第4話 美しいヒト

 結局一時間目は、鮮美と一緒に遅刻した。普通なら廊下に放り出されるが、今日は別。がらりと後ろの扉から入ると、クラスメイト達の視線がまず突き刺さる。次に教壇の上に立つ教師が振り返った。

「遅い~、ほら小原、とっとと訳してよ。十行め」

 うちのクラスの古文担当、立木花たちきはな 、二十六歳。通称花先生は、若手だがすでにゴーイングマイウェイだ。まんまと担任を逃げ学年付きの教師となり、必要最低限の仕事しかしない。授業も極端。作り物語、特に源氏物語をこよなく愛し、説話には興味がない。徒然草のときなんかひどかった。やる気のなさが丸分かりで落差が激しすぎる。しかも授業時間の半分を古文ネタで占め、教科書なんかそっちのけだ。藤和うち は公立なのに。

「文法嫌い」と豪語する先生は、まじめに予習している生徒だけ当て、自分は解説しない。

「やっていません……」

「えー」

 花先生は心底嫌そうな顔をした。

 昨日は疲れて即行寝た。授業中にやってやろうというアテは外れたし。たまには他の人を当てたらいい。切実な願いだ。部活のせいにはしたくないけど、朝練ありの運動部で、自主的居残り練習やってたら予習全部やるのだってきっつい。

「評定下げるぞー」

 いつものだるそうな調子で容赦なく手帳に書き込む花先生。

 いや、あんまり強く言えないけど、一回くらい見逃してほしい。冗談に聞こえないし。

「じゃあ、鮮美」

 切り替えの速さは校内最速。花先生は次の標的を当てていた。鮮美は驚くことなく淡々と訳しはじめる。

 こいつは、いつのまに、勉強してるんだ。同じくらいの自由時間しかないはずなのに。団が必死に訳を書き移していると、花先生の上機嫌な声が耳朶を打つ。

「んー、いい訳だね。教科書ガイドも、ネットの訳も使わず」

 花先生の古文は最高評価をもらえる生徒数が極端に低い。重要な要素であるノート点もなにかの丸写しだと点はない。丸写しは先生が嫌悪しているからだ。ちなみにやってないのはマイナスで、欠点。 今学期も鮮美の古文は10だろう。

「――で、昔の人は美しい人を恐れたわけね、こんな美しい人間がいるはずがないって」

 花先生の目は、まっすぐ鮮美に注がれていた。

「魔界から来たとか、そういう説もあったみたいよ。異形の者だって」

 鮮美も花先生を見つめる。両者は一歩も退かず、いつも饒舌な花先生は口を閉じた。普段と違う様子に、教室内の空気が変わろうとしている。

 それを収束させたのは、出席簿を教卓に軽く叩きつける音だった。

「……ってうんちくはおいといて。じゃあ源氏の女性関係さらいましょう。プレイボーイだからって好き勝手やりやがって。おっと、じゃあ解説~」

 花先生は厚みのある出席簿片手に笑顔を浮かべ、教室はまたかよー、といった雰囲気になった。いつもの風景。

 ……気のせいだと思いたい。斜め前に座っている鮮美が、わずかに顔を伏せたのは。でも、鮮美が普段と違う様子だと確証を持って言える。

 他の奴らみたいに、外見だけで好きになったわけじゃない。鮮美が持ってる才能、人柄、話し方。それら全部に惹かれてる。いつもそばにいるから、癖や行動パターンも大体分かる。自分のことや鮮美が表に出していない事だって共有したい。

 でも距離を置かれるよりは、不完全でも隣にいたいんだ。

 踏み込まない。なにも聞かない。話したそばから忘れていく些細な事で笑い、だけど楽しかったことだけ覚えている。俺と鮮美はそんな楽な関係を続けている。

 変えたいけど変えたくない。全部知ってしまったら、同時に全部消えてしまうことが怖いんだ。

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