさせる――
しかしその数ミリが埋まる前に、龍二の爪先が、ターバンの顎を蹴りあげた。
そして攻撃はそこで終わらない、強制的に上を向かされたターバンの顔面に手刀、鈍器で殴られたような衝撃がターバンを襲う。
「がっ! ぐぶぅ」
地面に叩きつけられたターバンは、口と鼻からダラダラと血を流し、蹲った。歯も数本折れていし、鼻は軽く陥没していた。
「もう終わりだ、諦めろ」
龍二は動けなくなった男達を無視して、倒れている少女のもとへ向かおうと――
「ぐぅごおおおおおおおおおお!」
絶叫、白目をむいていたはずの傷の男が、勢いよく立ちあがって駆け出した。
ターバンもそれが合図の様に、最後の力を振り絞り、同じように龍二めがけて駆け出す。
方向転換していた龍二はちょうど左右を挟まれた形になった。満身創痍の身で、それでいて尚鬼の形相で自分のもとへ凶刃を届けようと駆け込んでくる二人に対して、龍二は苦々しく呟いた。
「認める、お前らはプロだよ」
左右から突き出されるその腕をつかみ、勢いを殺さないまま、先にあるダガーをお互いの肩に突き刺した。
上がる二つの絶叫。龍二は二人の男の頭を掴む、痛みにもがく二人はそれを振りほどくすべがない。その両手に万力の様な力が加わる。
「おぉぉぉぉらぁっ!」
それを解放するように、龍二は力の限りで二つの頭をぶつけあわせた。骨に伝わった衝撃が鈍い音に変換されて路地裏に響き、今度こそ立っている影は一つになった。
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