第4話 狙われたリオ

 次の日、朝露に濡れる野原をバステアス王の軍隊が移動した。甲冑や武器がガシャンガシャンと音を立てる。バステアスの乗る馬の足元には魔術師ハビカスがいた。黒いマントを頭からすっぽりかぶり、その体を隠している。空を見上げ、「良い天気ですこと」と呟いた。

「我が王よ、私はいつもの通り開戦の時には空におります。何かあればお声がけ下さい」

 その声に耳を傾けるバステアス王だったが、返事もしなければ目もくれなかった。ハビカスにはそれが当たり前であり、そこに王の無言の承知の意があることをよく理解していた。ハビカスは、まるで独り言のように続けて話した。

「空の賢者、つまり龍は、古よりこの世界に存在する自然界の不滅の力の集合体。その体は鋼より強く、その炎は何をもってしても消すことはできない。そして、その体をめぐる血潮は、あらゆる生物に不死の命を与える。空の賢者は、死した者の思念を集める特徴を持ちます。故に戦の起こるところに、賢者の風はやってくる。それを追っていくところに、隠されし賢者の国の入口があるのです」

 ハビカスはふわっと浮かぶと、馬の上にいるバステアス王の耳元で囁いた。

「その国の歌姫は、人と龍の混血児。その血を得れば、あなたの納めどころのない不安や怒りも、暗雲が晴れるごとく無くなるでしょう」

「早く行け」

 バステアス王は真横に浮かぶハビカスを睨んだ。するとハビカスは口を大きく開けてニヤリと笑った。茶色い細々しい歯が唇の奥に並んでいる。そのままハビカスは空へ登っていった。

 軍隊は戦場へと到着した。兵隊が各々持ち場に付いて戦闘態勢を取り出す。バステアス王は長年共に戦場をかけた腕の太い武将を両側に立たせ、自身の後ろにいた兵士に赤い大きな国旗を掲げさせた。戦場を横に走る風が旗を大きく揺らすと、それをきっかけに軍隊は赤い旗をいくつも掲げた。

 すると遠くに青い旗が上がり、同じように小さな青い旗がいくつも浮かび上がった。開戦の合図である。バステアス王は愛剣を掲げ、出陣の瞬間を待った。旗を揺らす風が抜け、一瞬の無音が戦場に響いた瞬間、掲げた剣を敵陣へと降り下ろした。

「出撃ー‼」

 バステアス王の横に立つ武将が声をあげると、兵士達が一斉に敵陣へと駆け出した。空には花火が2発上がった。空中で爆発した後の煙を手でもんでいたのは、空に浮かんでいたハビカスだった。その白い煙の塊を杖に差し空に上げると、煙はそこから渦を巻きながら広がった。日の光が雲に遮断され、戦場は薄暗くなった。

 地上に土煙が上がっているのが見える。大砲の弾丸が敵陣に落ちると、炎と煙が上がり、しばらくすると鈍く重たい爆発音が聞こえてくる。いくつもの人影がまっすぐに敵陣に向かっていく様は、ハビカスにはとても愉快な光景だった。

「ああ、戦が始まった。死よ、我がもとへ集え。空の賢者の国へ我を誘え!」

 ハビカスは愉快そうな高笑いを空に響かせた。両手を広げ、雲の広がる空を見上げた。その時、ハビカスの足元をきらきらと光る風がふわっと流れた。ハビカスは見逃さなかった。それは昨晩にハビカスが息を吹きかけた粉の光だった。風をハビカスは楽しげに追いかけていく。

「幸先良いこと。こんなにまとまった風は始めてじゃ。ヒヒヒヒヒ」

               ****

 龍の国の谷には冷たい風が流れていた。草が横になびき、岩壁から生えた木から慌ただしく滴が落ちる。池の水面は、滴と風により音を立てて荒れている。リオは風上に振り返った。

「嫌な風……。近くで何かあったのかな」

 リオの長い髪の毛がバラバラと風になびいていた。首にかけているレッドの懐中時計が重たく胸元で揺れる。横にいた銀の龍、カカがリオに首を傾けた。その喉の中で雷のような音を立てる。

「戦?そんなに近くで。レッドの言ってた戦かなあ」

 風は止むことなく谷の中を回り続けていた。その時、きらきらと光る一筋の風が紛れていることにカカが気づいた。首をぐうんと空に伸ばして辺りを見渡した。

「風の中に嫌なものがあるのね。だったら、歌って綺麗にしよう」

 リオは胸いっぱいに空気を入れて歌いだした。谷の中にまるで閉じ込められたように吹く風に、リオの歌が溶けていく。風は止まなかったが、徐々に暖かくなった。しかし、ハビカスの放った粉が光る風だけが冷たいままだった。

 その一筋の風がリオの首を撫でた時、リオはその異様な風に気づいた。はっとして、思わず振り返った。そこには何もないのだが、はっきりとした視線だけは感じられた。

 それは金色が濁ったような色で、視点が合っていない、魔術師ハビカスの大きな目であった。大きく開く口がにんまりと笑った。

「見いつけた。お姫様」

 その瞬間、強い風がリオに向かってやって来た。思わず両手で顔を覆い、足に力を込めた。周りを飛んでいた小さい龍は空に飛ばされ、カカは長い首を低くしてこらえた。ぎゅうっと地面の草を掴まなければ飛ばされそうなほど、その風は強く、冷たかった。

 風が一気に谷を吹き抜けると、空中に粉がきらきらと光りながら舞っていた。リオはそれがどのようなものかわからなかった。その景色が珍しくて、リオは両手を広げて「きれい」と呟いた。

 その時、粉からパチッと火花が吹いた。カカは首でリオを引き寄せ洞窟の中に乱暴に放り込んだ。洞窟の中でゴロゴロと転がり、ようやく止まったところで体を起こし、「カカ、痛いじゃない!」と言おうと口を開いた瞬間、洞窟の外は大きな爆発音が鳴り、真っ黒な煙に覆われた。

 洞窟の中には、黒くて温い煙と焦げたような匂いが漂った。ゲホゲホとむせながら、足下に雑に置いてあった衣装を手に取るとスポンと羽織り、杖を持った。その時、目についたレッドからもらった緑色のドレスを脇に抱え、洞窟を抜けた。

 暗い洞窟から抜けると、辺りは真っ黒な煙で充満していた。煙が薄くなった時、洞窟の横に腰を下ろしていたカカの体の鱗が見えた。安心して手を添えると、べちゃっという音と濡れた感覚がした。驚いて手を見ると、カカの青い血がべっとりと付いていた。

「カカ!」

 カカの体に身を寄せよく見ると、所々の鱗が剥がれ、肉が見えていた。そこから青い血が滴っている。周りは煙でよく見えない。他の龍たちは、谷はどうなったのかわからない。

 リオは杖を掲げ、ワアッと甲高い声を上げた。声は谷にこだまし、それは煙の立つ谷の上の空まで響いた。掲げた杖を空を切るように振りかざすと、辺りの煙は一気に消えた。そこには、焼けた草、折れた枝、濁ってしまった池の水、黒い滴を落とす傾いた木、崩れた岩壁があった。

「谷がっ!なんてこと……」

 谷は見覚えのない姿となっていた。思わず後ずさりした時、後ろに引いた足に濡れる感触があった。足元を見ると、カカの血で地面は真っ青になっていた。そして洞窟の入口を守るように長い首が横たわっている。

「カカ、カカ‼」

 ぐったりした首を持ち上げ、その目を見つめた。カカの金色の目がゆっくり開き、リオを見た。

「しっかりして。すぐに回復の蔓を渡すから」

 温かい息がリオの腕にかかる。その口や鼻からトロリと青い血が垂れる。リオは目に涙を浮かべた。

「ごきげん麗しう。龍の国の歌姫」

 その声は空から聞こえた。見上げると、黒いマントを羽織った人間が空に浮かんでいた。

「……私の知らない人間」

「そうです。人間ですよ。名前はハビカス。魔術師ぞ」

「まじゅつし?あなたが谷をこんな風にしたの?」

「可愛くない言い方だねえ。私が何年も何年も君を思い、探していたというのに。……それにしても、子供なのかい?50年前に君を見たという人の話とぴったり同じ容姿じゃないか。さすがは、その体に賢者の血を含んだ、混血の娘」

 リオはカカをかばおうとぎゅうっとその首を胸に抱いていたが、カカが腕を抜け出し、長い首をハビカスに伸ばした。

「ごきげん麗しう、空の賢者、銀龍。君の娘はすごい力の持ち主だ。私が10年もかけて考え、作り上げたまじないを一振りで無にしてしまったよ。自分の無能さを思い知らされるねえ」

 カカは喉でゴロゴロと音を鳴らし、口を開くと雷が激しく轟いたような声をあげた。空の雲は形を崩し、地面が大きく揺れた。池の水面が波紋を重ねて浮き、谷の外に広がる森から飛び立つ大量の鳥が空を旋回した。その間、カカの首からは血が雨のように落ちてきた。

「カカ、戻ってきて!死んじゃう‼」

「ヒヒヒヒ。こんなもんで賢者は死なぬわ。だが、相当な怪我はしたようだ。弱っていらっしゃる間に、歌姫を頂くとしよう」

 ハビカスが空中で少し移動すると、そこに向かってカカの口から電光が放たれた。電光をひらりとかわすと、ハビカスは杖を空に掲げ、その上に大きな炎の玉を作った。

「邪魔者は消えておくれ。用があるのは、龍の国の歌姫だけだ」

 地上にいるリオのところまで熱気がやってきた。カカは口を開き、喉の奥で雷をバチバチを言わせると、開いた口の先に光の玉を浮かべた。空には灰色の雲が集まり、徐々に大きくなる光の玉からは電光が飛び、それが空に飛んでいくと、灰色の雲の中を走った。

「カカ……」

 二つの大きな力が膨れ上がり、その機を待つような一瞬の静寂が谷に落ちた。

その時、空を覆った灰色の雲の上を青い大きな龍が飛んでいた。それは谷のリオに向かってまっ逆さまに落ちていく。それに気づいたリオが顔を上げた時、静寂は壊れ、二つの大きな力がぶつかり合った。

                 ****

 レッドは開戦の知らせを聞き、その対応に追われていた。

「食べ物、薬、武器は特に厳重に管理してほしい。いつでもこの城から持ち運べるように荷車や馬の蹄の手入れも忘れるな」

 レッドは城のあらゆる倉庫の様子を見回りながら声をかけていた。隣にはガジンがいた。

「いよいよ戦が始まりましたな」

「ああ。いつどのようなことがあっても良いよう備えなくてはならないな」

「はい、王子」

 二人は城から別塔に向かう橋を歩いていた。見上げる空は快晴で、風もなく、城の外で戦が始まっていることを忘れさせるような穏やかな陽気だった。その時、突然目の前に青い塊が現れた。それは橋を半分崩し、別塔の屋根を破壊し、城壁の一部を崩した。石でできた城はガラガラゴロゴロと崩れる音が立ち、そこから立ち上る煙がレッドの周りを包んだ。

「王子!お怪我は!?」

「大丈夫だ。一体何が」

 見ると、青い塊の表面には青い鱗が艶々と光っていた。長い尻尾が煙の中をうねり、大きな翼が動くと突風が起こり、煙はどこかへ飛んでいった。そこに現れたのは、見覚えのない龍だった。

「青い……龍?」

「レッド!」

 その青い龍の背中から転がるように落ちてきたのはリオだった。リオは全身を真っ青な液体で濡らし、手には杖と緑色のドレスを持っていた。

「リオか?」

 リオはレッドのところに走って来た。一瞬ガジンが剣に手をかけたがレッドが手を上げると構えを解いた。レッドはリオに近寄った。

「レッド、レッド!」

 目から大粒の涙をこぼしながらリオは右手を伸ばしていた。

「リオ、何でここに」

「レッド、手を!」

 リオの右手には龍のような紋様があった。レッドはすっと赤い宝石の埋まる左手を伸ばし、指を絡めた。その時、全身がリオの手に吸い込まれるような感覚に落ちた。

 気づくと、全てが止まった龍の国の谷にいた。空中に浮かんだ木の葉、水面の波紋が作り物のように固まった池、岩壁から転がり落ちる途中の石。

「ここは谷か……。時が、止まっているのか?」

 谷はいつもの穏やかな景色とは違っているようだった。若々しく茂っていた地面の草は焦げて横になびいている。枝がバラバラと落ちている。そこに小さな龍達が横たわっている。池の形が知っている形と違う。岩壁は崩れ、止まった煙が立ち上っている。滴を落とす木が、今にも倒れそうなほど傾いている。

 レッドの横には静止したリオがいた。固まった髪の毛が横に流れているのを見ると、谷には強い風が吹いていたことがわかった。胸に杖と緑色のドレスを抱え、不安そうな顔で空を見上げている。その視線を追うと、そこに青い血を流す傷だらけのカカがいた。

「リオ!……カカ!」

 足を動かした時、泥を踏むような感覚がしたので見てみると、カカの流したであろう青い血が泥に混ざってレッドの靴に滴っていた。

「谷がどうして、こんなことに……」

 レッドは右手でカカの体に触れた。硬い銀の鱗からは青い血が流れた。

〈レッド、聞こえますか?〉

 聞いたことのない声だった。どこから聞こえる声かわからず、レッドは辺りを見回したが、声を出すような者はいなかった。

〈私にそのまま触れておいて下さい。触れてくれさえすれば、この声はあなたに届くはず〉

 レッドはカカを見た。カカの金色の目がレッドを見つめていた。

「この声は、カカの声か?」

〈そうです。あなたの精神だけをこちらに呼び寄せました。時間がありません。どうか、私のお願いを聞いていただけますか?〉

「何だ?」

〈谷は、ある魔術師によって破壊されようとしています。リオが狙われています。あの子をここから遠ざけたい。あなたに、リオを守ってほしいのです〉

「リオが狙われているって?」

〈あの子は、龍の血と、それに適応した人間の血が混在しているのです。ゆえに、人間離れした力を宿しています。その力が、つまり血が狙われているのです。あの魔術師に……!〉

 カカの目が空に向いた。見ると、そこには見覚えのある魔術師がいた。

「……ハビカス!」

 ハビカスは杖を空に掲げ、その上に巨大な炎の玉が浮かんでいる。カカの口の先にも光の玉が浮かんでいた。その二つがぶつかり合うその前の光景であることをレッドは感じた。

〈どうかリオを守って。そして、人間としての生き方を教えてあげて下さい。私は、あの子に人間として生きてほしい。あの子の大好きなあなただから、頼めるのです〉

「カカ、それはなぜ」

〈お願いします。どうか、お願いします……〉

 カカが目をつぶるとそこから涙がこぼれた。その時、辺りの空気がとてもゆっくり動いた。それに合わせて草がゆっくり揺れだし、水面が沈み、滴と木の葉がゆっくり落ち始める。

「時が動き出した。待てカカ。谷はどうなる。リオはどうするつもりだ!」

 辺りの動きが徐々に早くなり始めた。同時に音が動き出し、その中にリオの叫ぶような声があった。温度が谷を駆け回り、あらゆる方向から風が押し寄せた。

「カカ、待ってくれっ」

「カカ、やめて!カカー‼」

 リオの叫びが耳に響いた。そして谷が光に満ち、辺りは一瞬のうちに何も見えなくなった。

 はっとして起き上がると、レッドは城に戻っていた。隣には、目に涙を浮かべたリオがいた。二人で青い龍にもたれいる。半分崩れた橋の上には、ガジンや城の兵士たち、ウイル、他の使用人も集まっていた。

 戻ってきた。戻ってきた!

「……リオ、リオ!」

 レッドはリオの肩をつかみ、全身を見た。青いカカの血が乾いた肌、青く染まった衣装、擦り傷、火傷。レッドはキョトンとしたリオの頬を両手で覆った。

「大きな怪我がなくって良かった。大丈夫か。痛いところはないか?リオ、リオ」

 すると、リオの顔がぐしゃっとして、目から涙が溢れてきた。開いた口からは、泣き声にならない声が聞こえてくるようだった。リオの両手がレッドの胸を掴んだ。

「レッド、レッド……!谷が、皆が!……カカが!!」

「わかってる。わかってる……!」

 その顔を見ていると、自分の目にも涙が浮かんだ。レッドはリオを引き寄せ、抱きしめた。リオは「レッド」と繰り返した。レッドは溢れそうになる涙を、目の奥でぐっと押さえた。リオの涙は、止まらなかった。

                 ****

<レッド王子、お初にお目にかかります。私はビビと申します。龍の国の空を守護する役目をしています>

 青い龍、ビビはレッドに首を垂れた。レッドはその額に右手で触れていた。レッドの体にしがみつくようにしてリオが隣にいる。周りにいた兵士や使用人達には、ガジンにお願いしてその場を去るよう言っていた。

「お前の目も金色だな」

「ビビはカカの血を引く唯一の龍よ。私と一緒」

<カカからのご伝言は受け取られましたね。私は一度、龍の国へ戻ります。谷がどのようになってしまったか、それを確認したいのです>

「リオはどうする?」

<リオ様には、こちらにいていただきます。これはカカからの伝言です>

「嫌よビビ!私も連れて帰って!谷の様子だって、カカの怪我だって見たいの」

<リオ様、あなたは私とカカがいいというまで谷に戻ってきてはいけません>

「どうして!?」

<あなたは、人間だからです>

「違う!違う違う違う!!私は、谷の龍の一人よ!」

<人間だ。違わない>

「違う!」

 リオはビビの長い首にぎゅっと捕まり、宙ぶらりんになってじたばたしていた。ビビは慣れた様子で無視した。

<レッド様、しばしリオ様をお願いします。この方は、確かに人間だが、我々の家族なのです。どうか、お願いします>

「わかった。だが一つ、お願いがあるんだ」

 そうしてレッドはビビにひそひそと小さな声で何か伝えた。リオはじたばたしていたので何も聞こえなかった。

「お願いできるかい?」

<はい。必ず>

 そうしてビビは首を空へ伸ばし、翼を広げて飛んで行った。リオはビビが首を伸ばす時に振り下ろされてしまった。城にはビビの起こした強い風が吹き荒れた。まっすぐ空に昇っていくビビの姿は、真っ青な空の中に溶けるように消えた。

「レッド王子!連れて参りました!」

 それはウイルの声だった。ウイルと一緒に体格のよい女官が一人歩いて来た。

「ありがとう、ウイル。ガジンもありがとう。後で時間をくれ。話したいことがある」

「承知しました」

 レッドは体にしがみついて離れないリオの背中をさすった。するとリオがレッドを見上げた。いつも見る明るい笑顔のリオはそこにいなかった。不安そうな顔をして、レッド以外を見ようとしない様子だった。

「さて、レッド様。ティオナは何をすればよろしいでしょうか?」

 そう言ったのは、ウイルが連れてきた女官ティオナだった。腕をまくってずんずん近づいてくる。肉付きのいい体からは包容力が溢れている。他の女官達の間で、密かに「お母さん」と呼ばれていることは、レッドも知っていた。

「ティオナ、来てくれてありがとう。この子の面倒をみてほしいのだが……」

 レッドはリオが抱えていた緑色のドレスをティオナに渡した。それに「あっ」と手を伸ばしたリオは、ティオナと目を合わせ、驚いたのかレッドにしがみついた。そこからティオナが受け取ったドレスをチラチラと見ていた。そんなに気になるものかと、ティオナは受け取ったドレスを両手で広げて驚いた。

「まあ」

 あら、見覚えのあるドレス。こんなに汚れちゃって!

「まあ!」

 そう。あなたがこのドレスを受け取った子ね!

「まああ‼」

 やだわ、レッド王子!なんて可愛らしい女の子ですこと‼

 そんな心の声が聞こえてきそうで、レッドは顔を赤くした。

 ティオナはカカの血で汚れた緑色のドレスを広げ、リオをまじまじ見つめ、レッドにきらきらした目を向けた。それはティオナにとっては大変な感動であり、喜びであった。なぜなら、レッドの密かな依頼で緑色のドレスを調達したのはティオナだったからである。ティオナは、密かに「レッド様がドレスをプレゼントするなんて……。レッド様の心を射止めた方とは、どのような方かしら」と想像を膨らませていた。

「ティオナ、リオというんだ。傷の手当てを頼むよ」

「お任せ下さいな。レッド王子」

 ティオナはレッドにウインクすると、リオに向かって両手を広げた。

「リオ様、こちらへいらして下さいな」

 リオはレッドのマントを掴んで後ろに隠れてしまうと、そこから動かなかった。

「リオ、頼むから手当てさせてくれ」

「レッドがしてくれるならいい。他の人間は嫌」

 リオはレッドから離れる気が全くなかった。困った。まるで子供のように駄々をこねている。ティオナはレッドの背中に回ってリオを見つけると微笑んだ。

「あらそう。こうして近づくことはいいのね」

 リオはレッドにぎゅうっと抱きついた。背中に顔を埋めて、絶対ティオナに目を合わせなかった。

「レッド様は、あなたにきれいになってほしいのよ。その方が嬉しいのよ」

 その言葉にリオが少し反応した。背中で頭がティオナの方に回るのを感じた。

「レッドが嬉しい?」

「そうよお。きれいなのは、とっても嬉しいことなのよお?」

 さすがは「お母さん」である。なだめて誘導するのが上手だ。レッドは思わず関心してしまった。

「…レッドは、リオがきれいは嬉しい?」

「ああ。嬉しいよ」

「……だったらきれいになる。でもレッドも一緒がいい。一緒に来て!」

「何でそうなる⁉」

「人間、火の玉落とす」

 一瞬、何のことだかわからなかったが、レッドはそれがハビカスのことだと気づいた。リオはハビカスのおかげで大変人間に警戒するようになってしまった。

「いや、普通の人間は火の玉など落とせないんだ。私が火の玉を出したことがあったか?」

 リオは頭をふりふりした。

「このティオナだってそうだし、この城の人間は誰一人、火の玉なんて出さない。城の人間は皆、私の見方で、リオの見方だよ」

 リオはムスッとしながらも、ようやくレッドから離れた。しかし、レッドの右手を掴んで絶対離さなかった。それを見たティオナが暖かそうに染めた頬に手を添え、きらきらした目でレッドを見つめた。

 やだわあ。とっても好かれているじゃない!

 そんな心の声が聞こえてきそうで、レッドは顔を赤くした。

 結局リオはレッドの手を離してはくれず、レッドはそのまま風呂場へ連れていかれことになった。レッドは大変困った。握られた右手だけ差し出し、目をつむって左手で目を覆って俯き、4本足で立つバスタブの横に腰を下ろして、ただじっとするしかなかった。

 ティオナは頬をほかほかに赤くして、両手でリオの青い髪の毛をあわあわにしている。それが面白いのか、リオはふんふんと鼻歌を歌っている。

 水の流れる音、ちゃぷんと何か弾ける音、泡のもまれる音、熱気、リオの鼻歌。それらがレッドの耳を攻撃し、脳裏には右手だけが見つめる穏やかな光景が浮かびそうになった。それはいけない。その光景の窓を開いてはいけない。耳が燃えるように熱い。リオの火照った左手のおかけで、右手はそこに心臓があるように脈打っている。

「リオ様の髪は、青くて美しいですね。まるで魔法にかかったよう」

「魔法?リオの髪は美しい?ふふふ」

 リオが嬉しそうに笑ったので、レッドは少しほっとした。落ち着いてくれた。良かった。

「私、お風呂は初めてよ。温かいのね」

「今まで一度も入ったことがないのですか?」

「そうよ。汚れたら池のお水で洗えばいいし、雨が降ったらきれいになったわ。人間はいつもお風呂に入るの?」

「そうですよ。きれいになるのは気持ちいいですから」

「ふうん」

 そうしてしばらくすると、すうっと静かな寝息が聞こえた。リオの左手から力がなくなり、ようやくレッドは解放された。レッドが風呂場を出ると、ティオナはリオをバスタブから引き上げ、体を拭き、柔らかいワンピースを着せた。ティオナにはベッドの準備を頼み、レッドは眠ったリオを両腕に抱えて、ひとまず城の貸部屋のベッドに横にした。

 リオはゆっくり息をして、胸を膨らませていた。その度に、谷の緑や花とは違う、もっと艶やかな花の香りがした。頭を撫でると、よく知る青い髪の毛とは違う滑らかさがあり驚いた。あんなに指を通しても通しても引っかかった髪が、指と指の間から水のように落ちていく。

 自分だけが触れていたものが、そこには全くなかった。繰り返し頭を撫で、髪に手を通し、頬を撫で、小さく細々しい指の間に自分の指を絡めた。リオの右手は、さっきまでのようにぎゅうっとレッドの手を握ってはくれなかった。

 右の手のひらには、龍のような模様があった。それは何かの印のようで、その隣に赤い宝石の埋まる自分の左の手のひらが並ぶと、世界の秘密が対になって並んでいるように思えた。すっかり時間を忘れ、じっとリオの穏やかな寝顔を見つめていた。

「王子、よろしいでしょうか」

 その時、部屋の外からノック音とガジンの声が聞こえた。思わずビクッと反応した。そこでようやく我に返った。

「何もしてないから入れ!」

 「何もしてない」なんて言う気は全くなかった。レッドはとても恥ずかしくなった。顔に熱が上がる。するとガジンはウイルを連れて部屋に入ってきた。

「王子、申し訳ございません。時間が空きましたのでな」

「そうか。ありがとう」

 レッドはもう一度リオの寝顔を見て、一呼吸すると、二人に話し出した。

「この子はリオという。大鹿様を仕留めて、怪我をした私を介抱してくれたのはこの子なんだ」

「地図にはないはずの、龍の国の谷にいた子でございますか?」

「ああ」

「どのような方なのですか?その、リオ様は……」

 ガジンが口をつぐむと、ウイルが言った。

「その髪の色、そして、同じ色の龍のこと、どこからお伺いしてよいやら」

「そうだね。……リオは産まれた頃から龍の国の谷で育ったんだ。そこに人間はリオ一人、育てたのは銀色の龍だ。私が持っているこの鱗の持ち主だ」

 腰に下げた皮袋からカカの鱗を取り出した。

「だから我々の持つような常識はないし、知る言葉も少ない。多分、一緒にいる限り驚くことが多いと思う。それがまた楽しいのだけど」

 レッドがリオに微笑み、呟くように言った。ガジンとウイルは、狩から何日も経って無事に帰ってきた時の、穏やかなレッドの顔を思い出した。なるほど。レッド王子が最近になり、城の中でも穏やかなお姿をするのは、明らかにリオとの出会いが関係しているのだと感じた。

「問題なのは、リオが魔術師ハビカスに狙われている、ということだ」

「バステアス王の側にいる、あの魔術師ですか?」

「そのようだ。ハビカスは龍の国を攻撃し、リオを捕らえようとしたらしい。間一髪のところで青い龍に乗って、リオはここに逃げてきた。リオが狙われている以上、龍たちはリオを谷から遠ざけることしかできないのだ。そして、リオのいられる人間の世界は、多分、私のところしかないのだ。だから少しの間はここにおくが、ハビカスに狙われているというのであれば、長居はさせられない」

「なぜ、あの魔術師がリオ様を狙うのですか?王はそれをご存じなのでしょうか」

「……それとも、父上が」

「王子、それ以上申されてはなりせぬ」

「わかっている。何にせよ、リオが狙われ困っているなら助けたい。二人には協力をお願いしたいのだ」

「わかっております」

「もちろんです」

 その時、リオがもぞもぞと動き始め、目を少し開いた。レッドはウイルにティオナを呼ぶよう言った。リオは起き上がり、眠たそうに目を擦りながらニコッと笑った。

「レッドだ」

「リオ、よく寝たかい?」

 リオはうんと大きく頷いた。すると体を見て、服をもぞもぞとさわり始めた。

「レッドからもらったチクタクがない。それから杖は?衣装は?緑の服は?」

 リオは慌てたように辺りを探し始める。そこにティオナがやって来て、杖と懐中時計を手渡した。それをリオは体にぐうっと抱きしめた。

「チクタクって、懐中時計のことか?これは懐中時計」

「かいちうどけい。あれも、かいちうどけい?」

「あれは柱時計だ。手のひらに乗るような大きさのものが、懐中時計」

 レッドがウイルから受け取った銀の懐中時計を胸元から出して見せると、リオがレッドからもらった古い懐中時計を両手に乗せて見せた。

「これは、かいちうどけいね」

 二人は目を合わせると微笑んだ。その時、ガジンとウイルはリオの持つ見覚えのある時計に目がいった。二人は、それをリオが持っていることに驚き、目を合わせた。「あれはレッド王子の懐中時計だよね」と二人は無言の会話をした。

「リオ、人を紹介させてくれ」

「人間?知らない人間?」

 リオは二人に気づくとレッドの後ろに隠れてしまった。レッドの背後からピョコンと青い頭、金色の目が見えた。

 ガジンとウイルには、それが普通の人間には見えなかった。とても不思議で、この世界とは違うところに暮らす、妖精やモンスターの類いのように感じられた。だからこそ、これまでレッドから聞いてきたような、地図には存在しない龍の住む谷や、大自然の中でひっそりと引き継がれてきた偉大なる「主」という存在の力、それが人の世界に及ぼす現象、これら夢物語のようなレッドの話をようやく実感した。二人はリオにお辞儀した。

「ガジンとウイルだ。二人とも、私の大事な友人だ」

「いゆじん?」

「友達のことだよ」

「そうか。ともだち。ともだちは火の玉作る?」

「作らないよ。大丈夫。私を守ってくれる人だ。例えば……、ビビみたいな人たちだよ」

「ビビ!そうなのね」

「はじめまして、リオ様。私はガジンと申します。以後お見知りおきを」

「私はウイルと申します。よろしくお願いいたします」

「ガンジにウイル!ガンジにウイル、ティオナ、レッド!知ってる人間が増えたわ」

「リオ、彼はガジンだ」

「ガンジ」

「いや、ガジン」

「王子、構いませぬ。ガンジでよろしいですよ」

「レッド王子が、まるで小さな子供に言葉を教えているようです」

「確かにそうですな」

 わははとガジンが大きく笑うと、その声に驚いてリオがレッドの後ろに隠れてしまった。するとガジンは両手で口を覆い、そのまま顔全体を覆った。リオがピョコンと出てきた時、その手を開いた。リオはビクンとなったが興味を示した。

 リオはベッドから降りると、ガジンに近づいた。ガジンは再度、両手で顔を覆い、静かにリオが近づいてくるのを待った。リオは興味津々で座るガジンの膝に両肘をついて見上げた。ガジンがタイミングよく両手を開くと、リオはビクンとなってから「あはは」と笑った。完全に小さい子ども扱いだったが、リオにはそれが面白そうだった。

 レッドはその様子に安心したが、谷のことが気になった。

 どうか、カカが無事でありますように。他の龍達が一匹でも多く生き残っているように。リオが、帰る場所を失わないように。そう祈った。

                ****

 日も暮れ、空が真っ赤に染まった龍の国にある草原の丘を歩く人影があった。背が高く大柄で、麻で織られた薄茶色いボロボロのマントを頭から被り、その顔を隠している。

足元の草は焼け焦げ、乾燥し、秋の落ち葉の上を歩くような心地がする。横に吹く風の中に、胡散臭い魔術師の気配がする。その人は、龍の谷のことをよく知っているはずなのに、今立つ場所が、まるで知らない場所にいるように感じた。フードの下に見える毛深い独特の高い鼻が、風上に向いた。

「来ないうちにすっかり様子が変わったものだ」

 向かった先は、カカやリオが住んでいた谷だった。谷に着くと、こんもりとした蔓まみれの大きな塊があった。蔓の中に見えるつやつやと光る銀色の鱗は、それが何かを示した。

「やあ、空の賢者、カカ殿。お久しぶり」

 すると蔓の中で体がモゾモゾと動き、じわっと青い血が垂れた。

「山が騒がしくて、渡り鳥達も空がいつもと違うというのでね、君に聞きにきたんだけど……。理由は何となくわかったよ」

 マントから腕を伸ばし、青い血が滴る蔓に手を添えた。その腕は獣のような毛で覆われ、手には鋭い爪と肉球があった。蔓に触れたところから光りが溢れる。

「やはり人間は野蛮だ。昔から何一つ変わらない。欲が深く、思考が浅く、刃を手にすればすぐ争う……」

 光りに照らされたその顔は、赤い瞳のオオカミのものだった。

「早い回復を祈るよ、カカ殿」

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