第2話 浮世に在らざるかの如く
自室の壁に掛けられた時計が正午を告げる音を聞き、シャーロットは慌てて絵本から顔を上げた。
時計の針が二つ重なっていることを確認し、シャーロットは勢いよく絵本を閉じる。
「しまった……」
シャーロットはベッドから飛び下り服の皺を伸ばしながら、指を靴べら代わりにしてやや苦心しながら靴を履く。
普段、シャーロットは食堂の奥に佇む大時計が正午を告げる頃には。既に食卓に着いている。それがヴィートリヒ家のルールだったし、シャーロットの習慣だった。
シャーロットにとっては、スピリットに為るということよりもずっと価値の無いことだったが。
シャーロットが食堂の扉を開けると、食卓に十一席用意された椅子のほとんどが埋められていた。
空いているのは、主賓席であるシャーロットの席と、食卓の中ほどに空いたビクトリアの席。そして、扉に最も近い位置にひとつ、客人のために用意される席。この三席だった。空席があるために、まだ食事は始まっていない。
シャーロットは来客があることよりも、ビクトリアがまだ席に着いていないこと気にする様子で席に着く。
「兄さんが食事時に遅れるなんて珍しいね」
シャーロットの左隣に座る、弟のゾフィが意地悪そうに笑った。彼はいつも正午の鐘が鳴る直前に席に着くから言えた言葉であろう。
シャーロットは苦笑気味にゾフィの額を指で軽く弾く。
「あだっ」
「僕が食い意地張ってるみたいな言い方はやめて欲しいな」
「あはは……」
ヴィートリヒ家が時間に厳しいのは、なにも食事の時間だけではない。食事の時間を軸に、就寝起床時間、勉強時間などが決められている。勉強は家庭教師を雇えば、学校に行くよりも効率的に勉強出来る、とは誰の言葉だったか。ヴィートリヒ家は随分と昔から時間を意識した生活を心掛けている。
この習慣がなにを意味するかは、今では誰にもわからない。
真下を向いていた食堂の大時計の長針が小さく音を立て揺れた直後、食堂の扉が開かれた。廊下からビクトリアが大股で入ってくる。
「すまない、遅れた」
「なにかあったのですか?」
彼を待っていた人間を代表するようにシャーロットが問うと、ビクトリアは一同を安心させるように首を横に振った。
「問題ない。それより、待たせてしまったからな、早く食事にしよう」
「あの……客人が来られているのでは?」
シャーロットが問うと、寝巻き姿のシュンがビクトリアに遅れてやって来た。シュンは手足が付いていることを確認するようにしながら客人用の席に着く。
「調子はどうだ?」
「すみません、なんだか慣れなくって」
「そのうち嫌でも慣れるさ」
などとビクトリアがシュンと言葉を交わしているうちに、使用人達が食卓に前菜を並べ始める。
シャーロットはそれを半ば呆けたように眺めていた。それに倣うように、ゾフィーを始めとした他の兄弟達の視線はシュンに釘付けにされている。
突然現れた、中性的な顔立ちをした黒髪の美少年。どこか諦感したような物憂げな表情は身に纏う寝巻きと不思議なほどよく似合っており、その美貌と合わせて彼が持つ浮世離れした雰囲気を際立たせていた。
まるで物語の中から現れたかのような。
そんな表現がよく似合っていた。
「…………」
奇妙な静寂が食堂を支配する。
「――彼の紹介は食事中にするとして、だ」
ビクトリアは軽く手を打ち鳴らし、全員の意識を自らに向けさせる。
「そろそろ食事を始めようか」
そらからビクトリアは祈るように胸に手を当てなにごとか呟く。他のヴィートリヒ家の者達もそれに倣ってから食事を始めたが、シュンだけは合掌をしてからフォークを手に取っていた。
「お兄ちゃんどこの人?」
ヴィートリヒ家が持つ星の光のような銀髪と対称的な鴉の濡れ羽色の髪を持つシュンに、彼の隣に座る末っ子で妹のニコが不思議そうに問うた。
シュンは一瞬だけニコを横目で見やり、目の前に用意された前菜に手を着けようとし、それからようやく自分が話しかけられているのだと気付いたように慌ててニコに視線を戻した。
「ごめん、よく聞いてなかった」
「お兄ちゃんってどこの人なの?」
「うーん……」
ニコの問いを受けシュンは困ったように苦笑し、助けを求めるようにビクトリアに視線を投げかける。それを追うように、ニコもまた父親に視線を向けた。
二人の視線に気付いたビクトリアはそっとフォークを置きナプキンで口元を拭う。
「まだ前菜の途中だが、食べながら聞いて欲しい」
そう前置きされ、しかしその場にいた全員が大して進んでもいなかった食事を中断した。
当然、シュンもその中に含まれている。
「彼の名前はシュテファン」
ビクトリアに指し示され、シュンは軽く腰を浮かせて会釈する。
その何気ない仕草ひとつにしても、シュンにかかればそれは一種の芸術かのようだった。
半ば見惚れるようにしてシュンを目で追う我が子達を見て、ビクトリアは満足そうに頷く。
「そして、私達の新しい家族だ」
「……みたいなので、これからよろしくお願いします」
シュンは他人事のように前置きしながら頭を下げた。
「……彼がスピリットに成るということですか?」
シュンが頭を上げるよりも早く、シャーロットは父に問う。
突然のことに、彼の隣に座っていたゾフィは、食堂にいた人間は驚いた表情でシャーロットを見る。
ただ、ビクトリアだけが穏やかな表情をしていた。
「なぜ、そう考えたのかな?」
「っ」
ビクトリアの質問に、シャーロットは一瞬喉に言葉を詰まらせる。
「……僕は昨日、リネーゼのスピリットには成れませんでした。それはヴィートリヒ家の誰もがそうだったので、わかりきっていたことです」
「ああ、そうだな。私もそうだった」
ビクトリアは最もらしく頷いてみせる。その芝居がかった仕草が、シャーロットの脳裏をちりちりと熱くさせた。
「ですが、リネーゼはヴィートリヒ家が代々守り継いできたもの! それを言ってしまえば、こんな赤の他人に渡そうなどと――!」
「シャーロット」
優しげな、諭すような声だった。
まるで、我儘を言う我が子に向けるような――。
「……すみませんでした」
「いや、お前の気持ちは痛いほどわかる。お前は私の若い頃にそっくりだからな、同じ立場に在ったら同じことを言っていただろう」
「…………」
「しかし、だ」
ビクトリアはぐるりと食卓を囲む全員に視線を向け、最後にシュンに視線を固定した。
自然、再びシュンに視線が集まった。
「確かに私は、彼がリネーゼのスピリットになって欲しいとは考えている」
「…………」
「しかしお前の言う通り、リネーゼは私達ヴィートリヒ家が代々守ってきた、謂わばこの家の象徴だ」
「…………」
「私とて、そう易々と赤の他人にアレを触らせるようなことなどしないよ」
「では何故――!」
「だが彼は私の息子だ」
その瞬間、食堂の空気が凍りついた。
否、銀髪の子等の顔に困惑の色がありありと浮かんだ。
ビクトリアはシュンを指して自分の息子と言った。
銀髪碧眼のビクトリアが、夜闇色のシュンを指して。
断ずるように。
「…………っ!」
声もなく、シャーロットは椅子を蹴って立ち上がった。
椅子が床を打つ乾いた音が響く。
シャーロットはシュンを睨み、ビクトリアを睨み、そして小さく吐き捨てる。
「……見損ないました」
シャーロットは蹴倒した椅子を直すことなく、大股で食堂を出ていった。
「…………」
その背中を見送りながら、シュンは先のシャーロットの言葉を頭の中で繰り返していた。
――ヴィートリヒ家の誰もが、リネーゼのスピリットに成れなかった。
――誰もリネーゼのスピリットに……。
「…………リネーゼ?」
シュンはハッとした表情でビクトリアに顔を向ける。
「ビクトリアさん、今、リネーゼと言いましたか? リネーゼのスピリット、と」
「そうだ。シュテファン、昼食を終えたらお前にはリネーゼの――」
「それは出来ません」
シュンの言葉で一瞬だけビクトリアの表情は凍りつくが、すぐに柔らかくなった。
「……なんだって?」
「ボクにはリネーゼを動かすことは出来ません」
柔らかかったビクトリアの表情が一瞬で険しいものとなる。
「どういうことだ」
質問ではなく詰問。
促すのではなく強いている。
悪鬼羅刹のような視線を受け、しかしシュンは平然としていた。
「彼女は女性しか自らのスピリットと認めません。ですから、男性のボクが彼女のスピリットとなることは、まず無理です」
それを捨て台詞に、シュンはシャーロットを追うように食堂から出ていく。
「…………」
ビクトリアは使用人達が出ていった二人の食器を下げる様子を睨むように見ていたが、しばらくすると溜め息を吐き何事もなかったかのように食事を再開した。
「……えー、なにあれ、超怖いんだけど……」
その呟きは誰に向けられた言葉なのか、それを知る者はゾフィのみである。
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