第82話 最悪を回避せし者。

『このあたりで良いか』


 指向性を持った黒い霧は木々を縫う様にして森の中を突き進んできた。少し先には木々が伐採され間引きされた空き地が見える。このまま進んでは誰かに見つかる危険もある。


 いざとなれば人間如きどうとでもなるだけの力はあるつもりだが、奴らは数が多い。万が一という事があってはならぬし、ましてや魔王たる私が人間から逃げるなどという選択肢を取れば十二柱の魔人達【デス・イーターズ】から臆病者とのそしりを受ける事は明白だ。そうなれば奴らは今以上に私の命令を聞かなくなるだろう。


 その為にもまずはこの偵察を成功させ、そののち勇者を血祭りに上げる。更にフォールーン攻略の功を持って我こそが最上位の魔人【魔王】である事を示さねばならない。それこそが我が父である大魔王さまからこの地を任された私の使命なのだ。


 私は闇霧化フォグムスのスキルを解除し、ゴスロリ深緑ローブ姿の少女に戻った。人の気配がある場所まではまだかなりの距離があるのだが、このあたりなら人気ひとけも無く、薄暗い森の中でなら黒く見えるこのローブ姿に戻っても、闇に紛れ目立つ事はないと判断したからだ。


「ふぅ、やっぱりこのあたりまで来るとかなり魔素濃度が低いわね。スキル使用時の魔力の減り方が想像以上だわ」


 歩きながらつぶやく私は木々の間を抜けようやく少し開けた場所へと辿り着いた。思わず【ふぅ~っ】と一息ついた瞬間だった、上空から人の声、悲鳴のような音が響いたのは。


 見上げた空から突然落下してくる人間の男。


「きゃっ!」


 私は咄嗟の事に可愛く悲鳴を上げてしまった。今日は朝から晴天で空から人が降ってくるなどという予言は聞いていない。というかそんな事などある訳があるかー! などと訳の分からない一人ツッコミ思考のまま固まった私の上にその人間は容赦なく落下して来る。


 ぶつかる!


 私がヘタリ込んだ瞬間、それは起こった。


 落下して来た人間が何も無いはずの空間で足を踏ん張り、落下の軌道を強制的に変更し落下地点を変えて見せたのだ。


『な、な、な……』


 声にならない声が喉の奥からもれ出る。あまりにも非常識なその現象に身体が震えた。魔王たるこの身がおびえるなどあってはならない。今までそう思い続け、父上が送り込んできた魔人達の能力がどんなに驚く様なものであろうと魔族の王として平静を装い続けたのだ。


 だがコレはいけない。突然の事に完全に素が出てしまった。


 彼女の思考が停止している状態のまま、落下して来たその人間はズドンっという大きな音を立て、大地へと着地する。そしてその衝撃で起こった風で落ち葉が舞い上げられ、それは彼女へと大量に降りそそいだ。


 私は動揺を隠したいのだが、思考は完全に停止。パニクったままだ。


『ネコか、またネコのフリをすべきなのか?』


 パニック思考が本人の気付かぬまま完全におかしい方向へと傾いていた。更に牛乳便の底のようなグルグル目玉になった挙げ句、枯れ葉まみれになりミノムシの様にその場にへたり込んだままなのである。この時点で、私にとって平常心に戻れる要素は何一つ無かった。


「すまない、大丈夫か?」


 空から降ってきた人間は慌てて私の落ち葉を払った。その拍子に起こった小さな風で被っていたフードがめくれ上がり、素顔があらわになる。


 私の顔を見て人間はその場で固まったようだ。


 たぶん私の見た目は人間であれば十五歳位だろうか……うすく白い肌に艷つややかで背中まで届く長い黒髪。そして耳の少し上から波を打つ様に前に突き出した白く美しいつの。この角を見て人間は固まったのだろう。コレを見れば私が魔族であることは誰にでも一目瞭然だからだ。


 それなのに普通であれば私を魔族と知り凍りつくはずなのだが、この人間の男の態度は何を思ってか私の事を恐怖で哀れに震える小娘だと思ったようだ。


 彼の態度から、私の表情は屈辱で険しく歪み、ピンク色に輝く小さな唇は小刻みに震え、目の前の人間を射殺せんとする程の殺意を込めた瞳は支配の魔眼ドミネーション・アイにより強く赤く煌めく……とそうであって欲しかった。


 実際の今の私は、口をパクパクさせて完全に間の抜けた顔で呆けているただの小娘に成り下がっていた。あまりの事に自分を演じる事が全く出来ない。ただ、ただ、身体を小刻みに震わせるだけだ。


 彼は頭に積もった枯れ葉を取り除き、ゆっくりとフードをかぶせると私の手を取りこう声を掛けた。


「ビックリしちゃったよね。ごめんなさい。ところでお父さんかお母さん、君の知り合いの人はこの近くにいないのかな?」


 彼は声を掛けながらも周りに誰かいないか見回しているが、そんな者が近くにいるはずなど無かった。


「お嬢さん、お名前を教えてくれるかな?」


 近くにひとけがない事が分かると、彼は私の名前をたずねて来た。この魔王相手に自ら名乗る事もなく、名をたずねるとは無礼にもほどがある!


 ギュッと握られた手から強い圧力を感じながらも、抗う様に強く強く呪詛の様に言葉を絞り出す。


………無礼であろう、…………人族の分際で、この……………れ者め!…………ろすぞ!!


「……うしこ?」


 必死に絞り出した声はかすれて声にならず、まるで【ウシコ】と言ってる様に聞こえてしまう。


「ちが……っ」


「カワイイ名前だなウシコ」


「!!!」


 すぐに否定しようとしたが何故だかきちんと言葉にならない。牛の獣人がどうとかとボソボソ呟いている彼は、か、カワイイ名前などと言っているが1ミリ足りとも可愛くなど無い。


 だいたい何なのだウシコって。人間とはそんな愚かで、愚かな、愚かしい名前を普通につける生き物だとでも言うのか……私は魔族の王なのだ、そんな名前などであってたまるか!


 怒りで顔が紅くなる。そうだコレは怒りだ!


 普段、言われた事など一度も無い【カワイイ】と言われたからなどではない。決してだ。


『ぐぬぬぬ……』


 魔眼に全神経を集中させ射殺すような目付きで男を見つめているのだが、全く効果が出ない。魔力を使う他の術も全く発動させる事が出来ず、むしろ私の魔力が結実する前に霧散させられているかの様にさえ感じられた。


「心配するなウシコ。俺がちゃんとおまえを両親の所に連れて行ってやるからな!」


 満面の笑みで微笑む男は、そう言うとへたり込んだままの私を抱きかかえ城壁のある方へ向かって森の中を走り出した。


『やめろ無礼者! 余計な事はせんで良いのじゃ、離せ、はなせぇ〜!!』


 男に抱かれている私は、彼の胸や肩をポカポカと殴り続けている。魔力を込めた力は小さな丘さえも液状化させるだけの力があるのだが、彼の腕の中にいる私の魔力は全く集中させる事が出来ない。


 魔術やスキルで敵わずともデス・イーターズにも簡単には引けを取らないと自負していた腕力が、全くと言っていいほど効果を現さなかった。魔素の少ない大地の陽の力マナの影響がこれ程までとは思ってもいなかった。


『何故、何故なのじゃ〜!』


 声にならぬ声で叫んだ私の目には、うっすらと雫が溜まり始めていた。このような情けない姿を誰かに見られたら私は死ぬ……そう思うほどその雫は量を増していくのだが、もう自らの意思では止める事も出来ない。


 そうした瞬間に私を抱きかかえている人間と目が合ってしまった。見られた。この情けなく涙をこぼしそうになる顔を。


 だがこの人間は私と目が合うなりこう呟いた。


「ごめん、いきなりこんな事になって怖いよね、一刻も早く親元に返してあげるから少しの間だけ我慢してくれ」


 そう言うと彼は走っていたスピードのギアが数段階上がったかのような急加速で、木々の間をぶつかるのではないかという様なスレスレを切り返しながら目的地への最短コースを暴走列車の様に走り抜けて行く。


 読者にはブレーキの壊れた自転車で急坂を下り、そのまま更に加速して雑木林に突っ込んで行く感覚と言えば分かりやすいだろうか。


『ぎゃあぁぁあぁ……』


 声にならぬ声で悲鳴を上げた私は、恐怖で泣くどころでは無くなり、涙も風速で吹き飛ばされた。ある意味人間如きに泣き顔を見られるという最悪の結果だけは回避する事が出来たのだが、その後の記憶がまるでない。


 そう、私はアホ面を晒したまま、完全に気絶してしまったのである。コレはこれでとんでもない案件であると、目を覚まして顔から血の引く思いをする魔王ことウシコなのだが、それはまた次のお話で。








 ーつづくー




 林の中を駆け抜け、ようやく開けた広場や仮設の住宅、テントなどが立ち並ぶ避難民収容所へとたどり着いたヒビトは、その時点で初めて腕の中でぐったりとしているウシコに気が付いた。


「ウシコ、どうした、大丈夫か? ウシコ!!」


 優しくそっと体を揺さぶってみるのだが、白目をむいて、口からヨダレをたらしたウシコは完全に気を失っている。

 

 突然の事に気が動転したヒビトは、胸元から飛び出して来たティーに、現状を見てたっぷりとしぼられる事になった。


『マスターとの付き合いが長いボクだから何とかあのスピードにも慣れましたけどね。死なないはずの人工妖精であるボクが、あのスピードで走るマスターのせいで何度も本当に死を覚悟したんですからね。だから普通の人にあれは絶対駄目ですよ、あれは……。だいたい、もともとマスターの体はエルム様が女神コーナス様に土下座して頼み込んだ、特別製ですよ。特別製! そこにナーちゃんの身体強化スキルを手に入れて、更にいつの間にか強化サイクルのギアアップまで無意識で覚えちゃって……ズル臭いインチキレベルの能力を持ってるって事でなんですよ』


「いわゆるチートって事?」


『呼び方はどーでもいいんです!』


「はい、すみません」


『それを最近は無自覚に使って、とうとう死人まで出して。サポート精霊としてもう看過できない事態ですよ、分かってるんですか!』


「いや、ウシコまだ死んでないし……」


『シャラ―――ップ!!』


 その後もティーによる説教は続いたのだが、突然こめかみに指を当てると『う〜ん』と小首を傾げて悩むなような仕草をみせた。


「どうしたティー?」


『それにしてもなんかですねぇ〜先程マスターの胸の中に隠れていた時は、とても強い魔力反応を感じた気がしてたんですよね。今はなんにも感知できませんが』


「強い魔物があの近くにいたって事か? でも、俺のは何も反応しなかったぞ?」


『ああ……あの【自宅警備】とかっていうニートスキルの事ですか?』


「その呼び方はやめろ」


 ちょっとふて腐れた風のヒビトを見ながら、ティーはクスクスと笑うと口元を手で隠す様にして、フフンと鼻を鳴らすと『ボクのイントネイション・スキニングにはまだまだ敵かなわないですからね』とちょっぴり誇らしげだ。


「ちぇっ!」


 ヒビトの危機管理スキルは【自宅警備】……つまり彼自身が自分の家、もしくは身の置き場所として認識していなければ発動しないスキルなのだが、それを知らないヒビトからすれば、ちょっと面白くないので軽く舌打ちしておく。


 とは言え、いい加減ウシコをこのままにはしておけないので、ティーとの無駄話はさっさと打ち切って誰か介抱できる人を探して難民避難所へと足を踏み入れるヒビトなのであった。




 この時点で天界にいるエルムのコピーは何だか良く分からないが【勇者が魔王を倒した】との認識でクエスト報酬を支払っているのだが、淡々と作業をこなす程度の役割しか与えられていないポンコツコピーは、完全にポンコツ女神への報告を忘れており、四次元ポシェットの中のお金が何故かとんでもなく増えている事をエルムが知るのは、まだ少し先の事なのであった。






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