小さな事件

第6話 きっかけ

 昼休みの教室は、明るくてもどうにも苦手だった。校内放送がかかっていなくても常にざわざわとしていて、教室内は弁当やパン、ジュースのにおいが混ざっている。2学期の行事も終わり、合服姿も多くなった。鮮美の出で立ちも多数派の一部となって、他のクラスメイトにうまく紛れている。

 団はそそくさと昼食を食べ終え、廊下で幸祐を待っていた。教室から間延びした声が聞こえてきたのはそんなときだ。 

「ねえ鮮美さん、行こーよー」

 市内トップの学力を誇る藤和高校には、純粋培養された秀才や努力家が多い。それでも雑誌の中にいるタイプも存在するわけで、声をかけているのはそんな女子二人、男子二人の四人組だった。不良ではない。そもそも不良なんて藤和じゃ絶滅危惧種。社交的で頭がいい彼らのグループは、行事ではクラスを引っ張り、日常でもそこそこの成績を維持していた。団や鮮美とはつかず離れずの距離にいる。

「ごめん、ちょっと用事入ってるから」

 鮮美は丁寧な口調で無難に断った。

 彼女が遊びだけでなく、クラスの集まりに一切出席しないのも入学して以来ずっとだ。唯一顔を出す部活の打ち上げも、最初の三十分ほど出て切り上げる。

 誘う側も鮮美に断られる前提で声をかける。予想通り断られた後も決して無理強いしない。

 でも今回は、いつもどおりに終わらなかった。

「なんでだよお。いっつも誘っても出てくれねえじゃんかよ、付き合い悪いぞ」

 男子生徒の一人、東村が食い下がり始めた。女子二人はなだめようとするが、うまくいっていない。鮮美は困ったように微笑んだ。

「っとにすましてんじゃねえぞ!?なんとか言えよおらあ!!」

 鮮美のネクタイが引っ張られた。

 不意をつかれたのか、少し椅子から浮き、床に倒れる。椅子が遅れて派手な音を立て、女子たちの悲鳴があがる。

教室で鮮美が傷つくなんて予想外だったから。なんて言い訳はなんにもならない。

 迷わず教室へ飛び込もうとした。なのにできなかった。後ろを振り返ると、ひょろい腕が力いっぱい団を止めている。

「離せ幸祐!」

「だめだ!今小原が行ったら、鮮美さんと仲がいい分余計ややこしくなる……大丈夫、クラスの人たちが、――ほら!」

 確かに、しっかりしている女子たちは鮮美を避難させ、男子は暴走した東村を止めにかかっていた。教室内の緊張がほぐれかかっている。

 だが。

「離せちくしょー!!」

 東村はそれを振り払い、鮮美の近くにいた女子たちを乱暴に追い払って、鮮美に近づいた。

「立てよ、立てっつってんだろ!!」

 鮮美は座り込んだまま、うつむいている。

「立てよ!!」

 東村は鮮美の腕をつかんで、むりやり立たせようとしている。

 ーー小さな音が、何か聞こえた。遅れて鈍い音。

「っつ!」

 鮮美の蹴りが東村の膝に当たったのだ。二人は反動で、それぞれ仰向けに倒れこんだ。

 先に起き上がったのは東村。彼はまたも鮮美を立たせようとして、やめた。

 凝視していたのは、彼女の左手首だ。この一件で袖のボタンが外れたのか、いつも長袖であらわになることのなかった白く細い腕がのぞいていた。鮮美は起き上がり、ゆったりとした動作で袖を元に戻した。ため息をついて目を見開く。

 彼女の冷たい視線の先には、震えている東村しか映っていない。

「……なんだ、あれ」

 態度の一変、立場の逆転にクラスも驚きを隠せない。女子の蹴りひとつでここまで状況が変わるなんてまずないはずだ。

 鮮美が小さく口を動かした。

『……見たな』

 声に出していなかったのに、団にはなぜかそう聞こえた。そして、彼女は感情を全て消し去り口を開く。

「話をしようか」

 それは今まで聞いたことのない高めの声で、誰のものか分かるまでにしばらくかかった。

「放課後、この教室。二人で」

 誰もが身動きできないまま。予鈴が鳴った。


 昼の騒ぎは、どこにも漏れなかった。

 女子の悲鳴は黒い生命体Gが教室に出現したから、という嘘をでっちあげ、唯一事情を知った他クラスの幸祐にも口止め済みだ。真面目で静かな正義感を持つ幸祐も、今回は黙っていたらしい。全体的に口外できない雰囲気が漂っていた。その発生源は、鮮美だった。

 休み時間のたびに誰もしゃべらないという重苦しい時間が来る。鮮美も東村も、目を合わすことなく教室に存在していた。

 やっときた放課後は、掃除当番以外は逃げるように教室を出て部活か家路へと急ぐ。好奇心や興味がありそうなやつにしても怖いという感情が先行したらしい。

 鮮美を突き飛ばした東村も帰ろうとした。が。

「帰るな」

 決して大きくはない鮮美の少し低い声が、教室内を硬直させた。教室を出ようとしている振り返らない背中が、少し震えている。

「掃除終わるまで、待って」

 鮮美はほうきで床を掃きながら、相手のほうを見もせずつぶやいた。声をかけられた東村は、観念したようにのろのろと歩き出し、廊下で待っていた。




 ――がたんと、ロッカーに掃除道具をしまうのは、同じ班のメンバーだ。彼らも示し合わせたように、黙りこくったままかばんを持って去っていく。教室には、団と鮮美だけが残された。

「鮮美」

 彼女は答えない。

「俺、待ってるから。どんなに遅くなっても、道場で待ってるから」

 団は一人を残して教室を出る。廊下に立っている人物を見ないようにして、振り返りたいのを抑えて道場へ向かった。

 上の階からは吹奏楽部の基礎練習の音が聞こえてきた。三時も半分過ぎると、教室棟は冷たくて、静かだ。

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