第3話 無気病のアリス

 朝、真っ白な霧が龍の国を覆っていた。緑の青い匂いが霧に混ざり、滴が池に静かに落ち、しっとりとした風が肌を撫でた。リオはレッドの寝ていた洞窟の中にいた。治癒の力を持つ蔓が、リオの下にいくつも重なって柔らかい寝床になっている。

 目を開くと、洞窟の外が白い霧で蓋をされているようで何も見えなかった。むくっと起き上がり、ふらふらと洞窟の外へ出た。洞窟のすぐ横には、銀の龍カカがいつものように腰を下ろしていた。金色の目がリオを見つめる。

「カカ、おはよう。今日は霧がすごいね。どうしたんだろう」

 はわわとあくびをしながら両手を上げて全身を伸ばすと、カカが首をリオのそばに伸ばした。小さな雷の轟くような音を長い首の中で立てる。

 すると草をはむ音が霧の奥から聞こえてきた。振り返ると、霧の向こうから馬に乗った人の影が見えた。その周りを小さな龍が飛んでいる。徐々に色を持ち、形がはっきりしてくる。それは見覚えのある人だった。

「…レッド!」

「リオ」

 リオはレッドのもとへ走った。3日も一緒に寝て過ごしていた馬に額を合わせて撫でてやると、馬もなついたようにリオの頬に首をすり合わせた。レッドは馬を降り、馬の体にくくりつけていた荷物を下ろしていると、そこにリオが駆け寄って、ぎゅっとレッドを抱きしめた。すると霧が晴れていき、見覚えのある緑豊かな谷が広がった。

「レッド、会いたかった!嬉しい」

「それはよかった。突然来てしまったから、困っていないかと思っていた」

「突然来ていいよ。いつでも来ていいよ」

 嬉しそうに言うリオは、頭をぐりぐりとレッドの胸に当てている。思っていたより喜んでもらえたことが嬉しかった。リオがぎゅうっと力をこめる肩に手を添えた。その時、やはりリオが服を着ていないことがわかった。生々しい肌の感触が手から伝わってくると、レッドの体に熱が込み上げた。

「ああ、リオ。そのまましばらく……」

 リオは顔を上げたが、言われた通り、そのままぎゅっとレッドを抱きしめていた。すると、レッドの体にリオの胸がつぶれるほど密着しているのがよく見えてしまった。密着しているであろう場所で脈がドクンと鳴りだす。

 レッドは真っ赤な顔のまま、馬から降ろしそびれていた荷物から布を引っ張り出した。それをリオの肩にかけ、リオの体を引き離した。レッドは目をつぶってそっぽを向いている。

「それをお前に持ってきた。お願いだから、服を着てくれ」

 リオは肩にかけられた布を手に取り広げた。それは、まるで谷の緑のように鮮やかな緑色で、金糸で細かい花の刺繡がされているワンピースだった。とても柔らかくて、風が吹くと裾がふんわりと浮かんだ。

「服は嫌い。ガサガサする」

「ガサガサしないものを選んできたのだ。着てくれないと、私はお前と目も合わせられない」

「どうして?」

「どうしてって……。お前は女で、私は男だ。その、つまり……」

「体の形を言っているの?形が違うのは嫌?」

「違う。刺激が……。いや、そうじゃなくて!その……」

 薄目を開けると、リオのキョトンとした顔があった。何もわかってくれない。このままではリオは服を着てくれないと思った。

「とにかく着なさい!」

 リオはむすっとしながら、目の前で着替え始めた。背中にあるリボンが垂れたままだったのをレッドが結んだ。

 リオは、足首まである丈の裾を持ち上げては下ろすのを繰り返していた。柔らかい裾はふわっと広がり、花びらが落ちるようだった。

「確かに、これはガサガサしない。まるで風に包まれたみたい」

 ふふっと笑うと、リオはその場でくるりと回った。回る度に裾が広がって、回り続ければ、それが落ちてこないことが面白そうであった。そのうちに目が回ってよろけた。そのままレッドにぶつかり、二人はレッドを下にして地面に倒れた。

 リオの長くバラバラな青い髪の毛がレッドの頬に当たる。胸の上でリオが顔を上げると、まとまりのない髪の毛で顔は覆われていた。レッドは身体を起こすとリオの髪を手に取り、簡単に手で髪をといた。リオに背中を向けさせて、長い長い髪を三つ編みにした。

「どうだ?」

「何だか髪が重くなったみたい」

「そうじゃなくて」

 レッドはリオを池の畔へ連れていくとその顔を映した。崖から生えた大きな木から滴が落ちると、池の水面で鈴の音のように美しい音がする。波紋が広がり、揺れる水面が静まったその一瞬で、リオは見覚えのない自分の姿を見た。ぼさぼさな髪が後ろでまとまって、自分の顔がよく見える。緑色のワンピースは腰できゅっとしぼれて、ふんわりと足を隠している。金糸の刺繡がきらきら光っている。

「私じゃない人が映ってる!」

「いや、リオだよ。今のリオ」

「違うと思う。だって、こんなきれいじゃないもの。私」

 リオは不思議そうに言っていた。レッドはリオの「こんなきれいじゃない」という言葉に驚いた。リオは水面に映る姿を「きれい」だと思っているということである。レッドは小さくほっとした。

「リオはきれいだよ。そこに映っているのは、紛れもなくリオだ」

 それを聞いたリオは、信じられないという顔をしていた。そこで、足元の白い花を一つつんで、リオの耳の上にすっと差し込んだ。リオの肩をくるっと回し、もう一度池の水面に顔を映すと、さっきまでなかった白い花がリオの耳に添えられているのが見え、リオは驚いた顔をしてレッドに振り返った。

「レッドが持ってた花がある!ほら、これ」

 リオは、まるで子供が初めて何かを知ったような、ぱあっとした明るい顔をしていた。それがおかしくて、可愛くて、レッドは思わず笑ってしまった。

 それから、レッドが持ってきた荷物を広げた。そこには果物や干し肉、野菜、パンがあった。そこからリオがリンゴを持ち上げた。

「これは私も龍たちも大好き。赤い実だよ」

「リンゴという名前がある。リンゴだ、リンゴ」

「リンゴ!じゃあこれは何?カサカサの乾燥した木みたい。でも木より柔らかいわ」

「それはパンだ。木じゃない」

「パン?食べ物なの?」

「ああ」

 リオはむぎゅうっとパンを引っ張ったり折り曲げた。匂いをかぎ、がぶりと噛んだ。リオは口の中をパンでいっぱいにした。

「はへふはい(食べづらい)。赤い実が好き!リンゴ」

 リンゴを手に取りがぶりとかじりつく。果汁が口元やワンピースの上にかかっている。レッドはハンカチを出すと、リオの口元を拭いてやり、それを膝の上に敷いた。

「小さい子供の面倒を見ているようだ……」

「レッド、これは何?三日月みたい」

 リオはバナナを手に取ると、両端を持って引っ張ろうとした。すると手に力を入れた瞬間、バナナはつぶれ、黄色い皮から中身が飛び出てきた。ショックだったのか、つぶれたバナナを落とし、両手を見つめた。指や手のひらにはつぶれたバナナの身がぐっちゃりとついていた。それをすんすんと嗅いでいる。

「うげえ。気持ち悪い。ぐちゃぐちゃ」

 げえっという顔をしているリオの手に小さな龍が近づいて、すんすんと嗅ぐと、手にくっついたバナナのかけらをぱくっと食べた。すると別の小さな龍もやってきて、2匹でリオの手をつんつんした。それがくすぐったくて、リオは「ふふふ」と笑っていた。

「龍たちは気に入ったみたい」

「この間お世話になったお礼に、何か持ってこようと思っていろいろ準備したんだ。この中だと何が好きなんだ?」

「干し肉!」

 リオはどろどろの手で干し肉を掴むとレッドに示すように向けた。レッドには何となく予想がついていた。

「まあ予想はしていたのだ。こないだ食べさせてもらったもの、全部干し肉だったから」

「この干し肉はすごくいい匂いがする。美味しそう」

「ここにあるものは全部渡すつもりで持ってきたんだ。食べてくれ。お礼だ」

「やったー!」

 リオが嬉しそうにしているのを見て安心した。そこで「そうだ」とレッドは袋から小さく三角に折られた白い紙を一つ取り出した。それは大鹿の角から作った薬が入っているものだった。

「見てくれ。大鹿様の角から薬を作ったのだ」

「くすりって何?」

「病にかかった時に飲むものだ。これから戦が始まる。それが終わって落ち着いたら、これを無気病の流行っている街に届けに行こうと思っている。大鹿様が残してくれた角だから、良いことに使いたかった。あとこれだ」

 レッドは腰の横に置いていた弓を持ち上げた。それはガジンの提案で大鹿の角に琴糸を張って作った弓だった。

「大鹿様の角!」

「ああ。いつでも持っていられるように、弓の形にしたのだ。弓にしたのはいいが、引けぬのだ。あまりに硬くて、私の力ではびくともしない」

 横を向いて、弓を構えたが、糸を引いても弓を持つ腕を伸ばそうとしても全く動かなかった。レッドは情けない気持ちになり、あははと苦笑いをした。

「でも、悪いことではないんでしょう?」

 リオは首を傾げながら言った。きっと半分くらいしかよくわかっていないのだが、リオのその言葉は、それで良いと言ってもらえているようで安心した。

「ああ。悪くない」

 リオはにこっと笑った。レッドもつられて微笑んだ。そこでレッドは思い出したように胸ポケットから懐中時計を出して時間を見た。

「それは何?」

「時計だよ。今何時かを教えてくれる道具だ」

「何時って何?」

「時間のことだよ。時間はわかるか?」

「知ってる。今は朝ってことでしょ?」

「その通り。見てごらん」

 レッドは胸から垂れるチェーンを外し、懐中時計をリオに渡した。リオは不思議そうに時計を見つめていた。時計の針がチッチッと音を立てながら回っていく。年季の入った時計は傷だらけで、金色に光っていたであろう装飾は茶色くなって剥げている。レッドはそれが少し恥ずかしかった。

「ガジンとウイルとの待ち合わせの時間になったんだ。……そろそ帰らなくては」

 レッドは弓を持ち立ち上げると、馬の方へと歩いて行った。それに気付いたリオが立ち上がり、レッドを追いかけた。

「もう帰っちゃうの?」

「ああ。これから戦が始まる。あまり城を抜けることはできない」

「戦、知ってる。人間の殺し合いでしょう。レッドもやるの?」

「私はしないよ。私は弱いから、城の留守番だ」

「よかったあ。私、嫌よ。レッドが殺し合いなんて。レッドが弱くてよかった」

「……弱いことをよく言ってもらったのは初めてだ」

「ダメなこと?」

「褒めたことではないな。でも、嬉しいよ」

 レッドはリオの頭撫でた。リオはじっとレッドを見つめていた。

「また来る?いつ来る?」

「当分来れない。戦が長引けばもちろん来れないし、そうでなくても、戦が終わって国が落ち着かなくては難しいだろう」

「でも、いつかまた来る?」

「ああ。また来るよ」

 リオの顔は寂しそうで、時計を差し出しているが離しがたいような様子だった。

「その時計、よかったらリオが持っていて」

「いいの?」

「ああ。リオに預けておくよ。次来た時に新しいのを渡すから、それまで」

「新しいの、いらない!これがいい!」

「それが?」

 リオはブンブンと頭を上下に振った。きらきらした目でレッドを見つめた。

「わかった。リオにあげるよ。全く、服よりずっと欲しそうにして」

 わあっという声が聞こえてきそうな明るい顔を上げた。すっかり寂しそうな様子は消えていた。それが逆にレッドに寂しさを与えたが、リオの嬉しそうな姿を見ていたら、それはそれでいいような気がしてしまった。

「待ってるね。また来てね」

「ああ」

 リオは耳にかけられていた白い花を手に取り、レッドに伸ばした。レッドが身をかがめると、耳にその花を差し込まれた。リオは「きれい」と笑って言った。それが可愛いく思えた。

 リオとレッドが別れた頃、ガジンとウイルは林の入り口でレッドを待っていた。

「レッド王子のいう谷の友人とはどのような方なのでしょう」

「女性ではないか、とわしは思っておる」

「女性かあ。まあ、私も何となくそう思います。美しい方でしょうか」

「王子は悪くは思っていないのではないか?こうして早朝に城を抜け出してまで会いに行くのだし」

「その通りでしょう。はあ。身分違いの恋か」

「恋なのかはわからぬ。単純にご友人かもしれぬ」

「そうですねえ。はあ」

「…ああ。ウイル、今のはお前自身のつぶやきだな。わかってやれぬですまんな」

「なななな何のことです?!身分違いをわかっているのに、恋に悩むなどしておりませぬ」

「いろいろだだもれているぞ」

 「ゔっ」と真っ赤な顔のウイルが言葉に詰まった頃、霧の向こうからレッドがやって来た。3人は合流して、馬を走らせ城に戻って行った。

                ****

 城に戻ると、レッドの部屋にある椅子の上で猫のようにまるまって、死んだように静かに眠るチェンがいた。チェンは三日三晩休まずに大鹿の角を粉砕し尽くしたのである。それらを全て薬紙に包みきり、半分を自身の薬棚へ、半分をレッドに渡したのだった。

 レッドは静かに歩き、羽織っていた青いマントをチェンにかけてやった。チェンの寝る椅子の横には、レッドの小さな机があった。羽ペンとランプが並んでいる。その横に耳にかけていた白い花を置いた。

 次に鹿の角の弓を肩から外した。しばらく見つめると、後ろの大きな窓に振り返った。弓と弦を持つと大きく振りかぶり、弓を引きながら腕を下した。腕や肩、胸、腹、背中に力を入れ精一杯引くが、びくともしない。ただギシギシと音を立てる角がレッドの力に反発しているようだった。

 これ以上は引くことが難しいと感じたところで弦をはじいた。まるで琴の音のように柔らかく耳のそばで空気が震える音がした。弓を支えていた腕は弦の振動が直接伝わり、しばらくの間ビリビリとした。

 見れば、自身の腕や首、肩は、チェンの言うように細々しく、力をしっかり入れて立っていられる体の軸さえない。情けない。弓は、レッドの飾りでしかないように思えた。

「でも、悪いことではないんでしょう?」

 そう言うリオの顔を思い出した。それから、別れる時の笑った顔が浮かんだ。机の椅子に座り、白い花をもう一度手に取ると、頬杖をつきながら花をボーっと見つめていた。

「素敵な白いお花ですこと」

 チェンの低い声が聞こえて驚いた。チェンの方を見ると、マントの中から目を開けてレッドを見ていた。

「このマントと同じような、緑の香りがします。それから、女子の甘い香りも。朝から逢引きですか?隅におけませんなあ。ほっほっほ」

 聞けば聞くほどレッドは顔を真っ赤にした。

「いや、逢引きではない!可愛い友人だ。それだけだ。からかうな」

 チェンの「ほっほっほ」という声が恥ずかしさを膨らませた。思わず「チェン、黙ってくれ」と言ったが、チェンは余計に声を大きくした。

 その時、扉からノックの音が聞こえた。

「レッド王子、ウイルです。少しよろしいでしょうか」

 レッドは「入れ」と返事した。ウイルは扉を開けると一礼してレッド王子のそばまで寄って来た。

「予定が大変早くなりますが、バステアス王が本日の午後にもご出立されるそうです」

「出立は明朝と聞いていたが」

「はい。そのため、兵たち使用人たちが戦支度に追われている状況です」

「そうか」

 二人が話している横で、チェンが起き上がり、薬棚をしょい始めた。

「レッド王子、戦支度も大詰めとのことですので、わしはこれで失礼しますよ。わしほどの薬売りになりますとな、戦直前の場所をうろうろなどしておれば、帰れなくなるものです。ということで、誰にも会わぬよう、窓から失礼させていただきますよ」

「もう体はよいのか?」

「3時間も寝させていただければ、老人というのは十分睡眠したことになるのです」

「薬もそうだが、無気病の感染経路まで教えてもらい感謝する」

 レッドの部屋にある大きな机の上にはゴールド王国周辺の地図が広がっていた。そこにいくつもの矢印が赤で書かれている。それらは次第に地図の西へと集まるようになっていた。

「こちらこそ、主の角で薬を作らせていただいた上に、その薬をいただいては不平等です。感染経路を教えたところで、まだレッド王子にお返しが足りぬところです。今後も何かあればお申しつけくださりませ」

「ありがとう、チェン」

「では、ごきげんよう。ほっほっほ」

「お、お待ち下さいチェン様!ここは城の2階ですよ!」

 そういうウイルを無視して、チェンはレッドの後ろにある大きな窓を開けると、杖をふりふりして「では」と言って、とんと外に落ちていった。ウイルとレッドは窓の外に顔を出して、チェンが落ちた辺りを見た。すると、城を囲む塀の上をチェンが上手に歩いていた。

 チェンは塀の上を歩きながら、チラッと後ろを振り返った。レッドとウイルが窓から顔を出している。その上に、光る矢が窓に刺さっているのが見えた。ちょうど、レッドが鹿の角の弓を引いた辺りの高さだった。

「ほっほっほ」

 チェンの姿が見えなくなると、二人は窓を閉めた。

「驚きました。まさかあのようにお帰りになるとは……」

「チェンは昔もここから帰って行ったことがあったんだ。あれはどこでも歩ける仙人のような者だから」

「本当に仙人なのではないですか?」

「あはは。まさか」

 その時、突然部屋の扉が大きな音を立てて勢いよく開いた。振り返ると、ガジンが血相を変えて立っていた。

「どうした、ガジン」

「チェン様は!?」

「今しがた帰られました」

「何ですと!?」

 ガジンはチェンが飛び降りた窓へ走り、窓を開けた。するとガジンもそこから身を投げようとしたので、レッドとウイルはそのごつく硬い体を必死に抑え込んだ。

「チェン様を追いかけます!離してくだされ!!」

「やめておけ!大怪我するぞ!」

「止めないでください!チェン様を止めてください!!」

「何があったのですか?落ち着いてください」

「アリス様がご病気のようなのですが、何の病気かわからぬのです。チェン様でしたらすぐにお分かりになるでしょう」

「アリス様が!?」

 そう立ち上がったのはウイルだった。ウイルがガジンを支えていた手をすっかり放してしまったので、ガジンは本当に窓から落ちるところであった。態勢が崩れたのを何とかふんばって起き上がると、ようやく我に返ったウイルがはっとして、ガジンに振り返り「すみません!」と頭を下げた。ガジンとレッドは呆れて何も言えなかった。

「ウイル、一緒にアリスのところに行こうか」

「はい!……え、あ、はい」

 ウイルは顔を赤くして恥ずかしそうにしていた。レッドとガジンは、ウイルがそのようにしている理由をよく知っていた。ウイルはひた隠しているようだったが、明らかにレッドの妹、アリスに好意があった。恥ずかしがっている顔と、急ぎアリスの所へ行きたがっている体がバラバラと動いている。

 レッドはウイルの背を押しながら部屋の扉へ向かった。ガジンも2人を追って扉に向かう途中、机の上に広げられた地図を見た。ガジンには、その地図に見覚えがあった。しかし、どこで見た地図なのかを思い出せず、むむっと一人考えながら2人と共に部屋を後にした。

 アリスの部屋は3階の廊下の突き当たりにある。廊下を歩いていると、ブルートとムツジとすれ違った。

「兄上、おはようございます」

「おはよう。ブルート、ムツジ。アリスの見舞いか?」

「そりゃそうです。僕は実の兄ですから。兄上もですか?」

「ああ。これから向かうところだ」

「さようですか。まあ、我々が城を明ける間も、よくよく様子を見てやって下さい。アリスが嬉しいかどうかはわかりませんがね。では失礼します。戦支度がございますので」

「ああ」

 ブルートはレッドを鼻で笑って廊下を歩いて行った。

「嫌みばかり並べましたな」

「いつも通りで良いことだ」

 レッドはほんの少しだけ不愉快に思ったが、前ほど苦しくはなかった。それでも、気持ちのどこかに引っかかるものがあったので、胸一杯に空気を入れてふうっと吐いて、心を落ち着かせた。

「レッド王子、おはようございます」

 アリスの部屋の前でお辞儀をしたのは、女官のガーベルだった。ガーベルはガジンと同じくらいの歳で、背が小さく、服からのぞく肌はしわしわだったが、その手は腹の前で美しく揃っている。

「アリス様のお見舞いでいらっしゃいましたか。少々お待ち下さいませ」

 ガーベルはゆっくり振り返り、腹と胸を膨らませ、閉ざされた扉の向こうに向かって声を出した。

「アリス様、レッド様がお見えです」

 反応は全くなかった。しばらくして、「ウイル様もご一緒です」と言うと、部屋の中からガタンという音が聞こえた。ガーベルは「失礼します」と扉を開き、部屋の中へ3人を案内した。

 そこには、窓の前で椅子に腰掛け、外をぼんやり見つめているアリスがいた。アリスは部屋に入ってきた3人に何も反応しなかった。隣には白衣を着た主治医がいた。主治医は頭を下げた。

「アリスの見舞いに来たんだ。体調はどうだい?」

「このように外を眺めたり、ベットの中でボーッとしているばかりで…」

 ウイルはアリスの足下に膝をつき、見つめた。

「アリス様、ウイルでございます」

 すると、それまで無反応だったアリスがはっとしたような顔をしてゆっくりウイルに振り返った。アリスは無表情でいた。ウイルはアリスに優しく微笑み、膝の上にあるアリスの手に自身の手を重ねた。

「今朝、ガジンから聞いたのだが、どのような病かわからないと」

「…いいえ、わかっております。しかし、口外してはならないと、バステアス王から強く言われておりますので、言えぬのです」

「父上から?」

 その時、ウイルは目を合わすアリスの様子から察しがついた。アリスの目には力がなく、虚ろな表情だった。ただ、窓から入る光はアリスの輪郭を柔らかく包み、髪の一本一本がすっと歪みのない線を描いていた。頬も唇も赤みがある。

「レッド王子、私はわかりました」

「わかったとは?」

「聞いた話と同じ様子なのです。……アリス様は、初期段階の無気病ではないでしょうか」

 無気病とは西の国で流行っている病で、それはうつる病である。ウイルはじっとアリスを見つめていた。目が少し潤んでいる。冗談ではないようだった。

 レッドは主治医に振り返った。すると主治医は黙って頷いた。

「王子様、城下町の医者、近隣の街からの情報を集めましたが、この国ではまだ一人としてその病の患者はおりません。アリス姫は、この国最初の無気病患者です」

「そうか。だから父上は口外を禁じたのか」

「長居はご遠慮下さい。初期症状とはいえ、これは感染する病です。どうか、お引き取りを」

「薬はあるか?」

「今取り寄せているところです」

「実は薬屋のチェンから無気病の薬をつくってもらったものが手元にあるんだ。後で届けよう」

「それはありがたいことです」

 その時、ガジンがレッドに耳打ちした。胸元から懐中時計を出そうとした時、そこにあったはずの懐中時計は無く、今朝にリオに渡していたことを思い出した。

 ウイルとアリスを見ると、二人は仲睦まじく見つめ合っていた。レッドに見えるウイルの横顔は、とても離れがたそうな様子だった。

「ウイル、すまないが懐中時計を人に渡してしまったんだ。新しいものを調達してきてくれないか?今日中でいいから」

「レッド王子……。いえ、私は」

「今日中だ。よろしく頼む」

 レッドは立ち上がったウイルの胸に拳を軽く押し当てた。しばらく目を見合うと、ウイルは顔を真っ赤にして頭を下げた。その背中をポンと叩くと、レッドはガジンを連れてアリスの部屋を出た。

                ****

 その午後、日もまだ明るいうちに国王バステアスが先頭をきって城を出発した。レッドは城の門に設置された高台に立ち、戦に赴く兵士たちに手を振り見送った。

 甲冑を着た兵士たちが大勢で城を出ていく行列は、そのまま城下町を威風堂々と練り歩き、歓声を浴びながら遠く南東の地へと向かっていく。続いて2軍、3軍、そしてブルートが先頭に立って向かう軍隊が城を出て行った。その様子は3階のアリスの部屋からよく見ることができた。

 ブルートは城に振り返り、アリスの部屋の窓を見た。すると、椅子に座る無表情のアリスと、その横に立つウイルの姿が見え、思わず「ちっ」と舌打ちをした。それを横で聞いていたムツジが言った。

「ブルート王子、舌打ちが聞こえましたよ。お控えください」

「わかっている。ついやってしまっただけだ」

「悪い癖です。直してください。まあ、理由は察しますが」

「わかっているなら、いちいち突っ込むな」

「しかし、私にも努めがございますから」

「わかった、わかったから。それより、手はずは済んでいるな?」

 するとムツジが馬を近づけ、ブルートの耳元で小さく囁いた。

「いつも通り、薬売りのチェン様に報酬をお渡しした上、ブルート様の相手となります敵兵たちに毒をたんもりと盛っていただいております。また、人避けのまじないを道中にかけるための包みをいただきましたので、我々より先に向かった部下にまじないをかけるよう手はずをしています。ですから、今回も十分に準備をした上で、手薄な敵との戦となりましょう」

「ならば良い」

 ブルートは満足げに背筋を伸ばし、胸を張って馬を前に進めた。ブルートは半分呆れた顔をしてその後をついていく。

 城の大広間へ通じる廊下には、横に橋が伸びている。それを渡った先にある城の別塔は書庫となっており、ありとあらゆる本が所蔵されている。書棚は規則正しく立ち並び、その中心に長机が置かれている。何十人もが並んで座れるように椅子も併せて置かれている。城側の壁には、ゴールド王国の歴代の王の肖像画、国の歴史や領土拡大のための進軍経路図等が小さく飾られている。しかし、バステアス王の進軍以降の地図だけが大きく、矢印がいくつも書かれ、制圧された都市や、そのために滅んだ国にその名を記した名札のついた針が刺さっている状態で壁一面に飾られていた。

 ガジンはその地図をあご髭を触りながらまじまじと見つめて立っていた。

「どうした、ガジン」

 そこに兵士の出陣を見届けたレッドが来た。ガジンはレッドに頭を下げた。

「レッド様の部屋の地図ですが、何か見覚えのある地図だと思っていたのです」

「チェンに教えてもらった無気病の感染経路図が?」

「はい。やはり、この地図と似ているのです。バステアス王進軍経路図と」

 レッドはガジンの横に立つと、じっとその大きな地図を見た。地図は、元々あった小さなゴールド王国から北に一つ矢印が進むと、それが二股に分かれる。一つは西へ向かって小さな矢印と名札付きの針をいくつも重ねて進んでおり、西の国ヨルチェルトを記す針で矢印が止まっている。もう一つは北から東へ2つの矢印がゴールド王国から外に向かって書かれているだけであった。矢印の一つは北東の国ラヴェラを記す針に向かっているが、もう一つの矢印はその先に何も記載がない。その矢印の向こうには、森を表す地図記号だけが多く記されている。南へはゴールド王国から矢印が一つだけマイアという国へとまっすぐと向かっている。

 その後、レッドは部屋から地図を持ってくると、進軍経路図の前で両端を持ち広げた。無気病の感染経路は、進軍経路図の西に向かう矢印と同じように描かれていた。

「やはり、類似するところが多く見られますな」

「ああ。無気病の広がる西の地域で、治安悪化が問題になっている地域はヨルチェルトの手前にある町だ」

「ヨルチェルトの手前の町は、シェダールですな。進軍経路図で見れば、ヨルチェルト進軍の前に占領した町です」

「……もしも、進軍経路図のように感染が広がるならば、西の次は東……」

 二人は地図をみながら想像した。西から無気病の風が東へやってくる。それはゴールド王国を横断し、東から南へと向かっていく。国の首都、レッドたちのいる城を無気病の風が覆う。国は無気病の患者で溢れ、機能を失い、王を失う。それはとても恐ろしいことだった。

「試しにチェンが教えてくれた感染経路と年代、それに合わせて進軍経路と年代を比較してみよう。戦が始まるまでには年代だけでも調べよう」

「承知しました」

                 ****

 日も暮れ、外はすっかり暗くなった頃、レッドは一人書庫にいた。進軍経路図の前で本を開いていた。すると、静かな書庫にカツカツと足音が響いた。顔を上げると、ランプを持ったウイルがやって来た。

「お疲れ様でございます」

「ウイル、戻ったか」

「はい。レッド王子にこれを」

 ウイルはレッドに新しい懐中時計を渡した。銀色の懐中時計の蓋にはゴールド王国の国旗のシンボルが記されている。その一筋一筋がランプの灯りでキラッと光る。

「ありがとう。アリスの様子はどうだ」

「先程お眠りになりました。ずっとここを掴まれていたので身動きが取れなかったのです」

 ウイルは袖口を指しながら言った。ウイルの微笑んだ顔は嬉しそうであり、恥ずかしそうであった。

「そうか。ありがとう側にいてやってくれて」

「いいえ。私はレッド王子の側近です。お側で使えるべきは、レッド王子なのです。それを私は怠りました」

「ウイルはちゃんと、頼んでいた懐中時計を今日中に持ってきてくれたではないか。十分だよ」

 レッドは懐中時計をウイルに向けた。ウイルは申し訳なさそうな顔をして俯いた。ウイルは何か言いたげなのだが、言い出せないような様子だった。レッドにはそれが何かは察しがついた。

「私とお前は、小さい頃から一緒に育ってきたから、癖も、今何を考えてるかだってわかるのだ。ひた隠していることだって。……アリスを好いてくれているのだろう?隠してはいるが表面にだだ漏れなんだよ。ガジンだって知っている」

 ウイルは途端に顔を赤くした。

「いや、ちがっ……!えと……、その……」

 ウイルの体がバラバラと動いている。腰はくいくいと左右に曲がり、腕は上がったり下がったり、顔を触ったり、頭の後ろをさすったりしている。真っ赤な顔は、口も目も眉もぐりぐりと動く。いつもの冷静なウイルとは違い、それがかなりおかしくて、レッドは思わずクスクスと笑った。

「ほら、表面に現れてる。落ち着いてくれ」

 ウイルははっとして、真っ赤な顔で恥ずかしそうに俯いた。レッドは椅子を引き、そこにウイルに座るように手で指した。ウイルは正直に従った。

「アリスは、私には見せない顔をお前にはするのかな。私は、ブルートとアリスとは母が違う。分かり合えるところより、そうでないところの方が多いかもしれない。それに嫌われているから、あまり可愛らしいところを見たことがない」

「それは違いますよ」

 ウイルは顔を上げ、レッドに微笑んだ。

「アリス様と同じことをおっしゃるので驚きました。やはり兄妹ですね」

「同じこと?」

「覚えてますか?剣の稽古をしていた時に、アリス様が剣舞の練習だと勘違いされたこと」

 それは、レッドが城の中庭でガジンに剣の稽古をつけてもらっている時だった。ちょうど初陣から半年が経った頃だった。レッドが受けた背中の傷がようやく塞がったものの、まだヒリヒリとしていた。それが悔しさや苦しさに直結した。毎日毎日、時間に追われ、痛みは胸を締め付けた。レッドは自分で気づいてはいなかったが、その頃のレッドはいつも眉間にしわをよせ、しかめっ面でいた。

 その頃、ウイルは失った右手の小指の根がかゆく、体の後ろで左の人差し指でその根をかく癖があった。レッドの稽古をそばで見ていた時、中庭を見渡す通路を通りかかったアリスが足を止め、じっとレッドを見つめていることにウイルはすぐに気づいた。

「今日はこれまでとしましょう、レッド王子」

「ああ。ありがとう、ガジン」

 二人は剣を低く持つと、互いに頭を下げた。レッドはウイルから受け取った布で顔から頭、首の汗を拭う。上げた顔には、疲れと苦しさが表れていた。

「まだ戦に出るおつもりなのかしら」

 アリスは小さく呟いた。その時、レッドは視界の端でアリスに気づいた。

「アリス」

 レッドは頭を下げ会釈するアリスの方へ近寄った。

「何か用かい?」

「いいえ。その……」

 アリスはレッドから目をそらしたが、何かを言いたげにしていた。レッドは久々にアリスと言葉をかわせたことが、少しだけ嬉しかった。しかし、アリスは顔を上げ微笑むと、思わぬことを言った。

「私、お兄様の剣舞は好きですわ。剣先の鋭さや、動きの滑らかさ。お兄様の剣舞は、いつ見ても美しいですものね」

「え、剣舞?」

「勇ましい甲冑よりお似合いですわ」

 レッドにとって、それは大変ショックな言葉だった。返す言葉が出てこない。アリスには、剣の稽古が剣舞の稽古に見えていたのだろうか。それとも、戦場で役立たずだった不甲斐ない兄への嫌みか。あまりの悔しさから背中の塞がったはずの傷が今にも裂けるのではないかと思えた。胸が苦しい。アリスの言葉を全否定してやりたい。しかしアリスを傷つけたくはない。

 レッドは居ても立っても居られず、その場から走り去った。

「レッド王子!」

 ウイルはレッドの後を追おうとしたが、通路を覗くと、レッドはすでにずっと向こうに走って行ってしまっていた。

「アリス様、今の言葉はあんまりです」

「どうしてお兄様はあんな顔をしたの?私、ほめただけよ」

「いや、何もほめてないですよ」

「ほめたわ。剣舞が好きと。綺麗と」

「アリス様、レッド王子は剣舞の稽古ではございません。剣の稽古をしていたのです」

「そんなこと承知しているわ」

「はい?」

 そこでアリスははっとした。両手で小さな口を覆った。

「ああ、失敗したわ。言葉が足りなかった。お兄様は、私が剣の稽古を剣舞の稽古と勘違いしていると思ったのね」

「違うのですか?」

 アリスはうんと頷いた。次第に目がうるうるとしてきたのでウイルは驚いた。

「また嫌われたかもしれない。お兄様は、私がお嫌いでしょう」

 いよいよぽろぽろと涙が落ち始めた。くすんくすんと小さな泣き声がする。ウイルは慌ててアリスの涙を拭った。

 それから二人は中庭で話をした。

「お兄様はお優しくて、穏やかで、戦や争い事はお嫌いでしょう。わかってるつもりよ。私もそうだもの。お父様や、ブルート兄様のように、止まぬ嵐のように、火のように、戦ばかりは嫌。だって争いがなければ、レッドお兄様のお母様も、私とブルート兄様のお母様も、きっと今だって生きていらっしゃったかもしれないもの」

 アリスは俯いて、声の響く中庭で静かに言った。

「争いは寂しさしかくれない。だから嫌い。剣のお稽古なんていらないわ。剣舞の稽古をすればいい。皆そうであればいい。そしたら、世界はとても美しくて、平和だわ」

 中庭を抜けていく風がアリスの言葉を包んだ。切なく笑う顔は、まるで子供の表情ではなかった。大人びていて、思考を重ねてきた時間を思わせた。誰にも聞かれぬように、しかし言葉にして吐き出して、優しい誰かの耳に入ればいい。そんな小さな思いが見えるようだった。

 アリスはよくわかっていた。そう思うことが、この城の中では悪であることを。それが常識にはならないこと、認めてもらえないことを。くすんくすんと小さく泣きだし、ぽろぽろと落ちる涙を小さな手で拭っている。

 ウイルは思った。こうしていつも一人静かに涙しているのかもしれない。誰にも気づかれないように。知られないように。

「アリス様は、レッド王子がお嫌いですか?」

「いいえ。でも、レッドお兄様は私のことがお嫌いでしょう。あなたにはよくわからるのかもしれないけれど。きっと、私と接する時とは違うお顔をするのでしょう。私はそれを知り得ないけれど……」

「では知るべきです。レッド王子も、あなたも」

「その機会はあるのかしら。この城で、心の話をする日など、来るのかしら」

「行動してみなくてはわかりません。私もお力になります」

 アリスは目尻を赤くしてウイルを見つめた。その時、アリスは嬉しそうに笑った。その笑顔が日の下で優しい光をふんわりまとったように明るく見えた。

 去り際に頭を下げたウイルの右手を、アリスはそっと手に取った。

「お願い。お話したことは、レッドお兄様には内緒にして」

「なぜですか?」

「いつか、このお城で本当の心を話せる時がきたら、その時、私からお兄様にお話したいの。私は、いつかを叶えたい」

「アリス様」

「お兄様のことを、どうかお願いします。いつも側で見守ってあげて下さい」

「もちろんです」

「ありがとう。もしも、ウイルが誰かの力を必要とした時は私がなるわ。私が、ウイルの右手の小指になる。何でも言って」

 アリスはウイルの右手を両手で包み、胸の前でぎゅうっと握った。アリスの手は小さく、柔らかかった。なぜか小指の付け根がむずむずとかゆくなった。いつものかゆさと違うかゆさだった。

 ウイルはアリスのくりんとした大きな青い瞳から目を離せなかった。口は開いたままで、そこから言葉は出てこない。

 アリスは微笑んでからその手を離し、とととっと小さな足音を通路に響かせながら帰っていった。日差しがアリスの金色の髪をキラキラとさせている。ドレスがふわふわ揺れている。しばらくすると立ち止まり、ウイルに振り返った。アリスは笑って手を振った。その時の光景を、ウイルはずっと胸の奥に大切にしまっていた。

 ウイルの話は、レッドには想像もつかないことだった。ウイルの言うアリスの一言一言が、まるで知らない人の言葉のように思えた。

「内緒にしてほしいという約束を破ってしまいました。しかし、私には秘めるべきこととは思えません。アリス様のお心をレッド王子が知ることには、意味があると思えるのです」

「……まだ信じられん。アリスがそんな風に思っていたなんて」

 レッドは大鹿様と対峙した時に見た、灰色の風景の中にいたアリスの姿を思い出した。あれこそが、レッドにとってのアリスだった。それが、もしかしたら違うのかもしれない。アリスには、この城の中で見せてはいけない本当の心の姿があったのだ。

「無気病から回復したら、きっとアリスと話をしよう。その時は、ウイルも同席してくれ」

「いえ、どうぞお二人で」

「いやいや。突然二人きりでは、お互いにどのような距離感がいいかわからなくなるから」

 ウイルはぷっと笑って「はい」と言った。アリスのことを考えるウイルは穏やかで、優しい雰囲気になる。特別な存在がある、というのはそういうものかと思った。

「ウイル、アリスのどこを好きになったんだい?」

「えぇっ⁉」

「どうなんだい?」

「レ、レッド王子、それより戻りましょう!私はレッド王子をお迎えに来たのです!夜になれば書庫は冷えてきます。さあさあ!」

 ウイルは立ち上がり、ランプを両手に持つとその場を離れた。机上の本は影を増し、文字は見えにくくなった。

「おい、ウイル!暗いじゃないか!」

「早く行きましょう」

 ウイルはレッドを待ちながらゆっくり離れていく。レッドはウイルを追いかけて書庫を後にした。

                 ****

 星が光る頃、軍隊は闇深い野原にテントを構えていた。一番大きなテントの中にはバステアス王がいた。その中は無数のランプが柱や地面に置かれているため、とても明るかった。バステアス王は、奥に置かれた大きな椅子にもたれかかり、足を大きく開いている。左腕は背もたれにかけられ、右手は地面に突き刺した大きな刃の愛剣を硬く握っていた。勇ましく堂々としている姿に見えるが、その左手は、背もたれの影でふるふると小刻みに震えていた。

「まだ開戦前です。そう不安にならずとも良いのですよ」

 それは背後から聞こえた。震えている左手を取り、囁いたのは魔術師ハビカスだった。バステアス王は握っていた剣をハビカスに突き刺したが、剣はテントを突き破っただけだった。ハビカスは、既にバステアス王の前に立っていた。

「そう簡単に手を下すものではありません。私を失い、どのように龍の国の歌姫を探すおつもりですか」

「黙れ、ハビカス。お前は黙ってお前の役割を果たせ」

「ヒヒヒヒ。おうせのままに」

 ハビカスは頭を下げると、影が光に溶けるように消えた。バステアス王の前から消えたハビカスは、空の上に黒い影が集まるように現れた。空中に立つと、胸元から杖と袋を取り出した。袋の紐を引くと、中には光る粉が詰まっており、そこに息をふうっと吹きかけた。すると粉は星々の光を浴びてキラキラと輝きながら、風に乗って四方八方に飛んでいった。次に杖を空高く上げると、何かをかき混ぜるようにぐるんぐるんと回しだした。

「探せよ探せよ。世界の奥に眠る空の賢者の住まう場所を。教えよ教えよ。その命与えられし少女の在りかを。聞かせよ聞かせよ。歌姫の声を」

 その粉はずっとずっと遠くまで帯状になって流れていった。粉は静かに地上に落ち、風に運ばれた。それは龍の国の谷へも入った。そこには、銀の龍カカとその足元ですやすや眠るリオがいた。

 リオはレッドからもらった緑色のドレスを体にかけて眠っていた。その胸元には、レッドの懐中時計があった。静かな谷に、懐中時計が時を刻む音がチッチッと響いていた。

 


 


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