変わらない日常を

まめつぶ

変わらない日常を

 人の手がろくに入っていない山の中、大岩の上に一人の老人がぼんやりと胡坐をかいている。

「群青、柘榴」

森の底に立つ古い大樹のようなその声が、静かに二つの名を呼んだ。

 鬱蒼と繁った木々の間の暗がりからすっと出てきたのは、美しい姿をした二人の青年だった。一人は夜の月明かりと暗闇の境目のような深い青色をした衣、もう一人は鮮やかに色づいた果実を濃く煮詰めたような紅色をした衣をそれぞれ羽織っている。

「はい、主さま」

静かに口を開いたのは青色の群青だ。次いで紅色の柘榴も同じように応えた。二人を見て、主さまは秋の木洩れ日のように微笑んだ。

「ああ、群青、柘榴。さぁて、今日はなにをしようか」

この大岩が今よりもまだ粗く角張っていた頃から、ずっと続けられてきた主さまの問いかけが、いつものように二人に向けられた。

「そうですね……」

そのすっとした顎に手を当てて考え込む群青。柘榴の方は、何か面白いものはないかとキラキラした目で辺りを見回している……と、柘榴の方が早く、主さまに向き直った。

「主さま、主さま、ここらあたりにはもう飽きたのではありませんか。少し人里へ降りてみては?」

「ほほう、人里へ」

そうです、と柘榴は手を広げてあどけなく顔を輝かせる。

「人の子にはおれたちのことなど見えぬのです。少しからかって遊んでみるのも面白いのでは?」

「柘榴! お前はなんてことを」

すぐさま群青が目をとがらせた。主さまは少し面白がってでもいるのか、二人の様子を静かに微笑んで見守っている。

「よい、群青。そう怒ってやるな」

「しかし……」

やがて主さまにたしなめられて、群青は口籠った。やーいと子どものようにはやし立てる柘榴に、主さまは困ったように笑った。

「さあさあ柘榴、お前もだよ。いくら面白そうだといっても、人の子をからかって遊んではいけない」

「はあい」

少しばつの悪そうに返事をした柘榴に、優しく諭すように主さまが言う。

「飛べない我らを、鳥は笑うかい? 魚たちは、長く泳げない我らを無理矢理川の中に引きこんだりはしないだろう?」

「それは…」

「それと同じこと。我らが人の子よりも見ることに少しく優れているからと言って、見えない彼らを劣っていると思ったり、からかって遊んだりしてはいけないよ。獣も植物も人の子もみな、我らと同じく生きるものなのだから」

しゅんとした柘榴の頭を、主さまは節くれだった手でかさりかさりと撫でた。

「それに、人の子がみな見えないわけではないんだよ。気をつけなければ、いつかきっと罰が当たってしまう。……とまあ、説教じみたことを言ってしまったね」

少しおどけたように言う主さまに、柘榴は驚いたように顔を上げた。

「もしかして、主さまは見える人の子に会ったことが?」

「そうだねえ。お前がここに来るよりもずうっと、昔のことだ」

へえ、と興味深げに聞く柘榴に、主さまは穏やかに笑っていた。そんな主さまを、群青もじっと見つめていた。




 その日も結局、他愛もないことを主さまと話した。隣の山の端が少しずつ紅くなっていること、苔の群れた川辺のこと、そんななんでもないようなことをたくさん話した。また、最近生まれた獣の子の見舞いにも行った。小さな妖が訪れては木の実のよく生る木はないかとか、獣が増えて草木が荒れて困るのだとか、そんな小さな相談事を持ちかけては主さまがそれらに教え諭す、そんなことも時折あった。朝は露に濡れ、それから日を浴びて青々と葉を揺らし、そして暮れには獣たちの寝床となる、山はいつも通りの一日だった。

 満足そうな表情の主さまに挨拶をしてから、二人が寝床へ帰っているところで柘榴が口を開いた。

「なあ、群青」

「なんだ」

柘榴の隣で腕組みをして歩く群青が、不器用に口を開く。

「主さまは、毎日楽しいかなあ」

「……どうだろうな」

昼間、もう飽きたのではないかと言った自分の言葉を思い返し、柘榴はぼんやりと言う。

「主さまは……主さまは、おれたちに飽きたんじゃないか? おれは主さまに呼ばれて毎日おもしろおかしく過ごしているけれど、もしかして主さまは、ずっと退屈でお寂しい思いをされているんじゃあ……」

長い長い時を生きている主さまは、毎日自分たちを呼んで何を求めているのだろう。小さく唸る群青の顔にも、少しだけ不安の色が滲んでいるように見えた。

「ああ、主さまも思い切り楽しめるような、嬉しくなるような、なにかおかしなことが起こりはしないかなあ」

ぐ、と伸びをして柘榴は言った。

「全く、お前は単純でいいな」

「そうかなあ」

そうだよ、と群青は苦笑する。柘榴の言葉はいつも小川の踏み石を跳ねていくように軽やかで、まるで子どものようだ。実際、柘榴の生きた年は群青が主さまと出会った頃にもまだまだ届かぬほどで、群青から言わせると妖としてはまだまだ半人前のようなものだが。

「そういえば、主さまは人の子に会ったことがあるんだな。群青は知ってたのか?」

「まあ、そうだな」

群青は柘榴がここに来るよりも前のことに思いを馳せる。す、と細められた目は心なしか淡く憂いを含んでいた。

「どんな人の子だった?主さまや群青のことも見えたのか?」

「まあ、そうだな」

濁すように同じ答えを返すと、柘榴は面白くないというように口をとがらせた。爪先でその辺の小石を蹴ると木陰の小さな水溜まりに転がり、ぽちゃんと音を立てた。

「なんだなんだ、まるでおれだけのけ者みたいじゃないか」

「おい、拗ねるなよ」

小さな子どもを見るように、群青は眉を下げて笑った。

「……少しだけ、お前に似ていたよ」

ぽつりとこぼされた言葉が微かに困ったように響いたのが柘榴にもわかった。柘榴は足元を見ながら、ふうん、と言うだけに留まった。



 次の日、柘榴は寝床近くの川でばしゃばしゃと顔を洗った後、主さまに呼ばれるいつもの時間まで、川べりをふらふらと歩いていた。川は浅く流れも緩やかで、白い小鳥たちが尾を振りながら餌となる虫を探していた。透明な水は朝日を反射してきらきらと流れていく。柘榴はこの穏やかな時間があまり好きではなかった。いつもなら早く主さまのもとへ行きたくてむずむずしている頃だ。しかし昨日の話を聞いたせいか、柘榴は珍しく難しい顔をして岸の砂利を踏みしめていた。

「おれには、何ができるんだろうか」

主さまと、群青と、三人で何か主さまが楽しめるような……。しゃがんでぶつぶつと言いながら大小不揃いの砂利を指でぼんやりといじって、柘榴は考える。考えに耽るうちに、すぐ後ろまで来ていた気配に気が付かなかった。

「柘榴」

「……ううん」

柘榴はしゃがんだまま唸っている。後ろの気配は静かに笑って揺れた。

「柘榴よ」

「……あ、主さま」

もう一度呼びかけた優しい声に柘榴はようやく気付く。見上げて応えると、主さまは穏やかに頷いた。

「何か考えていたようだね」

主さまの灰の目は、いつも柘榴の心を見透かすように見つめてくる。透明な小川の底に散らばる綺麗な砂利のような、そんな瞳に見つめられて、柘榴はどうしてか胸が少し苦しくなった。

「どうすればいいか、考えていたのです」

ぽつりと出た言葉は、柘榴の思いを主さまに全部伝えるには少なすぎたかもしれない。しかし主さまは優しく微笑んで、昨日のようにかさりかさりと柘榴の頭を撫でた。

「そうか、そうか」

「主さま」

そう呼び掛けて、しかし続きは出てこなかった。柘榴は難しい顔をして、その後小さく呻くと情けなく眉を下げた。

「ありがとう、柘榴。お前は私たちのためにたくさん、たくさん、考えているのだね」

かさり、かさり。

「考えたのですが、わからないのです」

柘榴の困った顔を見て、主さまは小さく笑った。

「お前は優しい子だ」

主さまの撫でる手の優しさに、柘榴は目を細めた。そうして、ふん、と鼻息を吐いて目を開いた。

「主さま、主さま」

「なんだい?」

柘榴の纏う雰囲気は、もういつものそれに戻っていた。

「主さまは、毎日楽しいですか? おれたちといて、退屈してはいませんか?」

キラキラとした目をまっすぐに主さまに向ける。

「もちろんだとも。私は、いつだって楽しいよ」

「よかった。おれも、おれもね、主さま。主さまと群青と過ごすのが、なによりも楽しいです」

もしかすると、これが最適というわけではないかもしれない。しかし、この穏やかに流れる日々は、決して間違いではないのだ。

「そうか。それならば、私もうれしい」

二人は優しく笑いあった。ざああ、と山の木々が風に吹かれて涼しげに揺れていた。

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