第6話 マイアの国

 彼はとても優しい人だった。正義感に溢れ、たくましい体を持ち、人々を守り、国を守っていた。そして、私をとても愛してくれていた。

「アラ様、アラ様!」

「ゼイダ、何ですか?慌ただしい」

「ゴールド王国が、攻めて来ると今知らせが参りました。こうしてはおれません。早く逃げましょう!」

「わかっています。占いにも出ておりましたから。そして、マイアはこの戦に敗れ、我々マイア民族は滅ぶでしょう。逃げることなどできません」

「なぜですか?!」

「王が逃げるは、民を、国を見捨てたと同じなのです。私はここにいます。もうすぐ、この子も生まれます」

 大きな腹を撫でると、腹の奥が温かくなるようだった。そこに自分ではない命があることが伝わってくる。とても愛しい。

「その子を生んでも何とするのです。もう戦は始まるというのに!」

「銀翼の神に託します。この子をどうするかは、銀翼の神にご判断いただきます」

「銀翼の神がその子を助けるとは限りません。生かすのであれば、アラ様の手元に置き、一緒に逃げればよろしい」

「……それができれば、そうしますとも。ですが、私はこの国の巫女です。王なのです。ですから、私の命は、国とともにあらねばなりません」

 できるのなら、この子と共に、心静かに生きたかった。できたのなら、彼の愛に、答えたかった。

「ゼイダ、お前は早くお逃げ。お前は助かる」

「私だけ助かって、何の意味があるのです」

「その意味は、いづれ知ることになりましょう。その時は必ずやって来る」

「あなたがいなければ何の意味もない!共に逃げましょう。私はあなたと生きたいのです!」

「ゼイダ、お別れです。今まで、私のため、国のために力を尽くしてくれたこと、心より感謝します。ありがとう」

 ゼイダの頬に触れるのも最後。この手に感じるあなたの温もりを忘れない。

「アラ……」

 あなたの眼差しを忘れない。一緒にはいられないこと、どうか許しておくれ。

「私の愛娘。あなたにも贈り物を残さなくてはね。いつか、この地に足を踏み入れた時、きっと受け取ってくれるはずだわ」

 右手を地面につけると、そこから光る線が走り、龍の印が彫られた。

「愛してるわ、リオ。愛してる……、ゼイダ」

                ****

 レッド、リオ、ガジン、ウイルは、道案内をする兵士を先頭に、ウルルグランの国境付近の森の中を進んでいた。森の木々は空を埋める程緑が生い茂っているため、青く薄暗かった。鳥のさえずり、風の音が森の中をさ迷うようにこだましている。

「深い森だな。丘まで上がらねば太陽が見えないとは……」

「夜には必ず見晴らしの良い丘に上がりましょう。この森の中では、夜が明けたのかさえ分からないかもしれません」

「ああ、そうしよう」

 レッドの後ろにいるリオは、森の中をぐるぐると見回していた。突然鳥が横から現れたり、大きな音がしたりすると「うわああっ」と声を上げて驚いていた。その度に体を倒したり馬の上に立とうとしたりするので、レッドは馬の手綱を持ちながらひやひやとしていた。むしろ馬の方が冷静であるようだった。

 その夕方、一行は森を一望する丘の上にいた。ガジンとウイルは、兵士と共にもくもくと夜を過ごすためのテントとかがり火の準備をしていた。レッドはひたすら走るリオを見守っていた。

「ねえねえ、レッド。地図見せて」

 レッドが地図を「はい」と渡すと、リオは折りたたまれた地図をペラペラと丁寧に広げた。リオはわかる箇所を指で差しながら国や地域の名前をあげていく。

「ゴールド王国。お城。森、森、森!それから、ウルルグラン。マイア。レッド、私たちは今どこにいるの?」

「ウルルグランの国境辺りの森だ。お城からこう進んで、今いる丘はここだ」

 レッドは道中の道を、地図の上で指差しながら教えた。リオは楽しそうに地図を見つめている。

「明日はここから、ウルルグランとマイアの境になっている山脈まで行くんだ」

「さんみゃく?」

「山が連なる場所のこと」

「わかった!長く続くお山のことね。龍の谷からもたくさん見えるわ」

「そうだな。確かに龍の国からは山々が見えるな。どこの山か、この地図ではわからないが」

「ああ、龍の谷。いつ帰れるのかなあ」

 リオは顔を上げ、呟いた。レッドはその問に答えることはできなかった。それがいつかということがはっきりわからないこともそうだが、それを答えることは、レッドにとって心細いことだった。その時、「あっ!」とリオが立ち上がり、空を指差した。

「星いっぱい出てるよ!」

 丘の周囲には、闇深い森が広がっている。闇は森と空の境を溶かし、星の光だけを浮かばせていた。

 リオは荷物から杖を取り出すと高く掲げ、歌い出した。すると星が強く輝き出し、ひんやりしている森が、温かく優しい光に照らされた。しばらくすると、空の星がゆっくりと光の輪を描きながら回りだした。それは以前にも見た覚えのある光景だった。

 テントを張り終えたガジンとウイルは、空を見上げて驚いていた。レッドが二人に気づき、「静かに」と人差し指を唇の前に立てて見せた。二人はレッドの慣れている様子にも驚いた。

                 ****

 しばらくして、レッドはかがり火のそばでリオに『マイア文明』という本を読んで聞かせた。

「巫女は歌うことで、まつりごとや儀式を執り行った。歌にはいくつか種類があり、全てマイアに伝わる古語で歌われた……」

 レッドは膝で眠るリオの頭を撫でた。リオの歌は話す言葉とは違い、聞き取ろうとしても意味を理解することができなかった。

 レッドは心のうちで、リオの歌がマイアの古語であることに納得した。それはリオの生い立ちを想像させた。しかし、それはあまり考えてはいけないことのように思えた。

 ひゅうっと空から風の音が聞こえた。徐々に風の音が強くなった時、丘の草むらにリオの髪のように青く、金色の目を持つ龍が静かに降り立った。

「ビビか」

 青い龍ビビは首をレッドに伸ばした。レッドは手を伸ばし、ビビの頭に触れた。

<レッド様、遅くなりました>

「構わない。こちらこそ、リオを勝手に連れて城を出てしまって申し訳ない」

<どこにリオ様がいようと、私にはわかるのです。リオ様をお守りいただき、感謝します>

「龍の国の様子はどうだ?カカは無事か?」

<カカは命はとりとめましたが、大きな傷を負っています。ようやく話せる程度には回復しました。お約束の通り、カカと二人でお話を>

 それは、ビビが城を離れる時にレッドと密かにした約束であった。崩れかけた橋の上で、レッドはビビに「カカが回復したら、まず二人で話がしたいと伝えてほしい」と言っていたのだった。

「わかった」

 レッドはテントにいるガジンとウイルを呼んだ。二人は突然丘に現れたビビに驚きながらレッドのそばに駆け寄った。

「いかがされましたか?」

「すまないが、少し出かけてくる。朝までには戻るから、それまでリオを頼むよ」

「かしこまりました」

 ウイルが眠るリオを抱えると、レッドは立ち上がり、ビビの足を伝って背中に乗った。ガジンとウイルは頭を下げ見送った。ビビは大きな羽を広げ、丘を蹴ると、レッドを乗せて夜空へ消えた。

「レッド様は、ずいぶん慣れていらっしゃいますね。驚きました」

「大鹿を捕らえ、お城にお戻りになってからか。随分と人が変わられたようだ。何だかたくましくなられたな」

「はい」

 空を走るように飛ぶビビの速さに体を起こすことができず、ビビの背中に押し込まれるように倒れていた。必死に掴めるところを掴み、振動に耐え続けた。眼下をちらっと見ると、真っ暗な森がどこまでも広がっている。その延長に空が見える。見れば見るほど、内臓がひゅうんとして背筋がぞっとした。その闇に引っ張られてしまいそうな感覚がした。

 しばらくすると、真っ白な雲の中に入った。少しひんやりした空気が肌を包み、思わず目をつむった。

<レッド様、到着しました>

 目を開くと、眼下の景色は一変した。闇の森が消え、満月の光に満ちた青々とした艶やかな草が穏やかに波打つ草原が広がっていた。ところどころに丸い小さな光が星空のように輝いている。その中に、時々ゆらゆらと動く光の筋が見えた。それは小さな龍の背中の筋だった。それが上がってくると、レッドの隣で、まるで風になびく布のようにかろやかに龍が飛んでいた。谷の底に流れる大河の音が聞こえると、ビビは急降下した。あまりの勢いに、思わず「うわあっ」と声が出た。

 龍の国の谷にようやく降り立ったビビから降り、レッドは地上に足をつけ周りを見回した。そこは、龍とリオが穏やかに暮らしていた谷とはまるで違っていた。柔らかく地面を覆っていた草は枯れ、代わりに蔓が一面に伸びている。蔓には出来たてのような白い小さなつぼみがなっていた。以前に自分の体に巻き付いていたものと同じ蔓だった。

 池は形を崩している。その水面が時々揺れるのは、岩壁から落ちかけている木から滴が落ちるからであった。その木は瑞々しい若葉茂る木であったが、今は枝が見える状態になっている。いくつか残る葉の先から、静かに水が垂れ落ちている。

 谷から見える空が広くなっているようだった。壁は爆発により形を変え、まるで水瓶のような形になっていた。レッドが寝ていた洞窟の横、カカが腰を下ろしていた場所には、大きな蕾のように蔓が絡まって丸々と固まっていた。所々で白い花が開いている。何かが少しずつ回復しようとしているのがわかった。レッドはその大きな蔓の塊に近寄り触れた。

<レッド、よう来てくれました>

 その声はカカのものだった。雷が雲の中で轟くような音がする。蔓の中をよく見ると、銀色の鱗が光っていた。

「カカ、お前か」

<このような姿でごめんなさいね。まだ、体を動かすための力が足りないのです>

「……ハビカスの攻撃が、カカや谷をここまで傷つけたのか」

<あれは、よくできた魔術でした。私たちはこうして傷つきましたが、リオが無事でよかった。リオは元気にしていますか?>

「ああ。私の妹と友達になってくれたよ」

<それは嬉しいことです>

「しかし、ずっと帰りたがっている。リオにとっての家は、ここなのだ」

<今の谷には、リオを守れる者がいないのです。何より、このような谷の姿を、あの子に見せたくはない。だから今すぐにリオをここに帰ってこさせるのは難しい>

「確かに、様子は大きく変わっていると思う。けれど、リオは帰りたがっているよ。どのように景色が変わろうとも、思い入れを持ってしまえば、そこが居場所なのだ」

<リオが帰ってくれば、歌い続けるでしょう。あの子の歌には癒しの力があります。龍の国の神聖を保つ美しい歌。我々はこれまでも、その歌声に救われてきました。我々はリオを利用しているとも言えるのです>

「そうであったとしても、君たちの形は、家族だ」

<家族……。ここに、リオは帰ってきて良いものでしょうか。私の血を分けたとはいえ、あの子は人間です。我々と同等の時間を過ごすことはできない。同じように生き続けることはできない>

「それで、私のところに来させたのか?」

<リオの短い一生を、我々が縛りつけてしまうのではないかと思ってしまったのです。だから、あなたのいる人間の国で暮らすことで、リオに人間として生きることを覚えてほしいと思うのです>

「リオは、きっとそんなこと思ってない。それに、リオはどこにいても、自由に好きなことをやって過ごすだろう。今だってそうだ。それがリオの良いところだ。それを縛るものは、あの子には何もないのだ」

 言い終わった時、レッドの胸の奥でドクンと音がした。レッドは思ってしまった。ああ、そうだ。リオを縛るものに私はなりえないのだ。リオを繋ぎとめるものを、私は何も持っていないのだから。

 リオの笑う顔が浮かぶと、またドクンと音がした。

<ありがとう、レッド。私が回復し、リオを谷に戻せるようになったら、またビビを行かせます。どうかそれまで、お待ちいただけますか>

「わかった」

<ねえ、レッド>

「何だ」

<リオを大事に思ってくれていること、とても嬉しいわ。リオのこと、もうしばらくの間、お願いします>

 ふと、リオが緑のドレスを着て、本を持って佇む姿を思い出した。温かい午後の日差しが、暗い書庫を照らしている。そこには、二人だけしかいなかった。リオと一緒にいられる時間がもうすぐ無くなる。

 レッドは俯くと、小さな声で「ああ」と返事をした。

 次の日の朝、レッドはガジン、ウイル、兵士と合流し、出発の準備をしていた。リオはその音に目を覚まし、横になっていたテントから出た。

「リオ、おはよう」

「レッド、おはよう」

 眠たそうに目を擦りながらふらふらと立っていた。レッドを見る目は、朝日でキラキラと光っている。カカと同じ、金色の瞳。レッドはリオの頭を撫でながら簡単に手で髪をといた。あんなにサラサラしていた髪の毛が、指と指との間で少しだけ絡まった。これから少しずつ、手ぐしが通らなくなっていくのだろうと、レッドは思った。

                 ****

 ウルルグランとマイアの境となる山脈を登り、見晴らしの良い場所に到着した時、一行の前に一頭のオオカミが現れた。先頭の兵士は大変恐れたが、オオカミは襲ってはこなかった。

「あの子、道案内してくれるって」

 リオがオオカミを見つめて言った。オオカミは静かに道を先導し始めた。リオが「大丈夫だよ」と言うので、一行は黙ってオオカミについて行った。山道を登り、下り、川を渡り、森に入った。

 道中、レッドは姿のない視線を感じた。落ち着いていられなかった。既にここは敵地である。いつでも剣を抜けるように意識し、辺りを見回した。

 森をしばらく行くと、徐々に人工物のような大きな白い石が道端に現れた。四角く加工されているものや凸凹を積み重ねた塊など、とても不思議な形のものが道と森の間に落ちていた。

 リオは「これにそっくり!」と突然馬の上に立ち、レッドの背にもたれると、レッドの顔面に『マイア文明』の1ページを開いて見せた。目の前の道が見えなくなり、レッドは一瞬焦った。

「リオ、危ないだろう!わかったから、立たないでくれ!」

「似てるでしょう!似てるでしょう!」

 大きな声で言うので、本を受け取り、そのページを見ると、そこに載っているスケッチと、落ちている石は同じような形だった。本をリオに戻すと、リオは「似てる似てる。うわあ。すごーい」と楽しそうに声を出した。まるで旅行気分である。レッドはやめてほしいと思った。

 しばらくして森が開けると、裸の地面が続く大きな道のような場所に出た。両端には、白い石が積み重なった場所が転々と奥まで続いている。それはかつて何棟もの家があったことを思わせた。広々とした道の真ん中には細い溝があり、そこに少量の水が流れている。

「これは、水道ではないですかな?」

 ガジンが言う通り、それは水道のようだった。ところどころで十字に分かれる溝に水が流れ、石積みが点々としてある場所へ水の道を作っていた。

「ここが、およそ100年前に滅んだマイア国か」

 そこはマイア国の一端の村跡であった。木々に囲まれた土地を切り開き、石を積み上げ家を作り、硬い大地に水道を引き、村中に水を行きわたらせた。マイアの人々が独自の文明を持ち生活を営んでいた跡が見てとれた。建物らしいものが一切残っていないので、見渡す限り家の跡が広がっている。少し見ただけでも、大勢の人間が暮らしていたことがわかった。

「リオ、ここがマイアだよ。その本の文明があった場所だ」

「マイア文明。ここにいっぱい人間が暮らしていたの?」

「そうだよ」

「今は誰もいないね」

「ああ。ここにはもう、誰一人住んでいない」

「そうなんだ。この人もいないの?」

 リオは本に載っている巫女の絵を指差した。

「ああ。いないよ」

 リオは寂しいそうな声で「そうなんだ」と言った。

 奥に進む度に、オオカミが姿を現すようになった。馬の横を一緒に歩くオオカミ、先頭のオオカミの前を横断するオオカミ。その大きさは馬と同じであった。

 顔の青い兵士は、その顔色を余計に青くし、ヒイヒイ言いっている。ガジンは汗をダラダラとかき、ウイルは縮こまっていた。レッドはとにかく後ろのリオが心配でたまらなかった。リオは隣を歩くオオカミを嬉しそうにじっと見つめては手を伸ばそうとするので、レッドはその手を掴んではしまわせた。

「やあ、皆さんご苦労様」

 太く、喉の奥でグルルと唸るような声がした。村の跡地の奥には、白い石の積み重なった壁のある祭壇があった。それもところどころが崩れている。

 祭壇の上に麻のマントを羽織る男が立っていた。フードを深く被っているため、その顔が見えない。広げる両手もマントに隠れている。男は両側に赤目のオオカミを立たせていた。そのオオカミと同じくらいの身長だった。ウイルが思わず「でかい」と小さく呟いた。

「あれは、人間でしょうか」

「いや、わからない……」

「人間諸君、自己紹介をしよう。招いたのは僕なので、僕からしよう。森の賢者、ゼイダという。以後、お見知りおきを」

 ゼイダと名乗る男は頭を下げた。姿勢を戻すと、ゼイダは青白い顔の兵士に手を向けた。

「君、ご苦労様。もう眠っていいよ」

 すると兵士の目がぐるんと回り、馬から崩れ落ちた。もう一人の兵士が馬を降り、様子を見ると、口や鼻、耳、目からとろとろと血を流し出した。意識は既になく、触れた頬は氷のように冷たくなっていた。

「それは、僕が王子を捕らえた時に既に殺していたのさ。だけど、ここにちゃんと魔術師を連れてきてもらうために、少しの間働いてもらったんだ。さて、皆様の自己紹介をお願いしたいな」

 レッドが馬を降りると、ガジンやウイルも馬を降りた。レッドはリオに「馬の前に座りな」とリオを馬の上でレッドのいた場所に座らせ、手綱を握らせた。

「私はゴールド王国の第一王子、レッド・ゴールドである。我が弟、ブルートを解放していただきに参った」

「ほう!第一王子がいらっしゃったか。それは光栄だな」

 ゼイダがパンパンと手を叩くと、ズルズルと何かが引っ張られる音がした。

「離せ野獣め!痛いと言っているだろう!」

 ゼイダの前に来たオオカミの口には、首襟をくわえられて引きずられるブルートがいた。ブルートの服はボロボロで、破けたところから出血した跡があった。体には立つ力も無くなっているようだった。叫ぶ声にも、いつものような張はない。

「ブルート!」

「レッド兄上、なぜあなたが来たんだ!ムツジはどうした!」

「ムツジは……」

 レッドは、弱っているブルートに城に残るムツジのことを伝えることができなかった。言葉を選ぶにも難しい。

「そんな……、まさか。答えて下さい。兄上!」

「なるほど。確かに王子のようだ。だが、そのご一行に魔術師はいないようだな。私は第一王子が来ることなど条件にした覚えなどないのだがね。さて、どうしてくれよう」

 すると、さっきまで祭壇にいたはずの男がレッドの目の前に突然現れた。背中を曲げてレッドを見つめた。レッドも見上げ、フードの中の顔を見た。それは人の顔ではなかった。毛深く、長く前に伸びた鼻、奥に光る牙、赤い瞳。それはオオカミの顔だった。今にも頭から食べられてしまうのではないかと感じた。

「レッドを食べちゃダメだよ!」

 そう言ったのは馬の上にいたリオだった。リオは頬をぷくっと膨らませて言った。するとゼイダは顔を上げ、リオを見つめた。

「おや、あなたは龍の国の歌姫じゃないか。来てくれるとは思わなかった。歌姫よ、我々は君を歓迎するよ」

 ゼイダは馬の下で膝をつき頭を下げた。すると周りのオオカミたちも前足をそろえ、頭を下げた。

「一体どういうことだ……」

「龍の国の歌姫は特別な存在だ。我々賢者にとっても、この世界にとっても。それがまさか、一国の王子と一緒にいるなんて、おかしな話だ。何をした。何を引き換えにした?王子」

 レッドには何の話か分からなかった。ゼイダは赤い瞳を鋭くし、レッドを見下ろしていた。殺気はレッドにまっすぐ向けられている。レッドはゴクンと唾を飲み、ぐっと足に力を入れた。

「レッドは私の大事な友達よ。だから一緒にいるの」

「……歌姫よ。本当に人間と心を通わせられるとでもお思いか?」

「思ってるよ」

「それは、あなたの一方的な思いに過ぎない、ということもあるのだよ。人間の心は複雑だ。本当なら、ここに連れてくるべきは歌姫ではない。魔術師ハビカスだ。龍の国を破壊した魔術師」

 リオは龍の国の谷にやってきたハビカスを思い出した。手綱を握る手に力が入った。レッドは谷のことを思い出し苛立った。谷を破壊し、カカを傷つけ、リオを捕らえようとしている、魔術師ハビカス。

「ハビカスを捕らえ、あなたは何をするつもりだった」

「その魔力を吸うてやろうと思ったんだよ。吸った魔力は僕のものになるしね。その後、この際人間を皆殺しちゃおうと思うんだ」

 その時、ゼイダが腕を振り上げた。マントから見えたその手はオオカミのように大きく、毛深く、鋭い爪を持っていた。レッドの前にウイルが立ち、剣を構えると、振り下ろされた腕を切り落とした。するともう片方の腕でウイルは振り払われ飛んで行った。レッドの足元にはゼイダの腕が転がり落ちた。

「ウイル!」

 ウイルは地面に打ち付けた体を起こすと、目の前に牙をむき出しにしているオオカミが3頭いた。いつ襲ってくるかわからないほど殺気立っているのは明らかだった。

 レッドが顏を前に戻すと、すでにゼイダは祭壇に戻っていた。

「よくできた側近だ。僕としたことが、腕を捕られてしまった。いけない、いけない。さて、そこの人間たちに用はないよ。皆のご飯にしなさい」

 オオカミたちが遠吠えをすると、レッドたちを囲んでいたオオカミが一斉に飛び掛かってきた。レッドは瞬時に「リオ、これを」と短剣を渡した。

「ガジン、リオを頼む!」

「お任せを!」

「待って、レッド。レッド!」

 道案内した兵士はガジンの前に立ち、襲ってくるオオカミに剣を振りかざした。ガジンはリオに近づくオオカミを、背負っていた大剣でなぎ払い、ガジンの後ろから飛んでくるオオカミをレッドの馬が前足で押し倒した。リオは馬の手綱を掴んでいるだけで精一杯だった。

 一人離れたところで、ウイルも3頭を相手に剣を構えていた。避けきれることもあれば、体当たりを正面から受けた。剣をオオカミの胸に突き刺し、首に突き刺し、地面に叩きつけるが、それでも息を吹き返してくる。2頭、3頭と倒しても次から次からオオカミはやって来る。血を流しながら向かってくるオオカミもいる。ウイルは息を整えながら手に力を込めた。しっかり狙いを定め、大きく口を開くオオカミの急所へと剣を向けた。

 レッドは四方八方から飛んでくるオオカミを避けながら、ゼイダへとまっすぐ走った。何頭ものオオカミが牙を向け、爪を立て向かってきた。レッドはできる限り避けたかったが、避けきれず、腰の剣を抜き襲ってくるオオカミの爪を落とし、腕を落とし、耳を割いた。剣を振るう度に、レッドは胸がじんじんとして痛かった。

 ゼイダの両側にいた赤目のオオカミが2頭、ゼイダの前に立ちはだかった。レッドと2頭の周りのオオカミが動きを止め、じっと見ている。

「お前たちがこの群れの王か」

 二匹は牙をむき出し、頭を低くし構えていた。レッドも腰の剣に手を添えた。息を殺し、互いの気迫を押し込んだ。じっと互いを睨み続け、オオカミが爪を地面に立て飛び上がる瞬間、レッドは姿勢を低くして走った。剣を抜き、体の前に構えると、そこにオオカミの牙がまっすぐ向かってきた。

 剣は一匹のオオカミの口を裂き、柄の部分はもう一匹の牙に食い込み折られた。その衝撃で右手の腕が折れたようだった。レッドはそのまま転がり、その力で立ち上がりゼイダの前に走ると、もう一つの剣を左手で抜き、ゼイダに振りかざした。

 ゼイダは瞬時にレッドの剣を避けるが、フードが破かれた。深く被ることができなくなったフードがゼイダの背に落ちると、つんとしたオオカミの耳が現れ、その顔がさらされた。

 レッドはゼイダの顔を見つめた。肩があり、腕があり、2本足で立つその体形は人間だったが、顔や、顔の下に覗く毛並みはオオカミそのものだった。ゼイダは、レッドの脇腹を軽くけり、レッドを林へと飛ばした。

 レッドは体を木の幹に打ち付け、そのまま地面に倒れた。脇に激痛が走る。体を起こそうと両腕に力を込めたが、右腕は折れて力が入らなかった。痛みをこらえながらゆっくり体をまるめ、立ち上がった。左手にしっかり剣を持った。背中に隠している大鹿の角の弓は折れていなかった。口の中が切れて血の味がする。全身に痛みは走るが、まだ剣を持ち立ち上がれる力がある。まだ戦える。

 すると一瞬で目の前に現れたゼイダが、レッドの首を持ち上げた。獣の腕はつんつんとした毛で覆われ、大きな肉球が首との間の隙間を埋めた。顔の横に鋭い爪が光っている。少し触れれば、肌は簡単に裂けると思われた。

 息ができず苦しくなると、手の力は抜け、剣は地面に落ちた。落ちた剣をゼイダは足で踏み折った。レッドは頭の血が沸騰するようで、顔が真っ赤になった。

「王子、健闘されましたね。だけど、僕は森の賢者だ。よく覚えておくといい。人間の触れてはいけないものがある。一つは雄大な自然への虐待。もう一つは、人間の世界以外を生きる者への接触だ。あの魔術師はこれを両方犯したのだ」

「お前の……目的が見えない。ハビカスを捕らえ、人間を皆殺しにして、……どうしたいと言うんだ」

「人間は、ほんの少し知恵をつけ武器を持つと、強くなったような気持ちになる。自分が一番強い。自分が一番偉い。だから何だってしていいと思う。都合が悪くなったら壊してしまう。僕はそんな人間が大嫌いだ。もう、この世界に人間は必要ない。人間さえいなくなってしまえば、この世界はもっともっと平和だ」

 レッドは息ができずにいた。視界がぼやけてくると、意識が遠くに飛んでしまいそうだった。そこにリオが走って来た。ゼイダの背中をポンポンと叩きながら泣いている。

「レッドを離してえ!」

「可愛いお姫様。あなたに人間のお友達はいらないと思うよ」

「いる!いるんだからあ!」

 ゼイダがリオを見ている間に首を締める手を噛んだ。一瞬力が緩むと、レッドは強引に手を引き離し、地面に落ちた。ようやくまともに息をすると乾いた喉に空気がしみてゲホゲホと咳き込んだ。するとゼイダは、しゃがみこんだレッドを思いっきり蹴とばした。レッドは白い祭壇まで飛ばされた。

 体を引きずり、ようやく止まると、横にボロボロのブルートがレッドを涙目で見つめていた。

「兄上……」

 ブルートらしくもなく震えた声だった。周りを見ると、頭の上にも倒れた体の横にもオオカミがいる。レッドを睨みつけ、グルルと喉をうならせる。

 首が痛い。体のあちこちが痛い。折れた右腕も痛くてたまらない。頭の上でオオカミが口を大きく開けるが、体に力が入らない。真っ赤な口の中に鋭い牙がよく見える。

 その時、リオがレッドの体を抱きしめ、オオカミを睨んだ。リオに気づいたオオカミは開けた口を閉じ、一歩引くと、リオをじっと見つめた。

 リオはオオカミの顔に手を伸ばし、鼻筋をすっと撫でた。オオカミは落ち着いた様子でリオの頬に顔をすり寄らせた。しばらくすると、リオは静かに歌い始めた。

「この歌は……」

 ゼイダはリオを見つめた。リオの周りが光り始めると、その光が徐々に広がり、傷ついたオオカミと人を包んだ。

 レッドは体の痛みが引いていくのがわかった。折れていた右腕を上げ、手のひらをぎゅっと握って開いてみる。小さな傷が光の中に溶けるように消えていく。

 離れていたガジンやウイルも体を見回して驚いていた。

「これは、一体……」

「痛みが引いていく」

 レッドはカカの言葉を思い出した。

「癒しの力。これがそうなのか」

「この歌を、姫はどこで覚えたんだい。なぜ、巫女と同じ歌を!」

 ゼイダはいつの間にかリオの背後に立っていた。ゼイダがリオに手を伸ばすと、レッドはとっさにリオを抱きしめた。歌は途絶え、光は消えた。体を起こし、リオを背中に隠した。ゼイダのオオカミのような手がレッドの頭に向かってくる。

「リオは、この国の最後の人間だ!」

 ゼイダの手がレッドの顔の前で止まった。

「そんなはずはない。この国は、100年前の戦で一人残らず死んだのだ」

「違う。この国の巫女が、リオを龍の国に託したのだ」

 レッドは自分が何を言っているのかわからなかった。それでも、頭の中にはそれを裏付ける光景がいくつも浮かんでいた。

 大鹿が見せた記憶の断片。龍の国の草原の丘に立つ大鹿と、青い耳飾りをつけた黒髪の女性。その腕に抱きしめられていた「リオ」と呼ばれる赤ん坊。

 城の書庫で、リオが「知ってる本があった」と言って見せた『マイア文明』という本。スケッチされていたマイア国の巫女の姿は、大鹿の記憶にいた女性の姿と重なった。本には、「今からおよそ100年前、ゴールド王国の侵略により滅んだ」と記されていた。リオの右手にある龍の印は、本の裏表紙に描かれた印と重なる。それは「マイアの巫女の家系において、体のいづれかに現れる印」と記されていた。思い出すリオの歌声。マイアの古語で歌われる、癒しの力を持つ歌。

「幼いリオを、主だった大鹿様が見守り、そして龍の国が引き取った」

「……ははは。まるで見たかのように話すね。100年前、君は生まれてもいないだろう」

「私は、大鹿様から主の力を預かっている。その時、大鹿様から100年前の記憶の断片を見せてもらったんだ」

 ゼイダは少しずつ後ずさりしていた。驚き、戸惑っている。

「あり得ない。あり得ない」

「リオ、右手を見せて」

 リオは右手をゼイダに向け開いた。レッドも左手を開いて見せた。

「お前には、これが何かわかるか。森の賢者よ」

 ゼイダは特にリオの手のひらを見つめた。

「主の力の結晶か。そして、龍の国の歌姫の……。その龍の印は、巫女の印。巫女の……、アラのっ」

 ゼイダの体がふらついている。レッドは隙を見てゼイダに飛びかかった。祭壇の真ん中でうつ伏せになったゼイダの手を背中に押し当て動きを封じた。その時、ゼイダの下に大きな龍の印が彫られていることに気づいた。

「これは……」

「これに人間が触れるな!触れるな!」

 レッドは左手で印に触れた。その瞬間、地面から白い光が放たれ、レッドとゼイダは一緒に白い空間の中に浮かび、底の見えない闇の中へ落ちていった。そこは、ゼイダの深い深い記憶の中だった。

                ****

 目を開いた時、レッドは日の強く差す外にいた。白い石積みの四角い小さな家が規則正しく並び、広い道の真ん中には水道が走っている。麻で織られた衣類をまとう大勢の人々が行きかうそこは、最盛期と言えるマイアの景色であった。

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