第8話 戦いの終わり
リオの優しい歌声に目を覚ますと、レッドの頭はリオの膝の上にあった。レッドの頭を小さい手が撫でている。初めて会った日を思い出した。顔を上げると、リオは頬をすっとなぞり、歌いながらレッドに微笑んだ。
リオが顔を横に向けると、そこにゼイダが横になっていた。穏やかに眠るような横顔を、2頭の赤目のオオカミが覗いていた。リオが歌い終わると、ゼイダはゆっくり目を開けた。
「アラと同じ歌声だ」
「ゼイダ……」
ゼイダはゆっくり体を起こし、レッドを睨んだ。
「お前は私の記憶を見たな。なら、私がどうして人間を恨んだか、わかるだろう」
「お前の過去は、アラへの想いでいっぱいだった」
「言うな、そのようなこと。もう100年も前のことだ。私の想いなど、ずいぶん前に捨てたさ」
「全てを捨てきれるのか」
「そのために力を手にした」
「数多の魔術師の命を奪って、魔力を奪って、それでお前は満足したか?いや、何も解決できていない。お前自身が、何も救われていないじゃないか」
「黙れ!人間風情が!!」
ゼイダは手を振り風を起こし、レッドを吹き飛ばそうとした。先に飛ばされたのはリオだった。リオはゴロゴロと上手に体を転がして止まった。リオが「レッド!」と顔を上げると、レッドは立ち上がり足に力を入れ、飛ばされまいと耐えていた。レッドの頬にシュッと傷ができると、体のあちこちが切れていく。それでも、今は倒れてはいけないと思った。
「僕は人間さえいなくなってくれれば満足だ!人間など、争い続けるばかりだ。傷つけあうことしかできない。奪い合うことしかできない!」
ゼイダの心の中に、アラのいろいろな顔が浮かんだ。幼い頃の無邪気な笑顔、寂しそうな顔、悲しそうな顔、嬉しそうに照れくさそうに笑う顔、最後に見た巫女としての顔、そして、マイアの太陽のような温かい満面の笑顔。
「目障りだっ」
アラと過ごした時間を思い起こすことが辛かった。アラへの気持ちが溢れて苦しかった。もう二度と会うことはできない。言葉を交わすことはできない。一緒にいられない。触れられない。
「消えろ。消えろ!!」
100年間、どんなに忘れようとしても忘れられなかった。どんなに心を捨てようとしても捨てられなかった。どんなに死のうとしても、魔力を手に入れた体は死ななかった。
ゼイダはレッドに向ける風を炎に変えた。
「レッド!!」
「レッド王子!」
遠くからリオやガジンが叫んだ。レッドは目の前に迫る炎を避ける余裕はなく、とっさにマントを盾にししゃがみ込んた。すると、青いマントは炎を受けても燃えなかった。マントの裏であれば熱くもなかった。
レッドはこのマントが織られていた光景を思い出した。龍の谷の池の透き通る水の中、糸を口から垂らす魚が少しずつ編んでいく。
「これは、本当に良いものを頂いたな」
しかし、炎の熱気は盾にするマントの外からやってくる。それが肌をヒリヒリとさせた。長くこの状態ではいられそうになかった。次の手を考えようとしたが、腰に差していた2本の剣はなかった。短剣はリオに渡している。何かないかと考えた。その時、背中に弓があることを思い出した。しかし、腰に一緒に持っていたはずの矢が一本もなかった。ゼイダと戦う中で、腰の矢筒は壊れバラバラと落ちていたことに気づけなかった。
「これ以上レッドを傷つけないで!」
「リオ、来るな!」
リオがゼイダに向かって走り出した。ゼイダはリオに振り向いた。ゼイダの目には、そこにアラがいるように見えた。記憶に見たアラはリオと同じように悲痛な顔で「ゼイダ」と名を呼んだ。
「アラ……」
その瞬間、レッドに向けられた炎が止まった。すかさずマントを振り払い、背中にある大鹿の角の弓を持ち、ゼイダに向けた。弓の糸は琴糸だから、響けばまるで楽器のように音がするはず。ゼイダの視線がこちらに向けばいい。そう思い、レッドは弓を目一杯引いた。ギシギシという音がする。
「ゼイダ!」
レッドが弓をはじくと、琴の柔らかく強い音が響き、ゼイダに向かって突き刺すようなまっすぐな風が飛んだ。その真ん中に光る矢が飛んでいるのが、レッドとゼイダには見えていた。
ゼイダが気づいた時には既に光の矢は胸の前だった。矢はゼイダの胸に入ると、レッドがゼイダの記憶の中で見た光景が、ゼイダの頭の中に広がった。
それは、ゼイダが宮殿の奥でアラに会った最後の時だった。アラは泣いていた。意識を失ったゼイダの頭を膝にのせ、優しく輪郭をなぞるように撫でている。
「ゼイダ、許してね。あなただけを置いて逝ってしまうことを、どうか許してね」
目を閉じるゼイダの頬に、アラの涙が落ちて流れていく。
「私はずっとあなたのそばにいる。私はここにいるわ。あなたが生き続ける限り、ずっとずっと、一緒にいるわ」
アラはゼイダの胸にキスをした。
「だからどうか、ずっと生きて。私と一緒に、穏やかに、自由に」
アラは涙を流しながら笑った。
「あなたをずっと、愛してる」
ゼイダの目から涙が溢れた。自分の体を抱きしめるように腕を回し、地面に膝をつき、前に倒れこんだ。
「アラ、アラ」
ゼイダの横に、ゼイダと同じ赤目のオオカミがゆっくり近づくと、ゼイダの体に頭をすり寄せた。
そこにレッドが近づくと、オオカミがゼイダの後ろに引き、レッドを探るように見つめた。ゼイダは倒れたままでいる。
「殺すがいい」
「そんな難しいことを言わないでくれ。私には、お前を殺すことはできない」
レッドはこれ以上立ってもいられず、ゼイダの横にしゃがみ込んでしまった。
「お前の記憶に触れ、想いを知った。苦しみの中で長く生き続けた者を、私は傷つけられない」
「許そうというのか。こんな私を……」
「許すことは簡単ではない。だけど、お前自身がそれをよく理解している。ゆえに苦しみ続けたのだろう。だから、どうか生きて、お前自身の答えを見つけるんだ。きっと、できるはずだよ」
乱れた息を整えながら、ゆっくりと話すレッドの喉を赤い目が見つめた。その無防備な喉を裂くことはとても簡単に見えた。しかし、どうしてもその気にはなれなかった。
「ははは。なんて甘い王子だろうか」
ゼイダは顔を上げ、レッドを見つめた。
「どうも敵わそうだ。……君の勝ちだ。レッド王子」
****
日が傾き始め、空が少しずつ赤くなっていく。静かなマイアには、リオの歌声が広がった。祭壇に座るリオの周りにはオオカミが地面に寝転がり、歌声を聞いている。その後ろで、ガジンとウイル、兵士が馬を休め、荷物を下ろしている。レッドはリオより少し離れたところでゼイダと二人で腰を下ろしていた。
「アラと同じ歌声だ。懐かしい」
「私は、アラ様がリオにそっくりだったことに驚いた」
「そうだろうか。アラは黒髪で、青い瞳だったから、あの子を見て、アラの子だとは思わなかった。僕は、歌姫は人間の姿に化けた龍だと持っていたもの。カカ殿が、これは私の娘だと言っていたから」
「いつ、カカやリオに会ったんだ?」
「初めて会ったのは、私に魔力が満ちてすぐの頃。だから50年ほど前か。どういうわけか龍の国にたどり着いてしまった。初めてカカ殿を見たときは息をのんだよ。それは美しかった。銀翼の神は、これだと思ったね。だけど、その足元にいたのは、あそこで歌っている女の子ではなかったよ。青い毛むくじゃらの何かのようだった。足の生えた小さな怪物か、カカのいう龍の子かよくわからなかった。とにかく人間とは思わなかったね。ははは」
「確かに、私も初めて見た時は人間とは思わなかった。そう。毛むくじゃらだったから」
「しかし、人間の女の子だからといって、アラの子であることを、君はよく知ってたねえ」
「リオが龍の谷に引き取られる前、アラ様が龍の谷のそばにリオを置いた時から、主の大鹿様がリオを見守っていたから」
「大鹿の記憶を見せてもらったのだったね」
「ああ」
「どれ」
するとゼイダは人差し指をレッドのこめかみに当てた。すると、大鹿の見せた記憶の中にあったアラと幼いリオの記憶がレッドの頭の中でグルグルと回った。光る青い耳飾り。たなびく草原。眠る赤ん坊。大鹿の姿。アラの声。
指が離れると止まり、レッドは乗り物酔いしたような気持ち悪さを感じた。ゼイダはリオの姿を眺め、「そうか。そうか」と呟いた。ゼイダは、切ないような、嬉しいような、寂しそうな、複雑な笑みを浮かべている。
レッドは、ゼイダの姿と自分の姿が重なった。リオは、自分にとってとても近い存在だけれど、線が引かれたような距離があるように思える。その線を越えてはいけない。その線を越えて、リオに触れてはいけない。
リオの生い立ちを考えなかったのは、認めたくなかったからだった。リオは龍の国で百年以上生きた普通の人間ではないということを。それを気にする自分を。リオに手を伸ばしても、その手を必要としてもらえないということを。リオにとって、自分はその程度の存在だということを。
リオを見ていた視線の先に、ブルートが一人で座っていた。レッドと目を合わせるとビクッと肩を上げ、少ししてその場を離れ林の中へ行ってしまった。レッドは立ち上がり、ブルートを追った。
「ブルート、待て。ブルート!」
レッドは離れて行くブルートの腕を取った。するとその手を振り落とし、ブルートが顔を真っ赤にして振り返った。少しだけ目が潤んでいる。
「何ですか。離して下さい。放っとけばいいでしょう!私のことなんか」
「放っとくって……。そんなことはしないよ」
「しろよ!ずっとそうだったように!」
ブルートが声を強くして言った。レッドには思い当たることがなかった。
「いつ、私がお前を放っていたって言うんだ。違うだろう。お前は私のことが嫌いだから避けているのだろう。どこにお前を放っておく時間があった」
「小さいころから、兄上だけは人に囲まれ、大事にされてきた。いつだって守ってくれる人がいて、心配してくれる人がいた。私は違った。小さいころからずっと兄上と比べられ続けた。勉学も、剣術も……」
ブルートは小さな頃のことを思い出した。小さなブルートは背をまっすぐ保っていないと、後ろから母親にパンと叩かれた。見上げた母親の顔は冷たい目でブルートを見ている。その顔が見たくないから、ブルートは前を真っすぐ見てトントンと足音を立てて、影の落ちる廊下を早足で歩いた。
中庭に通じる廊下を行くと、大人に囲まれた兄レッドがいた。中庭の中で低い大人の声の中、背をしゃんとし、威張らず、穏やかにしている。王子としての振舞いを忘れないレッドに、ブルートはとても憧れた。いつか自分も兄のように立派な王子になりたい。勉学も剣術も誰にも負けない兄のような王子になりたい。そう思っていた。
ブルートがその様子を見つめていると、レッドがチラッとこちらを見た。目があった。それだけで嬉しくなり、頬がポッと赤くなった。しかし、レッドはすぐに顔を上げ、囲む大人に笑って返した。決して初めてのことではなかった。ブルートは前に顔を戻し、暗い廊下に入って行った。
勉学も剣術も、レッドの方が良くできた。どんなに頑張っても頑張っても、レッドの方が何でも上手にこなしていた。ブルートは上手にできない自分に腹が立った。上手にできないブルートを、母はきつく叱った。毎日、毎日、毎日。
「ずっとあなたと比べられ続け、ずっと言われ続けた。ブルートはレッド王子に何も敵わないと」
それがレッドに対する苛立ちになったのは、アリスが生まれ、母親が亡くなってからだった。ブルートは思った。幼い妹を守れるのは自分しかいない。自分に反発する者、嫌いな目をする者は皆敵だ。兄上だって、敵なんだ。誰よりも強くならなくてはいけない。誰にも何も負けない人にならなければいけない。兄より優れた強い王子にならなければいけないんだ。
「努力した。努力した。あなたにしか当たらない日の光を、影から見続けながら、努力し続けた!兄上は知らない。私だけが、あの城の中で影にいたことを。あなたはそれを見ていなかった。触れようとしなかった。ずっとそうだった。だから、私はあなたには頼らないと、あなたの助けが必要にならないよう、努力した。なのに……」
ブルートは悔しくてたまらなかった。賢くて剣の腕も達者な兄と、ずるいことばかり考えて剣の腕も上達しない自分が並んでいる。敵だと思っている兄が自分を助けた。良くできる敵たる兄に救われた。まざまざと、実力の差を見せつけられた。
大嫌いな兄。自分を見てくれない兄。自分より何でもできる兄。かつて憧れた、穏やかで優し気な兄。
「城にこもることしかできない役立たずのままでいればいい。兄弟のことなんかかまってる暇さえないほど忙しく過ごされればいい。優しくしなくていい。助けてくれなくていい。私はあなたのことが、大嫌いなんだよ……」
ブルートは鼻の奥がつんとして、目から涙が溢れてきそうになったが必死にこらえた。
ズッと鼻をすするブルートに、レッドはどのような返事をしたらいいのかわからなかった。ブルートが、レッドのことが大嫌いであることをはっきりと言った。わかっているつもりだったが、面と向かって言われてしまうと、とても悲しくなった。しかし、ブルートの言うことが全てではないと思った。
「助けなくていいことなんかない。互いに母が違っても、兄弟であることには代わりない。力になれることがあれば、なるのが当たり前だろう。お前は私が嫌いでも、私はお前を嫌っていた訳じゃない」
「そんなわけない。嫌いだっただろう。そうだろう?そうじゃなきゃ……」
そうじゃなきゃ、情けない自分を正当化できる理由がなくなってしまう。
「じゃあ、お前は私の何を知っている?どんな気持ちでいたのか知っているか?わかるまい。お前が影にいたようになんて、私には見えなかった。影にいたのは私だった。日の差す明るいところにいたのはお前だ!」
レッドの中に浮かんだブルートの姿は、いつもバステアス王の後ろに背筋をピンと伸ばして立つ姿だった。飾りではない剣を腰に下げ、胸を張り、いつだって真っ直ぐ前を見ていた。
「周りにどんな人たちが立っていようが物怖じせず、背筋をしゃんとして立ち、王子としての振舞いを忘れない。私がなりたかった姿のお前が、光差す明るいところに立っている」
それはブルートが思い浮かべる、かつて憧れた兄の姿と重なった。ブルートは、レッドが昔の話をしているのではないことがわかった。今の姿を言ってくれている。兄は弟を、弟は兄を見ていた。お互いに自分には見えないところを見ていた。
「そんなお前が、私はずっとうらやましかったよ。私の弟は、私よりずっと優れたこの国の立派な王子だと、私は思っている」
ブルートの目から涙がこぼれた。ゼイダに捕らえられてから、毎日オオカミの顔に囲まれ、食事も水も十分に与えられず、一人で死んでしまうのではないかと不安と恐怖が体の中を満たしていた。そばにいないムツジが無事なのかもわからない。心細くてたまらなかった。闇が満ちる夜には、思い出さなくてもいいような小さな頃を振り返ったり、兄への思いなど余計なことまで考えてしまった。
ブルートはそっぽを向いてごしごしと涙をぬぐった。どうして涙が出るのか、胸が何で温かくなってしまっているのかわからない。わかりたくもない。
かつて兄に憧れた自分なんてずっと前に忘れたはずなのに、どこか嬉しく思う自分がいる。遠い地まで来て、傷を負いながら、こんなに情けない自分を助けてくれた。何が嬉しいのかなんて、今更わかりたくもない。
「私があまりお前に構わなかったのは、嫌われていると思っていたからだ。だから触れない方がいいと思っていた。それがお前を傷つけていたなら謝る。すまなかった」
「いいです。もう結構です。言わないでください。謝られることなんて何もないんですよ。言われたからといって、私は謝りませんよ。私が悪かったところなんて一つもないのですから。……兄上はどう変わったところで、役立たずの身勝手な兄上なのです。きっとそうなんだ」
ブルートは鼻の頭を赤くして、ズルズルと鼻水をすすった。もうレッドとは目も合わせなかった。レッドはいつも通りのブルートに戻ったと思った。
「お前のそういう嫌みなところは、あまり好きではないよ」
「うるさいなあ!ほっといて下さい!」
大きな声に元気が戻ったような気がした。安心した。同時に、おかしくなってクスクスと笑ってしまった。するとブルートが「笑うな!」と言った。二人は皆のいる場所に戻っていく間にも「兄上のこういうところが嫌いです」「お前のそういうところがおかしいんだ」と言い合った。
実は影で二人の様子を見守っていたガジンは、涙なんだか鼻水なんだかを拭いながら、隣にいたウイルに「すまない。すまない」と謝った。ウイルがガジンにハンカチを差し出すと、ブシューッという、あまり聞きたくはなかった瑞々しい音が横から聞こえた。ウイルは苦々しい顔でガジンの背中をさすり、二人が戻っていく姿を見つめていた。
「気持ちはわかりますよ。……わかりますとも」
二人が肩を並べて歩いていく姿を見ていると、ウイルの目にも少しだけ涙が浮かんだ。
****
その夜、一行はマイアに留まりテントを張った。リオは『マイア文明』の本を広げ、ゼイダと肩を並べて祭壇に座っていた。リオはゼイダと楽しそうに話しているので、遠くからその様子を見てレッドは安心した。そこでレッドは、祭壇に掘られていた龍の印を思い出し、二人に近づいた。
「そういえば、ここに龍の印があったな」
「そうだね。これは元々なかったはずのものなんだよ。掘ったのはアラだろう。微かだけど、アラの魔力を感じる。どうしてこんなものを残したのか、僕にはわからないけれど……。歌姫、君の母上が残したものだよ」
「私のお母さん?」
リオは後ろにあった龍の印を見つめ、右手の手のひらを確認るように見てから、右手を印に重ねた。すると掘られた龍の印から白い光が放たれ、それが街の水道を走った。まっすぐ進み、十字に分かれた先へ走り、街中に白い光が広がった。
その時、歌声が聞こえ始めた。リオの声にそっくりだったが、リオではなかった。
「アラの歌声だ」
ゼイダが思わず立ち上がると、リオも立ち上がり、まるで歌が響き渡るように光が街に広がった。すると、家屋の跡をなぞるように光る壁が地面から上がり、四角い建物を点々と浮かび上がらせた。そこに、かつてのマイアの姿が現れた。
「何てことだ……。またこんな光景が見られるなんて」
ゼイダは祭壇を降り、ゆっくりと街を歩き始めた。リオはじいっと町を見ていた。レッドはリオの横に立ち、一緒に光る街を見つめた。
「昔、マイアはこんな町だったんだよ。道には人がたくさん歩いていて、声がたくさん飛び交っていたんだ」
「そうなんだ」
リオは目をキラキラさせてじいっと周りの光景を見ていた。その時、龍の印の上に光が立ち上がった。リオとレッドは後ろに振り返った。人の形は、ゼイダの記憶の中にいた巫女のアラの姿だった。光はリオに近づくと、手を広げリオを包んだ。リオと同じくらいの背丈で、衣装をまとうリオと同じようなシルエットだった。
リオは怖がらず、光の腕の中に立っていた。リオの耳には「リオ、リオ」という優しい声が聞こえていた。
「あなたを愛してる」
リオは頬を赤くすると、涙がいっぱい溢れてきた。
「知らない人じゃない気がする。……あったかい」
しばらくすると、リオの背中から光は出ていき、ゆっくり街を歩きながら、ゼイダに近づいた。レッドは思わず「ゼイダ!後ろを」と叫んだ。ゼイダは振り返ると、そこに立つ光を見つめた。
「アラ?」
光は手を広げると、ゼイダをしっかりと抱きしめた。ゼイダも片手で光の中に見えるアラを抱きしめた。
「ゼイダ、ゼイダ」
「アラ、会いに来てくれたのかい」
「あなたを愛してる。愛してる」
「……私も、愛してる」
背中を丸め、アラの頭にそっとキスをする。赤い瞳が閉じると、一粒だけ涙がこぼれた。ゼイダの腕の中から静かにアラの姿が消えると、同時に街の光も消えていった。光の粒がゆっくりと星空に帰っていくようだった。とても美しい光景に、ガジンやウイル、兵士やブルート、馬やオオカミたちが顔を上げ、光が消えていくのを見つめていた。
リオはこぼれる涙をぬぐい続けていた。レッドはリオの頬に手を添えて、こぼれる涙を親指でぬぐった。リオがレッドをうるうるとした目で見つめた。それがとても美しい宝石のように輝いている。赤い頬が柔らかい。温かい。
「レッド」
「何?」
「あれは、愛し合ってる?」
リオはゼイダの方を見ていった。ゼイダの腕の中に、すでに光はなかったが、そこにいた人のことを想う姿は、リオの言葉がふさわしかった。
「そうだよ。リオの言う通りだ」
「私も、いつかレッドとああなる?」
リオの目がレッドをまっすぐ見ていた。リオは「愛し合ってる」をちゃんと理解はしていない。だからレッドの言葉を理解してくれないと思った。しかし、リオの頬に当てた手が磁石のように離れない。目差しも、温度も、声も、愛しくてたまらない。それをどう伝えれば理解してくれるのか、わからなかった。
「リオが、どこで誰とどう生きたいかを考えたらいいよ」
レッドは少しだけ期待していた。リオが自分を選んでくれれば、きっとこの先もずっと一緒にいられる。そう思った。
「レッドが好き。だからずっと一緒にいたい」
リオはまっすぐレッドを見つめて言った。レッドの心臓がドクンと音を立てた。
「リオ」
レッドはリオの唇に近づいた。リオはここにずっといてくれる。私のすぐそばに、ずっといてくれる。
もう互いの息さえ頬に感じるほどのところまできたとき、リオは明るい声で言った。
「レッドと一緒に、ずっと龍の谷にいたい」
それはレッドが思っていた答えとは違っていた。レッドはゆっくりリオから離れた。リオが悪気もなく素直に笑っている。
レッドはリオの顔を見ると、もう何も言えなくなってしまった。微笑み、リオの頭を撫でるとその手を離し、レッドはリオから顔を反らした。
リオとレッドの求めているものが違っていた。大切にしている場所が違っていた。それをよく理解した。
リオはレッドの様子がいつもと違うように感じた。何が違うのかを説明することは、リオにはとても難しいことだった。しかし、すぐ目の前にいるレッドがとても遠く感じた。リオは「レッド」と手を伸ばした。
その時、空から風が降ってきた。見ると、空から青い羽を広げたビビが降りてきた。リオは嬉しそうに「ビビ」と両手を広げて抱きしめた。ビビはレッドに首を伸ばした。
空から降り立った青い龍に、レッドが抵抗もなく手を伸ばす姿に、ブルートは驚き、腰を抜かしてしまった。あわあわとしながらガジンやウイルを見ると、はっとして背筋を伸ばして腕を組み、虚勢を張った。
「私は別にビックリなんてしていない。りりゅ龍など、たかが蛇に翼が生えたようなものだろう。むむむむしろ伝説の生き物が、私の前に現れたということは、つまり、私は良き君主となると示唆しているのだつまり!」
「はははは」とたか笑う声が裏返り、汗が額に浮かばせ、目を泳がせた。ガジンがブルートの笑う肩に手を置くと、ブルートの動きがぴたっと止まった。
「我々も最初は驚きました。ですが、レッド王子にすれば、すでにこれが日常の一部なのです」
ブルートはレッドの方にゆっくり顔を向けた。レッドは龍の頭を撫でながら、何か話しているようだった。隣には普通の人間とは少し違うような少女が立っている。まるでその辺りだけが別世界のようだった。
<レッド様、谷が健やかになりましたので、お知らせに参りました。カカも元気です>
「カカは生きてる?」
<リオ様、カカは無事です。怪我もようやく回復しました。もう、いつでもお帰りいただけます>
「そうなの?やった!やったあ!!」
リオはビビの首に抱き着くと宙ぶらりんになって体をゆすった。レッドは思わずビビが手を放してしまった。その時、ゼイダが戻ってきた。
「やあ、ビビ殿。谷はどうだい?」
<ゼイダ。谷もカカも回復しました。ありがとう>
「何の何の。ただ早く傷を癒してもらうために、少しばかりお手伝いしただけだよ」
ビビに触れていなかったレッドには、ビビの声は聞こえなかったが、二人が谷の話をしていることはわかった。
「ゼイダ、谷に行ったのか?」
「そうだよ。ひどいことになっていただろう。だから力を分けたんだ。少しでも早く、皆が回復するように」
「そうか……」
レッドは谷の惨事を思い出した。同時に思い浮かぶのは、「ヒヒヒヒ」と笑う魔術師ハビカスのことだった。ぐっと手に力が入る。
「君も、あの魔術師に怒りを感じているんだね」
「友を傷つけられたのだ。それはとても、苦しいことだ」
「どうするんだい?」
「どうもしない。あれは、この怒りを向けられることを喜びかねない。それがわかっている。何かしたところで、この苦しさが消えるとも思えない」
「よくわかってらっしゃること、レッド王子様」
「からかうな。そうじゃない。あれに対抗できる力を私は持っていないのだ。谷を守り、癒す力さえない。お前がうらやましいよ、ゼイダ」
「君がいなければ、歌姫を守ることはできなかった。君が大事にしてくれなければ、今こうして無邪気でいる歌姫の心を、誰も守ることはできなかった。それができたのは君だけだった。そうだろう、ビビ」
ビビが喉の奥で雷の轟くような音を出した。じっとレッドを見つめるので、レッドはもう一度ビビに触れた。
<リオ様は、カカの血を分けられたとはいえ、人間なのです。人間を守れるのは、人間だけなのです>
「私は少しは役に立てたかい?」
<はい>
「そうか」
レッドはとても嬉しかった。思わず口がゆるみ、目に涙が浮かんだので、俯いてぐっと顔に力を入れた。
<レッド様、よろしければ、このまま龍の谷にいらっしゃいませんか?>
「これから?」
「それは良いではないか、王子。ここから国に自力で帰るより、龍の谷から帰る方が早いだろう」
「いや、しかし……」
レッドには、一緒に戦ってくれたガジンやウイル、兵士、捕らわれていたブルートのことが気がかりだった。一緒に城に戻ることが大事だと思った。それに、今すぐ龍の谷に行くということは、リオが谷に帰るということである。
「王子、何も君だけが行くことはないだろう。全員で行ってしまえばいい」
<それでも構いませんよ>
「ええ!?」
「決まりだ。馬は僕が送ってあげるよ。人間たちはビビにお願いする。うん。そうしよう」
<そうしましょう>
「嘘だろう?」
「では準備をしよう」
ゼイダがパンパンと手を叩くと、眠っていたオオカミがむくっと起きた。ゼイダはそのままガジンやウイル、兵士、ブルートの元に行き、荷支度をするよう言った。リオはビビの首を渡り、そのまま背に乗った。レッドだけが状況に置いてけぼりだった。
「何だい王子。浮かない顔だねえ」
「いや、突然のことすぎて……」
「人生はね、いろいろなことが突然起こるものだよ。特にお別れは、何の前触れもなくやってくるものだ。僕は君に会えてよかったと思っているよ」
「私は、お前を傷つけてしまった」
「僕から傷つけようとしたのだ。君は何も悪くない。僕は君に感謝しているんだ」
ゼイダは星空を見上げ、静かに言った。
「僕の心にあったわだかまりをほど解いてくれた。どうしようもない怒りをおさめてくれた。失った過去を見せてくれた。優しいアラを思い出させてくれた。感謝の言葉を並べ続けても、伝えきれないだろう」
「おおげさだ。ゼイダが自身の心と向き合ってくれたからこそ、解決したことだ」
「その力をくれたのはレッド王子、君だよ。ありがとう、ありがとう」
ゼイダはレッドの手を取って言った。声が震えていた。ゼイダの言葉は、レッドの体に響くようだった。
二人が話している間に、ビビの背中にはリオの他にガジンやウイル、兵士、ブルートが既に乗っていた。リオがレッドに手を伸ばすと、ゼイダがリオの手に握っていたレッドの手を渡した。
「君のおかげで、僕のここに、アラがずっと一緒にいることを知ることができた。僕が生きる限り、アラは一緒に生きるんだ。素敵なことだ。だから、僕は生きようと思う。オオカミの家族たちと、アラと」
「そうか」
「君たちとお別れしたら、この世界をゆっくり旅しながら、人の力になろうと思う。僕のせいで人生を台無しにしてしまった人間たちへの罪滅ぼしだ」
レッドはリオに引っ張られるまま、ビビの背中に乗った。
「レッド王子、君には力がある。その弓矢は、魔を射る力がある。使い方を覚えなさい」
「使い方?」
「君が射る方向を間違えれば、その弓矢が毒になることもある。だが、僕の心を射たようにして使えば、良い影響も出るだろう。使う瞬間を見誤るな」
「難しいことを言う。だが、覚えておこう。ゼイダ、一つ聞いてもいいか?」
「何でも聞くがいいよ」
「王とは、何をもって、王だろうか」
それは、大鹿がレッドに聞いたことだった。レッドの中に、まだその答えはない。レッドは長く生きたゼイダが、もしもこの質問をされたら、何と答えるのか聞きたくなった。
ゼイダはふむと考えた。思い浮かぶ王の姿がなかった。マイアにいた王は横暴で、自分を過信している上に、思いやりを持たない男だった。アラは一人で多くを抱えてしまう人だった。若かりしバステアス王は、戦を覚えたての勇者のようだった。そういう者たちを「王」とは言えなかった。
ただ、今ゼイダの目の前にいる男は、いづれ立派な王になるのだろうと想像した。それはどのような王だろうか。どのような姿であってほしいだろうか。
「そうだな。未来を期待させてくれるような、希望を与えてくれる者、かな」
「希望を与えてくれる者」
「素敵な力だろう。君には、その力があるよ」
「私に?自信がないよ」
「それでよろしい。自信のない君の力になろうと、人が集まってくるだろう。そういう者が見せる明るい未来に、人はきっと期待するんだ。君はそれに応えようとするのだろう。その姿勢こそが、王たる姿勢になると、僕は思うよ」
「……ありがとう。ゼイダ。会えて良かった」
レッドはゼイダに手を伸ばし、握手をした。
「良い旅路を。森の賢者、ゼイダ」
「ははは。そうだった。森の賢者だった」
「何がおかしい」
「僕はね、森の賢者と言われていただけなんだ。本物の森の賢者は他にいる」
「そうだったのか?」
「ああ。僕は、少し魔力を持ったオオカミだ。むしろ、主の力を持つ君の方が賢者に近しいかもしれない。もしかしたら、森の賢者にも会ったことがあるかもしれない」
「……いや、それらしい者に会ったことはないな」
「主の力を持つ以上、いづれ出会うことになろう。またどこかで会ったら、その時は酒でも飲もう」
「そうしよう。その時は、旅の話をたくさん聞かせてくれ」
「ああ。友よ」
手を離すと、ビビがゼイダに首を傾けた。ゼイダは「しっ」と息を吹き、人差し指を口の前で立てると、そのままビビの背中の後方に向かった。ゼイダは兵士の前に立つと、ビクッと驚いている兵士の額をデコピンした。
「僕がわかっていなかったとでも思っているのかい?」
すると兵士は気を失い、そのままゼイダに向かって落ちた。兵士を受け止めたゼイダは、そのまま兵士を軽々と肩に担ぐと、ビビに目配せした。
「悪いが、こいつだけは谷に連れていくことはできない。馬と一緒にお届けするから安心しておいて」
「どうしたんだ?」
「ビビが、こいつが臭いから乗せたくないんだとさ」
ゼイダはクスクスしながらそう言った。ビビの喉元で雷がゴロゴロと鳴る音がする。
「では、しばしの別れだ。元気でいたまえ、友よ」
「ゼイダも元気で」
ビビは羽を広げ、ゆっくりと空へ羽ばたいた。だんだん遠くなる地上に、ゼイダとオオカミ、レッド一行が乗ってきた馬たちがいる。オオカミが空に向かって遠吠えをすると、リオがそれを真似した。ビビは速度を上げながら上昇し、一行は空の星の中に消えた。
地上に残ったゼイダは星空を見上げ、一行の無事を祈った。
「君の心のわだかまりも、溶けるといいね。レッド王子」
ビビの背中の一行は龍の谷までの空の旅を楽しんでいた。リオは嬉しそうに歌い、レッドはその後ろでビビに捕まって何とか姿勢を保っていた。ガジンやウイルは必死にビビにしがみついていたが、風圧に耐えられず、ビビの背中に沈み込んでいた。その後ろでブルートが体半分飛ばされかけていた。半べそをかきながら、まるで干された洗濯物のように飛んでいるブルートは、必死にウイルの腰ベルトにつかまっていた。
「痛い!ベルトが食い込んで痛い!裂ける。下半身が裂ける!」
「耐えろ!私が飛ばされてしまうではないか!」
叫びは風に飛ばされた。ガジンは「わっはっはっ」と笑っいながら、その前に平然と座っているリオと、その後ろでしっかり座っているように見えるレッドを見てた。
「いやあ、王子の背中が大きく見えます。嬉しうございますなあ!」
「何だって、ガジン。聞こえないぞ!」
「何でもございませんよー!お気になさらずー!」
ガジンは、レッドの背中が大きく見えることが嬉しかった。まるで、かつて英雄と言われていた若きバステアス王を思わせるようだった。ガジンの目に涙が浮かんだが、すさまじい風がさっさと涙を飛ばしてしまった。
上機嫌に歌うリオの横顔を見ながら、レッドはリオのことを考えていた。リオに対する自分の想いの整理をし、谷に着いたらどうするかを考えた。
****
その頃、城ではハビカスが水鏡の前に立っていた。そこには、目の前まで迫るゼイダの顔、その鋭い爪の立つ指が写っていた。その指が目の前までやって来た時、水面の光景は揺れ、水の中に溶けるようにして消えてしまった。
「おや、見つかってしまった。消えちゃった、消えちゃった」
杖で水鏡の水をぐるぐるとかき混ぜたが、そこにはハビカスの顔しか写っていなかった。
ハビカスは、レッドと共にマイアまで向かった兵士の視線を借り、その旅の様子をずっと見ていたのだった。それに気づいたゼイダが、ハビカスの魔法を破ったのだ。
「まあ、しかし十分だ。歌姫は谷へ戻った。わしが睨んだ通り、レッド王子と歌姫は、ご関係があるようじゃ。歌姫をわがものとする日も近いということ。ヒヒヒヒ」
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