「ケトゥス」

くろがねの鯨


 浮上─────


 穏やかな光をはじき、透き通った海水が鋼鉄の肌を滑り落ちる。一隻の潜水艇が、昼の光の下にその長身を晒す。シュノーケルとレーダー、潜望鏡を伸ばし、数年ぶりの水面に大きく息を吐く。呼気は海水を投げ上げて、高く高く昇った。偶然のプリズムから七色の光をこぼし、潮が噴き上げられたのだ。

 しかしごつごつして不親切な甲板には誰も現れず、無人の潜水艦は波間にぐらぐらと身をゆだねていた。外海の、真ん中。潜水艦はひとりぼっちだった。ちょうどいい足場だ、と海鳥が羽を休めに数羽現れるが、足元のそれがなんであるかなど気に掛けることはない。潜水艦はそれを面白くは思わないらしかった。

 波音と鳥の声の静寂を乱し、ごうんと機械が鳴る。驚きに羽音が沸き起こって遠ざかる。潜水艦は海を揺らして、大きく、ゆっくり、面舵をとった。その船体は、ある方向へと向けられた。波が、息をひそめる。鉄の塊が頭をもたげ、一呼吸の間が空く。

 そして潜水艦は歌いだした。

 鯨の歌。昼下がりの晴れた空の下、高く低く軋みながら、音が海を渡ってゆく。そう、その潜水艦は鯨の形をしていた。それは、いつかは鯨であったものなのだ。その骨と意識までもが、かつての体から汲みあげたものだった。鯨は、歌った。託された悲しみを訴えた。

 愛の歌などではなかった。こんな音では妻は呼べぬ。機構が悲鳴を上げて、雑音として混ざるのだ。同胞は、同胞であった命は、今のそれを許容することはない。けれど一度死に、不格好な金属の鎧に膨れ上がった体で、存在しない喉で、それでも歌う必要があった。

 それは鎮魂の歌だった。「彼」を一人にしないための、長い長い、言葉なき祈りだった。

 やがて叫びがふつりと途切れるように歌が終わると、鳥の声が戻った。風が穏やかに残響を揺らし、波はそうっとささやきあう。舟葬の棺は、そのまま息をひそめるようにじっとしている。やがて甲板が乾ききり、塩の結晶が浮くまで。

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