だごん
青かった。
青。頭上から足元まで、無限階調のグラデーション。僕はごぼりと息を吐く。明るくみどり色をしているほうへと、大きな泡が昇ってゆく。その先、一番遠くに、濡れた太陽がゆらいでいる。くらげみたい。
沈む速度はじれったい。波間からの陽光は網になって投げかけられ、僕を捕えているかのよう。振り払いたくても濡れた布地が重く腕を捕らえていた。僕は憂鬱だ。あの太陽以外、周りには海しかない。水底も水面もわからない。今いくら沈んでいっているのかを示す尺度はないのだ。憂鬱だ。憂鬱な遅滞。
人間の営みがユメのよう。文字通り、死ぬほど忙しかったのに、どうしてこんなところにいるんだろうか。そう、僕はさっきまで、人と一緒にいたはずだ。ちょっとした頼まれごとをされたのだ。懇願に、奇妙な本に、僕は積まれた仕事を一旦横に置いて──
思考を海に預けていたくてごぼ、と息を吐いた。先ほどよりもその量が少なくて、ちょっと嬉しい。肺の中の水位が上がれば、また少し浮力を失い、僕は沈んでゆく。白いドレスがふわふわと浮く。レースのエラ、フリルのヒレ、たっぷりとした布地のウロコが重々しくゆらめいている。疎ましいほどに豪奢で美しい。
それでも時間が経ってゆけば、いつしか太陽は水に呑まれてゆく。引き止める光の網が、だんだん、だんだん力を失う。またひとつ海溝へ近づいてゆく。暗い神秘へ。僕はもう一度息を吐くが、小さな泡がひとつふたつ漏れて終わった。やっと、やっとだ。肺の中をひたひたに塩辛くして、
(ああ)
僕は溺れきった。
急速に落ちてゆく。水流にふわふわとなびく髪とスカートの裾。足を上に、頭を下に。もっとはやくと願い、自分の思考に笑う。はやさとか、効率を求めるなんて、まるで人間みたいじゃないか。けれど、水底の距離はまだ遠い。遠すぎてめまいがするほど。下を見ても何も見えはしないのだ。ただ水が暗さを増してゆくのみだ。
でも僕は横を通り過ぎて潜ってゆくあの人魚たちのように自在なこころよい速度で落ちてゆきたいのだ。否、人魚ではない。けれど、それでもあの水かきと、尾びれを羨んでいたい。人の世で僕はなんでもできるのに、海に落ちれば何もできなくなる。手足を動かすこと、水をかくことさえひとつも満足にできぬのだ。それが、僕にとって、どれだけ嬉しいことか、愛おしいことか、誰も知らないし知られてはならない。ただ、今だけの陶酔──
もうひとつ僕は海に近づく。ドレスはたっぷりと塩水を吸い込んで、もろく、重く、もはや別物になっている。肌にぴったりとはりついて体の一部であるかのようになる。レースのエラ、フリルのヒレ、たっぷりとした布地はウロコ。そして二本の足は溶けてまじわり筋繊維はレース、血管はフリル、ふやけた肌はわが衣の布地へ。オペラ・グローブをみずかきに、ヒールは尾ビレに──魔女よ、声はもう水に預けた。
やっとだ。僕は気持ちよく伸びをして、そして、水を蹴った。君たちを追いかける。人魚ではない君たちを。
明度が下がってゆく。ブルー、グリーン、グレイ、ブラック。視界の端に君たちが踊る。いざなう腕、水を蹴る尾ビレ。僕は焦る。もどかしく体をくねらせて追う。君たちはかろやかに潜るのに僕は一向に追いつけないのだ。埋まったはずの肺で小さく喘いだ。
理由はわかっている。人々が引き止めているのだ。
人々が。人魚ではない、海に住まうものではない、僕を頼って生きる人の子たちが。疎ましくもどかしく伸ばされる見えない手を振りほどきたくて僕は潜り、けれど距離はまだ遠い。君たちは尾を振って消えてゆく。すばらしい速度で潜っていなくなる。どうして! 癇癪のように僕は叫ぶ。泡の一粒も、出なかった。
けれど僕の怒りは見えないエネルギーになって海底までも震わせる。それがわかる。見えずとも届いたのだとわかる。それが何かを目覚めさせたのがわかる。けれどこれは僕にとって正当な怒りだった。人のこと、人の世のことなど思い出したくはなかったのに。思い出しそうになる。僕が帰らねば困るたくさんの人と、僕を疎むたくさんの人と、僕のことを想う数人と、そして、僕のことなんて気にしていないたったひとりとを。思い出したくはなかったのに。僕は海に行くんだ。邪魔をしないでくれ。君だけが僕のことを気にしていなくて、だから思い出したくなかったのに。帰りたくなどないのに。君だけのために僕は、帰りたくなってしまうではないか!
想いに呼応して遠く遠くの水底から上がってくるのはくじらだ。それを追ってくるのは、もっと深い深いところからくるもの、巨大な手だ。ひとに似た、水かきのついた、奇妙な、一対の手。あまりにもそれは大きく、追われるくじらさえまるでつばめのように、迫る指に吹き流されるかのようにひらりひらりと泳ぎ、かわし、ぐんぐんと泳ぐ。こちらを、水面を目指してくる。その尾ビレで水を蹴る。
呆然とする僕に巨大さでもって迫ったあの指が伸ばされて、爪で切り裂かれる2秒前、追いついたくじらが僕を海水ごと飲み込んだ。肚の中はくらかった。
僕は目を覚まし、寝台の上、がぽりと水を吐いた。敷布団が濡れる。瞬き、塩水に目が痛い。騒然とする女官たちを背後に、君が立っている。僕の手を握っている。いつもと変わらぬ平坦な表情で僕を見ているのは、黒々と海溝の色の瞳。──連れ帰られたのだ。僕は息をつく。
「そうか。きみは、くじらだものな」
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