葬送のくじら

末広

葬送の鯨

 その年は海も空も灰色だった。草木、それらをかき分ける風さえも飢えて乾いて色を失っていた。

 人も皆一様にそうだった。年寄りと子供が何人か、とうに力尽きていた。残された者たちも、曇天を見上げる顔は疲れ切って腹を空かせていた。

 彼もまたそうだった。魚はないのかと父に聞くと、静かに首を振られた。海が怒っているから、男たちは誰も漁に出られないと。貝はないのかと母に聞くと、その日の夜から母は帰ってこなかった。貝を拾いに行って、波にさらわれたのだと祖母が泣いた。

 しかし彼は空腹だった。何か食べたかったので、人の目を盗んで家を飛び出し、海辺に食べ物を探しに出かけた。高台から見下ろせば、確かに海は怒り狂っていた。岩場を砕かんばかりに暴れて、ごうと叫んでいた。身をくねらし、手足をざん、と岩にたたきつけ、時にその身を大きく膨らませ、小さな彼を威嚇した。

 海がごうごうと吠えるとき、彼は自分がつぶされるのを予感した。海風がびょうびょうと渦巻いて、ぼろの服を引きちぎりそうに引っ張った。空は灰色に染まってあたりは暗かった。


 確かに海は怒っていた。しかし彼は空腹だった。


 彼は小さかったから、飛び跳ね、背伸びし、岩場を降りて行った。普段は乾いて砂がたまるところに、大きな流木が引っ掛かり海水が満ちていた。大波の残した跡だった。サンダルがぐっしょりと濡れて滑りやすくなるけれど、貝はいつももう少し下にあるはずだった。だからまだ降りて行った。

 彼が大岩にぶら下がって降りようとしたときだった。不意に、海が吠えた。ごうと一声、高く低く。彼は驚いて、掴んでいた手を離した。ずるりと落ちた彼を、大きな波が打ち付けてさらっていった。

 岩に、石に、流木にぶつかっても、それ以上に息が苦しくて、彼はもがいた。でもそれも短い間のことだった。小さな肺はあっという間に塩辛くなって、彼は意識を失った。小さな体は、なすすべなく海の怒りに呑み込まれた。


 彼は目を覚ました。

 がぼり、と口から塩辛い水を吐き出した。全身が水と塩とにまみれていた。雨すら横殴りに降り出していて、どうしようもないほどに彼は濡れていた。波も執拗にばしゃばしゃと体を洗っているのだった。せき込み、一滴でも多く異物を輩出しようとする体を、彼は必死で抑えた。もっと大事なことに体力を使わねばならなかった。

 ごつごつとした場所に横たわっていた。頭をもたげ、見渡せばまた岩場だ。しかし、巨大な岩壁が視界をふさぐ景色に見覚えはなかった。体中が痛くて泣きたくなるのは、きっと波の中でいろいろなものに打ち付けられたのだ。涙をのみ込み、彼は立ち上がった。服は濡れ鼠、ざりざりと砂と石にまみれているくせに肌に張り付いた。のどが塩水に渇いていたし、腹の中で海水がじゃぶじゃぶ鳴って、でももちろん空腹は空腹のままだった。

 灰色の風が体温を奪って、太陽もだんまりだった。彼はもう疲労の塊になり、その場に座り込んで眠ってしまいたい気分だった。彼は心細かった。でも、父と母を呼んでも何の声も返りはしなかった。そして、海だけはずっと吠えていた。恐ろしき海から離れるためにも彼は岩場をよじ登り始め、すぐに大きな洞窟を見つけた。

 あの岩壁にぽっかりとあいた洞窟。そこにたどり着けば、雨がましになるだろう。

 岩のひとつひとつを、力を振り絞り、彼は登って行った。はだしだったし、その腕も傷だらけだったが、登る以外の道は確かになかった。力の一つも残ってはいなかったのに、常にもう一つだけ岩を上ることはできた。その、気が遠くなるほどの繰り返し。

 傷がいくつか増えたころ、彼は洞窟の前に立っていた。彼はよたよたとそこへ踏み入った。ほかに生き物が住み着いているかもしれないという予感もあったが、とにかく、眠りたかった。もう、動かなくていいほど、深く。


 そして、ふいごのような呼吸音を聞いた。


 彼はその生き物を知っていた。巨大な魚。その巨きさは、山に喩えるより海と呼ぶべきものだ。鯨は岩肌に身を預け、膚からは血を流し、うなだれるように横たわっていた。瞼は重く閉じられて、彼が現れても、その姿勢は変わらなかった。それでも、彫像よりは海に似ていた。

 海の怒りは強大だった。この、すばらしい強い尾と美しい歌を持つ生き物さえも、気に入らない、とその気分ひとつではじき出してしまったのだ。彼が一歩、二歩と近づいても、鯨は動かなかった。呼吸音、飛び散る潮の名残だけが、それが未だ生きていることの証明だった。海の怒りに触れたものはみな死んでしまうのだと、そう彼は思った。例えまだ生きていたとしても、うまく逃げ帰ったとしても、だ。

 海は誰も許さない。彼は、彼自身ももう許されはしないのだ、と思わずにはいられなかった。彼の母も、また。海の怒りは生きるためのものを奪い尽くす。体温、食べ物、水。親……。そして、傷を与えて去っていく。

 彼は泣かなかった。あの大きな呼吸音はそれでもまだ生きていた。だから泣くまいと思ったのだ。


 そして彼は鯨の前に立った。目玉すら、こんなに大きい顔の目の前。鯨は未だ呼吸していた。

 目の前にいるものは、ただ生きている。これから死のうとしながら、乾いた陸にその身を晒し、それでも、まだ。そして、それは自分も同じだった。彼は名前を呼んだ。それは神話の生きものの名前だった。

 鯨はそのまなこを開き、そして彼と視線を交わした。死にゆく者同士の不思議な直感で、彼らは通じ合った。まだ、生きていたかったとか、今まで生きてきた場所のこととか、そういうことを彼らは話しあった。体躯とか、過ごした年月とか、そういうものの差をを感じないほどに親密な関係を、 彼らはその一瞬で築き上げた。

 彼はよろけて鯨に寄り、そしてその傍らに跪いた。膝にかかった、鯨の血は黒く温かい。

 あるかなしかの体温を分け合い、彼らはそのまま、じっと、死を待った。待ち合わせ場所に居合わせた人たちだけが持つ静かな親密さに、彼は寒さを感じなかった。


 けれど彼は死ななかった。やがて、射し込む光に雨が止んだことを知り、そして、あの親しげな呼吸音、ゆっくりとした周期を持つ音が止まっていたことを知った。静かな中で、痛々しいほどに、自分が呼吸していることも。彼は、今は黒々と広がった血溜まりの中で暫くじっとしていた。が、こうしてはいられないということは、いちばん彼が分かっていた。

 顔を伏せ、血液を飲み込む。鉄の味は命の名残、賦活剤。喉の渇きを癒す。腹の中にある海を鎮める。生き残ってしまった、まだ生きなければならぬのだ。彼は立ち上がり、顔を上げる。

その背を追うように血が香って、友が言った。「行け。」

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