第5話 ブルートの失踪

 ブルートは、南東部にある国境に向かって兵を率いて移動していた。道中は何事もなく、ただ山道をゆっくりと進行していた。

「ブルート王子、本日中には本軍と合流する地点に到着できそうです。チェン殿に毎回依頼する人避けのまじないがよく効いているようです」

「山賊も出ない。敵兵に出くわすこともない。よい戦道中だ。無駄な体力も気力も消費せずにいられる。おまけに戦の相手は毒で身動き取れず、我が剣の前にひざまずく。いい気持ちだ」

「おかげで兵も気力充分で戦場に立てるというものです。しかし……」

「言いたいことはよくわかる。これを依頼するために支払う報酬は、毎度のことながら高くつく。戦にかける大金と同等の希少価値ある宝石だからな」

「それを調達するために人材も必要になるのです。今回、チェン殿にお渡ししたダーコイズ石などは、市場にも出回らない希少な宝石でしたから、わざわざ部下をマイアに行かせ、取ってきたのです。もう少しご自身のお力で切り抜けられれば」

「何をいう!私はゴールド王国の宝、ブルート王子である!この血がいたずらに流れることは国の損害にも等しいのだ。その私が戦に行くのだ。備えを万全に、避けられる障害は避け、安全無事に国を治めるベッドに戻るこそ、私の役目なのだ」

「それを王の前で言ってみればよろしいでしょう」

「それは出来ない!私の首が飛んでしまうわ!」

 ムツジはブルートの後ろで静かにため息をついた。いつものことではあるが、ブルートは最小限の力で戦場を切り抜けるために必死であった。それを徹底するのでムツジは大変呆れているが、同時にその隣に甘んじているのであった。ブルートといれば無事でいられる。頑張らなくて済む。

 見上げると、山道に広がる背の高い木々の眩しい緑がよく見えた。風がそよぐとしなって揺れる。さわさわという枝葉のかすれる心地よい音が聞こえる。我々は守られている。襲ってくる人間はいない。その安心感から、ブルート、ムツジ、兵士たちも気を緩めていた。木陰や草むらの中を、気配を消して動く獣の影があることに誰も気づきはしなかった。

 ブルート軍はバステアス王率いる本軍と合流する予定の丘に到着した。そこから南の方に、木々より高い壁が横に広がっているのが見えた。ゴールド王国から南東部にある国、青い国旗を掲げるウルルグランの国境である。

 ウルルグランの国境を固く守る巨大な壁は、頑丈な赤岩が高く高く積み重なり、国境に沿って横に広がっている。唯一の出入り口は鋼鉄製の巨大な扉である。これを開くには、豪腕な男20人は必要だという。簡単には通ることはできず、刃を受けつけない赤岩の壁を登ることも難しい。扉は重く、軽くコツンと叩けば広場中に音が響くという。

 あそこで明日にも戦が行われる。準備は万全。あとは本軍と合流することさえできればよい。

「ムツジ、皆に休息を」

 その時、遠くから爆発音が聞こえた。振り返ると、国境の壁の辺りから煙が上がっていた。さらに爆発は続き、壁の奥からも煙が上がる。

「あそこで何が起こっているんだ?」

「様子を見て参ります」

「ああ」

 ムツジは他に馬に乗る兵士二人を連れて森へと入っていった。残された兵士たちは突然の爆発音により落ち着きをなくしていた。小さな声で「何があった」「戦がもう始まったのか」という憶測の話が飛び交っていた。

「皆の者!ここは敵地にも近い場所。何が起こっているかは確認しているところだ。まずは落ち着き、我々はいつでも戦に出られるよう準備をするのだ!」

 ブルートが残った兵士たちに声をかける間にも爆発音が響いていた。

 ムツジは国境の壁まで馬を走らせた。近づくほどに、火薬と煙の臭いが強くなっていく。森を抜けると、壁の正面の広場に出た。そこには巨大な赤岩の壁がある、はずであった。

 ムツジが目の前にした国境の壁は、強固たる巨大な姿は見る影もないほど崩れ、鋼鉄の扉は斜めに倒れかかっていた。壁の奥に生気のない真っ赤な腕が落ちている。地面はところどころ赤く染まっている。

 広場の地面には、人や馬ではない足跡が重なっていた。犬のような、しかし犬にしては大きい獣の足跡。獣ごときが頑丈な関をここまで破壊できるわけがない。

「強固な国境の壁が、どうしたらこうなるんだ」

「答えよう。人間」

 その声は太く、まるで獣がグルルっと唸るような声が響いた。すると傾いた扉の向こうから真っ黒な毛のオオカミが現れた。雄々しく、馬と同じくらい大きい。次に、麻で織られた薄茶色のマントを頭から被った人が現れた。その頭はオオカミの目線と同じ高さにある。フードを深く被っているので表情は見えなかった。その後ろから、同じくらいの大きさのオオカミが一匹、二匹と姿を見せた。

 マントに隠された腕が伸びると、国境の壁が震え始め、壁の一部がゴロゴロと大きな音を立てて崩れると、斜めになっていた扉がグラングランと大きく揺れ、ムツジたちのいる広場の方へ倒れた。大きな扉は広場の空を埋めつくし、ムツジたちはその影の中を必死で走った。ようやく林まで走り切った時、扉は空気が震えるほど大きな音を立てて地面に倒れた。煙と風圧が辺りに広がる中、パチパチと拍手が聞こえた。

「よく回避できました。さて、これでお分かりいただけたかな?人間」

 ムツジは一緒に来た兵士に目配せすると、兵士は頷き、馬を走らせ林の中に消えた。ムツジはため息をもらすと、「私は魔術師は嫌いだ」と呟いた。

「仲間一人を群れに返したか。無駄なことだ。ここら一帯全て、僕の砦になったんだよ。奥に行ってみるかい?人間だった肉が転がるばかりだ。この子たちの食事にしようと思ったのだがね、どうも腹を壊しそうな毒の匂いがするんだよ。もったいないが仕方がない。それから僕は魔術師ではない。ただの森の賢者だよ」

「……何が目的だ」

「君の嫌いな魔術師を探している。それさえ見つければ、我々は退散しよう」

「魔術師を探している?」

「そう。龍の国を破壊した魔術師を」

「龍の…国?」

 すると倒れた扉から湯気が出てきた。徐々に辺りが暑くなり、馬は前足を上げムツジを地面に落とすと、林の中へと走っていってしまった。扉はまるで溶岩のようにどんろりと溶け出し、四方へと熱い手を伸ばすように広がった。それが林の木の幹に触れると、そこから簡単に火の手が上がった。それをきっかけに林は火に包まれた。

 ムツジは林の火に道を塞がれ、身動きが取れなかった。辺りの空気は熱くなり、息苦しい黒い煙が立ち込めた。ムツジは胸元から小さな弾を取り出すと、導火線の先に火を付け空へと投げた。それは林の上で爆発し、空中に赤い煙を残した。

 それは丘にいたブルートの目に止まった。

「ムツジの信号弾だ」

 空に上がった赤い煙は、国境の様子を見に行ったムツジに異常が起こったことをブルートに知らせ、自分に対して早急に逃げろと伝えるものだった。

「王子、ブルート王子!」

 馬の駆ける音がした。振り返ると、ムツジと一緒に行った兵士が一人戻ってきた。

「何があった!?」

「今すぐお逃げ下さい!オオカミの群れを率いた魔術師がやってきます!」

「オオカミ?」

「とにかく早く!もうすぐそこにっ」

 その時、林から大きなオオカミが何匹も飛ぶようにやって来た。ブルートの軍は丘の上で牙をむき出しにしたオオカミに囲まれ、逃げ場を失った。兵士の中には、剣を抜く者や腰を抜かしてしまった者がいた。隠せない動揺が兵士達に広がる。

「皆、落ち着け!決してむやみに剣を降り下ろすな!」

「君がこの軍のリーダーかい?」

 その声はすぐそばから聞こえた。麻のマントを頭から被る怪しい男が、ブルートのまたがる馬の真横に現れた。

「オオカミは僕の家族なんだ。傷つけないよう皆に言ってくれてありがとう」

 ブルートは突然現れたマントの男に驚いた。マントの男は馬と同じ高さに頭があった。がたいがよく、異様な雰囲気を放つ男の気配だけで、ブルートは背筋が震えるほど恐ろしくてたまらなかった。いつもならムツジが前に出て助けてくれたが、今はいない。恐怖と不安が膨らんだが、ブルートは姿勢を正した。

「……お前は魔術師か?」

 すぐ横にあるフードの影を視界の端に入れるだけで精一杯だった。まるで殺気の塊が真横に立つようで、いつ首をはねられるのかわからない。額に汗が浮かぶ。脅迫的プレッシャーがブルートの体を縛り付けた。

「違う。ただの森の賢者だよ」

「森の……賢者?」

「君に魔術師の知り合いはいるかい?僕はある魔術師を探しているんだ。姿形はよくわからないけれど、黒いマントに身を隠す小さい男だよ」

 ブルートの頭の中に、一瞬バステアス王の後ろを歩くハビカスの姿が浮かんだ。黒いマントに身を隠す小さい魔術師。

「…ハビカスのことか」

「どれ、見せろ」

 マントから腕が伸びると、人差し指がブルートのこめかみに当てられた。その一瞬、ブルートの頭の中でハビカスの記憶がグルグルと勝手に回った。部屋の扉を開けると、すぐ目の前に立っていたハビカス。ニヤリ笑う大きな口。「ヒヒヒヒ」という独特の笑い声。バステアス王の後ろを付いて歩く黒いマントの小さい男。

 それは指が離れると止まり、それから乗り物酔いしたように気持ち悪くなった。しかし、体勢を崩せば殺される。そう思い、必死に馬にしがみついた。横に立つマントの男はしばらく考え込むと、「僕は決めた」と呟いた。

「君を連れていこう。君は王子だね。つまり、君は必ず助けにきてもらえるよね。ハビカスという魔術師につながる可能性が高い人間のようだ」

 いよいよブルートは恐ろしくてたまらなかった。今すぐ逃げたい。だが、ここを離れることは、戦を放棄することと同意である。それは出来ない。しかし、この怪しげな人間とオオカミの群れを追い払って無事でいられる自信はない。

 なぜ、こんなことになっている。なぜ、私の身を守ろうとする者が一人もいない。なぜ、今ここにムツジがいない!なぜ、なぜ!

「私を守れっ!誰でもいい。私を助けろ!誰か!」

 焦りは苛立ちを生み、不安をあおった。額から頬をじっとりとした汗がつたっていく。気持ち悪い。手の震えが抑えられない。足に力など入らない。馬の上でなければ、とうに体は地面に崩れている。

「情けない。王子よ」

 大きくてごつごつした毛深い獣のような手が、ブルートの顔面を覆った。その瞬間、視界も音も、全てが消えた。

               ****

 龍の国を出たハビカスは、息を切らせながらウルルグランの国境近くの森をさ迷っていた。

「なぜ、たどり着けないんだ。なぜ、二日も道に迷っているのか!」

 本来であれば、先に到着しているブルートが通った道を行けば難なく行けるはずであった。しかし、その道を見つけることができない。

 ハビカスは銀の龍カカから受けた攻撃により、体のあちこちに火傷を負っていた。マントは破れてボロボロになっている。予定では、龍の国の歌姫リオを捕らえ、一緒にバステアス王の元に向かっているはずであったが、リオにはまんまと逃げられた。重なる失態に苛立ち、チッチッと舌打ちを続けていた。

 その時、馬の足音、ガシャンと鎧が揺れる音がした。近くに兵士がいる。敵か味方かわからない。気配はあるが姿はない。すると、突然ハビカスの真横に馬に乗る兵士が現れた。遠くから聞こえていたはずの鎧の音が真横にある。見ると、それは味方の兵士であった。彼はムツジに耳打ちをされ、ブルートに国境の様子を伝えた兵士であった。

「お、お前様、お前様!ゴールド王国の兵士でしょう。どこから現れた」

 兵士はハビカスの問いに振り返り、馬の足を止めた。その顔は青白く、プルプルと震えていた。背は曲がり、馬にまたがるのがやっとのようだった。

「私は、その道から来ましたが……」

「道だと?」

「ほら、目の前の道です」

 兵士が指差した先に道があるようには見えなかった。ハビカスには、ただ生い茂る林しか見えず、そこを進もうとは全く思えない。

「お前様に見えて、私には見えない道ですと?私はここを通ろうとも思わないが……。いや、待て。これはもしや、人避けのまじないか!」

「ああ、そうです。ブルート王子は本軍と合流する丘までの道中に、人避けのまじないを施しています。盗賊も、敵兵も現れないように」

 ハビカスの苛立ちは頂点を超えた。辺りに響くほど声を上げ、あるはずの道の方を向くと、マントから取り出した杖を、怒りのまま空間を殴るように振り払った。その瞬間、目の前の景色は波打ち、紙が破けるようにして本来の景色が広がった。手前には焼けた黒い木々があったが、その向こうには青々と茂る林が見えた。まるで別の景色が重なるような光景だった。

「この先にも何重にまじないをかけているのだな。だからこのように明るい森の中をさ迷ったのか。ブルート王子、何と面倒なことを‼」

 ハビカスは声を荒げた。すると兵士は馬を降り、ハビカスの羽織る黒いマントにすがりついた。ハビカスはぎょっとした。

「やめろ!私に触れてよいのはバステアス王だけである!」

「助けて下さい。助けて下さい!」

「うるさいうるさい」

「国境の壁に向かいたいのです。そこにいるはずの、ムツジ様をお助けしていただきたいのです!」

「なぜ私がそのようなことをしなくてはならぬ」

「賢者ゼイダと名乗る者が、あなたを狙い、ブルート王子を連れて行かれたのです‼私はそれを国王に知らせるために、わざと……見逃されたのです」

「見逃された?」

「他の兵士たちは……」

 兵士は思い出した。森の賢者ゼイダと名乗る者がブルート王子を連れ去ると、馬ほどもある大きなオオカミは、刃などもろともせず、一口で兵士たちを飲み込んでいった。血も飛ばず、鎧も剣も残さず、現場は己以外に誰一人いなくなった。

「ゼイダと名乗る者の連れたオオカミに、皆……食われたのです」

「ゼイダ……。森の賢者、ゼイダ‼」

 その夕方、バステアス王の率いる一軍がその丘に到着した。しかし、そこには馬も、兵士も、ブルートの姿もなかった。バステアス王の横で出撃の掛け声を出した武将が辺りを見渡したが、丘からは真っ赤な空に、真っ黒な雲の影が漂い、闇に眠りつこうとする林ばかりが見えた。

「待て。国境はどこだ?ここから見えるはずなのでは……」

 風の中に濃い煙の臭いがした。それから鉄の臭い。風上に振り返ると、緑のはげた林の先に、崩れた国境の壁の一部が赤々と見えた。それはあまりに国境の壁とは言えない姿だった。

「一体何があったか。ブルート王子の軍隊はどこへ行った。王子は無事か!?確認を急げ!状況をバステアス王へ、城へ報告を急げ!」

                 ****

 レッドは二つの荷車が城の門を抜けていくのを見届けた。それはウルルグランの国境で戦をするバステアス王とブルートのもとに届ける物資であった。敵国ウルルグランの国境は頑丈で攻略が難しいことで有名だった。ゆえに、国が所有する中で最も大きい大砲を戦場に届けなければならない。それは大変重要な役割であった。偉大な父が、今回の戦で最も必要とした武器である。これさえ戦場に届ければ、戦は勝つとレッドは確信していた。

 レッドはよくわかたっていた。バステアス王は強いのである。強いというのは、勝つからである。勝つというのは、バステアス王は勝つまで戦をし続けるからである。長期戦万歳。名誉たる戦の勝利万々歳。それこそが、ゴールド王国を治める我が父の姿であることを、よく理解していた。

 しかし、どんなに重要な役目を仰せつかろうと、戦の手助けをしていると考えると嫌になる。人々が傷つくと思うと苦しくてたまらない。戦場の光景を思い起こそうとしただけで喉は狭まった。ひゅうっと空気が喉を通る。肺が膨らみ、行き場のなくなった体内の空気が、喉と肺を行き来する。自分ではどうしようもなくなり、意思では体をコントロールできなくなる。

 その感覚が蘇りそうになり、俯き、ふうっと大きく深呼吸した。隣にいたガジンは、レッドの少し丸まった背に手を添えた。

「王子、お疲れ様です。少し休みましょう」

「いや、構わぬ。大丈夫だ」

「しかし、顔色がよくありません」

 レッドは苦しそうに笑い、ガジンの肩に手をかけた時、後ろから何かに突進された。そのまま地面に倒され、「何だ」と顔を上げると、レッドの上に真っ裸のリオがいた。

「レッド、おはよう!」

「リオ!またお前はっ」

 リオは青いサラサラの髮の奥で、無邪気に笑ってレッドを見つめていたが、レッドは目のやり場に困った。目をぎゅっと閉じて、両手で目を覆った。ガジンは自分のマントを外し、リオの上にそっとかけた。

 遠くからティオナが「リオ様あ!!」と叫びながら走ってきた。ドシンドシンと大きな音がする。一生懸命腕を振っているのにまだ近づいてこない。ようやくレッドの近くに来ると、ゼエゼエ言いながら汗だくになっていた。

「リオ様ったら、朝起きて、服を脱いじゃったと思ったら、勢いよく城中を走り回って、レッド王子を探されていたのです。た、大変でした」

「私、お腹空いた!干し肉食べる!」

「リオ、何にしても服を着てからだ」

「えー?服は嫌!」

「着なさい!」

 その時、レッドの喉からひゅうっと空気の通る音がした。レッドは息が苦しくなっていた。落ち着けと自分の体に命令を続けたが、うまくいかない。

「リオ様、レッド王子から離れてあげて下さい」

 レッドの様子に気づいたガジンが、リオに優しく言うと、後ろからティオナがリオをマントごと抱きしめて持ち上げた。いよいよ息がうまくできなくなってくると、視界が暗くなり、レッドを呼び掛ける声が遠くなっていった。

 目を覚ました時にはベッドの中だった。やってしまった。情けない。ふうっと息を吐くと、落ち着いて呼吸ができているので起き上がった。すると、無意識に何かを抱きしめたまま起き上がっていた。腕の中にいたのは裸のリオだった。なぜか首にリオが噛みついている。

 両腕がレッドの肩を抱き、ちゅうっと喉仏の下を吸われている。リオの鼻息がなま温かい。柔らかく、指とも鼻とも違う感触のものがチュパッと音を立てると、リオが首から離れた。

「レッド、大丈夫?変なところがあったから取ったよ。もう大丈夫だよ。苦しくない?レッド」

 一体どうしてこのような状況になっているのかわからない。確か、過呼吸になって、リオが飛びついてきて……。そもそも、なぜ自分は上半身が裸なのか。

「……いや、もうやめよう。考えないことにするよ」

 ため息混じりに呟き、左手で目を覆い、俯いた。

「何を考えないの?苦しくない?レッド、良くなった?」

 ちらっと見ると、リオは無邪気に笑っていた。レッドの前で当たり前のように服を着ていない。それが続いてしまうのは困る。

 部屋の遠くからバタバタという足音が聞こえる。どこかでティオナが「リオ様あ」と叫んでいる。リオもそれに気づいているようだったが、明らかに知らんぷりしていた。

「リオ、私はリオが乳飲み子だった頃から龍の国で生きていたことは知っている。つまり、人との暮らしを知らないということもわかっている。だけど、ここは人の生活が営まれる場所なんだ。どうかそれを知り、受け入れてほしい」

「受け入れる?」

「ああ。リオは、谷で私をこころよく受け入れてくれただろう?」

「うん」

「嬉かった。何者なのかもわからない私を助け、怪我を直し、食事を与えてくれた。受け入れてくれて嬉かったのだ。だから、少しの間だとしても、リオがここにいるのであれば、人の生活を受け入れてほしい。風呂に入ること、食事をすること。それから、服を着ること。どうだろうか?」

 リオは少しむすっとしていたが、「うん」と小さく頷き、ぎゅうっとレッドを抱きしめた。肌の感触が脳を直撃するようだった。これも安易にするのは止めてほしいと思ったが、何となく、言うのをやめた。軽くリオの背中を引き寄せたその時、レッドの部屋の扉が勢いよくバッと開いた。

「レッド様!リオ様はいら……しゃいますか……」

 扉の向こうには必死の形相のティオナがいた。声が徐々に小さくなっていく。ティオナの目には、レッドとリオが裸で抱きしめ合っている仲睦まじく赤面必死の情景が写っていた。ティオナはレッドと目を合わせると、ニコッと笑い、静かに扉を閉めた。

「大変失礼しましたわ。ごゆっくり。おほほほほほ」

 ティオナの笑う声が遠ざかっていくほどにレッドの顔は真っ赤になった。ティオナは絶対誤解していた。しかし、どのようにこの状況を説明していいのか、その説明さえ聞き届けてもらえるのかわからなかった。赤い顔を両手で覆った。

 その後、レッドとリオは書庫へと移動した。鏡を見たら、首筋にリオの唇の跡が赤くくっきりと残っていた。襟が下がると見えてしまうと思い、レッドは首元の襟を何度も触った。

 リオは落ち着きなく、書棚の中をぐるぐると歩き回っている。もちろん服は着てもらった。レッドが渡した緑のドレスを着て、トトトと小さな足音を書庫に響かせていた。

「レッド、いろいろな模様があるね」

 リオの声が書庫の中に響いた。レッドは首筋の跡と同じくらい、落ち着きのないリオが気になった。本が読めない。立ち上がり、リオに近づいた。

「模様とは?」

「ほら、これも、あれも、あれも!皆模様があるよ」

 リオは本を手に取ると、文字を指でなぞった。

「それは文字と言うんだ。文字」

「もじ!」

「文字は言葉を表すものだ。読めるようになれば、この本の話がわかる」

「ほんの話?これとお話ができるようになるの?」

「まあ、そんなところだ。昔の人が何をしていたかや、何かの方法等、誰かに伝えたいことを残すために、本があるんだ」

「伝えたいことを残す、文字と本。これも人間の生活?」

「ふふっ。そうだよ」

 リオが「人間の生活」かと聞いてきたことがおかしくて笑ってしまった。同時に、リオが服を着て、本を手に書棚の中にいることが不思議だった。まるで普通の人間である。違和感のある景色へ手を伸ばした時、リオが呟くように言った。

「不思議だな」

「何が?」

「レッドが知らない人間に見えるよ。私、人間の国にいるみたい」

 リオは両手を広げてニコッと笑った。レッドはリオの頭を撫でた。

「ああ。ここは、人間の国なんだよ」

 リオがその手を握り、書棚の中を歩き始めた。

「さっきね、知ってる本があったんだよ。見て、見て」

「知ってる本?」

「ほら、これ」

 リオが手に取った本には『マイア文明』と記されていた。表紙には、白地に青い糸で独特の草花の刺繍が施された布が張られていた。とても見覚えのある柄だった。しかし、あと少しというところが思い出せない。どこで見たのか。

「これね、私の衣装に似てるでしょう?」

 それは龍の国でリオが歌うときに着ていた衣装のことだった。城に来た時にも着ていた。カカの青い血で真っ青に染まった、リオの持つ唯一の服。

「そうだ。リオが着る衣装の柄にそっくりだ」

「私の衣装はね、小さい頃から一緒にあるんだよ。あそこにいる人間は、私一人なのにね。人間の生活が、ひとつだけはあるんだね」

 リオはその本を両手でしっかり持って、じっと見つめていた。

「貸してごらん」

 リオが本をレッドに渡すと、一枚ずつページをめくりながら、レッドはその内容を読み始めた。

「南に位置するマイアは、木々や風、空、水等、自然世界への信仰が根付く国であり、特に信仰されていた”銀翼の神”は、想像上の生き物である”龍”の姿をしている。マイア国のまつりごとを執り行うのはマイアの巫女である。マイアの巫女は、王と同意である。白地の布に、青い糸で独特の形をした草花の刺繍がされた衣装をまとい、耳にはダーコイズ石の飾りを下げている。長い杖を手にまじないも行った」

 そのページには巫女の姿絵が載っていた。確かに、リオのものと同じような衣装を身にまとい、手に長い杖を持つ姿で描かれている。耳飾りは、巫女の隣に大きく描かれていた。その真っ青な石の名前は、ダーコイズと記されていた。

「ダーコイズ……。聞いたことのない宝石だ」

 その耳飾りの形には見覚えがあった。それは、大鹿の記憶の中にいた女性が身に着けていたものだった。その腕の中には、「リオ」と名付けられた赤ん坊が抱きしめられていた。

「マイアは、今からおよそ100年前、ゴールド王国の侵略により滅んだ。同時にその信仰も途絶えている。……およそ100?」

 レッドは本をリオに渡すと、ゴールド王国の進軍経路図の前に立った。地図の南には、確かに「マイア」という地が記されていた。そこに人指し指を当てた。

「ここだ。今戦がされているウルルグランの近くだ。国境より離れた森の中。龍の国にも近いのかな」

 指は「マイア」から森を少しずつ移動し、レッドが大鹿を仕留め、龍の国に渡るために通る森を差した。リオは地図を見上げた。

「これ何?」

「地図だ。世界の場所を記したものだよ。今いる場所がここで、龍の国は……、多分この辺りだ。地図上には龍の国はないんだよ」

「龍の国の外って、こんなに広いの?」

「ああ。この地図はゴールド王国とその周辺しか載っていないが、世界はもっと広いんだ」

「もっと広いの?すごい!」

 楽しそうな顔をしているリオが胸に抱きしめる『マイア文明』の裏表紙が見えた。そこには、リオの右手にある龍の印にそっくりなものが描かれていた。

「リオ、もう一度本を」

 リオは「はい」と本をレッドに渡した。レッドは裏表紙を見つめ、本を開き、同じような印やそれにまつわる文章がないか探した。するとマイアの家系図が記されたページの隣に、リオの右手と同じ印が描かれていた。そこに添えられた文章を読み上げる。

「マイアの巫女の家系において、体のいづれかに現れる印……。リオ、右手を見せてくれ。リオ」

 隣を見ると、リオの姿はなかった。辺りを見回したがいなかった。すると書庫の出入り口からひょこっと顔を出し、「レッド、これ何?」と大きな声をあげた。レッドは本を閉じてリオの方へと歩いて行った。

「今度は何だ?」

「ここで皆何してるの?」

 リオが指差したのは、リオと共に現れた青い龍ビビが壊した橋の修復作業現場だった。トントン、カチンカチンというテンポのよい音が響いている。リオは楽しそうに音に合わせて体を揺らしていた。

「橋を直しているんだ。この間、ビビがこれを壊してしまったから」

「直してるの?変なの。直すなら、歌えばいいのよ」

「……リオ。さすがに言っていることがよくわからないのだが」

 リオはタッと走り出し、崩れかかった橋の先端からジャンプした。そして向かいの橋の先端に着地してクルッと回って見せると、笑って両手を広げた。

「こういう時は、歌うのよ」

 リオはすうっと息を吸い込むと歌いだした。それはとても美しい声で、風の中に溶け込み、城中に響き渡った。リオの歌声を耳にした誰もが、その瞬間、手を止めて聞き入った。

「まあ、何て美しい歌声。まるで天使の歌声ね」

「これは誰が歌っているの?」

「心が落ち着く、優しい声。どんな楽器の音より素敵だわ」

 橋では、崩れて落ちた橋の破片が光をまといながら浮かび上がった。作業する人達は何が起こっているのかわからず戸惑い、足元のがれきが浮かぶ度にその場から逃げるように去っていった。辺りは光に包まれ、がれきが徐々に橋の形を成していった。そのうち別棟や、城壁の壁も光りだし、そこにもがれきが浮かび上がると、元の形に戻っていった。

 リオが歌い終わると、橋や崩れていた城壁や別棟の屋根が元通りの形になっていた。レッドは元に戻った橋の上を恐る恐る歩いた。一歩一歩、慎重に進んだが、しっかりとした橋の地面は崩れる様子は全くなかった。

「リオ、これは君の魔法かい?見事だ」

 その時、リオの向こうからウイルと木製の車椅子に乗ったアリスがやってきた。ウイルは、直っている橋や城壁を見ながら驚いた顔をしている。アリスは虚ろな表情をして前を向いている。

「レッド王子。橋が直ったのですか?いつの間に」

「リオが直したんだ。さっき歌が聞こえたろう。あれはリオの声だ」

「そうでしたか。お美しい歌声でした。アリス様も声の聞こえる方へ顔を向けられましたよ」

「アリス。リオの歌声はどうだった?」

 レッドの言葉に反応する様子は全くなかった。すると、リオがアリスの周りをぐるぐると回りだし、スンスンと鼻を鳴らしながらアリスの頭や首、胸や脇、股を嗅ぎまわり、両手で頬を撫で、首を撫で、胸を撫でた。レッドとウイルは驚いた。特にウイルは顔を赤くした。

「リオ、何してるっ」

「リオ様、アリス様が困ってしまいます」

「ねえ、レッド。この人間、悪いところあるよ」

 リオはアリスの胸の真ん中に右手を当てると歌い始めた。先ほどより小さな声だったが、辺りには十分響いていた。すると右手から光が溢れ、それはアリスを包んだ。アリスの髪やドレスがふわふわと浮き、眠るように静かに瞼が閉じていく。

 しばらくすると、リオの右手の奥から拳ほどの黒くて丸い塊が現れた。歌は静かに終わり、リオはその丸い塊を両手の上に浮かばせた。

「リオ、これは何だ?」

「悪いところ。嫌な感じがする。私、これ嫌い!」

 浮かばせていた塊をペシャンと手のひらを合わせて潰してしまった。手を広げると、塊は黒い煙になってふっと消えた。その時、アリスが瞬きをして、顔を正面に戻した。目を開け、ゆっくりと辺りを見回し、目の前に立つリオを見た。虚ろな表情ではなく、寝起きのようなぼんやりしたような表情だった。

「あなたは、どなた?」

 レッドとウイルはアリスの声に驚いた。アリスは無気病と診断されてから、一度も声を出すことがなかったからである。特にウイルはすぐに反応し、アリスの横に膝をつき、顔を覗いた。

「アリス様、アリス様!」

「……ウイル。あなた、ずっと私のそばにいてくれていましたね。レッドお兄様のお側にいることが、あなたの務めでしょう。務めを疎かにして…。いけない人ね」

 アリスは頬を赤くしてウイルに微笑んだ。嬉しそうな、恥ずかしそうな顔。ウイルの目には涙が浮かんでいた。アリスの手を取り、額に寄せると、「アリス様」と呟いた。

「アリス」

 そこにレッドが近づいて来た。アリスははっとして、頭を深々と下げた。

「レッド、お兄様……」

「具合はどうだ?気分が悪いことはないか」

「ございませんわ。頭の中にかかっていたもやが晴れたような心地です。戦が始まる中、お力にもなれず申し訳ございません」

 アリスは下げた頭を上げてくれなかった。レッドは肩に手を添えた。

「顔を、よく見せておくれ。アリス」

「……はい」

 アリスの表情は少し困っているようだった。うるんだ目が下からレッドを見つめている。緊張しているのか、口がムッと閉じている。

 レッドには、どうしてそうなのかが少しだけ理解できた。アリスは、目の前に立つレッドに嫌われている、そう誤解している。嫌われている人物にどのような顔を向ければよいかわからないのである。

 レッドは、見つめすぎればアリスが困ってしまうと思い、横に顔を反らした。アリスの本心を知らないままであれば、今のアリスの表情の意味さえ、誤解したかもしれない。そして一人で嫌な気持ちになっていたかもしれない。レッドは反らした先で恥ずかしそうに笑った。アリスのことが少しわかったような気がして嬉しかった。

 その時、レッドの横にいるはずのリオの姿がなかった。「きゃっ」というアリスの驚いた声の方を見ると、リオがアリスの胸をわさわさと揉んでいた。アリスは顔をタコのように真っ赤っかにしていた。ウイルは驚きすぎて静止している。

「レッド、レッド!この人間、私と一緒でレッドと違うよ。お乳があるよ!」

「それはそうだろう!やめなさい!」

 レッドが強引にリオをアリスから引き離すと、アリスは恥ずかしそうに両腕で胸を隠した。そこにまたリオが近づいたので、避けるように横を向いた。

「人間、名前は?私はリオ!」

わたくしは、アリス・ゴールドです」

「アリス!私と一緒の体の人間!」

 ふふふっと笑うリオの言葉に驚きながらも、アリスはしっかりと返事をした。

「よくって、リオ。わ、私とあなたは、れっきとした大人のじょ、女性です!胸があって当たり前ですわ!」

「でも大きさが違うよ」

 確かに、アリスとリオではリオの方が胸は大きかった。アリスは今にも頭のてっぺんから湯気を出しそうなほど、顔を真っ赤にした。

「違いがあるのは当たり前でしょう!変な人ですこと」

 そこでアリスははっとして両手で口を覆った。言ってしまった!というような顔をしているのは、大きく見開いた目でわかる。ウイルは横でクスクスと笑っていた。レッドは見たことのないようなアリスの様子が新鮮で、横にいるリオが、アリスの言葉の意味がよくわからないという顔をレッドに向けているのがおかしくて、つい「ぷっ」と笑ってしまった。

 それからアリスは部屋に戻り、医者に診断をしてもらった。

「完治とはっきりお伝えするためには、今しばらく様子を見る必要があります。無気病は心の病です。もしも何か変わったこと等があれば、すぐにお知らせ下さい。しかし、突然のことで驚きました。レッド王子から頂いた薬のおかげでしょうか」

 その場に一緒にいたレッド、ウイルは「あはは」と苦笑いをした。するとアリスはリオの腕を掴んで引き寄せた。

「お医者様、私はこの子に救われたようですわ。美しい歌声を持っているのです。それから、レッドお兄様にもお力添え頂きましたわ……」

 最後の言葉はとても小さな声だったが、レッドは嬉しかった。嬉しくて、喉の奥からぐっと暖かい何かがこみ上げ、目に少し涙が浮かんだ。隣にいたウイルは、レッドが口をムッとして閉じているのを見て、微笑んだ。

                ****

 アリスがすっかり元気になって数日、アリスがリオを離さなくなった頃だった。城の門から続く橋を走る馬があった。城に残るレッドとガジン、ウイルが書庫で地図を広げ、戦の動向を確認していたところに、息を切らした男が一人入ってきた。

「王子、レッド王子!」

「一体何事か」

「バステアス王より、至急の知らせをお伝えしに参りました。よろしいでしょうか?」

「ああ。続けてくれ」

「はっ。ウルルグラン国境にて行われる戦は、両者以外の者による攻撃を受けたことから中断とし、バステアス王は、これから城へ帰還致します。しかし、ブルート王子が敵に捕らわれました」

「何ですと⁉」

「ブルート王子が敵に捕らわれている?」

「その敵とは何だ」

「”森の賢者ゼイダ”と名乗る者です。正体は不明。大きなオオカミの群れを引き連れた、マントを羽織る者です」

「森の賢者?」

「して、ブルート王子はどうするのだ」

「はっ。敵は、ブルート王子を返してほしくば、ハビカスという魔術師を連れて来い、と要求しております」

「ハビカスといえば、バステアス王のそばにいた、あの小さな魔術師のことですな」

「なら、ハビカスを敵に引き渡せば解決でしょう」

「しかし、王はそれを承諾しませんでした」

「何ですと⁉では王は、どうすると言うのだ」

「レッド王子を使者とし、ブルート王子の奪還を果たせ、とのことです」

 レッドは突然のことに言葉を失った。ガジンとウイルは驚き、大きな声を上げた。

「なぜそのようなことをおっしゃるのか、王は!」

「さようです。魔術師さえ引き渡せば良いのです。なぜ、レッド王子が行かねばならぬのです!」

「それほど、あの魔術師が大切か。ご子息よりも…。変わられた。王は変わられた。あの若くたくましく、理性を持ち戦われたゴールド王国の英雄は、今どこにいらっしゃる。バステアス王よ!」

 ガジンは頭を抱え嘆いていた。ウイルは「ガジン様」とその背に手を添えた。その時、レッドはとても静かに言葉を発した。その雰囲気はとても冷たかった。

「ブルートが捕まり、戦の中断が決まったのはいつだ?」

「本日から、8日前でございます」

「父上が城への帰還とブルートの奪還を決められたのは?」

「3日前です」

「城に帰還されるのは?」

「明後日のご予定です」

「そうか」

 レッドは俯いていた。発する言葉はとても小さく低かった。握る拳が震えた。

「それが私であれば、このように頭にくることはないのだ。しかし、ブルートだ。ブルートは王のため、国のために力を尽くしてきたではないか。それを守ろうとは思わぬのか。良くできた私の弟を、ないがしろにするおつもりか。バステアス王っ!」

 レッドは地図を広げた机に拳を叩きつけた。

「父上は、ブルートにも死ねとおっしゃるのか!」

 レッドの声は震えていた。これまで、レッドが怒りをはっきり見せたことは一度もない。ゆえにガジンとウイルは、怒りをあらわにするレッドの姿を初めて目の当たりにした。

 怒る兄の様子は、扉の外から耳をそばたてていたアリスにも伝わった。いつも穏やかで声を荒げない兄が怒っている。自分のことではなく、ブルートのために。

「レッドお兄様……」

 アリスの隣にはリオがいた。リオはアリスと手を繋ぎ、扉の向こうをじっと見つめていた。

「出発を考えなくてはならない。父上が城に到着するのが明後日だから、出発は父上が到着してからがよいのか」

「それでは、時間がかかりすぎるのではないですか?」

「そうだな。ブルートが捕らわれている以上、早く動く必要はあるだろう」

「しかし、バステアス王がお戻りになる前に出発すれば、城を開けてしまうことになります」

 部屋が静まり、考えが詰まってしまった。アリスは扉から耳を離し、じっと扉の向こうを見つめた。少し考え、気持ちを固めた時、リオの手をぎゅっと握り直した。リオがアリスを見ると、アリスの目は真っ直ぐ扉の向こうを見つめていた。扉を開け、リオの手を引いて、大きな一歩で部屋の中に入った。

「レッドお兄様、私に城をお任せ下さいませ!」

「アリス、聞いていたのか?」

「確かに、お兄様ほどお力になれることは少ないのかもしれません。ですが、私だってこのゴールド王国を治める王族の姫です。城を守り、この国を守る役目を担える権利は、私にもあるはずですわ。私を無視するのはおやめくださいませ!」

 アリスは前にむんと張り出す胸に手を当てて大きな声で言った。アリスの勢いにその場の全員が圧倒された。しかし、言い放った後の沈黙に耐えられず、顔を真っ赤にして口を両手で覆った。

「見当違いだったでしょうか、私の言葉は……。レッドお兄様のお力に、アリスはなれませんか?」

 アリスはドキドキしていた。レッドに向かって強く自分の気持ちを言ってしまったことに対し、その反応が想像できず、少しだけ怖かった。受け入れていただけなかったらどうしよう。否定されたらどうしよう。レッドに、嫌な思いをさせてしまったらどうしよう。

 自分の体の中に心臓の強い鼓動が響いている時、「アリス」というレッドの声が聞こえた。思わず目をつぶった。

「アリス、私はとても嬉しい」

「お兄様……」

「アリスが守ってくれるというなら、兵は城に残して行こう。しかし、もしも何かあれば」

「見くびらないで下さいまし。これでも小さい頃から帝王学を学び、兵法を学びました。戦に出ることは一度も無くても、知識だけはございます。城でただおしとやかやに育った覚えはございません。私は、戦好きのゴールド王の娘でございます」

 目に涙が浮かんでいた。本当は、言うほどの自信はなかった。それでも、レッドに対して今一番力になれるのは自分だと、それだけは誰より強く思っていた。

「戦が中断したとはいえ、王の不在の城では何が起こるかわからない。それでもやってくれるか?」

「はい。アリスにお任せ下さいな!」

「わかった。ならばウイルを置いて」

「それはいけません!ウイルはレッドお兄様の側近です。お側で使えることこそ、ウイルの役目です。私が病の間、ウイルはレッドお兄様のお側を離れ、私とずっと一緒にいてくれました。……十分ですわ」

 アリスは頬を染めてウイルに微笑んだ。ウイルは心配そうな表情だったが、アリスと目を合わせると、同じように微笑んだ。

 その時、リオがレッドにぎゅっと抱きついた。不安そうな顔を上げ、レッドを見つめた。それを見てガジンが気づいた。

「そうです。リオ様はどうされますか?王がお戻りになるということは、一緒に魔術師ハビカスもやってくる、ということでしょう」

「レッドが行くなら私も行く!」

 リオはぎゅうっと強くレッドを抱きしめた。レッドはリオの肩を持つと、引き離した。

「私と一緒にくれば、戦闘になることもあるかもしれない。危険な道のりだ。だが、ハビカスに狙われている以上、城には置いていけない。まだ龍の谷にリオを返せる時でもない」

「私は、レッドと一緒にいたい!」

 子供がだだをこねるようだった。離れまいとレッドの腕をつかんでいる。

 レッドは、リオが危ない目にあうことを考えるのも嫌だった。だが、狙われている以上、自分の目の届くところにいてほしい。

「……わかった。リオは連れていく。出発は明日の朝とする。そこからは城をアリスに任せ、ガジン、ウイルに共に来てもらう。よいか?」

「はい」

「リオ、危ない目に合うこともあるかもしれない。それでも来てくれるか?」

「うん。行く!」

「道案内は私と、ブルート王子を捕らえた敵を見た兵士一人が致します。そらからもう一人、お連れいただきたい方がいます」

 男はレッド達をある部屋に案内した。そこには、ムツジと国境に向かい、軍に引き返しブルートに国境の状況を知らせ、林の中でハビカスと出会った、顔が青白く体を震わす兵士が一人いた。そして、椅子に座るムツジがいた。髪が短くなっている。頬や首筋、体のあちこちが赤くただれている。驚いたのは、座った腰から下にあるはずの両足がなかったことである。切断面には白い布が巻かれているが、少し血がにじんでいた。

「ムツジ、それは戦で失ったのか?」

「違います。敵の魔術によって、失いました」

 ムツジはレッドにその時の様子を話した。本軍との合流地点に行き、爆発音がした国境の様子を見に行ったこと。戦が始まる前に、強固な国境の壁は破壊されていたこと。敵は「森の賢者ゼイダ」を名乗る魔術師であり、その魔術により破壊された国境の鉄鋼の扉が落ち、溶け出し、林に火が広がると、逃げ場を失い、溶けた扉の熱い手が、ムツジの足を包むと身動きが取れなくなったこと。助けに来た兵士に足を切り落としてもらい、傷口をハビカスに処置してもらったこと。全て話した。

「それから王と合流し、そこでブルート王子が捕らわれたことを知りました。足を失った私は、戦のお役には到底立てません。王は、私に好きにするよう言って下さいました。私を、ブルート王子奪還のために連れていって下さい。お願いします!」

 ブルートと同じくらい意地の悪いムツジである。そのムツジが頭を下げている。「気持ちはよくわかった。だが、悪いがお前を連れて行けない。もしも戦闘になったら、誰もムツジを守れる者がいないのだ」

「それでもかまいません!」

「良くない。ムツジ、お前はブルートの側近だ。ゆえに、ブルートが無事である時、お前も無事でなくてはならない。もしもお前を失ったら、お前以外の誰に、あのブルートの側近が務まると思っている」

 ムツジは言い返せなかった。レッドは俯くムツジの肩に手を添えた。

「お前には、ここに残ってもらう。そして、城に残るアリスを守ってほしい。アリスには知恵があるが経験はない。そこを補ってやってほしい。これは、ずる賢く、要領よく物事を進められるムツジにしか頼めないことだ」

「……嫌味など聞きとうありません。ですが、この使えない体が役に立つなら、お引き受け致します。どうか、ブルート王子を、必ずお助けいただきたい」

 頭を下げたムツジの肩をポンポンと叩くと、レッドはその部屋を出て行った。レッドたちは出発の準備を始めた。

                ****

 その頃、アリスはリオにドレスを着せるだけ着せては鏡の前に立たせた。その度に「可愛い。これも可愛い。似合ってる!」と楽しげに声を出していた。リオはどんどん変わる自分の姿に驚いていた。

「どう?これは私の一番のお気に入りのドレスよ。淡いピンクでレースがふわふわするでしょう?」

「うん。ガサガサしないし、きれい。服って色々な形があるんだね。でも、緑の服が好き」

「そうなの?あの地味なドレス」

 そこではっとしてアリスは口を両手で覆った。リオが緑のドレスを着た頃には、すっかり日は沈み、城の中には火が灯された。アリスはリオの手を引き、食事をして、お風呂に入った。長い髪を束ね、お湯をかけ合い、いっぱい笑った。

「レッドお兄様にお時間をいただけてよかった。明日お別れなんて、私はとても寂しいわ。リオ」

「寂しい?また会えるよ」

「……どうかしら。私はもうすぐ14歳よ。お嫁に行くにはいい時期だわ。もしも国益となるようなご縁談をいただいたら、私はこの国を出ていくのだわ。そうしたら、自由に外へは出られないでしょうね。会いたい人にも、会えなくなるわ」

 アリスが静かにお湯の中に体を静めた。視線はどこか遠くに向いていた。リオには、アリスが一人ぼっちのように見えた。とても心細くて、寂しそうだった。

「アリスの会いたい人は誰?レッド?」

「レッドお兄様もそう。この城の人たち、皆そう。……ウイルもそう」

「アリスはウイルが大好きだね」

 アリスは俯いた顔を赤くした。

「そうね、大好きよ。私が簡単に言葉にしてはいけないけれど、愛してるもの」

「あい、してる?何をしてるの?」

「……あの人は、今何をしているのかしら。何を見ているかしら。何を思っているかしら。誰を、思っているのかしら……」

 アリスの頭の中に、ウイルの姿がたくさん浮かんでいた。

「それが、私であったらいいなって、そんなことを考えるのよ。会いたくて会いたくてたまらなくなる。距離が離れれば離れるほど、恋しくてたまらくなる。そして、彼が今日も元気で、どこかで笑ってくれていたら、とても嬉しい。けれど、そこに私もいられたらもっと嬉しいなって思うの。だって、私は彼が大好きで、大好きな人と一番仲良くいたいと思うの。愛は、人をわがままにさせる病気よ。リオは、レッドお兄様が大好き?」

「うん。大好き!」

「レッドお兄様も、リオのことが大好きよ」

 リオは「えへへ」と笑った。

「リオ、もしも、お兄様の気持ちがちゃんとわからなくなってしまっても、これだけは私がはっきり言ってあげられる。あのね……」

 アリスはリオにだけ言った。それはリオにとって、とても嬉しいことだった。

 次の日の朝、レッド、ガジン、ウイル、リオは城の門にいた。レッドは大鹿の角の弓を背にかけ、上から青いマントを付けた。アリスと車椅子に乗るムツジ、城を警備する兵士、使用人たちが、レッド一行を見送った。

「では行ってくる。明日には父上が帰ろう。それまでは、アリスに城を守ってもらう。皆、よくよくアリスのことを支えてほしい。力になってほしい。お願いする」

 皆が声を揃えて「はい」と返事をした。アリスは頭を下げた。レッドは頼もしい城の仲間の姿が見れて嬉しかった。その中にはムツジもいた。

「ムツジ、私は必ずブルートを連れて帰って来るよ。だから、ブルートを迎える準備をしていなさい」

「もしも、あなただけ帰って来たら、その頬に一発プレゼントさせてください」

「全く嬉しくないプレゼントだな。そのようなものは受け取らないよ。絶対に」

 ムツジは笑みを浮かべ、レッドに頭を下げた。

 いよいよレッドたちは馬に乗った。その時、アリスはレッドの後ろに乗るリオに近づき、その手を握った。

「リオ、私はあなたのことが大好きよ。道中気をつけて」

「私も大好きだよ、アリス。これは、愛してる?」

 レッドとウイルが驚いた顔をした。アリスは昨日の夜に教えた「愛してる」を、リオがまだちゃんとわかってないことが、可愛くて「あはは」と笑った。

「違うわね。愛はもっと複雑よ、リオ」

「そうなの?でも、アリスはウイルを愛してるだよね」

 アリスとウイルがぎょっとした顔をして、顔を真っ赤っかにした。ウイルは目を泳がせ、アリスは「リ、リオ!」と小さい声で言いながら手をわたわたと動かしている。二人してうまく言葉を出せないでいるのが、周りの人には一目瞭然であった。

「リオ様、あの二人は愛し合ってる、ですぞ」

 ガジンがリオに近づき、その耳にそっと言った。リオは頭をかしげ、頭の上に「?」を浮かべていた。その間にアリスとウイルは真っ赤な顔で見つめ合っていた。

「気をつけて」

「はい。アリス様」

 アリスはレッドのそばまでやって来た。

「お気をつけて。無事のお帰りをお待ちしております」

「すまない。一日とて、城を預かるのはとても大変なことだ。快く受け入れてくれてありがとう」

「構いませんわ。私はレッドお兄様のお力になれて嬉しうございます。無事、お戻りになった時は、その…、お話しましょう。リ、リオのことなど、いろいろ教えていただきたいですわ」

 アリスは、ついついそっぽを向いてしまった。リオは「私?」と呟いた。多分、いろいろというのは、リオのことばかりではない。レッドは、アリスが自分と同じように思ってくれているのではないかと思った。

「いろいろ話そう。今までのことや、互いの思いを」

「はい」

 アリスの目に涙が浮かんだ。頭を下げると、アリスは城に残る人たちの中へと戻った。

 レッドとリオ、ガジン、ウイルは、知らせを伝えた男と、ムツジと共に戻った顔の青白い兵士を先頭に城を出た。まだ町は静かだった。空はよく晴れ、薄曇の輪郭が金色に光っている。肌寒い風が通り、体が縮こまる。その時、同じ馬の後ろに乗るリオがレッドにぎゅうっと抱きついた。背中とお腹がとても温かくなった。

「レッド、レッド」

「何だ。危ないから、突然動かないでくれ」

 肩からひょこっと顔を出したリオは、レッドにしか聞こえないような小さな声で言った。

「私は、レッドのことを愛してる」

 リオはニコニコしていた。明らかに言いたいだけであった。しかし、レッドは大変困った。どうしようもなく、リオが可愛くてたまらなかった。

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