第9話 帰還
谷に到着し、リオが青い龍ビビの背中からピョンと飛び降りると、地面から草が重なりあうシャンという音がした。見ると、地面いっぱいに若く青い草が生えていたのでレッドは驚いた。以前ビビに連れてこられた時、そこは一面に蔓が覆っていて歩きにくかった。谷を見回すと、崩れかかっていた岩壁はなだらかになっていた。形の変わってしまった池は、濁っていた水が星を飲み込んだようにきらきらと光っている。倒れかかっていた木はそのままだったが、その枝にはまだ小さな若葉が芽吹いていた。その柔らかい葉の先からは、小さな滴が宝石のように光りながら落ちていく。
「カカ!」
リオが叫んだ。レッドはいつもカカの座る場所に目をやった。そこには、蔓が落ち、すっかり元通りの姿になったカカがいた。銀色の鱗が一つ一つ浮き上がるように星の光を写し出している。金色の瞳が、谷に降り立った人間たちをじっと見つめる。カカの姿は、まるで闇の谷を照らす大きな星のようだった。
リオは両手を広げてカカのお腹を抱きしめた。そこでリオが泣き出した。「カカ、カカ」と震える声で言った。
ビビの背中からゆっくり降りたガジン、ウイル、ブルートは、初めて見る龍の国を、頭をぐるぐるとさせながら見ていた。
「不思議な国ですな」
「神秘的です。まるでおとぎ話の世界ですね」
「何をこどものようなことを言っている。我が国の花園の方が美しい」
そういうブルートの頭を、小さな龍がツンツンとつついていた。痛がるブルートを笑うように、小さな龍が空中でクルクルと回って見せたので、ブルートは頭にきて龍を追いかけた。
「カカ、痛いところはない?もう大丈夫?」
リオの問いに、カカはゴロゴロと喉の奥を鳴らした。リオは鼻をすすりながら、カカの額と自分の額を合わせた。そこにレッドが近づくと、カカは顔をゆっくりとレッドに向けた。レッドはその頭から首をなぞった。
「カカ、お前はこんなに美しい龍だったか」
〈そのように言われるのは初めてです。嬉しいこと〉
「体はもう大丈夫か?」
〈はい。リオを守ってくれてありがとう〉
「リオはもう、谷に帰ってもいいのか?」
〈ええ。もう平気〉
「そうか」
「ねえ、カカ。歌おうか?歌おうか?」
〈歌っておくれ。お前の歌が聞けなくて寂しかったのよ〉
リオは背中に背負っていた杖を手に取ると、池の水にちょんと触った。水面に波紋が広がりながら、温かい光が溢れてきた。リオが歌い始めると、池の水が光を放ちながら谷の地面に広がっていった。すると草の中に咲く花がポンと光って咲き始める。光は星のような粒になり、空中に浮かんだ。辺りは蛍が飛んでいるような光景になった。
その中をリオは一人歩きながら歌っている。ガジンの横、ウイルの横、ブルートの横を通り、ビビの周りを回って歩き、小さな龍がリオの前を飛びながら、レッドの前までやってくる。リオはレッドに手を伸ばし、レッドの腕を掴むと、一緒に光の中を歩き始めた。リオはとても楽しそうに笑っていた。レッドはリオを見つめ、優しく微笑んでいた。
レッドはリオのことをたくさん考えていた。何度も絡めたら小さな手も、細い首筋も、肩も、柔らかい頬も、赤い唇も、金色の瞳も、艶やかに光る青い髪も、全て、離しがたい。「リオ」と呼べば、必ず笑って振り返る。自分のことだけ見つめるまっすぐな視線。何かあればすぐ抱きしめる。まるで子どものような無邪気なところも、嘘をつかないリオの言葉も、とても愛しい。
しかし、それが自分ばかりであることを実感する。リオの目はレッドではなく、この谷に向いている。
****
夜も更けた頃、ガジンやウイル、ブルート、リオは眠ってしまった。静かな谷で、レッドはカカにもたれかかり、一人目を覚ましていた。池の水面に滴がとめどなく落ちるので、シャンシャンと鈴が転がるような音が谷に響いている。
〈レッド、一人で何を考えているの?〉
カカが言った。
「……リオのことだ」
〈いろいろな思考が重なって、あなたの心は、まるで模様みたいね。私はあなたの心が知りたい。リオのこと、どう思ってる?〉
レッドは言おうとしたが、まるで言葉が大きな物体にでもなったように喉を通らない。詰まってしまって何も出てこない。それなのに顔がほてってくる。耳まで熱い。
「…オを、…してる」
それだけ言うと、レッドは顔を附せた。
「きっと、今を逃せば、もう離れられなくなる。だか、リオはそれを求めてない。私だけが求めてる。これではいけない。強引にしたところで、私の欲しいものは得られない」
〈前にも言ったわ。嬉しいと。良いのですよ。お連れになっても〉
「リオがそれを望まない。リオにとって、ここが世界なのだ」
〈与えることはできないの?〉
「一方的な想いなど、奪うばかりだ」
〈では、リオのことは考えてくれないの?リオは、あなたのことが大好きよ〉
「違う……。私がほしいのは、それじゃない。だが、それを望んではいけないことくらいわかる。リオを安易に人間の世界に連れて行ってはいけない。リオを狙う者がいることがわかっている以上、リオを私一人が勝手に望んではいけない」
〈リオが望むならいいの?〉
「それも難しい」
〈あの子は、そんなに大事にされなきゃいけないものじゃない。あなたと同じ人間よ〉
「だが、もうおよそ100年は生きている。マイアの巫女がこの地にリオを置いた。それをカカが拾い育て、100年生きてきた」
〈そうです。私が、あの子に自分の血を分け与えてしまった。私の青い血は、人間の生きる時間を遅くしてしまう。分かっていたことでしたが、赤子のあの子がずっと泣き続け、いよいよ死を迎えようとしていたその時、私は血を与えてしまったのです。少しでもいいから、あの子が生きられますように。そのような安易な思いで……〉
「だからリオは青い髪、金色の瞳をしているのだな」
〈私が、リオに普通の人間の暮らしを奪ってしまったのです〉
「だから、カカはあのように言ったのか」
レッドはカカと初めて言葉を交わした時のことを思い出した。谷が襲撃され、ハビカスとカカの力がぶつかり合う瞬間、その時間が止まった谷の中で、カカは言っていた。〈人間としての生き方を教えてあげて下さい。私は、あの子に人間として生きてほしい〉
「私は、リオが望むように生きることが一番望ましいと思う。だけど……」
レッドはリオの言葉を思い出した。「レッドと一緒に、龍の谷にいたい」
それは、レッドが一国の王子である以上、決して叶わないことだった。そして、それは決して愛ではないことが、レッドにとっては一番辛かった。レッドは立てた膝の中に頭を落とした。そこにカカは首を伸ばし、レッドの肩をコツンと揺らした。
〈私は、わかっているつもりです。あなたのリオに対する愛情の深さを。だから、どうしなければならないということよりも、あなたの心を聞かせてほしい〉
「カカは間違っていなかったと思う。リオに血を分けてくれなければ、リオは生きることもできなかっただろう。私がリオに出会い、カカに出会うこともなかったかもしれない。それはつまり、今ここにいる私はいなかったことになる。感謝している」
〈……、何かを決めたのね〉
「私には、しなくてはいけないことがあるんだ。リオと別れても……」
〈城に戻るのね。リオをおいて……〉
「リオをハビカスから守るよ」
〈あなた一人でできることかしら〉
「必ずやってみせるさ」
〈なら、私と約束をしてください。決して死なないと。あなたはリオにとって、とても特別な人間なのよ〉
「なあ、カカ。リオにとって、私は友でしかないのだ」
それが身に染みるほど辛かった。レッドは立ち上がり、カカの体を撫でた。
「リオの起きない間に出発する。ゼイダが谷に馬を送るはずだから、それに乗って帰るよ」
〈リオが寂しがります〉
「わかってる。だけど、これ以上一緒にいれば、私が手を離せなくなる」
〈いつでもここに来て〉
「気持ちだけ受け取っておくよ。元気で、カカ。長生きしてくれ」
〈あなたこそ〉
カカはレッドの頬を首で撫でた。レッドはカカの首に両手を回して軽く抱きしめた。
「さようなら」
空が明るくなり、鳥たちが小さな鳴き声で朝を知らせる頃、草むらに眠っていたリオが目を覚ました。起き上がり、かすむ目をこすり、辺りを見ると、一緒に寝ていたガジンやウイル、ブルートがいなくなっていることに気づいた。レッドの姿もない。
「カカ、カカ。レッドがいない。どうして?」
〈国へ帰りました。夜明け前に〉
「どうして私を置いて行ってしまったの?」
〈リオ。リオのお家はどこ?〉
「……ここ。龍の国だわ」
〈そうね。そうね……〉
リオはマイアで感じた違和感を思い出した。レッドは頭を撫でてくれたが、リオのことを見てくれなかった。すぐそばにいるはずのレッドが遠く感じた。それがどうしてなのかがわからなかったが、リオにとっては悲しいことのように思えた。
「何か、いつもと違う。何でかな」
リオは、いつもレッドがいつもやって来る森の方を見つめた。森は朝日の温かい色に染まっている。そこに人の気配は全くしない。何も入ることのできない透明な壁があるようだった。
「何でかわからないけど、もう、レッドに会えないような気がする……」
****
森を抜けたレッド、ガジン、ウイル、ブルートが、ゼイダが届けてくれた馬に乗り、早朝の城下町を歩いていた。少しずつ見える城の大きさが変わっていく。レッドはじっと城を見つめた。帰って来た。リオのいない城に。あそこに、リオや龍の谷を襲った敵がいる。
レッドは城の門に到着すると、早々に馬を降り、城まで続く橋を早足で進んで行った。手にぐっと力が入り、硬い拳を両手に握る。後ろからガジンが「お待ちください」と声をかけるが無視して進んだ。
それまで胸の内にしまっていたものが、静かに燃え始めていた。バステアス王にずっと抱いていた怒りや不満が、胸の奥から頭のてっぺんまで沸々と上がってくる。書庫にある大きな進軍経路図。レッドに対するバステアス王の姿勢、視線。ブルートに対する扱い。ハビカスの存在。
周りの使用人たちが、その形相に驚き立ち止まる中、レッドは城の扉を開き、大嫌いな深紅の大広間を抜け、薄暗い灰色の廊下に足音を響かせた。そこに使用人の男が駆け寄り、早足のレッドの真横に駆け足ぎみで並び、レッドを止めるように手を前方に伸ばしていた。
「お待ちください、レッド王子!今、王は応接室で会談中でございます」
「会談中?」
「先の戦の相手国であるウルルグランの使者がいらっしゃっているのです。ウルルグランの国は多大な災いを受けたことから戦を中断。一時停戦を求めにいらしています」
「では、いつ会談は終わる予定だ?」
「あと3日の予定でございます」
「そこまで待てというのか!」
レッドの声は廊下に響いた。使用人は「ヒッ!」と言ってビクッと体をこわばらせた。後ろをせっせとついてきたガジンとウイルも、声を荒げるレッドにさすがに驚いた。レッドはそれに気づき、ふうっと息を吐き、頭をかいた。
「大声ですまない。気が立っていたのだ」
「い、いえ」
「すまないが、早めに謁見したい。お時間をいただきたいと、父上に伝えてくれ」
「し、承知しました」
すると使用人の男は足音を立てないようそろそろとレッドから離れて行った。レッドの背中を、後ろからガジンとウイルが押した。
「まずは、何か口に致しましょう。気が立っていたのは、空腹のせいです」
「そうです。おいしいものを出していただきましょう」
レッドに微笑んだ二人の顔を見たことで、レッドはようやく落ちつた。「すまない」と呟くと、3人は来た道を戻って行った。
大広間に戻ると、帰還したブルートと、木製の車椅子に乗るムツジが再会を果たしていた。ムツジは車椅子の上で深々と頭を下げていた。
「ご無事のお帰り、お待ちしておりました」
震えるムツジの声が大広間に響いた。ブルートはムツジを見たまま固まっていた。ブルートには、あまりに受け入れられない現実が目の前にあった。両足を失い、立つことも歩くこともできなくなったムツジの姿は、ブルートに大きなショックを与えた。
ブルートは膝をつき、ムツジの太ももに両腕を乗せ、そこに顔をうずめた。
「ブルート王子……」
「ムツジ、ムツジ!何てことだ……」
ブルートは泣き始めた。ムツジは何も答えられなかった。黙ってももの上で泣くブルートを見ている。
「よく、生きていてくれた。よく……」
「王子、すみません。すみません……」
ムツジの肩が震え、涙がこぼれた。二人の声を殺すような声が、しんとした大広間の空気を震わせた。レッドが二人に近づいていくと、ブルートが俯いたまま立ち上がった。
「ムツジ、調子はどうだい?」
「まだ切断面が塞がっているわけではないので痛みます。自分で車を動かすのも難しいです」
「兄上……」
「何だ、ブルート」
「兄上、確かムツジは死んだと言ってませんでした?」
「……?いや。言ってないな」
レッドはブルートにムツジのことを聞かれたのはいつだったか思い出そうとした。それはゼイダと対面した時、ブルートがオオカミに引きずられて来た時であった。ブルートは「ムツジはどうした!」と叫んだ。レッドはムツジの様子を説明することがとても心苦しくて、何も答えられなかったのだった。
その時、ブルートは答えてくれないレッドの様子から、ムツジは死んだと勘違いしていたのだった。ブルートはレッドの前に早足で来ると、顔面を近づけ睨んだ。その顔は真っ赤で、涙で頬が濡れていた。
「生きていたなら、そう言えばいいだけのこと。なぜ何も言ってくれなかったのですか!?私は今、ムツジと顔を合わすまで死んだと思っていたのです!これからどうしようか考えながら城門を抜け、ここまで歩いて来たのです!」
ブルートの目から涙がこぼれた。レッドはブルートに申し訳ないことをしたと思った。ブルートはスンスンと鼻をすすりながら目の涙をぬぐっている。
「すまない。その通りだな」
「本当に嫌いだ。そういうところ!大嫌いだ!」
「わかった。すまなかった」
ブルートはムツジのところに戻り、車椅子を引き移動した。
「ムツジ、肉が食べたい。肉を食うぞ!」
「ブルート王子、私のことは使用人にでも任せてください。お手をわずらせるわけには」
「構わぬ。気にするな」
「いえ。ブルート王子の押し方は雑なのです。すごく振り落とされそうです」
「こんの!言ったなムツジ!」
二人は言い合いながら大広間を後にした。レッドは二人の姿にほっとした。「レッド王子、我々も行きましょう」
「ああ。そうしよう」
****
その日の夕方、城の中心部にある螺旋階段をレッドを先頭に、ガジン、ウイル、ブルートが登って行く。一番上まで登り、突き当たる廊下を左に曲がる。廊下には一つだけ扉がある。そこを開けると、城門から城下町を臨む大きな窓が広がる部屋がある。バステアス王は窓際に椅子を置き、頬杖をついて外を見ていた。
真っ赤な夕焼けが窓の外に広がり、部屋の中が真っ赤に染まっている。広々とした部屋には物が一切ない。窓辺に座るバステアス王の真っ黒な影が、レッドたちの足元まで伸びている。
「父上、本日の午前中に全員戻りました」
「帰ったか、レッド。ブルートも連れて帰ってきたのだな?」
「もちろん。父上、何故ブルートを引き渡す条件を飲まなかったのですか?ゼイダは魔術師ハビカスを差し出せと言ったはずだ。父上はそれを飲まず、私を出した。私には、ブルートよりもハビカスを守ったように見えます。良くできた息子より、ハビカスの方が大事ですか?お答えいただきたい。父上!」
「怒っているのか?そのように声を強くする姿を初めて見た。面白いものだ」
「何も面白くない。私は、自分の怒りで体が燃えそうなんだ」
「それくらい威勢よく戦に出てくれるなら、頼もしいものだがな」
「簡単に戦を起こすような方と肩を並べ戦場に立つなど、死んでもしません」
「では死んでもいい。城を出て行ってくれて構わない」
「父上は、私がいつどこで死のうが良いのだ。それはよく理解している。私はいい。既にあなたに必要とされることを、私が望んでいない。私は、あなたのために尽力する弟ブルートが、今回のような仕打ちを何故受けなければならなかったのかが納得いかないのです」
「そんなことを怒っているのか。何故他人のために怒る」
「他人ではない。兄弟だ!」
その時、レッドの肩にブルートの手が置かれた。ブルートはレッドの前に出ると、バステアス王の前に膝をつき、頭を下げた。震えた声で「父上、ただいま帰りました」と言った。いつもバステアス王と一緒にいるブルートの声ではなかった。
窓辺に座っていたバステアス王は立ち上がり、ゆっくりとブルートの前にやって来た。とても冷徹な空気が辺りを包んだ。ブルートは目の前にバステアス王の影が迫ると恐ろしくなり、背を丸め、震えていた。
「よく、帰ってこれたものだ。己の身可愛さに、戦場に人避けの呪いを敷き、軍を混乱させた挙げ句、敵に簡単に捕まり、我々の動きの一切を妨害した。これは罪だ。お前は、してはならぬことをしたのだ」
バステアスは剣に手をかけた。ブルートは剣のかすれる音だけでビクッと体を強ばらせた。汗が額ににじんでいた。
「父上、ブルートは巻き込まれただけです。呪いの話は初耳ですが、それも作戦であれば」
「人避けの呪いがどのようなものか知るまい。あれは、通す者には素直に道を教えるが、通さない者には決して道を教えないのだ。ブルートは、我々の道を塞いだも同然なのだ。それがどういうことかわかるだろう」
「……申し訳ございません」
「もう、お前は要らぬ。二度と使ってやるものか」
バステアスは剣を抜き、ブルートに向け降り下ろした。それはレッドの首に向ける脅しの剣とは違うものだった。本当にブルートを傷つけようとしているようだった。
「父上、父上!」
バステアスは容赦なく剣を降り下ろした。レッドはブルートの前に立ち、両手を広げた。
「お止め下さい!父上!」
その瞬間、バステアスの腕が止まった。何かに驚いたような顔をして、握っていた剣を床に落とした。よろけながら後ずさりし、頭を抑えている。バステアスは今にも倒れそうだった。
バステアス王の目には、見上げるレッドの顔と、ある女性の顔が重なった。切ない表情に、涙をためる目でバステアス王を見つめるその人は、レッドととても似ていた。動揺し、視界がゆらゆらと動く。レッドの呼びかける声が遠くなる。
「父上っ」
レッドは思わず左手を伸ばし、バステアスの腕を掴んだ。その瞬間、バステアス王の目に映る女性についてのバステアス王の記憶がレッドの中に入ってきた。女性はレッドのように両手を広げ、「やめてください!」と叫んでいた。レッドの中にその声が響くと、体の中をバステアス王の記憶が一瞬にして走った。
若き英雄バステアスの姿、賞賛の声。美しい婚約者との恋。遠征の戦い。無気病の蔓延する西の国。そこで出会ったハビカス。闇の中。どこまで走っても闇の中。その闇の中にある一つの光。光の中にいた、レッドに似た女性。つまりレッドの母、バステアス王の妻の姿。
バステアスは剣を握る重たい右手を振り上げていた。妻は両手を広げて背中の誰かを守っている。苦しさと悲しさが王の胸の中で嵐のようにうず巻いている。振り上げた剣を下ろしてはいけない。振り下ろしてしまったら大変な後悔をする。わかっている。だけど、どうしようもない不安と苦しみが大波になって押し寄せる。黒い影が心を縛る。
いつの間にか右手はとても軽くなっていた。気分がとてもすっきりして、ようやく呼吸ができたようだった。しかし、足元には無残な妻の死体が横たわっている。体を割かれ、真っ赤に染まったドレス、半分開いたままの口からは血がとろとろと流れている。開いた目はまだうるうるとしている。まっすぐバステアス王を見つめたまま、妻はもう動くことはなかった。
後悔が全身を走る。苦しい。苦しい。呼吸が早くなる。横たわる妻に伸ばそうとした両手は真っ赤だった。バステアス王は叫んだ。叫べば叫ぶほど、黒い影のようなものがバステアス王の心を満たした。それは不安と恐れを膨らませる力になっていた。
その時、弱々しい赤子の鳴き声が聞こえた。その肌の色、頬の赤み、髪の色、耳の形、長い艶やかなまつ毛に、うるうるとした大きな瞳。妻が身を挺して守ろうとしたもの、それは妻にそっくりだった。バステアス王の心を支配する闇に、わずかな光が差した。
レッドは体に力が入らなくなり、バステアス王を掴んだまま、床に倒れてしまった。ゆっくり起き上がるが、頭の中を整理することがとても困難だった。
「父上、父上……」
レッドはバステアス王を見上げた。
「私の母上は……。母上は、最後」
バステアス王は血相を変え、声を上げながら剣を握り立ち上がった。バステアス王の脇をガジンが後ろから締め、動きを抑えた。
「落ち着いて下され!バステアス王様!」
「レッド王子、お怪我はありませんか?」
レッドの前にウイルが立った。その背中越しにバステアス王の目と剣を持つ手が見える。それだけで、レッドの目には涙が浮かんだ。
バステアス王の記憶を見たレッドには、父バステアスの抱えるものが見えてしまった。その背後にある黒い影の正体は、バステアスの背後で「ヒヒヒヒ」と笑っている。落ち着いていたはずの感情が燃え始め、怒りが体を熱くした。
レッドはハビカスに向かって走ろうとしたが、ハビカスが杖を少し動かしただけで、レッドの動きが封じられた。体は前のめりになり、力を入れても動かなくなった。
「王子、あなたに私を傷つける力はない。残念、残念」
ハビカスはゆっくり近づき、するりとウイルとレッドの間に入ってきた。
「愛しい龍の国の歌姫は、私がいただく」
血が沸騰するように怒りが頭に上った。
「させるものか!!」
黄ばんだ歯が並ぶ口がにんまりと笑うと、レッドの額にコツンと杖を下した。するとまぶたが急に重くなっていった。全く抵抗できないまま、レッドは気を失った。その一瞬に、ハビカスは小さな声で呟いた。
「私は、龍の国の歌姫の心ではなく、血がほしいのです。黙って見ててくださいまし、レッド王子」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます