葬送の鯨 2

 年老いた同居人が、うら若き女人に跪いている。豪奢なドレス。

 彼はその横でぼうっと彼女を見上げている。


 戦争は、終わったのだそうだ。

村の暮らしがそれをきっかけに変わることはなかった。巨大な肉の塊を手に入れてあの冬の飢えをしのぎ、巨大な骨のいくつかからいくばくかの蓄えを得たが、それは変化ではなく復元。海に奪われたものを、海から多少奪い返したに過ぎない。人は戻ってこない。

 彼は成長した。背が伸び、腕は太くなり、いつしか少年の域を脱しようとしていた。戦争が彼を呼ぶ前に終わったことを、人は喜んだ。その中に両親はいなかった。

 彼は村の翁の元に身を寄せ、その若さに似つかわしくない日々を淡々と送った。



「よかったんでしょうか」

後ろを振り返り振り返り、彼は───大人未満の少年は、夜を歩む。女人の手を引いて、すこし急ぎ足で。月はなく、ひそかに歩む2人の影を隠してくれている。波の音はまだ小さく、しかし潮の匂いは既に濃い。

「大丈夫。わたくしの頼みですし」

気丈そうな瞳と視線があった。青い目。海の色。目鼻さえ定かではない暗闇で、なぜかその強い意志を感じることはできた。貴人の眼。

 彼は諦めて息をついた。少なくとも明日、翁には怒られることだろう。しかしここで引き下がることも、このひとには許されまい。この、眼には。

 鯨が見たいと彼女は言った。翁が、村を救った少年と鯨について口を滑らせたせいだ。このひとは翁が眠った頃を見計らい、彼女のための天幕を抜け出し、遅くまで片付けをしていた少年を見つけ出したのだ。護衛は眠らせた、などと物騒なことまで言い出して、彼を戻れなくすることも忘れなかった。用意周到。


 鯨の骨は、貴人が買って使うのだという。だから高く売れる。なにに使うのかまでは、彼は知らないのだが。あの鯨の残り滓の大半は、彼の頼みでまだ売られてはいなかった。とうとうお別れか、と彼はぼんやり考えていた。

 大事な友人。5年間、彼は毎日のように鯨のもとへ通っていた。ゆえに夜道でも迷いはしないが、心は不安に揺れていた。足元がくらりと崩れるかのように。

 そう、とうに別れているはずの友人なのだ。

 形見さえもらえればいい。そう割り切って骨職人に引き渡せば、生活も楽になる。

それでも。

「「見たい」って言っただろう」

 不意に不満そうな声が耳をついて、彼を振り返らせた。年若い男の声に聞こえたのに、後ろにいたのはやはりあの女人。

「僕はただ見たいだけなんだ。見るだけなんだから、連れてくだけ連れてってくれ。余計な心配はいらないんだからね」

 すべて見透かした賢者の台詞は、はきはきと軽快な青年の声色。いや、威厳ある女戦士か。彼が混乱して立ち止まると、その手を引いて女人が先を行く。

 やわらかな手は、やはり女性のもので。


(道も知らないくせに)


 ふいに、月が顔を出して道を、彼らを照らした。ようやく見えるようになったと、彼女がにかっと笑う。あけっぴろげに。そこで彼はおとこおんなみたいなそいつに、追いつくために小走りになった。びっくりするほど行動派の、このくにの───皇帝様に。



 昼間繕っていたたおやかな口調の影はもうどこにもない。

 洞窟を覆う影を照らし明らかにしてしまうかのようだ。はきはきと、ぺらぺらと、この皇帝様はよく話した。彼女が導いたかのように月明かりが差し込んで、鯨の骨に奇妙な陰影を刻み込んでいた。

「ここにはね、海を見に来たんだよ。鯨じゃなくて。まさか鯨を見れるとは思ってなかったさ、偶然なんだ。でも幸運だ。鯨は……」

 彼女は、彼の大きな友の前に立って振り向いた。

「尾を高く上げて、重さに任せて潜ってゆく。水底の神秘に触れる。触れて、そして、戻ってこれる。なんて素晴らしいのだろう」

 そしてどこか陶酔の色を浮かべて、白い肋骨を撫でる。

「僕ら人間も、もしかしたらそこに触れることができるのかもしれない。しかし戻ってはこられない。海底には……暗闇と、恐怖があるから。

彼らは人間とは違う。それに耐え、戻ってこれる。人は戻れない」

 人の王は、そう歌った。

 それならば、自分はどうなるのか。彼は尋ねる。一度死に触れて、生還したこの身は。

「すると君は鯨なのかもな」

 ケトゥスに触れたまま、彼女は俯き呟く。

「君は人として死に、鯨として、生き返った」

 鯨の血を呑み込んで。

「ひとくじらくん。うん、そう呼ぼうかな、なかなか気に入った。なあ、おかのくじらくん。僕と一緒に来ないか?ひとくじらが横にいる生活、なかなかだと思う。一度死んだ奴が、隣で生きてるっていうのはさ」


 そして彼女はほほ笑んだ。その笑みが性別を超えて魅力的であることを、十分に承知していた。

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