水天墜落(ヘレ)

 あこがれがわたしを突き落す。

 たぶん一瞬、ひとまばたきの間は浮いたのだと思う。はらわたがぐんと持ち上げられるのがわかるのだからきっと、髪も、まつげも、スカートも浮くのだ。この爪先まですべてが宙に浮き、わたしたちは手を伸ばし合う。掴まろうとして、繋ごうとして、爪先があなたの手に引っ掻き傷を一筋もたらして、そしてわたしは落下する。わが髪の毛先だけがあなたのほうを向いている。

 雲を突き抜けてゆくわたしを、あのひつじは追ったりしない。手綱などついてはいない。落ちそうにこちらに乗り出して手を伸ばすあなた、叫ぶあなたが遠ざかってゆく。吹き上がる風に乗せて、わたしはさようならと答える。さようなら。一言の間にまた落ちて、あなたの目鼻もわからなくなる。きっとあなたも。オリュンポスも見えそうな高さを離れ、黄金の輝きが点になる。

 そしてわたしは鳥よりもはやくはやく、重力加速度でもって落ちてゆく。わたしのながい死がはじまる。体を翻せば、眼下にきらめく海に向かって。凪いだ海面は平らに大地のようにわたしを待つ。

 大地のように、空のように。鏡写しのもう一つの太陽が、さざなみに乱されて円形を崩す。雲が落とすささやかな陰影が、ときどき光を隠す。青を映してどこまでも空に近いそこへ、わたしは今落ちてゆくのだ。

 認識。本能的な怯えと畏れが腹の底をきゅうと縮ませる。ひたいの辺りに気持ちの悪い疼きがある。びょうびょうと鳴る風の静寂。他の音が奪われて、わたしの声も拐かされて、スカートの裾が狂ったようにはためく音も、攫われて聞こえない。全てが消える。ここにあるのは水天と、墜落していくわたしだけ。

 増してゆく、速度が空気を凶暴化させていく。潮の匂いが冷たい痛みで、わたしを殺しそうに肺を灼く。暴力的に気管をなぶる。胃まで到達して体を膨らす。蛙のように。痛みに滲む涙は雫にもならずに吹き散らされて消える。体温はとうに感じられなくなっている。夢想とはぜんぜん違った、落下劇だ。

 と、バランスを崩した。一直線に空を貫く落下が乱れた。スカートが体に巻きつく、錐揉み状態。頭が揺さぶられ、五体が引き裂かれそうに叫ぶ。けれど海面はまだ遠い。あれほど美しい海が、残酷にも遠すぎる。この死は、長すぎる。この苦しみは。あまりにも速いのに、この速さでさえ足りない。高すぎて遠すぎて届かない。

 声さえ凍る寒さの中で、わたしはデウスに祈る。あなたの哀れみがまだあるのならば、その雷霆でもってわたしを塵に還してほしいと。過ぎた熱量でもって灰も残さぬよう消して欲しいと。けれど彼の好意を無為にしたわたしを、彼はとうに見限っている。

 意識は、意識だけは、はっきりしている。遠のきかけては取り戻す。はやく手放したい苦しみの波が拷問に似てわたしを許さない。冷たさは痛みに、痛みは苦しみに、苦しみはやがて痺れに。喘ぐこともできぬ罰。

 はやく離れたかった。この死は長すぎた。はやく海に迎えて欲しかった。この高さと速度でもってきっとその海溝まで届くと思った。どうせ死ぬならば海溝の神秘に届きたい。そしてその諸手でわたしを抱きしめて溺れさせて欲しかった。

 けれど海は一枚岩の硬さでもってわたしを拒んだ。わたしの五体ははじけてとんだ。

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