ペルセウスの偉業

「メドゥーサは分かるわね?」

「分かるわよ」

 私はぼんやり答えた。そのくらいは聞いたことがあったが、神話にはあまり興味を持てない。

「ペルセウスは? メドゥーサを退治した英雄」

「……名前は覚えてない」

 私はホテルのベッドの上。もう夜。移動に疲れ、潮風さえも締め切った部屋だ。けどマキは旅行慣れしているからか、けろりとしてパンフレットやらガイドブックやらをめくっている。

「名前だけじゃなくて、メドゥーサを退治したってこと以外のこと知らないでしょ。ペルセウスは他にも色々な冒険を成し遂げた英雄なんだよ」

 それが旅行となんの関係があるのか。訝しんでいるのがばれて、けれど彼女は鷹揚に笑う。

「この港町は、かのペルセウスが王女アンドロメダを救い出した舞台の海に面する、伝説の地なのです」

 自慢げに言ってガイドブックのページのどれかを差し出してみせる。たぶんペルセウス神話の一節を紹介するコラムかなにか。仰々しい文面を目が滑って、私は再びぼふりと枕に伏せた。

「本当に疲れちゃったのねえ」マキは笑っている。ほんとうに人がいい。「まあ聞いてよ、明日見に行く場所の話をするんだ」

「んー」

 もう寝ようよ、という気持ちを込めて唸る。マキは気にせず、分厚いファイルを取り出した。旅行好きの彼女が集めている、全国各地、世界中のポストカードだ。安価な分たくさん集められるし有名どころばかりなのでいい、とは彼女の主張。

「まあまあこれをご覧ください」

 私もその収集センスはきらいではなくて、しょうがないのでゆるゆる身を起こした。けれど頭の中にたっぷりと眠りが詰まっているようで、差し出された数枚をぼんやりと見るしかない。目も頭も眠いのだ。

「……これは」

「ケトゥス」

 ぼんやり訊く私に、マキは神話のいきものの名で答えた。

「けとぅ……」

「もしくは、ケートスね。ギリシャ神話の怪物」

 ポストカードはどちらも海を写す。被写体は同じ。青い景色のなかの、灰色の巨体。

「神話でペルセウスに退治され、今もその体がこの海に残ってるのよ。ものすごく大きい石像が海に沈んでるかんじ。それが珍しくて、観光名所になってるってわけ」

 その言葉に目が焦点をむすべば、それはあまりにも巨大な石像だった。一枚はボンベをつけたダイバーがひとり横を泳いでいるが、そのシルエットが豆粒のよう。海は澄んでいたけれど、カメラマンがその大きさを誇張しようとして離れ過ぎたらしく、海底火山の威容を誇るはずの巨体は青くかすんでいる。もう一枚は航空写真だ。海岸の街はミニチュア、澄んだ海に透ける石像。せびれやおびれがくねり、ぼこりぼこりと海から突き出している。こんなものが街を襲いに来るのだと思うと、ぞっとする。

「アンドロメダの登場する神話の敵役ね、メドゥーサの首を見て石化して敗北したの。けど、本によっては「化けくじら」としか書かれてないこともあるし、聞いたことがなくてもしょうがないかも」

 マキは悠々と解説し、私の耳は変なところに引っかかる。くじら?

「……これ、とってもくじらには見えないな……」

「それはわかる」マキはくふくふ笑う。「くじらなのは胴体くらい」

 頭から尾まで奇妙で気持ち悪い化け物だった。それにしても大きい。この石像が、メドゥーサの魔眼で石になった異形が、すぐそば、海の底に沈んでいるというのだ。凪いだ夜の水面下、あののっぺりした顔の下にだ。私は妙な寒気を覚える。でも、たしかに、魅力的だ。人を惹きつけてやまない、水底の神秘……。マキはもちろんだけれど、私さえもすっかり心を奪われてしまいそう。

「……これは、見たいな」

「でしょでしょ!? ボートでね、近くまで行って、水面に出てる部分に触りに行けるツアーがあるらしいの!」

 乗り気の私にマキのテンションがマックス。叫んだりして、隣室の客は大丈夫かな。私は苦笑しながら、明日のためにもう寝ることにした。マキも解説を終えて満足げに本とかをしまっている。

「楽しみね」

「……うん」

 さて、神話の夢でも見ようか。

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