第10話 レッドの心
「お兄様たちがお戻りになったの?皆無事ですか?」
「そのようです。アリス様」
ガーベルからレッドたちが無事に帰還した知らせを聞き、アリスはほっとした。部屋の窓に寄り、外を見ると、城を囲む塀の外で鎧を身につける兵士がせっせと荷車を押していた。荷車には汚れた布がかぶせられている。すると荷車がガタンと大きく揺れると、弓と矢の束や、剣が落ちた。兵士たちは急いだ様子で落ちた武器を荷車に乗せ、布をかぶせ、ゆっくりと進んだ。
「ガーベル、あれは何をしているのかしら?ウルルグランの使者との会談最中なのに、あんなものを外に出すの?」
「武器庫の整理でもしているのではないですか?」
「そうかしら……」
アリスは、先の戦から引きあげてきた兵士が武器を外に持ち出そうとしていることに違和感を感じた。しかし、近いうちにウイルが会いに来てくれるのなら、その時に聞いてみようとアリスは思った。
****
暗い空間にピチョン、ピチョンという水が落ちる音が響いていた。その音を聞きながら、レッドは目を覚ました。生臭い水の匂いと、錆びた鉄の匂いにむせ返った。横たわった体は少しだけしとっとしている。冷たく硬い地面から起き上がった体は、ところどころが痛い。目の前には錆びた鉄格子があった。そこは、たった一本のろうそくが灯る城の地下牢だった。
「どうして、城の地下牢にいるんだ」
レッドの声が静かな地下牢に響いた。真っ暗な影の中に何か潜んでいるのではないかと想像してしまう。窓がひとつもないので、外の光が一切入ってこない。今が昼なのか夜なのかさえわからない。どこかでピチョンと滴が落ちて音が響くと、心細さが増した。
地下牢はとてもひんやりしていた。肌寒くて、マントを掴もうと背中を探したが、いつもつけている青いマントがなかった。胸にしまっているはずの懐中時計もない。背中に背負っていた大鹿の角弓も、腰に下げていた2つの剣と、背中のベルトに差していた短剣もない。身を守れるものが全て奪われていた。
不安がふつとわいた。ふうっと息を吐き、冷たい壁にもたれた。その時、地下牢の扉がギイっと鳴って開いた。檻から出入り口を見ると、そこからガジンとウイルが下りて来た。
「王子、レッド王子」
「ガジン、ウイル」
「お目覚めですね。良かった。ここは肌寒いと思いましたので、お持ちしました。使って下さい」
ウイルは鉄格子の隙間から毛布を押し込め、レッドに渡した。錆びた鉄格子からは、まるでのこぎりで木を切っているようなギイッという音がした。レッドはすぐに受け取った毛布を羽織った。
すると毛布の中から皮袋がコロッと転がった。まるで宝石でも落ちたような甲高い音が鳴った。中にはカカの銀の鱗が一枚入っていた。いつもレッドが腰につけているものだった。「これは」と言おうとしたとき、ガジンとウイルが人差し指を口の前で立てていたので、黙って受け取り、ベルトにそっと紐を止めた。
「ありがとう。私のマントと剣は?鹿角の弓は誰が持っている?」
「我々が持っています。ご安心を」
「良かった。決してハビカスの手に渡らせるな」
「わかっております」
「……私をここへ入れたのは、父上か?」
「最上階の広間でお倒れになった王子を、バステアス王が地下牢にと命令されました」
「運んだのは我々です。申し訳ございません。このようなところに……」
「王の命令だ。お前たちが逆らうことはできまい。それより、運んでくれたのがお前たちでよかった。おかげで守りたいものは守ってもらえている。手をわずらわせたな」
ガジンとウイルは申し訳なさそうな顔をして俯いている。レッドは檻から手を伸ばし、ガジンの腕を、ウイルの肩をパチンと軽く叩き、微笑んだ。二人には、「お前たちは何も悪くない」というレッドの声が聞こえてくるようだった。
「バステアス王が、いつレッド王子をここから出されるかわかりません。地下牢の出入り口には見張りが立っています。ここに何度も来れるわけではありません。何かできることはございませんか?何でも致します」
「ありがとう。では、二人にしてほしいことがあるんだ。私はここから動けなさそうだから」
「何なりと」
「城を出る前までやっていた作業の続きをしてほしいんだ。無気病の感染ルートと、父上の進軍経路の対比だ」
そう言うと、レッドは頭を抱えてしまった。心配したガジンとウイルが「大丈夫ですか?」「頭痛でしょうか」と言ったが、レッドは頭を振った。
「体は大丈夫だよ。そうじゃなくて……」
レッドは言葉を選ぼうとしたが、頭を抱える理由を遠回しに言うことができなかった。
「少なくとも、ウルルグランの使者との話が終わるまでは、私はここから出られないだろう。それに、父上は私をすぐに殺すことは考えていないだろう。殺そうと考えていたら、すでにこの命はなのいだろうから。私のことは気にするな。だから、よろしく頼む」
「はい」
二人は地下牢にレッドを一人置いて重たい足を引いて地下牢を出た。ろうそくの火で照らされる薄暗い螺旋階段を上り、地上に通じる廊下に出た。大きな窓から入る夜の明るい闇が、静かな廊下を照らしていた。二人だけが歩く音がコツコツと響いている。
「レッド王子……」
「ウイル、レッド王子の言葉を信じよう。我々にはやるべきことがある」
「はいっ」
****
ガーベルからレッド一行が帰って来たと聞いてから三日が経った日、アリスが城中をずんずんと歩き回っていることが使用人たちに囁かれた。
「アリス様、珍しく落ち着きがないのねえ」
「まるで怒っているみたい」
「どうやら、レッド王子とウイル様の姿を探されているみたいなのよ」
アリスがようやくウイルを見つけたのは、その日の夕方のことだった。日は落ち、すっかり暗くなってしまった書庫に、ランプの光が一つだけあった。その横に、本を見つめるウイルの横顔がある。
「帰ってきたのに報告もしないで、書庫で本を見つめているだなんて、寂しい人」
ウイルの真後ろからアリスの声が聞こえたので驚いた。振り返り、暗闇の中に立つアリスを見て「アリス様」と言った。見開いた目で、暗闇に立つアリスをじっと見つめた。そのウイルの表情を見て、アリスはクスクスと笑った。
「お元気?ウイル」
「はい。三日前に城に戻りました」
「知っています。なのに会いに来てくれないんですもの。私は寂しいわ。また病気になっちゃう」
「悪い冗談はおやめください」
「そうね。ごめんなさい。何をそんなに熱心に調べているの?」
ウイルはニコッと笑って「内緒です」と返事をした。アリスにはすぐにウイルが隠し事をしていることがわかった。
「私に隠し事をするなんて、いつからそんなに偉くなったのかしら?」
アリスが本に手を伸ばした。本を高くあげてからその表紙を見ると、そこには『無気病の歴史』とあった。
「無気病の…歴史?なぜこんなものを読んでいるの?」
「以前より西の国で流行る無気病に興味があったのです」
そういうウイルは机の上に広げた無気病の感染経路図を隠そうと、そっと地図を折りたたもうとした。アリスは広がっている図に顔を近づけた。
「相変わらず隠し事が下手くそね。何の地図?西の方にいっぱい矢印があるのね。それから年代?何の……。無気病が流行った年代?」
「どうでしょう」
ウイルは笑った表情を崩さなかった。アリスには、ウイルが嘘をつく時だけ見せるその表情にだまされなかった。
「あら、当たりね!それで何をしようというの?言えないのはどうして?お兄様に会いに行こうとしたら、お部屋には戻られてないって。レッドお兄様はどこにいるの?それも秘密?おかしなウイル」
アリスはムスッとしてそっぽを向いた。唇に指を当てると、また嫌な言い方をしてしまったと反省した。チラッと見ると、ウイルは苦笑いを浮かべていた。アリスはきゅっとウイルの肩の袖をつまんだ。
「言い過ぎたわ。ごめんなさい。……心配してたのよ。無事で良かった。大きな怪我も無さそうで良かったわ。お兄様も無事よね」
「はい。無事です。ありがとうございます」
ウイルが嬉しそうに恥ずかしそうに笑うと、アリスもつられて微笑んだ。アリスは図の矢印をなぞった。
「まるで、何かの通った後のよう。北から西へ向かう列みたい」
ウイルがニコニコとしている。アリスが「あら、当たり?」と言うと、ウイルが分かりやすくギクリとしているので、ふふふと笑った。そして、アリスはふと、城の塀の外を動いていた荷車の列を思い出した。
「ねぇ、ウイル。近々また戦があるのかしら?」
「聞いていませんが……。なぜです?」
「塀の外で、たくさんの武器が運ばれているのを見たわ。ガーベルに聞いたら、武器庫の整理と言っていたけど、違う気がするの。嫌な予感がするわ。いらっしゃらないお兄様と、何か関係があるのかしら」
アリスは黙って考え始めた。地図を見ると、南から西を差す転々とした矢印と、北から西の都市であるヨルチェルトに向かう矢印がいくつも重なっている。南側の矢印に記される年代はおよそ80年ほど前の年代だが、北側の矢印の年代は30年ほど前の年代が記されていた。
アリスはウイルの後ろの壁にかかる大きな地図に振り返った。ウイルの持つ無気病の図はまるで、バステアス王の進軍経路図のようだった。
「まあ、そっくりだわ。まるで父上が通った後を追うようにして、無気病が流行っていくのね。無気病。私がかかった。この国で、私だけがかかった病……」
アリスは無気病にかかる前のことを思い出した。それはレッドが狩に行った日のお昼の頃だった。アリスは廊下でバステアス王と会った。アリスは立ち止まり、バステアス王に頭を下げた。
「レッドお兄様が、柄にもなく狩に行かれたと聞きました」
「そのようだな。どうせ何も取れずに帰るのだろう」
「そうでしょう。だけど、もしも何か持ち帰れたら、その時はおほめあげて下さい。お父様」
「ありえない」
「では賭けましょうか。その方が楽しいわ」
「その暇はない。これから戦だ」
「また……ですか。飽きませんのね」
「何もわからないくせに、生意気なことを言うな」
そう言うと、バステアス王はアリスの横を通り、離れて行った。アリスはバステアス王の腕を取り、バステアス王を見つめた。
「お父様、いつか、戦はなくなりますか?私は、私は……」
戦が嫌いだと言いたかったが、それを言っていいのかわからなかった。しかし、以前にウイルと話したように、自分から行動しなければ伝わらないことがあると思った。言葉につまっているとき、バステアス王の低い声が聞こえた。
「離せ、アリス」
背筋がぞわっとした。見上げると、バステアス王の真っ暗な目がアリスをじっと睨み付けていた。瞳の奥まで闇が続いているような色。その目に吸い込まれそうになる感覚がした。その感覚さえ、奪われていくようだった。そこで意識が途切れ、気づくと暗闇の中でベッドに横になっていた。
アリスは考えた。人から人へ感染する病。無気病になった自分自身。まるで無気病を率いて侵略しているバステアス王。戦好きの王。
その時、アリスはある可能性を思い浮かべた。しかし、それは決して大きな声では言えないことだった。
「ウイル、調べていた無気病の感染と、お父様の進軍は、どちらが早いの?」
「進軍の年代です。その後に、無力病が流行していたようです」
「そう。そうなのね。そうかもしれない!」
ウイルは、アリスが何を言おうとしているのかわかなかった。アリスは一人で何かに気づいたように高い声を出した。
「ウイル、お兄様はどこ?会ってお話しなくてはっ」
「急にどうされたのですか?会うっていっても、レッド王子は」
「居場所を言いなさい。早く!」
「お待ちください!もう夜です。明日にしましょう。一緒に参りますから」
「私に会いに来る時間さえないほど、お忙しいのでしょう。あなたに明日、そのような時間が取れるの?明日はウルルグランの使者が、お昼頃にお帰りになる予定です。使者をお見送りしなくてはいけませんもの。お互い、忙しいわ」
「取ります!必ず取りますから」
「では、明日午後に参ります。よろしいですね?」
「……承知致しました」
アリスがウイルの顔に近づいた。ウイルは顔を真っ赤にした。
次の日、空高く日が昇る頃、城門を出ていく行列があった。城の使用人、兵士たちが頭を下げ見送る中に、笑顔で手を振るアリスの姿があった。最後の馬が城門を出て行った時、どこかでガシャンという鉄のすれるような音がした。アリスは音のする方へ目を向けた。
「しっ!音を立てるな!静かに」
「すまない」
男の人のささやく声が聞こえる。城を囲む塀の外で、誰かが荷車を押している。それは、部屋から外を見下ろしていた時と同じものだった。その光景は、アリスにはとても嫌な予感を感じさせた。
「ガーベル、耳を貸しておくれ」
「何でしょうか。アリス様」
アリスは姿勢を低くし、口元を手で隠し、隣にいたガーベルの低い耳に小さな声で言った。
「もしも、もしも、薬売りのチェンが城に来たら……」
****
地下牢がぎいっと音を立てて開くと、足音がふたつ、早足でレッドに近づいた。レッドの目の前にやって来たのは、アリスとウイルだった。
「お兄様!」
アリスは錆びた鉄格子に手をかけ、涙目で暗い檻の中にいるレッドを見つめた。
「アリス……」
「まさか、帰ってこられてから、ずっとこのような場所で一人閉じ込められているとは知らず……」
アリスは今にも泣きそうな顔をしていた。
「アリス、何をしに来た?」
「お話をしに来ました。お戻りになったらお話をする約束のはずでしたわ」
レッドはすっかり忘れていた。しかし、涙をぬぐっているアリスに「忘れていた」とは言えなかった。
「お、覚えているよ。だが、見ての通りだ。このようなところで話せるか?」
「確かに、場所としては最悪ですわ。ですから、最低限だけお話させて下さい」
アリスは小さな声で話し始めた。レッドは檻に近づいた。
「お父様は、ある病気を患っていらっしゃいます。私はそこから、病をいただいたのです。そう考えられるの」
レッドは驚いた。なぜなら、アリスが言っていることは、レッドも考えていたからだった。
「ウイルが書庫で調べていた無気病の感染した年代を記した地図と、お父様の進軍経路図の矢印は同じような道をたどっているのです」
「ちょっと待て。なぜアリスの口からその話が出る……。ウイル、お前」
「違うの!お兄様、私がウイルのお仕事を邪魔しちゃっただけなの。だからウイルは何も悪くないわ。攻めないであげて」
ウイルはアリスの後ろで申し訳なさそうに頭を横に振っていた。レッドは「ふう」と息を吐き、全て飲み込むと、「続けて」と言った。
「南から西へ向かう矢印は約80年ほど前のものですから、お父様の進軍との対比はできません。しかし、北から西へ向かう矢印の年代を並べると、先にお父様が西へ進み、その後を追うように無気病が流行っていくのです」
レッドには、80年ほど前に無気病が確認されたという矢印は、ゼイダの”森の賢者の薬”が原因であることはわかっていた。しかし、30年ほど前といえば、ゴールド王国の王権を引き継いだバステアス王が進軍を始めた頃のことだった。
「年代を並べると、やはりそうなるのか……」
「ですが、私がこれを言う最大の根拠は、私が、この国唯一の無気病患者だったということです」
アリスは無気病気になる前までのことをレッドに話した。レッドが狩に出かけた日、廊下ですれ違ったバステアス王に触れ、真っ暗な目を見つめてしまった時の感覚。その後で無気病になったこと。
「もしもお父様が無気病であるなら、この城の誰でさえ耳に入らないよう、絶対口外はされません。そして、30年ほど前に王権を引き継いだお父様の進軍は、どんどん過激さを増しています。お父様は、無気病に侵され、正常を保てなくなり、症状を悪化させた結果、心の不安定なまま人を傷つけ始めた。それが”戦好きのバステアス王”と呼ばれる、我が国を治める王の真の姿です」
レッドは聞きながら頭を抱えた。ウイルはアリスの言葉が飲み込めず、困惑した。
「あの勇ましい王が、無気病?」
「私は、わかっていた。だが、それを証明できるものがなかった……。アリスは、それを証明するための情報をくれた。なるほど。アリスが何のきっかけもなく無気病になったわけではなかったのだ。ありがとう、アリス」
「お兄様、気を確かに……」
「大丈夫だ。大丈夫……」
「そうだわ。お兄様、国へ帰ったリオにもう一度来てもらいましょう。そして、私の病を治したように、お父様も」
「それはできない!」
レッドがとっさに大きな声で言ったので、二人は驚いた。レッドは驚いている二人に気づくと、「すまない……」と呟くように言った。
「リオは父上のそばにいる魔術師、ハビカスに命を狙われている。ハビカスがいる以上、ここにリオを連れてこれない。リオは、リオがいるべき所にいる方がいいのだ」
「……それはそうですね。詳しいことは知りませんけれど、リオもどこかの国の姫だと、おっしゃっていましたものね。簡単に国を離れることはできませんものね」
三人の間に沈黙があった。しばらくして、アリスとウイルは地下牢を後にした。薄暗い螺旋階段を上り、地上の廊下に出たところでアリスが立ち止まった。ウイルがアリスに振り返り、「アリス様?」と声をかけた。
「ねえ、ウイル。レッドお兄様はリオと喧嘩でもしたの?」
「いえ。そのようなことは」
「お兄様、もうリオに会うつもりがないのかもしれないわ。ハビカスという魔術師のこともあるだろうけれど、それよりも、あの様子は……」
ウイルはわかっていた。龍の国を出る時、レッドは眠っていたガジンやブルートを起こした手で、草むらで眠るリオの頬をゆっくりと撫でていた。その姿は、とても寂し気であった。立ち上がり、うつむき、手にぎゅっと拳が握られた。
ただ別れが寂しいのではない。これが最後と決め、お別れをしようとしている。その硬い意思が背中からにじんでいた。ウイルには、レッドの心が透けて見えるようだった。
「私、わかるわ。お兄様の気持ち。わかるのに、何もしてあげられないのだわ」
アリスはリオの胸でクルクルと動いて光る、古い懐中時計を思い出した。それを大事そうに両手で握り、笑うリオの顔。
アリスはドレスをぎゅっと握った。俯いた視界に、ウイルの手が差し出され、アリスは顔を上げた。
「アリス様、行きましょう」
「ええ」
アリスは、差し出されたウイルの手に、小さな手を重ねた。二人は夜を迎えようとしている外の光が差す廊下を、ゆっくりと歩いて行った。
****
静まり返った地下牢の錆ついた鉄の匂いと、生臭い水の匂いは、最初は不快でしかなかったが、すでになれた匂いになっていた。暗闇のどこかで水の音が立つ。その音だけが、静かな地下牢に響いている。
レッドは目をつむった。このような暗闇にいると、大鹿に闇の中に放り込まれた時のことを思い出す。不安と恐れが増し、怒りになる。その怒りの納めどころがわからないことが、不安をあおる。闇の中で余計に孤独を感じさせた。
レッドは、今だから平然とこの暗闇で静かにしていられるが、そうではなかった自分が、今ここにいたらどうなっていただろうかと思う。きっとこの闇に心を食われてただろう。安易に恐れを膨らませ、不安を募らせ、怒り狂っているかもしれない。そういう自分を想像したら、少し笑えた。
顔を上げ、リオとよく見た夜空を思い出した。リオの優しい歌声が聞こえる。一人夜の草原に立つリオの後ろ姿。杖を上げると、空の星々が光の輪を作り始める。リオが振り返る。輝く闇の中に笑って立っているリオは、まるで世界の中心にいるようだった。
何よりも美しい光景だと思えた。心が躍るようだった。まるで少年のようにワクワクした。まるで恋でもするかのようにドキドキした。
すでに自覚していた。妹のアリスに寄せる気持ちとはまるで違う。誰とも比べられないほど特別で、大切で、愛おしくてたまらないと思ってしまうのは、リオに対する恋心だった。
今だって会いたくてたまらない。この暗闇の中だって、リオの声と温度があれば、それだけで心の在り様は全く違うものになっていただろう。リオがそばにいるだけで力が湧いてくる。リオがいるだけで心はとても穏やかになる。嬉しくなる。
しかし、リオにはもう会わないと決めた。ハビカスがリオの命を狙っていることだけではない。自分が王子である以上、いづれ国益となる縁談に応じ、妻を迎えるのだろう。それが前提。リオへの想いが叶うことはないのだ。わかっている。
何より、リオにとって、レッドは一人の友人でしかないのだ。それはレッドと同じ恋心ではないのだ。わがままになっていくのは自分だけだとわかっている。だから、もう会わない。いや、会えない。別れが辛くなるだけだ。
「リオ……」
だけど、会いたくなる。恋しくなる。切なくなるのはわかっているはずなのに、考えてしまう。思い出してしまう。
その時、地下牢の重たい扉がギイイッと鳴った。そこにいたのは、ハビカスと、レッドたちと一緒にマイアまで行った兵士だった。
「ご機嫌麗しう、レッド王子」
「機嫌は全く麗しくないよ、ハビカス。隣の兵士は、お前の手下なのか?」
「駒ですよ。これが見るもの、聞こえるもの、温度も匂いを、私も感じることができる。便利なお人形です」
「お前と話しているだけで嫌な気分になる。何しに来た?早く地下牢から立ち去れ」
「いいえ。バステアス王がお呼びですので、お連れしに来たのですよ」
「父上が?」
兵士が牢屋の鍵を開け、レッドは二人に連れられて地下牢を出た。地下牢と地上の廊下を繋ぐ螺旋階段を上ると、地上は夜を迎えていた。久々の城の廊下は、夜なのにとても明るく見えた。
****
廊下をしばらく行き、最上階の広間に向かう螺旋階段を上まで登っていく。レッドたちが城に帰ってから、ようやくバステアス王に会えた広間まで来た。窓の外には、闇の中に街の灯りが浮いている。
広間の奥には一つだけ扉があった。その奥は、バステアス王の寝室である。その扉さえ触れてはいけないという暗黙の約束がある扉を、兵士は堂々開け、慣れたようにハビカスがするりと寝室に入っていった。
部屋の奥から異様な雰囲気が漂ってくる。冷たい空気が流れてくると、手足の先がしびれ、背筋がゾッとした。魔物でもいるのではないかと思えた。レッドは腰の剣を触ろうとしたが、武器になるようなものは何も持っていなかった。ふうっと息を吐き、覚悟を決めると、レッドは部屋へ入った。
レッドが寝室に入ると扉はバンと音を立て閉じられた。部屋の中は一気に暗くなった。寝室の窓際には真っ黒なカーテンがあったが、剣で切り付けられた跡がいくつもあり、切り口から外の光が漏れている。床には一面絨毯が敷かれているが、傷だらけで凸凹している。奥に天蓋つきの大きなベッドがあったが、天蓋もカーテンのようにところどころが切れてほつれている。ベッドの上のふとんは丸められ、破けたところから白い羽がふわふわと飛んでいた。それは、まるで剣で何度も刺したような跡だった。
その時、ひゅんっという音がした。目の前に光る剣筋が見えた。剣先がレッドの顔面にある。暗い暗い闇の中に伸びる手は、バステアス王の腕だった。
「父上……」
「お前の問いに答えよう」
「問い?」
「お前の母、ベルガモットは病で死んだのではない。私が殺した。お前がまだ小さかった頃、隣の部屋でのことだ」
レッドは、バステアス王に触れた時に見えてしまった記憶の光景を思い出した。背中の誰かをかばい、両手を広げて立つ母の姿。不安と迷いを振り切れないまま、振り下ろされた剣。横たわる真っ赤な母。
「私は、母上は病で亡くなったと、小さい頃から聞いていました。……なぜですか?母上は父上に何かしたのですか?」
「私に歯向かった。逆らうなと、意見するなと何度も言ったが、言うことを聞かなかった。だから」
「嘘をつかないで下さい」
「何?」
「私は、父上の記憶を見てしまいました。その心も…。父上は不安を抱えていた。その心が闇に縛られてしまうほどに」
「何を言っている。適当なことを言うな」
「そんな父上にとって、母上は光だった。深く、愛していた」
「やめろ……」
「父上はわかっていたはずだ。母上は何も逆らってない。あなたのために声を出していた。だから、父上には不安と同じだけ後悔が残っている」
「やめないか!」
「父上は、正体のない不安を恐れていただけだ!」
剣筋が震えている。レッドははっきりとわかった。切り付けられたカーテンや布団、絨毯の様子。閉ざされた暗い部屋。いつも強く振る舞っている姿。膨らみ続ける不安と後悔。苛立ち。恐れ。それが黒い影になって心を染めていく。その心のずっと奥に、アリスの胸から出てきたような真っ黒な塊がある。
「父上、あなたは無気病を患っていらっしゃるのではないですか?」
レッドは認めたくなかった。大広間の深紅の中に置かれた黄金の椅子に、強者たる堂々とした姿で座るバステアス王。皆が恐れ、憧れる王の姿。しかし、その心の中は不安と恐怖でいっぱいになっている。床についた剣を握る右手の震えは止まらない。体は恐怖で強張っている。
目の前に来る人間一人一人が向けてくる目が恐ろしい。弱くて情けない自分を見つめられているような気がする。誰が自分の命を狙っているのかわからない。明日もこのようにして生きていくのかと思うと不安でたまらない。見ないでほしい。考えないでほしい。想いを寄せないでほしい。
「そして、それを引き起こさせたのは……」
レッドはバステアス王の背後を睨んだ。影の落ちる闇の中にニヤッと笑う大きな口があった。
「私だと言いたいのですか?レッド王子」
「その通りだ。ハビカス!」
「お怒りのご様子ですね」
「お前はもう知っているだろう。私がお前が何をしたのかわかっていることを」
「わかっていますとも。ヒヒヒヒ」
龍の国を破壊し、カカに傷を負わせ、リオを捕らえようとする魔術師。足を一歩出すと、目の前にバステアス王が立ちふさがった。
「父上にとって、この魔術師は何なのですか?ブルートより、実の息子よりも大事ですか?」
「レッド王子、すでに王は私のものでございます。王にとって私こそが、心を保つ鍵なのです」
「どういうことだ」
「王と出会った時、直感致しました。この人こそ、この世界で一番強くなる。野望を果さんという強い意志を持っている。だが心は弱い。恐れ、不安が影を引く。ゆえに、私は王に焚きつけた。一番強くなる王でも、決して永遠は手に入らないと。王は私を捕らえ、痛めつけ、そして少しずつ、私の言霊に侵されていった。私がいれば、苦しみを負い続けることはない。私がいれば、強い王でいられる。私がいれば、いづれ迎える死を回避できる。不安は消える。恐れるものは無くなる。永遠を手にすることができる!」
ハビカスはゆっくりと闇の中から近づいてきた。バステアス王の横に立つと、大きく開く口がよく見えた。とても不気味だったが、じっと見つめると目が離せなくなり、レッドの頭の中にハビカスの声がわんわんと響き始めた。
視界がゆがみ、闇の濃淡が混ざりだすのが見えた時、ようやく魔術にかけられていることに気づいた。
レッドは目の前で揺れていた剣先をぐっと右手で握った。手の中からドクンと強く脈うつ音が聞こえ、痛みと共に赤い血が流れた。痛みは腕を通り、脳天を打った。すると視界のゆがみは消え、うるさかったハビカスの声も消えた。剣から離した手からは血が流れ続けた。拳を握り、痛みに耐えた。
「おや、気づかれましたか?私の言霊はよき音がするでしょう」
「こうして、父上にも魔術を使い、心を操ったか。無気病にかけ、お前の魔術をかけ、言葉巧みに父上を利用したのか」
「その通りです。いずれ、王が手にした永遠を、私が手にするためにはよき方法でした。王と共に西を進行しながら、戦争を重ね、無気病を振りまき、龍の国を探し続けた。無気病は魔力の分散による病。魔力に耐性のない人間から人間へ簡単にうつっていく。これを治すには、強い魔力が必要になる。そう。例えば、龍の血を受け継いだ歌姫のような者の力が」
「お前の身勝手な理由のために、無気病を流行らせたというのか」
「永遠を手にするためです。龍の国の歌姫の血を飲み干し、私が、絶対無二の存在として生き続けるために!」
「お前っ!!」
レッドがハビカスに向かって握っていた拳を振り上げた時、体が何かに縛られたように動かなくなった。ハビカスは杖をレッドに向けていた。どんなに体に力を入れても動かない。動きの止まった拳をコツンコツンと杖で叩きながら、ハビカスは「ヒヒヒヒ」と笑った。
「あなた様が、どのように龍の国の歌姫を手懐けたかは知りませんが、あなたを捕らえておれば、そのうち歌姫から近づいてくる」
「そのようなことにはならない!私は、お前がリオに近づこうとするのを止めるために城に戻ったのだ!」
「何の力も持たぬ役立たずな王子が、どうやって?」
その時、ハビカスの魔術が解け、突然動くようになった体はバランスを崩し、レッドは前に倒れた。体を起こし、顔を上げると、目の前にバステアス王の剣が下りてきた。その剣先は、やはり振るえている。
「父上は、私に母上の面影を見てしまうのでしょう。だから、今までどんなに剣を振り下ろそうとしても、私のことを斬ることはできなかったのだ」
バステアス王の目には、レッドに重なる妻、ベルガモットの姿が映っていた。それは闇の中で光る、ささやかな想いだった。
「あなたは、本当は慈愛の強い人でしょう。母上への想いの温かさが伝わってきました。血のにじむような後悔があるのでしょう。だけど、あなたはその手で母上を斬ったのです」
「言うな。言うな」
「なぜ、その手を止めて下さらなかったのですか?止めることだってできたはずだ。父上は、お強い人です!母上は、父上の弱さを知っていた。お力になろうとしていたのではないですか?」
「黙れ」
「不安や恐れに負けてしまいそうなら、誰かの手を取ればいい。あなたは一人じゃなかったはずだ!」
「黙れー!!」
バステアス王の剣がまっすぐレッドに落ちてきた。いつものような寸止めの剣とは明らかに違う。レッドはとっさに左腕を頭の上に上げた。すると、左手の中から赤い光が差し、二人を照らした。
バステアス王とハビカスは、眩しさのあまり顔を反らした。光が消えた時、既に目の前からレッドの姿が消えていた。
「レッドはどこへ行った?」
「わかりませぬ。あの光は一体……。しかし、我が王よ。これは良い機会です」
****
目を開けた時、レッドは草原にいた。夜空には、輪を描く星が光り、ひんやりとした風が、青く光りながら波打つ草を撫でて走っていく。
「ここは……」
「レッド…?」
その声がした瞬間、周りの全ての音が消えた。声のした方を見ると、そこには衣装をまとい、杖を持ったリオが立っていた。青い髪、金色の瞳が、暗い草原の中で輝いていた。
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