第3話 埋もれた記憶
胸の内に燃えたぎるものを抱えながら、シャーロットはいつの間にかリネーゼが佇む倉庫の前に来ていた。
ヒトの十倍はあるその背丈で身動ぎひとつすることなく立ち続けるリネーゼは、その質量から地下に押し込めることもままならず、その巨体を覆うように、隠すようのして造られた倉庫の中で一万年近く過ごしている。
その間口に出した言葉は、「美しくない」、ただそれのみである。
「シュテファンなら……」
浮世離れした雰囲気を纏うあの黒髪の少年なら、リネーゼのスピリットに成れるかもしれない。
否、成れるに違いない。
そう納得してしまったことが悔しくて、それを認められない自分が情けなくて、シャーロットは食堂から逃げ出してきた。
やはり自分は美しくないな、とシャーロットは自棄気味に笑う。
「シャル」
まるで幼い頃から付き添ってきた友人に声をかけるような気さくさで、シュンはシャーロットの肩に右手を置いた。
「っ!?」
「おっと」
前触れのない登場と距離の近さにシャーロットは反射的に肩に乗せられた手を払い除け、敵意を剥き出しにしてシュテファンに顔を向ける。
「なんでここに……!?」
「お義父様の顔に唾吐いて出てきた」
「はあ……?」
シュンは払われた右手をぷらぷらと揺らしながら笑う。
敵意を向けられているにも関わらず涼しい顔をしているその姿に、シャーロットは背筋が薄ら寒くなるような恐怖感を覚えた。
「いやごめん、今のは説明不足だね」
シュンはシャーロットが先程眺めていた倉庫に視線を向ける。
「ボクじゃリネーゼのスピリットには成れないって言ってきた」
「……どうしてだ?」
ぐい、と。シャーロットはシュンの肩を掴み、問う。
「あんたは百人いれば百人が認めるほどの美少年じゃないか」
シュンは美しい。それはシャーロットも素直に認めるほど、否定するのも馬鹿馬鹿しいほど、歴然と事実だ。
「それなのに、どうしてリネーゼのスピリットに成ろうとしない?」
「……違うよ」
シュンは自嘲気味に笑ってみせる。
「成ろうとしないんじゃなくて、成れないんだ」
「……どういうことだ?」
シャーロットの問いにシュンは肩を竦めて微笑んでみせる。
「あのね、リネーゼのスピリットに成れるのは女性だけだよ?」
「…………なに?」
言葉の意味がわからない。シュンの肩から力なく手を下ろすシャーロットは、そんな表情をしていた。
「そんな、だって、リネーゼは、シュンと共にエタロットを……」
「そのシュンは女性だったんだろ? じゃなきゃリネーゼは――」
「違う!」
半ば狂ったようにシャーロットはシュンの言葉を否定する。
その迫力に、シュンは思わず口をつぐんだ。
「シュンは人類最初のスピリットで、救世の美少年だ! でなきゃ、僕達は一万年も無意味なことを続けてたってことになるじゃないか!」
それは誰の言葉か。
シャーロット自身の言葉か、あるいはスピリットに成れなかった少年の言葉か。
シュンは倉庫に視線をやり、小さく息を吐く。
「シャル、シュンとリネーゼについて詳しく知りたい」
「……知ってどうする?」
「その後、リベレイターとスピリットについて知りたい」
「いや順番逆だろ」
「いやあ……」
シャーロットに指摘され、シュンは誤魔化すような笑みを溢す。
それを見てシャーロットは思わず溜め息を吐いた。
「シュテファン、だっけか」
「うん? なんだ?」
「ある程度リベレイターに詳しいようだけど、どうしてヴィートリヒ家に来たんだ?」
シャーロットの問いにシュンはきょとんとした様子で目を瞬かせる。
「え、良い飯が食えるからだろ?」
「は? なんだって?」
予想外の答えに、シャーロットは思わず声を裏返して聞き返していた。
シュンはしまった、と言いたげな表情をみせる。
「ごめん、また説明不足だった。ボクの悪い癖だね……」
「いや知らないけど」
「申し訳なーい」
冗談めかすように笑うシュン。それは一見、心の壁を取り去りありのままの姿で接しているようにもみえるが、しかしシャーロットは目の前にシュンはいないような気がしてならなかった。
実体のない虚像と相対しているような、蜃気楼に見たオアシスに手を伸ばすような、曖昧な感触。
人当たりの良い好青年であろうとしているかのようだ、とシャーロットは頭の隅でふと考えた。
「ああそれで、ボクが来た理由だよね」
「……父さんがあんたを息子だと言ったのは、嘘だと思う。明らかに身体的特徴が違いすぎてるのもあるし、なにより昨日の今日でタイミングが良すぎる。一般人がリベレイターに詳しいことも普通は考えられないことだし……あんたは一体、何者なんだ?」
「ん、何者……ときたか」
シュンは困ったように笑うと、半歩、退いた。
たったそれだけで、二人の距離が随分と開いたようにシャーロットは錯覚する。
「こんなこと言って信じてもらえるかわからないけど」
シュンは秘め事を話すように、ピンと伸ばした人差し指を自身の唇に当てる。
「ボクはね、自分に関する記憶がないんだ」
記憶がない。それはシャーロットにとって、身近とは程遠い言葉だった。
「え、と……、それはどういう……?」
「そのままの意味だよ」
まるでなにごともないかように、まるで冗談でも言うみたいに、軽い調子でシュンは肩をすくめてみせる。
本当は冗談なのでは、とシャーロットの胸にそんな考えが浮かんだ。
「ほら、有名な話でしょ。記憶には大きく三つの種類があって、エピソード記憶と、意味記憶と、……もうひとつは忘れたけど」
「おい」
「あはは」
照れ隠しするようなシュンの笑顔に、シャーロットはお互いが同性だということを忘れて一瞬見惚れてしまった。それが恥ずかしくて、彼は息を吐きながら足下に目をやった。
「まあとにかく」
そんなシャーロットの内心を知ってか知らずか、シュンは早口気味に言葉を繋ぐ。
「ボクはエピソード記憶、それも自分に関する記憶を失ってるんだ。……ああいや、思い出せない、かな?」
「思い出せない? じゃあいつか思い出すのか?」
シャーロットは疑うような視線をシュンに向ける。
「そんな都合の良い記憶喪失……」
「そういうものだよ。特に、ショックによる記憶喪失の場合はね」
まるで自分がそうであるかのようにシュンは胸を張る。が、それを咎めるシャーロットの視線に気付くと、彼は頬を指で掻きながら視線を明後日の方向に向けた。
「いやね、自分のことはわからないのに、どういうわけかリネーゼのことはよくわかるんだよ。どんな性格をしているか、どんなものが好きなのか、本当はすごい寂しがり屋だとか、そういうのは思い出せるし、知っている」
「……それだけリネーゼのことを知っていて、どうして自分の記憶がないんだ? なんでリベレイターについて調べようとするんだ?」
「自分に関する記憶がないから、その理由探しにリベレイターについて調べるんだよ」
シュンの言葉に、シャーロットは不思議そうに首を傾げる。
それをシュンはおかしそうに笑った。
「ごめん、また説明不足だったよ」
「……遠回しに僕の理解不足だって言ってないか?」
「言ってない言ってない」
シュンは楽しそうに笑いながらシャーロットの言葉を否定する。
「えっとだね、多分ボクはスピリットだったんじゃないかと思うんだ」
「……なに?」
シュンの笑う理由がわからず不満げな顔をしていたシャーロットは、驚いて目を見開く。
「あ、これ誰にも言わないでね」
「いやそんなことより、じゃあつまりシュテファンは、リネーゼのスピリットだったってことか?」
「……いや、それはないでしょ。リネーゼはずっとヴィートリヒ家の管理下にあったんだし」
「お、おう……。そう言えばそうだった……」
冷ややかな視線をシュンにぶつけられ、シャーロットは気まずそうにそっぽを向く。
「…………」
しかし、何故そのようなことを言ったのか、シュンがリネーゼのスピリットだったと考えたのか、自分のことながら、シャーロットにはわからなかった。
確かにシャーロットは、シュンがリネーゼのスピリットになれるだろうとは考えていたし、悔しいがそれを認めていた。それが正しい在り方だと直感的に理解していた。が、だからと言ってそれが先の言葉に繋がる理由がない。
目の前の少年はなにか嘘を吐いている、重要なことを隠している。シャーロットはそんな気がしてならなかった。
果たしてそんな人間を自由にしても良いのだろうか。
「…………」
「まあ取り敢えず、僕の記憶について知るためにも――」
ぐう、と。
シャーロットの腹の虫がシュンの言葉を遮った。それを追うようにシュンの腹の虫もそれを追う。
「……まずはなにか食べようか」
「妙に優しげなのやめような?」
「…………」
「…………」
しばらく腹の内を探るように互いに見つめ合った後、二人は同時に吹き出した。
シュンはおかしそうに口元を手で隠して笑うが、シャーロットは困ったように顔を曇らせた。
「でも、食堂から抜け出して来たからな……」
「なに? ご飯てあそこでしか食べられないの? 台所に行けば余ったものでなにか作ってもらえたりは出来ないってこと?」
シュンの問いにシャーロットは無言で頷き、それがシュンを驚かせた。
「え、なにそれ」
有り得ない、と言いたげな表情でシュンは呟く。
「なに? ヴィートリヒ家ってそんなに厳しいの?」
「昔からの規律と言うか、習慣かな。別に普通だよ」
「普通……普通かな?」
「僕にはね」
「うーん……」
納得出来ない様子でシュンは唸り。首を捻る。
その姿に、シャーロットはなにか違和感を感じたが、その正体を言葉にすることは出来なかった。
「あ、じゃあ街に出よっか」
「……うん?」
予想外のシュンの提案にシャーロットの思考は乱暴に中断させられる。
「なん……え、なに?」
「だから、街に行こうよ」
「いや、街って……」
シャーロットは無意識の内に前髪を弄り出す。
「なに? 街に出たことないの?」
「……まあ、うん」
シャーロットは生まれてこの方が、街に出たことがなかった。
否、街に出ることを禁止されていた。
ヴィートリヒ家と言えばこの辺りを管理する貴族の家なのだが、しかし領土の人間に顔を見せるのは大人の、特にビクトリアの役目で、シャーロット以下子供達は成人するまで屋敷の敷地内で過ごすことを義務付けられている。
立派な大人になるために子供の内は勉学や武術の修練に励み、多くの知識を積み上げる。長く続く慣習らしい。
「なにそれ」
その話を聞いたシュンは、侮蔑の意を隠そうともしない声色でその言葉を吐き出した。
「そんなだから美しくないんだよ」
「……なに?」
美しくない。
その言葉は、その言い方は、シャーロットに怒りの感情を抱かせるには十分過ぎた。
「お前、なんだって?」
「……そうやってすぐ感情的に怒りだすのも駄目だよ。美しくない」
シュンはくるりと踵を返し、シャーロットに背を向ける。しかしどういうわけか、シュンの表情には驚きの色しかなかった。
「そう、美しくない。美しくないと、リネーゼのスピリットには成れないんだ……」
「そんなことわかってる!」
シャーロットはシュンの肩を引き、胸ぐらを掴み上げた。
シュンはそれに抵抗することなく、しかしその酷く冷めた視線がシャーロットを咎めるようでもあった。
「違うよ、シャル。きみはわかってない」
「どういうことだよ?」
「どうもこうも、君はリベレイターやスピリットを勘違いしているんだ」
シュンは悲しげな表情で視線をシャーロットから外す。そうして向けた先には巨大な倉庫があり、シュンは自嘲気味に笑った。
「スピリットに成るってことがどういうことか、シャルはわかる?」
「……リベレイターとひとつになって、操縦者になることだろ」
「半分正解。でも、全然違う」
「いやどっち?」
「……シャルって怒るの苦手でしょ」
「ぐ……急に話題変わったな!」
シュンの言葉通り、シャーロットは怒ることが苦手だ。怒っている最中に冷静になり、相手の非を無意識の内に許してしまうことを自覚出来てしまっているほどに怒ることが苦手だ。
シャーロットはシュンの胸から手を離し、溜め息を吐く。
「僕がどうとか、今は関係ないだろ」
「いや、それも含めて君はリネーゼのスピリットには向いてない」
それだけ言うと、シュンは仰向けで地面に倒れた。
「あー、もう……。シャルと話さなければ良かった」
「急に酷いな!?」
「あっはは、ごめんて」
シュンはおかしそうに笑うが、それはどこか影のある笑い方だった。
「……なにか思い出したってことか?」
「残念なことにね。駄目だね。ボクってやつは。考えれば考えるほどキーワードを見つけ出して、どんどん自分について思い出してきちゃう」
「悪いことなのか?」
「良いか悪いかで言えば、良いことだよ。世界を危機から救うことが出来るんだから」
「と言うと?」
「ボクはリネーゼのスピリットに成れるってこと」
「本当か!? って、さっき自分で否定してただろ。あ、もしかして女装でもするのか?」
「……えーとだね」
シュンは首を傾げるシャーロットに冷めた視線を向ける。
「さっきと今じゃ状況が全然違うの。言ったでしょ? 思い出した、って。後リベレイターは内面を見るから、女装はなんの意味もないよ」
「へ、変なこと聞いて悪い……」
「気にしなくて良いよ」
「でも、シュテファンはリネーゼのスピリットに成れるって言うのは本当なんだよな?」
「うん、本当だよ」
シュンの言葉にシャーロットは素直に喜びの声を上げた。確かに自分がスピリットに成れないのは悔しいが、しかしそのせいで世界が救われない方がずっと苦しい。それに、リネーゼが動けばヴィートリヒ家に向けられた白い目もマシになるかも知れないのだ。
そこまで考えて、シャーロットは首を横に振った。
「……いや、やっぱり駄目だ」
「うん? なにが?」
「僕が成らなきゃ駄目だ」
今の考えは、ビクトリアの考えそのものだ。シャーロットはそれを直感的に理解し、それ故にその考えを拒んだ。
「本当はシュテファンがスピリットに成るのが世界にとって最善だってわかってる。だってそれしか方法はないんだから。だけど、それは駄目だ」
「どうしてだい?」
「だって僕は、僕達は、知らなさすぎる」
一万年もの間、誰一人としてリネーゼのスピリットに成れなかったヴィートリヒ家の人々は、その子供達は、リネーゼが、リベレイターがどのようなものなのか理解できていない。それはきっと、とても危ないことなのではないだろうか。シュンの悲しげな表情から、シャーロットはその考えに至っていた。
「なにも知らないまま、なにが起こるかもわからないまま、君にスピリットに成るという役割を押し付けられるほど僕は恥知らずじゃない」
「…………っ」
シュンは顔を一瞬赤く染め、それを隠すように慌てて立ち上がりシャーロットに背を向けた。
「あーもう、そういうのズルいよ」
「いやなんで?」
「なんでって……」
シュンは心の準備をするように深呼吸を数回繰り返してから、シュンはに無邪気な笑顔を向けて振り返った。
「ボクの心が痛むから」
「……へ?」
鈍い衝撃がシャーロットの腹部を貫いた。熱が広がるように全身に伝わる痛みから、シャーロットは呼吸もままならない状態で地面に倒れ伏す。
「あーあ、ボクの性格が良くなかったね。でも、わからないことをわかるようにしたいのは仕方ないじゃん?」
「あ……ぐ……っ?」
シュンはシャーロットの腹部に叩き込んだ右手をぷらぷらと揺らしながら、悲しげな表情で息を吐く。
「ごめんね。でもリゼとの約束なんだ」
「な……んで……っ!」
「シャルにもいつかわかるときがくると思うよ」
シュンは大股でシャーロットを跨ぎ、リネーゼが収められた倉庫に向かって歩き出す。
「自分の命に代えても守らなくちゃならないと思える約束ってやつをね」
「ぅ……ま……て……」
「……ごめんね」
「あ……」
シュンのやろうとしていることは正しいことに違いない。
シャーロットがそれを止めようとするのは間違っているに違いない。
それを理解していても、シャーロットは無我夢中で手を伸ばす。
「駄目だ……」
どんなに小さくなる背中に向けて手を伸ばしても、しかしその指は宙を掻くだけだった。
「駄目なんだ、ソレは!」
シュンは一度として振り返ることなく、扉を蹴り壊して倉庫の中に消えていった。
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