第7話 森の賢者 ゼイダ

 それは、若きゼイダの記憶の中だった。レッドは、オオカミに連れられ歩いた広い道に立っていた。道に沿って白い小さな建物が綺麗に並んでいる。それら一つ一つが人の住居であることは、人の出入りなど見ればすぐわかる。家の前に麻の布が敷かれ、その上に果物や豆、装飾品が並べられていた。たくさんの人々が行き来し、町には人々の明るい声が溢れている。レッドが目の前に見ているのは、まだマイアが栄え、人々が当たり前のように生活を営む頃の様子であった。

「ゼイダ、これからアラ様に会いに行かれるの?だったらこれを渡して下さいな。この間、子どもの病気を直していただいたお礼です」

 女の人が嬉しそうにレッドに近づいてきた。持っていた白い布の袋を受け取ると、中には豆がいっぱい入っていた。

「そうか。渡しておくよ」

 それはレッドの口からではなかった。少年の声が、レッドの耳元で響いた。

「その後、子どもは元気にしているか?」

「ええ。元気が良すぎるほどよ。あら、今日もリダを連れてるのね。仲良しですこと」

 女の人はレッドの後ろに姿勢を低くして手を伸ばした。そこにいたのは犬ほどの大きさのオオカミだった。瞳が赤いオオカミは、リダと呼ばれていた。

 するとレッドの体から男が離れて行った。道をまっすぐ歩いて行く後ろ姿はがたいがよく、いかにも力の強そうな太い腕で、「ゼイダ、ゼイダ」と民たちから手を振られ、振り返していた。

「ゼイダ……。あれがゼイダ?」

 あのオオカミの姿をしたゼイダとは似ても似つかなかった。それはまさしく人間の姿だった。レッドは「ゼイダ」と呼ばれる男の後を追った。

 しばらくすると、一番奥に白くて大きな建物が見えた。それまで四角い家ばかりが並んでいたが、その建物だけは円形だった。壁はとてもなめらかで、屋根は真ん中が空に向かってツンと尖っている。その建物にゼイダは慣れたように入って行く。レッドも後を追った。

 中に入ると、高い天井まで伸びる白い円柱が並び、天井一面に、見覚えのある独特の草花の模様が、青色で繊細に描かれていた。レッドは思わず「何て美しい」と呟いた。

「ゼイダ、ゼイダ。こっちよ」

 その声は横の部屋の中から聞こえた。その声はまるでリオの声だった。

「アラ様、また何を」

「しっ!静かにしてちょうだい」

 その部屋を覗くと、上から吊り下げられたカーテンの中にいる二人の姿があった。カーテンの隙間から見える黒髪の黒い瞳の少年がゼイダ。そして、その唇に人差し指をつけているのは、リオに瓜二つな女の人だった。黒髪で白い肌、青い瞳の女の人。特に「ふふっ」と笑う顔などは、リオそのものであった。

「ばあやがうるさいの。巫女修行はもう飽きちゃった。ゼイダ、これから二人で遊びに行きましょう」

「ダメに決まってます。しっかり修行なさって下さい。アラ様は、これからのマイアを担う巫女なのです」

「そんなの、私でなくてもいいじゃない」

「よくありません。見てください、ご自身の右手の甲を。その銀翼の神の印は、巫女のお力を持つ人にしか現れない印。あなたは選ばれた方なのです」

 アラと呼ばれる女の人の右手の甲には、リオと同じ龍の印があった。

「嫌よ、私……。ゼイダとこうしてずっと遊んでいたいわ」

 遠くから「アラ様」というおばあさんの声が聞こえた。アラはそれを聞くと、カーテンの中で俯いた。ゼイダは困り、小さな声で言った。

「それでは、私は何のために体を鍛えているかわかりません。あなたが巫女になる。だから私は誰よりも強くなろうと思って」

「アラって呼んで」

「え?」

「様はいらない。アラって呼んで」

「い、いやいやいや!無理無理」

「呼んで、ゼイダ。小さい頃みたいに。一回でいいから」

 アラが顔をぐいっと近づけるので、後ろに引いたゼイダは顔が真っ赤であった。

「ア……、アラ」

 するとアラは満足して頬を赤くして笑った。リオにそっくりだった。そしてゼイダの肩を持つと顔を近づけキスをしようとした。ゼイダは必死に避けようとし、そのまま二人はカーテンを巻き込んで転んでしまった。その音に気付いたばあやがレッドの横に立つと、雷のごとく大声を上げた。

「アラ様!!ゼイダ!!」

 驚いて目をつむっている間に、レッドはまた違う場所にいた。日差しのまぶしい外で、風に混ざって白い花がたくさん飛んでいる。わあっという歓声が聞こえる方へ振り向くと、誰かの結婚式が行われているようだった。

「アラ様!王子様!」

「隣国の王子様、ようこそマイアへ!」

 花冠をつけた新郎新婦が人々の間を、オオカミの引く車に乗って移動していた。新婦はアラだった。笑いながら手を振っている。隣の新郎は、細かくカールした黒髪で、胸を張り出し、あごを上げている。まるで集まった人々を見下すような姿だった。

 ゼイダはレッドの隣に立ち、人々から離れた場所から結婚式の様子を見つめていた。その視線は、アラにまっすぐ向いていた。目の下が真っ赤になっている。元気のない横顔。レッドはとても心苦しくなった。

 後ろから何かが激しくぶつかり合う音と、ゼイダの声が聞こえたので振り返った。そこは広い武道場で、ゼイダと男たちが組手をしていた。

「最近だぜ。ゼイダがマイア兵の中でも一番の強者なんじゃないかって言われるようになったのも」

「アラ様が隣国の王子と結婚されてから、これまで以上に修練に力が入ったもんな」

「王子の血の気ときたら、すごいんだぜ。次に攻める国はゴールド王国だ、なんて言ってるらしい」

「あんな大国にマイアが敵うと思ってるのかよ」

「アラ様もお困りだそうだ。夫婦仲もあまりよろしくないらしい」

 それは武道場の端に座り込む男たちの声だった。ゼイダはとにかくまっすぐ相手に向かっていた。

 夜、ゼイダは森に流れる川のそばに構えた木造の小屋に明かりをつけ、オオカミのリダの体を洗っていた。時々体をブルブルと振ると水しぶきが飛んだ。

「ちょっと、リダ!やめろって」

 レッドはその様子を小屋の横で見つめていた。ゼイダはとても楽しそうに笑っていた。その時、森からぽちゃんという足音が聞こえてきた。振り返ると、そこにはずぶ濡れのアラがいた。アラはぼうっとしており、目の前のゼイダを認識できていないようだった。

「……アラ様?ずぶ濡れじゃないですか!どうされたのですか?」

 ゼイダが肩をゆすっても、しばらくアラはぼうっとしていた。ゼイダが何度も「アラ様」と声をかけていると、ようやくはっとして顔を上げた。

「ゼイダ、ゼイダ!」

 アラはボロボロと泣き出し、ゼイダに抱き着いた。声を上げ、顔をゼイダの胸に押し当てた。ゼイダは困った。

「どうされたのですか?」

「私は、夫の心が分かりません。優しくすれば、叩かれるのです。心を穏やかにしようと歌うと、蹴られるのです。お前など嫌いだ。お前は私をたぶらかそうとしているのかと……。そんな訳ないでしょう。今だって、何をした訳でもないのに、お水をかけられたわ。どうして……」

 小屋から布を取り、アラの頭を拭いていると、布が長い黒髪を持ち上げた。見ると、アラの頬は赤く腫れ、ところどころに小さな切り傷があった。首筋には赤い唇の跡がある。

 ゼイダは目を反らした。見たくなかった。泣いているアラのことも、傷つけられるアラの体も。

 その気持ちがレッドに直接届いてくる。苦しかった。何もしてやれない、力になれないことが悔しい。だが、既に立場も関係も昔とは違う。踏み込んではいけない透明な壁が、二人の間にあった。

 ゼイダはアラを宮殿に送り届けた。すると、宮殿の前にアラの夫である隣国の王子が仁王立ちで待っていた。

「待ちくたびれたぞ、アラ」

「申し訳……ございません」

「その男は何だ?」

「マイアの戦士です。私の、幼なじみでもあります」

「なるほど。アラをたぶらかしていたのはお前だな」

「ち、違います!違います!あなた、私は」

 すると王子はゼイダに近づき、握った拳をゼイダにまっすぐぶつけた。突然のことにアラが悲鳴を上げた。

「あなた!やめて!ゼイダは何も悪いことはしていません!」

 王子は会心の一撃を入れたと思い、満足げに鼻を鳴らした。しかし、ゼイダはよろけたり倒れもしなかった。ゼイダにとって、それは今まで受けた拳の中で最も弱々しい拳であった。しかし、ゼイダの心に火をつけるには十分な力だった。

「王よ、私は悲しい」

「な、何がだ」

「この国の王は、この程度の力しかないのかっ!!」

 ゼイダは拳を握り、思いっきり王子を殴った。王子は体を回転させながら地面を滑った。顔はパンパンに腫れあがり、目からは涙がこぼれている。

「血の気の多いだけの、バカ王子が!!そんなもんで、アラを守れるのか!!」

 王子の護衛たちにより、ゼイダは捕らえられ、地面に頭を押しつけられた。その時、ゼイダが見たのは、顔の腫れた王子をかばい、癒しの歌を歌うアラの横顔だった。アラは、ゼイダを一目も見なかった。

「アラ……」

 そこでゼイダは気を失った。レッドの視界もなくなった。

                ****

 次に意識を取り戻したのは、崖の中腹にできた洞窟の牢屋だった。その作りは粗末で、檻の隙間は人一人が通れる大きさがある。抜け出そうとすれば抜けられるのだが、外に出れば、山に住むオオカミの餌になることは間違いなかった。そのような場所のため、食事も水もろくに与えられない。ゼイダは少しずつやせ細り、時々蘇る意識を保とうと必死だった。

 ある時、朦朧とする意識の中、足音が聞こえた。檻の向こうに現れたのは、世話をしていた赤目のオオカミ、リダだった。リダはするりと檻の隙間を抜け、ゼイダに近づいた。リダの口には草団子が一つ挟まっていた。受け取る力さえないゼイダは、それを眺めるしかなかった。すると、リダはぐっと口をゼイダの口に押し当て、強引にゼイダの口の中に草団子を突っ込んだ。ゼイダはかむ力もなかったが、ゆっくりと口の中で草団子を潰した。

 次の日、リダは口の中に水を含んでやって来た。それをまた横たわるゼイダの口に強引に突っ込むと帰っていった。おいしいのか、おいしくないのかもよくわからない。強引すぎて、ほとんどの水が地面に落ちてしまったが、それでも数滴の水がゼイダの喉を通った。

 リダは、次の日も次の日もやって来た。来るたびに、果物や団子、水を口に含んでいる。それを強引に喉に通していくと、ゼイダは少しずつ体が回復してくるのがわかった。温度さえ感じなかった肌だったが、リダの体に触れた時、その温かさに驚いた。そして、自分の心臓が小さく脈打つのがわかった。

 生きている。私は、生きている。

 涙が溢れ、地面に落ちて渇いていった。涙がもったいないと思った。この涙は、リダが自分に与えてくれた水だと思った。しかし、涙が止まらない。どうやって止めるのかも、すかっり忘れてしまった。

 それから冬がやって来た。マイアは南の国だったが雪が降る。一人では寒いと心配したが、冬の間、牢屋はオオカミの暖を取る場所となっていたため、オオカミに埋もれるようにしていると、とても暖かく過ごせた。真横にはリダが眠っている。牢屋の向こうに見える雪の景色を見ながら、ゼイダはゆっくり冬が過ぎるのを待った。

 春が来る頃、監視の兵士が初めて牢屋にやって来た。ゼイダは死んでいるとでも思ったのか、生きてそこに座っているのを見て声を上げ、走り去ってしまった。一人でクスクスと笑っていると、リダがやって来た。口には草団子を挟んでいた。

「この草団子をお前に渡しているのは一体誰なんだ?」

 リダは話す口など関係なく、ゼイダの口に草団子を詰め込んだ。

 夏が来る頃、ゼイダは牢屋から解放された。まず一番に兵長に報告した。

「お前は当初、死刑が言い渡されていた。だが、ゼイダを失うことは、我々の兵力を大きく失うことだと王に訴えたところ、1年生きていられれば解放すると言われた。まさか本当に、あの牢屋で1年過ごすとは」

「皆様、ご迷惑おかけしました。ありがとうございました」

「しかし、今は戦争中だ。ゼイダには、まず体を鍛えてもらわねば」

「どことの戦なのですか?」

「西の国ヨルチェルトと連合し、ゴールド王国と戦をしている」

「ヨルチェルトと連合で?」

「ああ。我が王は、今ヨルチェルト軍と合流したところだろう。戦はヨルチェルトの方で行われるし、このマイアが攻められることはあるまい」

 ゼイダは兵長と別れると、宮殿の前に立った。アラには会えないことは承知していた。じっと見つめていると、偶然にもアラが現れた。

 アラは青い刺繡の衣装を着て、耳にダーコイズ石をつけていた。それはマイアの巫女の姿であった。美しかった。遠目からでも会えて嬉しかった。ゼイダの目頭が熱くなった。

 しかし、そのお腹には、黄色い帯が巻かれていた。それは、妊娠の証であった。まだお腹は大きくはなかったが、それでも、女官が何人もアラのそばを固め、階段を降りる時は手を取り、体を支えていた。

 見ていられなくなったゼイダは、アラと目が合う前に立ち去った。立ち去ったゼイダに気付いたアラは、離れていくゼイダを目で追った。

「アラ様、どうかされましたか?」

「……いいえ、何でもないわ。行きましょう」

 ゼイダは川沿いの小屋に帰った。すると、そこにはリダがいた。リダはゼイダを見ると寄ってきて、足に顔をすり寄せた。ゼイダがリダの体をさすってやると、お腹が少しだけ張っていることがわかった。

「お前、赤ん坊ができたのか?」

 リダは嬉しそうに頭をゼイダにすり寄せた。リダを抱きしめていると、小屋の寝床に草団子の山を見つけた。

「おい、お前。この団子は、誰が持ってきてくれたんだ?」

 リダは答えなかった。

 その夜、リダと一緒に眠っていると、足音が聞こえてきた。先に反応したのはリダだった。リダは耳を立て、ゆっくり小屋の外に出て行った。月に照らされて伸びる影が二つ、小屋の中に入って来る。リダと一緒にいる影の背丈からすると、相手は女だった。

 女がひょこっと小屋に顔を出した時、ゼイダは女を掴み、小屋の壁に追いやった。腕を掴み、首を動かせないよう頭を壁に押し当てた。

「ゼイダ、ゼイダ」

 聞き覚えのある声だった。月の光に照らされたその人は、アラだった。

「アラ様!こ、これは失礼致しました」

「いいえ。悪かったのは私の方。何をかしこまっているの。顔を見せて、ゼイダ」

 下げた頭を上げると、そこには、少し大人びたアラが立っていた。アラが手を伸ばすと、ゼイダの手を取り外に出た。外には、草団子を詰めた袋が置いてあった。

「アラ様が、これを?」

「そうです。でも、今夜限りです。私も体のことがありますから、もう自由に外には出られません。許してね」

「アラ様、私はこれで命拾いしたのです。ありがとうございます。今後、アラ様のため、国のために、力を尽くしたいと思います」

「ならば、あなたに一つ命じます」

「はっ。何なりと!」

「宮殿警備兵になりなさい。あなたなら、国にどのような敵が来ようとも、宮殿を守ってくれるはず。承諾いただけますか?」

「はい」

 ゼイダは、もはや兵士にもなれないと思っていた。国のために腕を使えることなどないと思っていた。それができるのだ。アラ様のお側で。これほど嬉しいことはなかった。

「ねえ、ゼイダ。一つ、お願いを聞いておくれ」

 背中を向けたアラが静かに言った。

「何なりと」

「一回でいいから、アラって呼んで。小さい頃のように」

「それは……」

 まだアラが巫女の修行をしている頃に、同じことを言われた。まだお互いに幼く、無邪気で、素直でいられた頃が懐かしい。

 アラはゼイダに振り返ると、じっとゼイダを見つめた。まっすぐ見つめられると、それが冗談には思えなかった。これが最後と思い、ゼイダは言った。

「アラ」

「ゼイダ」

 アラは涙を一つこぼし、満足げに笑った。月の光が川の波を反射して、真っ暗な森の二人の姿をくっきりと見せていた。

 その様子を遠くから眺めるレッドには、ゼイダの心が伝わってきた。思いと現実の差が、とても悔しかった。現実を変えられるだけの力がないことが苦しかった。また、そのための行動を起こす一歩を怖がる自分に、とても腹が立った。アラの顔を見るたびに、胸が締め付けられた。

               ****

 秋の終わり、宮殿にまっすぐ走って来る兵士がいた。宮殿の外を警備していたゼイダは、その兵士に手を振った。

「ゼイダ、ゼイダ!どうか、巫女様にお取次ぎを!至急頼む!」

「一体何があった!?」

「ヨルチェルトは降伏し、マイア軍は全滅。我が王は捕らえられ、処刑が決まった。しかし、ゴールド王国は止まらない。マイアに攻め入るつもりだ。西から攻めてくるぞ!いつ戦がこの国で起こってもおかしくないんだ!」

 ゼイダは急いでアラのところに走った。マイア国で戦争が起こるかもしれない。アラが危ない。傷つくかもしれない。嫌だ。自分はどうなっても、アラを助けなければ。アラを守らなければ!

「アラ様、アラ様!」

 宮殿の奥に行くと、ゆったりと座るアラがいた。

「ゼイダ、何ですか?慌ただしい」

「ゴールド王国が、攻めて来ると今知らせが参りました。こうしてはおれません。早く逃げましょう!」

「わかっています。占いにも出ておりましたから。そして、マイアはこの戦に敗れ、我々マイア民族は滅ぶでしょう。逃げることなどできません」

「なぜですか?!」

「王が逃げるは、民を、国を見捨てたと同じなのです。私はここにいます。もうすぐ、この子も生まれます」

 アラは、まるで子どもの頭を撫でるように、優しく大きな腹を撫でた。

「その子を生んでも何とするのです。もう戦は始まるというのに!」

「銀翼の神に託します。この子をどうするかは、銀翼の神にご判断いただきます」

「銀翼の神がその子を助けるとは限りません。生かすのであれば、アラ様の手元に置き、一緒に逃げればよろしい」

「……それができれば、そうしますとも。ですが、私はこの国の巫女です。王なのです。ですから、私の命は、国とともにあらねばなりません」

 アラの長いまつ毛が潤んでいる。桃のような頬に美しく青いダーコイズ石の耳飾りが光っていた。

「ゼイダ、お前は早くお逃げ。お前は助かる」

「私だけ助かって、何の意味があるのです」

「その意味は、いづれ知ることになりましょう。その時は必ずやって来る」

 まるでアラは何もする気がなかった。そのような姿にゼイダは苛立った。自分ばかりが一生懸命、アラを守ろうとしている。アラを傷つけたくない。守りたい。ずっとずっと、生きていてほしい。

「あなたがいなければ何の意味もない!共に逃げましょう。私はあなたと生きたいのです!」

 ゼイダはアラの前に膝をついた。言えるだけのことを言った。ゼイダの必死の表情を見ると、アラは微笑んだ。ゼイダのこわばる頬に手を添える。

「ゼイダ、お別れです。今まで、私のため、国のために力を尽くしてくれたこと、心より感謝します。ありがとう」

 その手をゆっくりゼイダの目の前に滑らせながら、まるで子守歌のように優しく小さな声で歌を歌われた。何も抵抗できず、ゼイダのまぶたは重く閉じていく。

「アラ……」

 意識が遠のいていく。視界が、音が消えていく。アラが遠くなっていく。

 違うんだ。アラ、生きてほしいんだ。君が、君のために、君の人生を自由に生きてほしいだけなんだ。アラ、アラ……。

 記憶が遠のいていく。暗闇がレッドの周りを満たした。その時、レッドの背後から誰かの泣く声が聞こえてきた。振り返ると、そこにはアラがいた。アラはレッドの背後でずっと泣いていた。それはゼイダの記憶とは違うようだった。その瞬間、その一端の記憶を、レッドは一人、見てしまった。

                ****

 次にゼイダが目を覚ました時、辺りはとても暑くて、真っ黒な煙に包まれていた。煙が充満しているのか息苦しい。視界がないほど、辺りは黒い煙に覆われていた。まるで真夜中のようである。焦げ臭い。自分がどこにいるのかも分からない。

 地面くらい見えよう。しかし見えない。自分の手くらい見えよう。しかし見えない。おかしい。そもそも手を動かしている感覚がない。どこも触れない。

 手はどこだ。なぜ何も触れられない。私の体は。首は。顔は。なぜ触れられない。なぜ、何も見えない。日は空にあるのか。そばに人はいるのか。わからない。わからない。

「ダデガーギアギガー(誰かーいないかー)」

 声をあげようとすると喉が内側から破けそうなほど痛かった。煙を吸い込むとゲホゲホとせき込んだ。喉から血がのぼってくると口の中は血の味でいっぱいになった。どうしてこのようになっている。何が起こっている。

 その時、頬にポツンと滴が落ちてきた。雨が降り始めた。徐々に雨が激しくなっていく。肌に打ち付ける滴、空に向けた顔。そこでゼイダは気付いた。両腕に打ち付ける雨の感覚がなかった。目を見開いているはずが何も見えなかった。それは、ゼイダの両腕が失われていること、目が見えなくなっていることを自覚させた。

 ゼイダは喉が火傷をしていることにも気づいていたが、黙ってはいられなかった。出ない声で叫び続けた。何も見えない目からは、涙が出ていた。

 ゼイダが目覚めた時、戦は終わっていた。その時には、国の誰も生きてはいなかった。人でにぎわっていた道には人々の死体が転がっている。建物は跡形もなく壊され、宮殿さえも、その美しい姿を失っている。しかし、その景色をゼイダは見ることができない。

 ゼイダは三日三晩叫び続け、とうとう力尽きると雨でぐっしょり濡れた地面に倒れた。しばらくすると、足音がグチョングチョンと聞こえた。

「お前、まだ生きてるね。まあまあ、こんなになって。大丈夫だよ。今、治してあげるから」

 何も見えない闇の中に、優しい人の声が聞こえた。その声に安堵し、再びゼイダは意識を失った。

 次に起きた時、目を開けると、目の前に老人がいるのが見えた。小さな体は黒いマントで覆われ、手に杖を持っている。頭にはとんがり帽子を被っている。見るからに魔術師だった。

「どうだい、兄ちゃん。よく見えるかい?」

「ああ。よく見える」

「そりゃ良かった」

 ゼイダは周りを見回した。視界が体の後ろまで見えそうなほど広がった気がする。自分の声が少し低くなったように聞こえるのは、火傷した喉がまだ完治してないからだろうと思った。

 聞こえる音が以前よりもたくさんあるように感じた。風の音、森の音、鳥や獣の声、呼吸。それらが感覚的な距離を持って聞こえてくる。匂いもそうだった。目の前の魔術師の匂いが濃い。辺りの匂いが濃い。消炎、砂、空気、水の匂いが濃く、鼻の穴を滑っていく。

 辺りには、そこにあったはずの家々が無くなっていた。地面を見ると、そこは宮殿の床のようだった。天井は無くなり、外壁が無くなり、残っているのは、床の一部と崩れかかった壁が一面だけであった。

「これは、戦の後か……。民はどこだ。巫女はどこだ。アラ様は、どこにっ」

「皆、死んだ。戦によって、全て消えた。ひどい戦いだった」

 ゼイダは思い出せるだけの人々の暮らしや顔を思い出した。アラの顔を思い出した。それが全て消えていた。何もかも、跡形もなく。ゼイダの目からは大粒の涙がこぼれた。止まらなかった。悲しくてたまらず、声が出ない。

 手で顔を覆った。その手の感触がおかしかった。太い骨のゴツゴツとした自分の手ではなかった。もっと柔らかく、大きく、毛深かった。そもそも動かせる腕があることに驚いた。ゆっくり手を離した。目に入った自分の腕は、まるで獣の足だった。しっかりした肉球、厚みのある肌、太く強い獣の毛、牙ほど鋭い爪。

「何だ、これは……」

 ゼイダは首を触った。輪郭や鼻筋、頭や耳の形を確かめた。それは明らかに人間の首の形ではなかった。まるで、オオカミのような形だった。

 ゼイダは横に毛深い何かが転がっているのがわかった。それは獣の死体だった。首と前の両足がなかった。ゼイダは自分の腕の毛を見た。同じような毛並みをしていた。知っている毛並みの気がしてならなかった。

「魔術師よ、鏡はないか?」

「あるけども、見て平気かい?」

 ゼイダは恐ろしい想像をしていた。見覚えのある顔をしていたら、どうしよう。

 魔術師から受け取った鏡を、震える手で顔の前まで持ってくる。そこに写ったのは、世話をしていたオオカミ、リダの顔であった。特徴的な赤い目などは、まさにあのリダのものだった。言葉を失った。

「このオオカミが、まだ息のあるうちにな、私に兄ちゃんを助けてほしいと言ってきた。だから、兄ちゃんに足りないものをくれたんじゃい」

「顔は、なぜオオカミの顔になっている?」

「兄ちゃんな、ここに倒れてた時、顔面は黒焦げで、頭蓋骨は砕けてた。人の顔の形すら保ってなかった。喉が破けて出血していて、微かな呼吸さえできていなかった。心臓と脳みそだけが小さく動いているような状態。それを治すには、オオカミの顔をそのまま移植することが一番良かったんじゃい」

「何てことだ……」

 ゼイダは持っていた鏡を手から落とすと、頭を抱えて前に倒れた。

「私は、唯一の家族さえ失った。私一人、ただ一人残ってしまった。このような姿で……」

 ゼイダは混乱していた。感情と記憶が、嵐のようにぐるぐると頭の中で渦巻いていた。ゼイダは必死に微かな記憶を辿った。

 戦が始まろうとしていた。アラはそれをわかっていた。だが逃げる様子も、抵抗しようとする気もなかった。ゼイダはアラに「生き残る」と言われた。確かに生き残った。だが戦場となった国で何もできず、意識を取り戻したら、顔も腕も失い、人を失い、祖国を失っていた。アラさえ守れず、自分だけが何もかも失って、生き残っている。

 アラは「その意味は、いづれ知る」と言っていた。何の意味がある。私だけが生き残ったことに、何の意味がある!

「兄ちゃん、自分だけが生き残ってしまったと、罪悪感を持つんじゃないよ。きっとそれには、意味がある」

「アラもそう言っていた。魔術師はそうして適当なことをいう生き物なのか」

「え」

 ゼイダは口を大きく開けると、小さな魔術師の頭をバックㇼと飲み込んだ。牙が薄い肉をえぐり、骨を突き刺した。頭の中に、人間を食う音が響いていた。オオカミの舌が肉と血をからめとり、それがゆっくりと喉を通った。とても美味かった。

 同時に胸の奥に何かが蓄積されたような感覚がした。それは波打つ霧のようなイメージで、青白かった。体に力をみなぎらせるその感覚は、魔力であった。

 その時、茂みから2頭の赤い瞳を持つ小さいオオカミがやって来た。それは、リダが夏に産んだ双子のオオカミだった。

「ああ、生きていたか。お前たち」

 ゼイダは2頭を抱きしめた。2頭はゼイダの毛深い顔をなめていた。そして、残った魔術師の肉にかぶりついた。空腹だったのか、勢いよく食らいついている。とても美味しそうに見えた。ゼイダも一緒に、魔術師の指の爪の先まで食った。

 それからゼイダは、マイアの国を回り、誰一人生き残っていないことを確認すると、マイアの国にいてもどうしようないということがわかった。

 ゼイダは考えた。何故、全てを失ったのか。何故、自分だけが生き残ったのか。

「国がこのようになってしまったのは、バカな王がいたからだった。地位を得、武器を得た王は、民のことなど考えず、強くなったように錯覚し、無謀な戦に挑んだのだ。何と愚かな王だろう。愚かな王のために、民は命を落としたのだ。アラ、最後まで自由に生きることのできなかったアラ。どうして逃げようとしなかった。なぜ私を眠らせた。哀れなアラ。可哀そうなアラ。……アラは、死にたかったのかもしれない。戦が起こることを予期しておきながら、抵抗しなかった。一緒に逃げようと言った私から意識を奪った。そうか。そうか。死にたかったアラからすれば、私はとても邪魔だったのだ。戦場となる場所にいられては都合が悪かったのだ。だから私の意識を奪った。魔術を使い、戦が終わる頃まで眠らせた。……本当にそうだろうか。いや、そうだったのかもしれない。アラ、アラ、アラ!」

 叫んだところで誰も答えなかった。その声は、かつて賑わいを見せた大きな街跡となってしまった広い場所にただ静かに流れた。それはゼイダを余計に孤独を感じさせた。

 ゼイダはアラのことを考えた。そして虚しさと切なさがこみ上げた。どうすることもできず、しかし、ただ立ち止まることもできなかった。怒りがじわじわと押し寄せてくる。火がつき、風が吹き荒れ、怒りは炎になった。

「おのれ、愚かな王よ、アラよ、人間よ!私から体も、心も、居場所も奪った人間。苦痛を与える人間、人間、人間!」

 ゼイダは麻のマントを羽織り、2頭のオオカミと共に旅に出た。

「私は決して許さない。王を、魔術師を、人間を!」

                ****

 旅に出て間もなく、ゼイダは体がかゆくてたまらなくなってしまった。どうにも我慢ができなかったが、オオカミの鋭い爪で人間の胴体をかけば、簡単に肉を割いてしまうことは想像できた。

 ゼイダは川で体を冷やし、木の幹に体を打ち付け、滝に打たれることで、どうにか耐えようとしたが、耐えきれず、森の中で倒れてしまった。

 その時、カツンカツンという杖を地面に打ち付ける音が聞こえた。そこに現れたたのは、何十年、何百年生きているかわからないようなしわくちゃなおじいさんだった。

「おや、オオカミ人間がおる。おかしな体だねえ」

 チェンはヒュウッと息をして倒れるゼイダの横に「よいしょ」としゃがむと、体をつんつんと指であちこち触った。ゼイダは喉を鳴らして吠えた。

「待て、落ち着け。今助けてやるから」

 背負っていた薬棚を置き、ちゃきちゃきと薬を調合すると、ゼイダの口を強引に開け、そこに薬を流し込んだ。チェンが「一気に飲み込めい!」と言うので、ゼイダはぐっと飲みこんだ。とても苦くてたまらなかった。

「苦い苦い苦い!」

「お前さん、人の言葉が話せるのかい。そりゃよかった。少しは話が通じるな。で、体はどうだい。かゆみは少し収まったかい?」

 言われてみれば、まるでそれまでの体のかゆみが噓のように引いていた。

「ああ。あんなにかゆかったのに……」

「ほっほっほ。そりゃよかった。じゃが、お前さん。かゆさに耐えかねて、ずいぶんと体を傷つけたもんだ。飲み薬もそうじゃが、塗り薬も必要じゃな。ほれ、体を上げて」

 チェンはゼイダの体を酒をしみ込ませた布でごしごしと拭った。それから体の傷という傷に透明な薬を塗りたくった。

「薬は一時的なものだ。当分の薬を渡しといてやるが、それ以上は自分で何とかせい」

「自分で、とは?」

「お前さんの体のかゆみの根本的な原因は、その体を保つための魔力不足。自分で何とかせにゃ、一生かゆみが続くぞい」

「……お前は何者だ?」

「薬売りのチェン。普通の薬売りではないぞ。腕の立つ薬売りじゃ。ほっほっほ」

 それからゼイダと2頭のオオカミは、チェンと一緒に森の中を移動した。その間、チェンはゼイダに薬の作り方の基礎を教えた。草の種類を覚え、それぞれの効果を覚え、調合の組み合わせや、保管の仕方を覚え、ゼイダは薬作りを始めた。

 同時に木々や草、川、岩等の自然物から魔力を分けてもらう方法を教わった。自然物からの魔力の吸収は微々たるものだったが、ほんの少し体に魔力を含ませるだけでも、体のかゆみは一時的に無くなった。しかし、魔力の吸収は、獣等の生き物から取る方が効率がいいことは、旅の中で理解した。同時に、獣よりも魔術師から奪うことが一番良いということにも気が付いた。

 一つの森を抜ける頃、ゼイダとチェンは別れた。チェンはゴールド王国の方へ、ゼイダは西へ向かった。チェンからもらった薬が全て無くなる頃、ゼイダは自分で調合した薬を試すようになった。

 森を一つ一つ抜ける度に、ゼイダは人の住む集落を訪ね、魔術師のいる場所を聞いて回った。人から話を聞くために、ゼイダは言葉づかいや人との距離感、身振り手振りを考え、警戒心を持たれないよう親近感ある話し方を身につけた。そうして言葉巧みに聞き出した魔術師を狙い、見つけ、魔力を奪った。血肉はゼイダと一緒に2頭のオオカミも口にした。そうすると、体のかゆみは一切感じなくなった。

 その生活は、ゼイダと2頭のオオカミの体に少しずつ影響していった。本人は全く自覚しなかったが、徐々に体が大きくなっていった。それはつまり、ゼイダの力が徐々に強くなっていることを示していた。少しずつ、少しずつ、食らった魔術師の力が体の中に蓄えられていく。

 ある時、ゼイダは薬に魔力を込めることを思いついた。やってみるとこれが体によく効いた。ゼイダはこれを、魔術師の話をしてくれた人間に与えるようになった。人間は喜んで受け取った。人間からしてみれば、話さえすれば滅多に手に入らない薬をもらえるのだから、とても嬉しいことだった。

「もしや、あなたが噂の”森の賢者”様ですか?」

 ある日、薬を受け取った村人がそう言った。

「ここいらで噂になっているのです。森から現れ、お話をしたお礼に薬を恵んでくれる”森の賢者”様がいると」

 ゼイダは人々から「森の賢者」と呼ばれるようになっていたことを知った。同時に、これは利用できると思った。

 森の賢者の薬は、あらゆる病が治ることから、万能薬として「賢者の薬」と噂された。だが、魔力の含まれた薬を受け取った人間は、その魔力に次第に心を食われていった。まるで魂の抜けたような様子で、虚ろな表情を浮かべる。思考力は低下し、体を動かすことを忘れる。体の中に抱えられない魔力は、周りの人間に移っていく。すると、魔力が移った人間も同じように心を食われていく。その頃、南西から北へと、そうした症状の者がポツンポツンと現れた。

                ****

 マイア国が滅亡してから70年ほど経つ頃、ゼイダは魔術師から食らい続けた魔力を蓄え、真に「森の賢者」という名にふさわしいほどの魔力を持ち、その使い方まで理解していた。その力によって、ゼイダの体は簡単には傷つかなくなった。

 その頃から、ゼイダは自分の魔力を出会ったオオカミに与え、一つの大きな群れを作り始めた。魔力を与えられたオオカミたちの大きさは馬ほどもあった。そして、オオカミを使い、ゼイダは人間を襲うようになった。

 オオカミが森にひそみ、息を殺して耳を立てている。ゼイダは一人、人里を訪れ、魔術師の噂を聞いては「賢者の薬」を渡した。そうして立ち去ったその夜、オオカミたちに人里を襲わせた。オオカミは人間を一口で丸のみしたため、一夜にして人里から人が消えるという現象が、北西の各地で起こり始めた。

「この間、隣の山里が”神隠し”にあったんですって」

「”神隠し”?」

「やだ、あんた知らないの?最近ここいらで起こってるのよ。一晩で、その里の人たち全員が突然消えるんですって」

「血も争った形跡がないことから、神様が人を隠すんだ、なんて言われてるのよ」

「だから”神隠し”ね。怖いわねえ」

「いつそれがどこで起こるのかもわからない。怖い怖い」

 そこに、若きバステアス王が軍を率いてやって来た。ゼイダはバステアス王に奇襲をかけたが、バステアス王はこれをもろともせず、ゼイダの喉元まで剣を向けたところで、ゼイダはオオカミと共に消えた。すると北西で頻発していた「神隠し」は突然起こらなくなったことから、バステアス王は人をたぶらかす神と戦った英雄として名を広めた。

 バステアス王に大敗したゼイダは、オオカミたちと共に滅亡したマイアに戻った。出発地点に戻った時、ゼイダは旅に出る前のことを振り返った。自分が人間に対して怒り、憎んだこと。自分の言葉を思い出した。

「国がこのようになってしまったのは、バカな王がいたからだった。地位を得、武器を得た王は、民のことなど考えず、強くなったように錯覚し、無謀な戦に挑んだのだ。何と愚かな王だろう。愚かな王のために、民は命を落としたのだ」

 それは誰のことだったか。ゼイダは一緒にいるオオカミたちを見た。傷だらけで、足や耳、目など、体のどこかを失ったオオカミもいる。100を超える数がいたはずなのに、見える範囲で数えられるほどしかいなくなってしまった。愚かな王は誰だったか考えた。

「おのれ、愚かな王よ、アラよ、人間よ!私から体も、心も、居場所も奪った人間。苦痛を与える人間、人間、人間!」

 愚かで、大事なものを奪うのは誰だったか。苦痛を与えるのは、誰だったか。魔術師の居場所を聞き出し、親切に答えてくれた多くの人間たち。道中の食べ物や水を分けてくれた人里の人間もいた。楽しいお話、おかしな話、自分の話をした人間たち。体も、心も、居場所も奪ったのは、誰だったか考えた。

「私は決して許さない。王を、魔術師を、人間を!」

 許されないことをしたのは誰だったか。どこの王か。どこの魔術師もどきか。どこの元人間か。ゼイダは考えた。考えた時、目の前が真っ暗になってしまった。何も考えられなくなってしまった。いや、考えてはいけないような気がした。気づいてはいけないことが、あるような気がした。

 同時に立ち止まってはいられないと思った。ゼイダは態勢を整えると、もう一度、バステアス王とゴールド王国とマイアの堺で戦った。しかし、またしても大敗を期したのである。共に過ごしてきたオオカミは10頭にまで減り、体中に怪我をして戻ってきた。その様子を見たゼイダは、もう一度考えようとした。しかし、先に苦しさがこみ上げてくる。怒りが頭を締め付ける。悲しみが溢れてくる。

 ゼイダは残っている宮殿の床にうつ伏した。その時、床龍の印が彫られて残っていることに気が付いた。それはアラの姿を思い出させた。

「アラ、アラ、アラ……」

 あんなに恨めしかったアラが懐かしく、愛おしく思っていた心まで思い出させた。とても、とても、苦しくてたまらなくなった。寂しくてたまらなくなった。会いたくてたまらなくなった。龍の印を抱きしめるようにうつ伏した。

                 ****

 レッドがゼイダの記憶を見つめる場所がふっと暗くなると、そこに足音が近づいてきた。振り返ると、青い糸で草花の刺繡がされた衣装を着た、黒髪で青い瞳の女の人がレッドの隣にやって来た。頬の横で青いダーコイズ石の耳飾りが揺れるその人は、ゼイダの記憶にいたアラであった。アラの体はほんのり光を放っていた。

「あなたは……」

「ゼイダは怒りから、人々を憎むようになりました。憎むことは、ゼイダの心を一時楽にさせましたが、時が経つほどに、それは苦しみになりました。そして、彼はまだ心を整理することさえできていないのです」

 アラの横顔もその声も、とてもリオに似ていた。レッドの視線に気づいたアラは、レッドに微笑んだ。ドキッとした。まるで少し大人びたリオが隣にいるようだった。

「ゼイダには、人への情が残っています。国が滅び100年が経とうというのに、人の全てを否定しきれない。それがまた怒りとなりました」

「今ここにいるあなたは、ゼイダの記憶でしょうか?」

「いいえ。私は、ゼイダのここに、ずっとおりました」

 アラは胸に両手を当てて言った。目をつむり、祈るような姿は、神聖な存在のようだった。

「どうか彼を救ってほしい。伝えてほしいのです。私はゼイダと共にいると……」

「必ず伝えます。あなたの切なる想いも」

 アラは涙を流した。風に一粒一粒が流れていく。風の中に、リオの歌う声が聞こえた。アラは顔を上げ、耳を澄ませた。まぶたを閉じ、そのまま風の中に溶けるようにして消えていった。

 一人残ったレッドは目をつむった。リオが呼んでいる。帰らねば。そして思った。ゼイダは苦しみ続けた。自分に問い続けた。その答えは、きっと出るはずだ。私はその力になろう。

 リオの歌う声に耳を傾けると、体の感覚が戻っていくのがわかった。歌声が近づいてくる。そして、外の光がまぶたから透けて見えてきた時、レッドは現実の自分の体に戻ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る