葬送のくじら
不可逆とは死である
波打際に横たわり身体を波に洗われる。
気だるさが頭の底に漂っている。なんだか、色々なことをうまく思い出せない。自分が誰なのかとか。どうしてこんなことをしているのか、とか。からだはどんな形なのか、それはどうやって動かすものか。わからなく、なっている。月光を弾く尾鰭、きらめく鱗と飛沫のビジョンだけが、繰り返し、頭の中を埋めている。僕は人魚なのだったっけ?
咳き込む。鼻の奥がつんと苦しくなって、一際大きな波をもろに浴びたのだとようやく気付く。そう、衣に髪、二本の、二本の脚も塩まみれだ。あと砂も。億劫がる瞼をこじ開けると、見慣れた顔が目の前にある。呆れた顔。「ようやくお目覚めですか」。
そこで、目が醒めた。冷えた眼球が像を映し、少しのタイムラグ。「ようやくお目覚めですか」と呆れた顔が見えるようになる。僕の兄。どこかやつれて見えるのは、僕を心配していたから……。それは、僕が一番知っている。そのことを思い出す。
「突然消えたかと思えば」彼は僕を責める。「なぜ、波に打ち上げられているのですか?」
「海に行っていたんだ」違う。僕が行ってきたのは島だった。「忘れられないようなひとと出逢った」はじめてではない。殺戮に手を染めたことは前にもあった。「美しいひとだった」けれど殺される危険の中に放り出されるのは初めてだった。「人魚ではなかったが」それは強烈な、体験だった。でも。
頭の中を海が占めている。
彼は僕のうわ言を聞き流して、上着を着せかけてくれる。赤く染まっている腹に手を触れて、傷が既にないことに安堵する。立てることを確認し、手を貸して立たせてくれる。きっと彼の頭の中は今、僕を連れ帰ることとその後の騒動、あとは僕自身の体調、その他諸々でいっぱいなのだろう。そういう顔をしている。そしてそれらは、僕が今考えるべき全てのことでもある。
なら今は、何も考えない。彼に任せてしまおう。突っ立って、僕は海を見る。表面でのたうつ白い泡と、その奥のものを見る。海溝の神秘を見る。深く、深くにきらめく鱗の輝きを、見る。(知ってはいけないものを見る。)くるぶしについた砂が波にさらわれていった。僕はその間も、遠くを見ている。
放心している僕の手を引いて、彼が馬車まで連れて行ってくれる。獣のにおい、陸のもののにおいがする。干し藁、木、陽のにおい。懐かしく恋しく、そして少しうらめしい。僕は海に行きたいのかもしれない。馬車の振動だけが僕を慰める。少しだけ、溺れたときに、波に似ていたから。
それでもここは陸だった。いやだ。目も耳も海に傾けていたくて目を瞑り、耳を塞ぐ。すると匂いだけが周りの様子を伝えてくるのだ。青々とした、生きた森のにおい、馬が蹴立てる土のにおい。ゆっくりと、陸の中へ引き戻される。引き摺られていく。抵抗も虚しく。
海がなくなってしまう。僕は叫びたくなる。「海がなくなってしまう!」────
人のにおいが鼻を掠めた。
人の生活。眼前に迫るかのような強烈な生命の群。目が街をとらえ、耳は喧騒に溢れかえった。僕は引き戻される。今度こそ、完全に、目を覚ます。火のにおいが水を引き裂く。馬車はもう揺れない。舗装された道は人のもの。
人の世に、僕は帰ってきた。
人の王は帰ってきたのだ。
窓から身を乗り出して、そばにいた物売りの子供に手を振った。びっくりして固まる彼女を愉快に見ていると、「お忍びなんですから!」兄が怒鳴る。僕はにやつきながら、それでもおとなしく席に戻った。彼には、迷惑をかけたのだ。
「女装、大変だったかい?」「頼みますから、黙っていてください、陛下。」
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