第14話 光の刃、光の矢
雲を割き、風を起こして空を移動している時、カカの背中にしがみついているリオは、心臓がトクン、トクンと鳴っているのを聞いていた。
レッドに会える。レッドに会える。会ったらきっとすごく嬉しくなるんだろうな。会ったら、何を話そうかな。
全身に熱がこみ上げる。頬は真っ赤になるほど熱っぽくなった。そうして、リオは地上に着地したカカの背の上に立つと、一番最初にレッドを見た。戦場の冷たい風がリオの首筋を撫でていく。それが気持ちいいほど、リオの体は熱かった。
「リオ…」
レッドの呼びかける声が聞こえた瞬間、心臓が強くドキンと鳴った。すると、全身がさらにぶわっと熱くなり、たまらずレッドから顔を反らした。目に涙が浮かんだ。レッドがいる。レッドに会えた。
レッドには、リオの態度はとても素っ気なく見えた。再会は嬉しかった。しかし、同じくらいの不安があった。その場には、リオやカカには再会してほしくなかったハビカスがいる。
ドーンという大砲の音が響き、丸い弾がボコンと音を立ててカカの体に当たると、ゴムボールのように跳ね返った。弾は空中で爆発した。銀色の翼を広げ、爆炎がリオに当たるのを防いだ。翼を振ると突風が立った。
突風はバステアス王の兵士たちを直撃した。それが通り過ぎると、戦場に現れた銀色に輝く龍の金色の目がじっとバステアス王を見つめた。兵士の中には、腰を抜かす者、握る剣が震えている者、立ち尽くす者がいた。しかし、バステアス王は攻撃の手を休めなかった。何十もの鉄砲がカカに向き、同時に大量の矢が放たれた。それらは全てカカの銀翼に振り払われ、威力を失った小さな弾や矢が地面に転がった。
カカはバステアス王の軍勢に向かって、雷の轟くような強く大きな声を上げた。地面が揺れ、耳をふさいでも骨までが振動するような声が戦場を埋め尽くした。
「おお、すごいすごい。龍の声が轟くところなんて、滅多に見れない」
ゼイダが愉快そうに呟いた時、ハビカスがカカに向かって飛んで行った。ゼイダが「おや」とそれを見過ごしていると、先に気づいたリオが空を見上げた。
「ああ、銀龍。麗しい、私の歌姫っ!」
ハビカスは杖の先に炎の弾を出すと、リオに向けて投げ飛ばした。リオは両手で杖をぐっと持つと、落ちてきた炎の弾を「おりゃあああ!!」と叫びながら杖で打ち返した。炎の弾がまっすぐハビカスに返っていくと、炎に押し込まれ、ハビカスはそのまま空の上まで飛んで行った。それを目で追いながらゼイダは「ははは。見事見事」と手を叩いていた。「フーフー」と息を整えるリオの横にゼイダが降りる。
「歌姫、いい腕をしているよ。僕は大変気に入ったね」
「いい腕って、どんな腕?」
リオは、ゼイダの「いい腕」というほめ言葉の意味がわからなかった。ゼイダが「ふふっ」と笑っていると、空から戻ってくるハビカスが見えた。マントが焦げて、空中に黒いチリが飛んでいく。ハビカスはもう一度炎の弾を投げた。
「こんな腕さ」
ゼイダは左手を空に伸ばすと、何かを握るように拳を作り、その手を振り払った。するとハビカスの目の前で炎の弾がはじけるように消えた。ハビカスは胸元を掴まれ引っ張られるようにして地面に叩きつけられた。
「歌姫は箱入り娘だものね。今度、魔力の使い方を教えてあげよう。君はきっと素晴らしい魔術師になるよ」
「魔術師にはなりたくない」
「どうして?」
「だって、魔術師は火の玉を落とすもの」
「では、火の玉を落とさない魔術師になればいい。君らしい、素敵な魔術師にね」
「私らしい…?」
すると、カカが急に首を伸ばし翼を広げた。リオは態勢を崩したがゼイダが支えた。ゼイダもカカと同じように空を見上げた。
「歌姫、君はここにいた方がよさそうだ」
空には真っ黒な雲が渦を巻いて広がっていた。ハビカスが地上から空へと昇っていく。徐々に風が強くなり、青白い雷光が雲の中を走っていく。轟く音が落ち、荒野の乾いた草木が舞い上がった。レッドやバステアス王を含む地上の人間たちは、その風圧に耐えるので精一杯だった。矢や剣が空に舞い、ゼイダはふわっとカカの背から飛び立ち、ハビカスと並んだ。
カカが背中のリオに目を向けた。喉奥で呟くような小さな雷の轟く音を立てると、リオがニコッと笑って返した。
「レッドには、また会えるわ。生きていれば、きっとお話しだってできるもの。それに、龍の国でされたことをあの魔術師に返すの。だから行こう。空へ」
リオはカカの首筋に手を当てた。カカは首を伸ばし、翼を広げ、上昇する風に乗って空へ飛んだ。
カカは口に雷をため込み、一気に吐き出した。雷はまっすぐハビカスに向かったが、ひらり、ひらりとかわした。そこにゼイダの左手から炎の弾がいくつも飛んでいく。ハビカスは空中を自由自在に飛び回り、攻撃をかわしながら杖を振ると、渦をまく黒い雲から、雷がいくつもの手を伸ばすように落ちた。大きな雷の轟く音が響き渡った。
雷が落ちた瞬間、ゼイダは空へ手を伸ばし、広範囲の見えないバリアを張り、地上に雷が落ちるのを防いだ。落ちた雷は、まるでバリアの中に流れるように消えていく。
「なるほど。これはカカ殿の光だね。そのまま打ち返したのか」
「さようでございます。この雲に吸収したあなたたちの攻撃は全て、あなた方に返るのです。ほら、このように」
ハビカスが杖を振ると、雲の中に丸く光る玉が現れた。それは、ゼイダが放った火の玉だった。火の玉はバリアを通り越し、ゼイダの顔面に直撃した。ゼイダが放っただけの火の玉が、続いてゼイダの体を痛めつけた。
「ゼイダ!!」
ゼイダの体から灰色の煙が立っている。顔は毛が燃え、真っ赤な肌がところどころに見えている。リオが空気を胸いっぱいに吸い込み、癒しの力を持つ歌を歌おうとした時、ゼイダの口元がニヤリと曲がり、クスクスという笑い声が聞こえた。
「痛みは、私の強さになるのだよ。残念だったねえ、ハビカス」
赤い瞳がハビカスを睨んだ。その口元は笑っていた。傷は風が通り過ぎるような速さで治っていく。赤い肌は再生され、そこからオオカミの強く太い毛が生えた。
ハビカスが息を飲む一瞬に、ゼイダはハビカスの前に移動した。ハビカスの首をグッと持ち、カカに向かって投げた。カカは口から光る雷を放つと、ハビカスの影はその光の中に消えた。そこにゼイダが飛び込み、二人はカカの放つ光の中で魔術を放ち合った。光の中にさらに別の光が突発し、爆発音が重なり、そこにゼイダの笑い声がする。カカの放つ光が消えると、そこにゼイダが一人浮かんでいた。
「逃げるなハビカス!」
その時、ハビカスは一瞬にして移動し、リオの首を両手で握り絞めていた。リオは息苦しさで顔を真っ赤にした。
「私の歌姫。私の歌姫!」
リオの顔面で大きな口が開くと、黄ばんだ細い歯が見えた。それがリオの首元に近寄ってくる。リオは体が震えるほど恐ろしかった。抵抗を続けていると、リオはカカの背中から落ちた。首を締めつけながら落ちていくと、ハビカスに掴まれた首がちぎれそうなほど痛かった。リオは思わずハビカスの腹を蹴り、一人地上へと落ちて行った。自力で浮かぶことができないリオは、なすすべなく落ち続けた。
「レッド王子、バステアス王が動きましたぞ。態勢を整えた軍の後ろへ移動をし始めました!…て、あれ?レッド王子!レッド王子!」
望遠鏡を覗くガジンの隣にいたはずのレッドがいなかった。レッドは勝手に馬を走らせていた。手綱を握る手が離れ、両手を広げなら横に体を反らすと、そこにリオが落ちてきた。リオに手をかけた瞬間、レッドは馬から落ち、地面をゴロゴロと転がった。
リオはゲホゲホと咳き込みながら起き上がった。体を打った痛みが全身をかけ、起き上がった体が倒れかけた時、リオの体を誰かの腕が支えた。顔を上げると、目の前にレッドがいた。
二人は互いに見つめ合った。レッドは砂で汚れたリオの頬をなでた。リオは懐かしい手のぬくもりに、涙を浮かべた。
「レッド…。レッド!!」
「リオ」
二人は力いっぱい抱きしめ合った。リオの目からは大粒の涙が零れ落ち、レッドは目をつむった。
「怪我はないか?痛いところは?」
「怖かった。怖かった!死んじゃうと思って怖かった!……あ!!」
リオがレッドの顔を見ながらしばらく黙ってしまった。
「どうした?」
そうだった。レッドは私を谷に置いて行ってしまったんだった。私から離れたかったんだった。そう思い、リオは立ち上がり、レッドから離れて行った。すると、レッドが「リオ!」と呼び止めた。リオは立ち止まり、申し訳なさそうに振り返った。
「会えて嬉しい…」
それは、レッドの正直な気持ちだった。しかし、レッドの言葉にリオは驚いた。同じ想いだったことが嬉しかった。しかし、それ以上に、レッドの言葉と行動の矛盾に納得がいかなかった。勝手に谷に置いて行ったのはレッドのくせに。私から離れていったのはレッドのくせに!
「な…何それ!!」
リオの言葉にレッドは驚いた。二人で再会を喜び抱きしめ合ったと思っていたのに、なぜ否定的な姿勢を取られたのか。レッドにはわからなかった。ショックだった。
リオの背後にカカが降りてきた。リオはカカがくわえていた杖を受け取り、カカの首を撫でると、もう一度背中に乗った。空中では、ゼイダとハビカスの魔術の打ち合いが行われていた。
「カカ、行って」
カカはレッドに目を向けた。頭を少し下げ、翼を広げた。空へと飛んでいくカカの背に、青い髪が見える。レッドは心配でたまらなかった。
その時、地面にしゃがむレッドの背後から、ガシャンという鎧のかすれる音がした。振り返った時には、バステアス王の兵士が剣を振り上げて立っていた。その兵士の姿が初陣の時の光景と重なる。
初陣の時、敵兵を一人斬っただけで過呼吸を起こし、苦しくてしゃがみ込んだ。レッドの背後には、剣を振り上げた兵士がいた。兵士の剣は、レッドの背中を裂き、今も消えないまま残っている。
初陣の時の光景と重なり、背中の傷跡がじんとした痛みを思い出させた。レッドは恐怖で全身が固まり、動けなかった。するとレッドの前にウイルが立ち、剣を交えた。
「レッド王子、お立ち下さい!」
ウイルは剣を振り払い、兵士の腹を蹴り倒した。すぐにレッドの腕を引っ張り、立ち上がらせた。
「すまない。ウイル」
「お怪我はありませんか?」
「ああ」
ウイルは満足げに笑っていた。
「あの時…、初陣の時、守れなかったお背中を守ることができました」
それは、ウイルが右手の小指を失った時からずっと持ち続けていた後悔だった。ウイルのその言葉は、レッドの恐怖心を消した。
その時、ウイルの向こうの遠いところで、弓を引くバステアス王の姿が写った。太い腕、立派な鎧、はためく赤いマント。矢じりはまっすぐにレッドに向けられ、放たれた。
レッドはウイルの背に周り、飛んできた矢に剣を構えた。飛んできた矢を二つに割り、安心したところに、もう一つの矢が飛んできた。矢じりはレッドの頬をかすめて通り過ぎた。頬には矢じりがかすめた線だけが残り、そこから血は出てこなかった。痛みはなく、当たった感覚だけが頬に残っている。
「レッド王子、大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫だよ。チェンのまじないが聞いているようだ」
レッドはバステアス王を見た。バステアス王はレッドをまっすぐ睨み、次の矢に手をかけていた。戦を止める気もない。レッドを殺す気でそこにいる。それが見て取れるほど、バステアス王の気合が伝わってきた。
戦場では剣と剣が交え、矢が飛び交い、煙が立ち、大砲の大きな音が響いていた。レッドの周りにも剣を構えるバステアス王の兵士が立っている。流血や怪我をしている姿はないものの、疲労の姿はあちこちに見ることができる。
「痛みから聞こえる声もあるんだよ」
ゼイダの言葉が思い出される。
****
空ではカカとゼイダ、ハビカスが飛び回っていた。カカは口から雷光を放ち、ゼイダは手から風や炎、氷の刃を出し、ハビカスは杖から炎の玉を打ち出し、雲からカカやゼイダの放った攻撃をそのまま返した。
先に息を切らせ始めたのはハビカスだった。黒いマントを羽織る肩が上下に動いている。ゼイダは楽しそうに笑った。
「脆弱なことだ。ハビカス。もう終わりかい?」
「森の賢者…。私はお前が何をしたか知っているぞ」
「何のことだい?」
「昔、体の弱かった私の両親は”森の賢者の薬”を手にした。使えば使うほど、体の症状は良くなったが、心の状態は悪くなった。結局、無気病を悪化させ、包丁を手に取り、目の前で斬り合って、血に染まって死んだ。あれは異常な光景だった」
「つまり、君の親が死んだのは薬のせいで、つまり、森の賢者たる僕のせいだと言いたいんだね?」
「他に考えられない。すでに魔術師に弟子になっていた私は、原因をさぐった。わかったのは、常人には毒となりえるほど膨大な魔力の蓄積が原因だということ。常人がごく普通の生活をする中ではあり得ないことだ。ではそうなった理由は何か。それは、”森の賢者の薬”を手にしたものたちとの接触。つまり、”森の賢者の薬”こそが全ての原因だったのだ」
「あはは。まあ、よく考えたことだ。君はそうして知恵をつけていったんだねえ。君が龍の国を知ったのはいつだい?」
「およそ50年前、師匠は龍の国に偶然入りこんでしまったという話を聞いたのです。そこで見た歌姫は、今も変わらぬ姿を保っている。私は龍についての情報を集め、師の残した研究書を読み、思考を重ねた。そして、龍の血こそが不死をもたらす蜜であることを理解した。それを手にすれば、無気病を悪化させる一番の原因といえる、死への不安や恐怖は解消される。不老不死となり、生き続けることができる!ヒヒヒヒ。両親のように死ぬものか。普通の人間のように簡単に死んでなるものか。私は生き続けたい。私だけが全ての生命の頂点として、永遠を生き続けるのだ。死のない世界。恐れるものがない世界。その世界を、私だけが生き続ける!ああ、何と素晴らしいことだ」
「…生き続けることがどのようなことかわかるかい?君は死への不安や恐怖を消したいのかもしれない。だけど、永遠を手にした時、今度は永遠に対する不安や恐怖を手にする。そして死に憧れるのだ。いいかい。終わりがあるから過去は美しいのだ。終わりを知らないから、未来に憧れるのだ。君のそれは、ただの無いものねだりだよ」
「違う。違う!我こそが永遠を生きる唯一無二の存在になるのだ。不安も恐怖もない世界を生き続ける!私だけが!!…そのために、私は君がほしいのだよ。龍の国の歌姫」
濁った金色の目が視点を合わせないままリオを見つめた。大きな口はにんまりと不気味に笑っている。リオはゾッとして体を縮こませた。すると、そのまま体が固まってしまった。ハビカスの魔術だった。
すると真っ黒な雲がゆっくりと渦を巻き、その中心から、カカの雷光を集めた大きな光の刃の先が現れた。それはリオとカカに向けられていた。
「浅はかな考え、自己満足でしかない欲。君とお話しても楽しくないな。サヨウナラだ、魔術師ハビカス」
ゼイダは一瞬にしてハビカスの前に移動し、大きな手で頭を掴むと、首をガブリと噛んだ。そこからじわじわと魔力を吸い上げると、ハビカスの体はしわしわになっていった。黒いマントの裾からは、力を失っていく細々しい指、縦じわのはいる茶色い爪が覗く。
「ヒヒヒヒ。無駄だ。私は、永遠を手にするのだから」
「そうだな。死して永遠を手にするがよい」
ハビカスは「ヒヒヒヒ」と笑うと、杖を上げ、ゼイダの肩をポンと叩いた。すると、ゼイダは強い衝撃を受け、地面にたたき落とされた。
布切れのように漂うハビカスが、光の刃の先に立ち、杖を振り下ろすと、刃はカカとリオに向かって勢いよく落ちた。
リオの体は、カカの背にしっかりとしがみついたまま動かなかった。カカは翼を広げ、ぐるんと回転し、背中を地上に向けた。すると固まったリオの体は、地上へと落ちていった。
「待って。カカー!!」
その時、リオの体が自由に動かせるようになっていた。目を開けられないほど眩しい光の中に、銀色の鱗は星をまとうように輝いていた。金色の瞳が、リオをまっすぐ見つめている。目を合わせた一瞬、音が消え、視界の全ての動きが遅くなった。ゆっくり、ゆっくり、リオはカカから離れて行く。
カカに手を伸ばした時、空中でゼイダがリオを受け止めた。その瞬間、戦場全てが真っ白な光に包まれた。爆音と爆風が荒野を揺らした。あまりの衝撃に目をつむっていたリオの頬に、ピチョンと滴が落ちた。目を開けると、ゼイダがじっとリオを見つめていた。
「僕だけを見つめなさい。他は見てはいけないよ」
リオはじっと赤い瞳を見つめた。ゼイダの鼻がつんとリオの鼻に当たるほど顔が近かった。しばらくして、辺りの光は消え、戦場の空中の景色が広がった。同時に、真っ青な雨が降り出した。その雨は、龍の国の水や緑の匂いがした。
ゼイダの腕の中にいたリオは、ゼイダが隠そうとしている状況をわかってしまった。涙が溢れ、じっとしていられず、ゼイダの腕の中で暴れ出した。
「離して!離してえ!!」
「君は空を飛べないだろう。ここから落ちてしまったら」
リオは何も考えず、じっとしていられず、ゼイダから強引に離れ、地上へ落ちた。
地上には、地面を揺らすほどの衝撃と同時に、真っ青な塊が落ちてきた。地面は沈み込み、そこに青い雨がたまる。レッドに見た塊には、巨大で、青い液体に濡れる表面に、見知った光る鱗が見える。地面は青い雨に染まり、戦場に立つ旗を真っ青に濡らした。その光景は、まるでハビカスに攻撃された後の龍の谷のようだった。
「カカ、カカ!!」
すると目の前にひらひらと黒い布が落ちてきた。それはハビカスだった。ほとんど体の形はなく、ぺしゃんこの体が、黒いマントの中に隠れている。息がないことは明らかだった。
「ハビカス…」
すると、空からリオが落ちてきた。リオはカカの体の上で跳ね返り、地面に転がり落ちた。ゴロゴロと転がった体を起こした時、目の前には見たこともないカカの痛々しい体があった。リオは涙を落とし、もう体を動かすことができなかった。
「カカ…」
その時、背後で「うおおお」という声がした。振り返ると、全身を鎧で固めた兵士が剣を振り上げていた。リオは何もできなかった。すると太い腕がリオの体を軽々とすくい上げ、兵士の剣をはじいた。
「リオ様、お怪我はありませんか?」
「…ガンジ。ああ、ガンジ!」
リオはガジンに担がれていた。ガジンはそのままレッドの軍のところまでリオを連れて行こうと走った。リオは嗚咽を上げるほど泣きじゃくっていた。
「落ち着いて下され。ここは、戦場なのですぞ!」
「カカが…。カカがっ」
「わかっております。わかっておりますとも!しかし、今は泣いている場合ではありませぬ。今、あなたがすべきことが、きっとあるはず!」
ガジンはリオの背を優しくなでた。それだけで、リオは少しだけ落ち着くことができた。
「…お願い。カカのそばに連れていって」
「あの銀龍ですな。承知!」
ガジンはリオを肩に担いだまま、せっせと走った。リオの目からは涙がこぼれていた。
****
戦場は終わらない戦いが続いていた。同じ鎧を着た兵士が対峙し、赤い旗、青い旗が重なり合い、地面に倒れていく。レッドは周りの様子を見ながら剣をふるい、ウイルはレッドの背後を守っていた。ブルートは声を上げ、弓矢隊の指揮をしている。
その時、太鼓が激しく鳴った。遠くでバステアス王が剣を抜く姿が見えた。すると、レッドとバステアス王の間にいた兵士たちが脇に寄り、まっすぐの道ができた。
「父上、来いと仰せか…。ウイル!行くぞ!」
「はっ!!」
二人は手綱を打ち、バステアス王へとまっすぐ走った。
リオを担いで走るガジンには、剣先を前に向け手綱を打つバステアス王の姿が見えた。反対側にはウイルとレッドがバステアス王に向かって走る姿があった。ガジンは一騎打ちになると思った。その時、横たわる巨大な銀龍カカの背の後ろで、レッドとウイルに向かって弓を引く二人の兵士の姿を見つけた。
ガジンは足を早め、リオをカカの側に置くとカカの兵士の後ろに回り込むように走った。
「王子らの邪魔をするでなああい!!」
ガジンは一人の兵士の頭を後ろから打撃し気絶させると、それに気づいたもう一人が弓矢を離し、その瞬間にガジンの太い腕に首を絞められ気絶した。
放たれた矢は低く飛び、それがレッドの前方を走っていたウイルの馬のももに命中した。馬は前足を上げた。ウイルは手綱を引き、レッドの進路を妨げないところで馬を倒し、ウイルも地面に体を打ち付けた。
「ウイル!」
「止まらないで行って下さい!」
レッドはウイルの横を飛ぶように進んで行った。手綱を握り、まっすぐ前を見るレッドの姿は、いつものレッドとは違って見えた。王子として、悩みながら生きてきた人が、苦難を乗り越え、目的を果そうとしている。その姿はとても力強く大きな存在に見えた。
馬はタンッと地面を蹴ると、巨大なカカの体の上を飛びこえていった。レッドは背筋を伸ばし、大鹿の鹿角の弓を引いていた。その手に矢はなかった。レッドはゼイダに向けたように、弓をバステアス王に向けた。
弓はギシギシと音を立てた。腹や背中、胸、腕、肩、首に力を入れ、全身全霊で弦を引いた。レッドの頭の中には、大鹿を捕らえてからのことが思い出された。
立派な角を持つ主だった大鹿との闇の中でのやりとり。龍の国の風景。知らなかった世界について教えてくれたチェン。言葉を交わしたことで、心の距離を縮めたアリス、ブルート。剣を交え、友と呼び合えるようになったゼイダ。ガジンやウイル。カカ、ビビ。そしてリオの姿。
遠くから駆けてくるバステアス王が、剣を構え、「レッドー!!」と叫ぶ姿が見える。レッドはレッドは力いっぱい弓を引いた。
「私は、あなたとも、心を開き合いたいのです。父上!!」
どうか、どうか、その闇に染まる心の奥に見えた小さな光が、父上の心を照らしますように。
バステアス王の胸が見えた時、レッドは弦をはじいた。すると光の矢がバステアス王の胸にまっすぐに飛んで行った。バステアス王の剣が矢を阻もうとしたが、矢は剣を通り抜け、胸の中に入った。
バステアス王の胸の中から光が溢れると、光がバステアス王の視界を包んだ。その中で、バステアス王は無気病にかかった初期の頃の、明るく照らされていた時代の光景が思い出された。
「私は幸せ者です」
「どうして、そのようなことが言える」
「こうして、優しいあなたと結ばれたのです。ほら、ここにその証があるのです」
温かな日の光のように笑う妻、ベルガモット姫は、バステアス王の震える手を取り、大きなお腹に触れさせた。
「これは、あなたと私を永遠に照らす光です。どうか、この光があなたの心を照らす、真っ赤な太陽でありますように」
その光景が遠のき、視界は真っ白になっていく。バステアス王の目からは、黒い影が上り、光に溶けて消えていった。真っ暗だった目は、レッドと同じ赤茶色をしていた。
「バステアス、バステアス」
光の中でバステアス王を呼ぶたくさんの人の声がこだまする。いくつもの手が差し出されていた。温度が伝わってくる。優しい声が体中に響く。
「誰か…誰か」
バステアス王は寂しそうにつぶやいた。光に向かって伸ばす両手は震えていた。
「私を、一人にしないでくれっ。誰か…」
すると、バステアス王の手をいくつもの手が優しく掴んだ。たくさんの人々がバステアス王の名を呼んだ。手の向こうには、よく知る人たちの姿があった。最後に手を伸ばしたのはレッドだった。
「父上」
「レッド…」
そしてレッドの横には、亡き妻、ベルガモット姫の姿があった。優しい笑みを浮かべている。その笑みを見ただけで、バステアス王の目が潤んだ。
「ベルガモット…」
そうして眠るように、バステアス王の意識は遠のいていった。
馬から崩れ落ちそうになったバステアス王を走りこんできたガジンが受け止めた。ぐったりとするバステアス王の息を確認すると、ガジンは叫んだ。
「レッド王子の勝利じゃ!!レッド王子の勝利じゃあ!!」
その声は戦場に響き渡った。空にいたゼイダは指を立てると、そこから煙花火を打った。パンパンと花火の爆発音がすると、剣を握っていた兵士たちは動きを止め、レッド側の兵士たちは腕を空にかかげ雄叫びを上げた。バステアス王側の兵士は剣を収めた。
「終わった。戦っていたはずなのに、血も出ずに…」
「もしかして、誰も死んでいないのではないか?」
「一体どうなっている…」
兵士たちは呟き始めた。倒れる兵士はいたものの、その戦場において死者は誰一人として出なかった。立ち尽くす兵士たちは、少しずつ正気を取り戻し、自分たちの戻る場所へと、ゆっくりと歩み始めた。
「ガジン、父上は無事か?」
馬を降りたレッドが、バステアス王を抱えるガジンに駆け寄った。
「大丈夫ですぞ。しっかり息もありますし、怪我もなさそうです。なぜか、お顔の血色がよくなったような気が致します」
「よかった…」
レッドの手は震えていた。本当は実の父親に弓を引くことがとても怖かった。それでも矢を放ったのだった。不安は大きかった。だが、レッドがこの戦に臨んだ思いははるかに強かった。
戦場の空はすっかり晴れていた。すでに日が傾き始め、空は薄い赤が差し始めていた。風が穏やかに吹くと、薄い白雲がゆっくりと流れていった。遠くに見える森や山々の影が、少しずつ濃くなっていく。
その時、「カカ」と何度も呼びかけるリオの声が聞こえた。レッドはガジンにバステアス王のことを頼むと、カカとリオのそばに走っていった。
カカの体からは青い血が溢れ、地面を真っ青に染めていた。泣きながらカカの体にしがみつくリオの衣装は、カカの血に濡れ、全て真っ青になっていた。その横に立つゼイダが、レッドに振り返った。レッドと目を合わせると、俯き、頭を横に振った。
カカはもう助からない。それは、レッドに静かに伝えられた。
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