第11話 リオの恋

 龍の国に帰って来てきてから、リオは膝を抱えていたり、頻繁に谷を見渡す草原の丘に行ったり、森を散歩することが多くなった。カカは、リオの様子がとても気になっていた。草原の丘も、森も、レッドが通る道だった。リオは明らかにレッドを気にしている様子だった。

<リオ、帰ってきてからずっと何を考えているの?>

「何でもないよ。いつも通りよ」

 リオはニコニコと笑って見せている。けれど、それが不自然だった。カカはよく理解していた。リオはずっと、レッドのことを考えている。

 リオはすっかり服を着ることに慣れてしまっていた。その日も衣装を着て、草原の丘に一人で行くと、膝を抱えてボーっと過ごしていた。

 丘からは、緑豊かな山々が広がり、間を大河が流れているのが見渡せた。時々、ゆらゆらと飛ぶ龍の背が光って見える。一匹で飛んでいるもの、二匹で飛んでいるもの。いつもはそれが楽しそうに見えたが、今はそのようには見えない。

 目の前を遮るものはなく、落ちてく夕日がリオの目の前にある。ゆっくりと、夜が近づいていく。強い風が空から下りてくると、リオの真上を悠々と対の龍が飛んでいった。目が離せなかった。

 リオはレッドのことを思い出した。二人で並んで笑っていた時のことが頭に浮かんだ。おしゃべりしたり、食事をしたり、本を読んだり、馬に乗ったり、一緒に眠ったり、星空を眺めた。それを思い出す度に、リオは寂しくてたまらなくなってしまった。目に涙が浮かび、喉がぐっとして鼻がつんとした。こんな風に泣いたことがなかったので、リオはどうしてこうなってしまうのかを考えていた。しかし、一週間考えたが答えは出なかった。

 リオはレッドが今何をしているのかなと考えていた。同時に、アリスの言葉を思い出した。

「あの人は、今何をしているのかしら。何を見ているかしら。何を思っているかしら。誰を、思っているのかしら……。それが、私であったらいいな」

 リオは、アリスが言っていた言葉をようやく理解した。そして、自分の気持ちにぴったり当てはまることに気が付いた。

「会いたくて会いたくてたまらなくなる。距離が離れれば離れるほど、恋しくてたまらくなる」

 リオの頭の中に、たくさんのレッドの表情が浮かんだ。

「彼が今日も元気で、どこかで笑ってくれていたら、とても嬉しい。けれど、そこに私もいられたらもっと嬉しいなって思うの。だって、私は彼が大好きで、大好きな人と一番仲良くいたいと思うの」

 リオは、アリスがそれを言った時のことを思い出した。頬を赤くして言った言葉は、とても優しい声だった。

「私は、彼を愛してる」

 リオは涙ぐんだ。寂しくてたまらない。会いたくてたまらない。触れたくてたまらない。レッドのことを想う気持ちでいっぱいになった。

「愛は、人をわがままにさせる病気よ」

 会いに行きたい。会いに来てほしい。けれど、それが今は叶わない。リオ一人が谷に残され、去り際にいつも言ってくれていた「また来るよ」という言葉のないまま、レッドは去ってしまった。

 マイアの国で感じた目に見えない距離。それを思い出すだけで、リオは、レッドは会いに来てくれないと感じた。

 リオはレッドに対する自分の気持ちが、他の誰とも違うことに気づいた。それは、アリスが教えてくれた「愛してる」が一番当てはまっていた。

「愛は複雑なのよ、リオ」

 その通りだった。リオは何も知らなかったことを自覚した。それは人間が人間として生きる上で、当たり前にある感覚なのだと思った。そして、それが自分には全くなかったことに気づいた時、リオは自分が龍の国で育った異質な人間なのだと感じた。

 どこにも行けない。どこにも居場所がない。そう思う自分を、一緒にいてくれるカカや龍たちに知られたくない。誰にも知られたくない。

「レッド、レッド……」

 リオは抱えた膝の中に頭を沈ませて、声を出さないように静かに泣き続けた。

「レッドお兄様も、リオのことが大好きよ」

 思い出したアリスの言葉が、胸を温かくした。リオは首から下げていたレッドの懐中時計を手に取った。目の前で針がチクタクと動いて回っていく。ずっとずっと回り続けているのが、最初はとても面白かった。

 しかし、龍の国に戻ってから、回り続ける針を見続けていても、レッドは来ないのだと思ってしまった。それからは、あまり見る気にはなれなかった。チクタク、チクタクと音がし続けるのが、寂しさを膨らませた。

「リオ。もしも、お兄様の気持ちがちゃんとわからなくなってしまっても、これだけは私がはっきり言ってあげられる。あのね」

 アリスと過ごした最後の夜、アリスはリオに言い聞かせた言葉があった。

「その懐中時計は、元々、レッドお兄様のお母様が持っていたものなの。だからレッドお兄様にとって、その懐中時計は肌身離せない一番大切なものなのよ。それをリオに渡したということは、これから先、どんなことがあっても、あなたのことを、一番大切に思っている。そういう意味になるのよ」

「一番、大切?」

「誰よりも、あなたのことを愛してるってこと」

 その時、リオはあまりピンとこなかった。「私も大好きだよ」といつものように言い返した。今になって、それがどんな意味だったか、アリスが伝えようとしていた「愛」が、ようやくわかった。

 リオは懐中時計を胸の中でぎゅっと抱きしめた。声を喉の奥で消しながら、流れ続ける涙をぬぐいながら過ごしていると、辺りはすっかり夜になっていた。月がゆっくりと空に昇り、静かな龍の国を照らした。

 リオは立ち上がり、置いていた杖を掲げ歌い始めた。すると夜空の星がぐるりと回り始め、光の輪を描いた。マイア国に行く道中、毎日毎日、この光の輪をレッドと一緒に見上げていたことが思い出された。歌う声が震えると、とうとう口から声が出なくなってしまった。

 寂しくて、恋しくてたまらない。レッドと一緒にいたかった。声が聞きたい。触れたい。あの優しい微笑みを、もう一度見たい。

「誰か、レッドをここに連れてきて。会いに来て。レッド……」

 溢れる涙をぬぐいながら、小さな声でつぶやいた。その時、濡れた右手の手のひらにある龍の印が、ほのかに赤く光った。じんわりと温かくなり、龍の印がトクンと脈打った。

 ザアアッと風が強く吹き、少し肌寒さを感じた。身を縮こませ、胸で揺れる懐中時計を両手で包んだ。

「ここは……」

 少し低くて、龍や動物の声とは違う人間の声。大好きな声。その声を捉えた瞬間、辺りの全ての音が消えた。振り返ると、そこにはレッドが立っていた。

「レッド……?」

 すると、リオの声に気づいたレッドが顔を上げた。じっとリオを見つめた。

「リオ」

 レッドの目には、月の浮かぶ空の下に、衣装を着るリオが一人立っているのが映った。青い髪が海のように輝いてなびいている。衣装がふわっと浮かぶ。金色の目がうるうるとして、まっすぐレッドを見つめていた。

 レッドは突然のことに驚き、状況を理解できずにいた。いっそ、夢なのではないかとさえ思った。目の前にいるリオがゆっくりレッドに近づいた。手を伸ばし、レッドの腕をつかむと、じっと目を見つめた。しばらくすると、リオは黙ってレッドの胸に頬を寄せて抱きしめた。

 それはまるでリオではないような気がした。リオはレッドを抱きしめる時、いつも子どものように力いっぱいぎゅうっと体を締め付けるように腕を回す。しかし、今レッドを抱きしめている腕には力がなく、まるでそっと体に触れるようにして腕が背中を包んでいる。

「レッド……、レッド」

 リオは静かに泣いていた。レッドの胸に当てた頬が温まっていくようだった。レッドの体に当たる体の全てが脈を打っている。

 レッドの体は、リオの温度や柔らかさ、形を、まるで吸収するように感じていた。引き離すことができなかった。感じていたくなってしまった。

「もう、会いに来てくれないと思ってた」

 会う気などなかった。自分がどうして今ここにいるのかもわからなかった。

「谷に帰って来てから、ずっとレッドのことを考えてた」

 レッドも考えていた。リオのことを想わなかった日はなかった。

「すごく会いたくて」

 声が聞きたかった。

「すごく触れたくて」

 温度を求めていた。

「すごく……寂しかった」

 とても寂しくて、会いたくてたまらなかった。

 レッドはリオを抱きしめた。全身がリオを捉え、離そうとしなかった。

 寒くて暗い地下牢の中、バステアス王の暗い部屋の中で、レッドは不安と孤独を感じていた。それを埋め尽くすように、レッドの頭の中、胸の中、お腹、背中、足、腕、全てがリオだけで満ちた。愛しくて愛しくてたまらない。

 それからずっと、二人は地面に腰を下ろし、抱きしめ合っていた。温かくて、心地いい。リオはレッドの右手の怪我に気づき、手のひらに唇をつけ、小さな声で歌った。そこから温かい光が溢れ、手の傷が消えていった。

 手を離すと、リオの口の周りにはレッドの血がついていたので、親指で血をぬぐいながら、その唇をなぞった。リオの目から涙がこぼれ落ち、頬を伝う涙の上にレッドが唇を重ねると、リオがレッドの方へ顔を向け、二人は見つめ合った。

 そこでようやく我に返り、レッドは顔も耳も赤くした。見てほしくなくてリオの頭をぐっと引き寄せ抱きしめた。

「リオ、すまない」

「どうして謝るの?」

「リオが寂しいと思って、泣いているなんて考えなかった。私は自分のことばかり考えていたから」

「私も自分のことだけ考えてた。それではダメ?」

 レッドから返事がなかった。リオを抱きしめる腕に力が入る。少し苦しい。こんなに体が密着しているのに、レッドが遠くにいるような気がした。それは、マイア国で感じた、見えない距離と同じ感覚だった。

「…行ってしまうの?」

「ああ。すまない」

「寂しいよ。ずっと寂しいのが続くのは嫌だ」

「すまない…」

「だったら私もっ」

 そこまで言うと、リオがはっとして口をつむんだ。本当は「私も連れていって」と言いたい。けれど、それでは龍の国から離れることになる。それはきっとレッドも困ってしまうことだと思った。静かにレッドの胸の中に顔をうずめた。

「……レッド。私、離れててもレッドのことが大好きよ」

「ああ」

「忘れないでね。怪我しないでね。ずっと、元気でいてね」

「リオも」

「うん。ずっと元気でいるよ。ずっと……」

 リオはたくさんの言葉を飲み込んで、レッドの胸の中で静かに泣いていた。本当は離れたくない。本当は、このままレッドにいてほしい。けれど、レッドはリオを置いて行ってしまうのだとわかってしまった。だから「ずっとここであなたを待っている」とは言えなかった。

 気づくと朝だった。リオは草原に一人寝ていた。柔らかい草の中から身を起こし、周りを見たが、レッドの姿はなかった。

 まだ体に残るレッドの感触を確かめるように、自分の体に腕を回してぎゅっと抱きしめた。寂しさが押し寄せ、リオの体から少しずつレッドの感触や温度が消えていくのが悲しかった。

「レッド……」

 リオは俯き、静かに泣いた。

                 ****

 レッドは龍の国を後にし、林の中を歩いていた。すると周りでガサガサと人影が動いていた。立ち止まり、様子を伺っていると、「レッド王子!」というウイルの声がどこからか聞こえた。

「王子!ようやく見つけました!」

 ウイルが木陰から出てくると、レッドに近づいてきた。

「探していたか?」

「はい。突然、レッド王子が城からいなくなったと言って、ずっと探していたのです。どこを探しても見つけられず、もしやと思い、この林の中を探していたところでした」

「そうだったのか。すまない」

「事態は穏やかではありません。見つけられてよかった。すぐ移動しますよ」

「城に戻るのではないのか?」

「バステアス王は、レッド王子が城を出て行き、反旗を翻したと言って、戦支度を始めています」

「何!?反旗などいつ翻したというんだ!すぐ城へ戻ろう。父上にお話をっ」

「今城に戻れば、今度こそ命を奪われてしまいます!バステアス王は兵士たちに向かって、レッド王子に付き従う者は去るか、死ねとまでおっしゃりました」

「なぜ……」

「……王は、その機をうかがっていたかもしれません。アリス様が、我々が帰ってきて以降、城の外側でひっそりと武器や鎧が荷車で運ばれているところを見ていらっしゃいました。王は、レッド王子の命を奪うための理由も、そのための戦も、準備をしていたのです」

 レッドの中に、ありとあらゆる感情がこみ上げた。その機をうかがっていたのは、父の心を利用しているハビカスだと直感した。ハビカスに対しての怒りは体を熱くした。

「ウイルはここにいて平気か?」

「もちろんです。バステアス王に従うつもりは毛頭ございません」

「アリスは城にいるだろう?」

「城にいていただいた方が安心です。アリス様は、バステアス王に従い、レッド王子を倒せと楽しそうに言っております。そうして注意を引き、我々の移動を手助け下さっています。時間がどれだけあるかわかりません。移動しましょう」

「これからどこへ行く?」

「西へ。ヨルチェルト郊外にある旧聖堂です。そこにレッド王子を支持する兵士たちが集まっています」

「支持って……」

「驚かれるかもしれませんけれど、レッド王子のお人柄を慕う者は多いのです」

 レッドは言われるままウイルに旧聖堂に連れてこられた。歩いて到着したのは、その日の午後、日が傾き始めた頃だった。

 森をずっと歩いていくと、人の少ない集落にたどり着いた。集落の奥にある旧聖堂は古い建物ですでに使用されなくなっていたため整備もされていなかった。屋根の木の骨組みが丸見えで、丸い窓から光が落ちたところに、崩れた像が立っている。像の形は龍の姿だったのか、まるでカカやビビのような足から尻尾までの形だけが残っている。

 そこに、大勢の兵士とガジンがいた。

「レッド王子!」

「ガジン、すまない。このようなことになって。お前はこちらにいていいのか?」

「何を今更。確かに、かつて私はバステアス王に仕えていた身でございますが、今はあなたの指南役。あなたを信じ、育ててきた身です。恐れながら、まるであなたのことを、実の息子のように思える時があるのです。このような時に、息子の力になれずしてどうするのです。レッド王子がお気になさることなど、何もないのです。ここに集まった者全員が、そう思っているのですぞ」

 ガジンの剛腕がレッドの細い肩を力強く叩いた。足にぐっと力を入れていないと倒れてしまいそうだった。しかし、その力がとても頼もしく思えた。

 その時、ガジンは「そうだ、そうだ」と言いながら、レッドが腰に下げていた剣2本と短剣1本、それから大鹿の角弓と真っ青なマントを手渡した。

 レッドは思った。ガジンの腕は、人の命を奪うばかりの腕ではなく、人を守るための腕だったのではないか。何百、何千の民を守ってきた腕なのではないか。そう思えた瞬間、レッドの中で戦の捉え方が変わった。

「ガジン、ありがとう」

「何を涙ぐんでいらっしゃるのですか?ささ、皆にもお声を」

 目をこすり、兵士たちに振り返ると、一斉に兵士たちが立ち上がった。その視線が全てレッドに向けられている。

「ここに集まってくれたこと、感謝する。そして、未熟な私の失態のために、このような状況になってしまったこと、誠に申し訳ない。巻き込んでしまって申し訳ない……」

 レッドは頭を下げた。皆にかける言葉を考えた。

「しかし、私は父上と戦をすることなど全く望んでいないのだ」

 伝えなければならない。自分が何をしたいのか。頭を上げ、声を張った。

「私が今、父上のためにしたいことは、その心を救うことだ!”戦好きのバステアス王”と呼ばれる、強く勇ましい王ではなく、不安や恐れに負け、我を保つことで精いっぱいの我が父、バステアスを!」

 城を出る前のことを思い出した。真っ暗な部屋の中のカーテンには切り付けられた跡があり、そこから月の光が漏れている。ボロボロの絨毯の上にレッドがいる。

 目の前には光る剣先が向けられ、父、バステアス王が立っている。その目の奥にある真っ黒なもの。それは何十年も蓄積された不安と恐れと怒りだとわかる。それと同じだけの後悔と慈しみ、愛。レッドはその心を守りたいと思った。

「皆知っているだろうが、私は大層な脆弱者だ。人に剣を向けられない。私は戦が大嫌いだ。だけど、やりたいことがあるんだ。守りたいものがあるんだ。そのために、今起きようとしている戦が必要なことだというなら、救うために、守るために立ち向かおうと思う。皆が許してくれるなら、どうか、この脆弱者に力を貸してほしい。私は皆のことも守りたいんだ」

 それは目の前にいる兵士たち、ガジン、ウイルのことだった。そして、リオの姿がレッドの頭の中に浮かんでいた。もう一度頭を下げた。

「私に力を貸してほしい。どうか」

「私も、混ぜていただけませんか?」

 馬の足音が近づいてきていた。顔を上げると、ざわざわとし始める兵士たちの間を馬に乗ったブルートがやって来た。その奥には、ブルートの率いる兵が立っている。

「ブルート。どうしてここに」

「見てわかりませんか?戦のために参りました。私は、兄上の軍に加わります」

「なぜ?」

「な!?ここまで言っても通じないのですか?私は、あなたに救われ、今ここにいるのです。そのご恩に報いるためです」

「ご恩……。お前が私に、ご恩?」

「そんなに信じられませんか?ああ、そうですか。そうですよね。どうせ私のことなど、信用しておられないのでしょう。兄上はそういうお人だ!」

 レッドは信じられなかった。ブルートの一言一言に驚きすぎて、すぐに理解できなかった。しかし、恥ずかしそうに顔を赤くしてレッドから顔を反らしたブルートの横顔は、まるでいつものブルートだった。おかしくてたまらず、レッドはついつい笑い出してしまった。

 ブルートが余計に顔を真っ赤にして「笑うな!」と言った時、レッドが笑いながら目尻を拭っているのが見えた。徐々にクスクスという声が鼻をすする音になり、レッドが背を向けた。顔を両手で覆って黙ってしまった。

 レッドはいろいろなこを思い出していた。無気病から回復した後のアリスの笑顔。ムツジの顔。城を歩くバステアス王の後ろにいるブルートの姿。林の中でレッドに言いたい放題言うブルートの顔。ウイル、ガジンの顔。ゼイダとアラの姿。ビビやカカの姿。大好きなリオの笑顔。皆のレッドを呼ぶ声。リオの声。

「私は、ブルートにも、ここに集まってくれた皆にも、感謝している。絶対、皆を守るから、共に戦ってほしい!」

兵士たちは手を上げ「おおっ!!」と大きな声を上げた。

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