第2話 レッドの意思

「レッド王子のご帰還じゃ!」

 その日、城の中は慌ただしくなった。レッドが門をくぐり、馬のゆったりとした歩みで城へ続く石畳の橋を渡っていく。そこに向かって城の使用人たちが集まった。「お帰りなさい」という言葉がたくさん飛び交い、レッドも「ただいま」と何度も言った。

「王子、王子!」

 叫びながら走って来たのはガジンとウイルだった。ガジンは涙目で、その太い腕を大きく広げて向かってきた。

「ガジン、ウイル!」

 レッドが馬を降りると、走ってきた勢いのままガジンが突進し抱擁した。とても暑苦しく、力強すぎて痛かった。しかしガジンが「レッド王子じゃ!帰ってきて下さった!」と泣きながら繰り返していたので、その気持ちをはねのけることはできなかった。そもそもその腕の力をほどけそうになかった。

「ただいま。ただいまガジン」

「レッド王子、よくご無事で」

「ウイル……。ただいま」

「お会いできて嬉しく思います。林ではぐれてからずっと、毎日毎日探しに向かって…。でも、見つけられなくて……。私は、私は」

「よい。こうして私は帰ってきたのだ。そう自分を責めないでくれ。ウイル」

「王子……」

「そうだ。これを」

 ガジンはずぶずぶに濡れた顔を上げて、ようやく腕を離してくれた。レッドは背中にしょってきた大鹿の角を差し出した。

「ああ、これは」

「そうだ。あの時の大鹿の角だ。すまない。首は手に入れられなかったのだが、角だけは持ち帰ってこれた」

「こうして改めて見ても、立派な鹿だったのですな」

「ああ。とても立派なだった」

でございますか?」

「そういえば、お召しになっているものが違いますね」

「そうなのだ。お前たちとはぐれてから世話になった者たちがいて、その者たちからいろいろともらってしまった」

「上等なマントですな。青く、とても美しい」

「レッド王子は赤もお似合いですが、青はお優しいレッド様の雰囲気と合っていて、よくお似合いですよ」

「それは嬉しい」

 レッドが集まった皆と橋を歩いているところを、城の最上階の部屋から見つめていたのは国王バステアスと、弟ブルートだった。

「レッドが帰ってきたのだな」

「そのようです。父上」

「どこぞで野垂死んだかと思っていたがな。帰ってきたところで、あいつは使い物にならない」

「次の戦はいかがするおつもりですか?」

「お前だけ連れていく」

「はい!」

 ブルートがその部屋の扉を開けると、目の前に黒いマントを羽織る小さな男が立っていた。顔は深々と被るフードに隠れている。とても不気味で、ブルートは思わずたじろいだ。

「いやあ、どうも王子様。ごきげん麗しう」

 その声は男のものではあるが、低くもなく高くもない上、感情の見えない声だった。それがまた不気味で不信感しか持てない。ブルートは無視して扉を開き、バステアス王を通した。

「いやあ、どうも国王様。ごきげん麗しう」

 バステアス王が黒いマントの男をじろっと睨むと、男は「ヒヒヒヒ」と嫌な笑い声を出して後ろをついて歩いて行った。それが尚更気味が悪い。

 廊下には、ブルートの側近のムツジが立っていた。年は同い年の少年であった。

「あの怪しげな奴、最近父上の周りをうろついているな。何者だ」

「魔術師と伺いました」

「魔術師?あの父上が魔術師を連れているとは不可解な……」

「確かに。そういうたぐいのものを信じない方だと思っていましたが」

「ああ……」

 ブルートとムツジは、前を行くバステアス王とマントの男が歩いていく方へとついて行った。向かった先は、城の大広間である。

 そこは大きな窓から光が差す一番明るい場所のはずだが、光が入っても中はどうしても薄暗かった。高い天井から下がる豪勢なシャンデリアが、昼の日差しできらきらと光っている。窓と窓の間には、大きな鎧が剣を握り立っている。窓にくくりつけられたカーテンや、奥に一つある金の王座から真っすぐに伸びる絨毯は共に深紅で、淵が金色の糸で刺繡されている。

 鎧が構える深紅に彩られた大広間が、戦好きと称されるバステアス王らしいと感じるレッドは、その大広間が城の中で最も嫌いだった。さっさと抜けようと早足で歩いていると、奥の通路からバステアス王とブルートがやって来た。レッドと一緒に歩いて来た使用人たちは脇に整列し、頭を下げた。レッドとガジン、ウイルは、レッドを先頭に膝をつき、頭を下げた。

「父上、ただ今戻りました」

 バステアス王はレッドの前で立ち止まると、腰の剣を抜き、レッドの首寸前まで振り下ろした。ヒュンという音が耳元で聞こえたが、レッドはじっとそのままでいた。後ろで構えていたガジンとウイルの方がビクッと立ち上がってしまった。すぐに二人はしゃがみ込み、頭を下げた。

「長い狩りだったな。もうお前は戻らないと思っていた」

「申し訳ございません。大鹿を仕留めたのですが、帰りの道すがらでその首を失いました」

「バステアス王よ、レッド王子の仕留めた大鹿というのは、とても立派なもので」

「ガジン、それ以上はよい。首はないのだ」

「しかし角がっ」

「よいと言っている」

 振り返ったレッドは微笑んでいた。ガジンはもちろん、ウイルも、レッドの青いマントの下に大鹿の角があることは承知していた。しかし、レッドはそれを隠すようにして言った。ガジンは「失礼しました」と頭を下げた。

「首がないなら、仕留めたところで無駄であったな。お前はその程度だ」

「返す言葉もございません……」

「5日後には城を出る。お前は城を守れ」

「また、戦でございますか?次はどこへ」

「兄上、あなたには関係のないことだ。それ以上はお控え願います」

「ブルート、お前は行くのか?」

「ええ、もちろん」

 バステアス王の後ろにいたブルートが前に出てくると、胸を張って、見下すように笑って言った。ガジンとウイルが言葉を返そうとしているのがわかって、レッドは右腕を横に伸ばして静止させた。

「お二人とも、ご無事でのお戻りをお待ちしております」

 バステアス王は剣を収め、マントを翻して引き返した。ブルートはしばらく嫌味にニタニタ笑ってやってからバステアス王の後ろを追って行った。

 二人の影が大広間から消えると、レッドはふうっとため息をついた。そこでとうとうガジンとウイルが立ち上がり、その怒りを吐き出した。

「どうして止めるのです!あそこは言ってよいところですぞ、レッド王子!」

「そうです。言われっぱなしは悔しいではないですか!」

「二人ともよさぬか。あれは、あの二人にとっては正論なのだ。それを私一人否定してもどうしようもない。それに、やはり私は戦に行っても役立たずであろうしな」

「そんな、レッド王子……」

「いいのだ。今はそれで」

 レッドが立ち上がると、突然目の前に首を伸ばして立つ黒いマントの男が現れた。驚いて言葉も出ずにいると、マントの男はじいっとレッドの顔を覗き込み、それからぐるぐるとレッドの体中を見回した。

「何だ、お前はっ」

「レッド王子、ごきげん麗しう。私は魔術師、ハビカス。国王様に雇われました。以後、お見知りおきを」

「父上が雇った……魔術師?」

「さようでございます。お宝を探すには、私の腕は大変お役に立つようです」

「お宝?どのような」

「ヒヒヒヒ。それは国王に直接伺われるのがよろしいかと思いますよ。しかし、どうしてでしょう。あなた様からは、そのお宝の匂いがぷんぷんと、もうぷんぷんと致します」

 ハビカスと名乗る魔術師は鼻をすんすんと鳴らしながら、レッドの体の周りを嗅いで回った。

「純粋な緑、清らかな水、穏やかな風。それから、聖なる獣の……匂いがします」

 ハビカスがレッドの背中をすんすんとしてから、顔を上げ、視点の合っていない濁る金色の目玉をぎょろっと大きく開いてレッドの顔を覗き込んだ。レッドはとっさに、ハビカスが言う「聖なる獣」が大鹿の角のことを指しているのではないかと思い、マントの裾で身を隠した。

 この者に大鹿の角や龍の国のことを悟らせれてはいけない。そう感じさせる異様な不気味さがあった。

「近寄るな」

「おおっと、失礼失礼。ごめんあそばせ。ヒヒヒヒ」

 ハビカスは2、3歩後ろに引いてから、レッドの体をじいっと見ていた。まるでマントの後ろが透けて見えているのではないかと思える視線だった。

「去りたまえ。魔術師」

「おおせのままに。王子様」

 深々とフードを被る頭を下げると、ハビカスの姿は影が光に溶けるように消えた。レッドは胸の奥に嫌な気持ち悪さを残した。ふうっと息を吐き出して、何とか紛らわせようとした。そこにガジンとウイルが近寄って来た。

「あれは何だったのでしょう。魔術師など、この城にいたのですね」

「あの父上が魔術士を連れているなんて、腑に落ちない」

「何かあるのでしょうか」

「……あの魔術士には見覚えがございます」

 ガジンが神妙な面持ちで言った。

「まだ王子が生まれる前の頃でしょうか。まだ小さかったゴールド国の西にある町を制圧した時です。みずぼらしい恰好で立っていた男が、あのように不気味に笑ってバステアス王の前に立っていたのです」

 それは、バステアス王もガジンも今より若く、バステアス王が領土を広げようとし始めていた頃のことであった。その西の町は金銀の発掘される鉱山のある町だったが、度重なる略奪や戦により、町も人の心も荒れ、治安も悪く、家らしい家を持つこともできず、人々の生活はまるで獣のような状態になっていた。

 その町を堂々と馬や兵を率いて歩く若きバステアス王の前に、一人の小さな男が

立った。色あせたボロボロのフードのマントに身を隠し、身丈ほどの杖を持って立つその姿は、いかにも胡散臭い魔術師であった。その男が言った。

「あなた様は、全ての国を武力を持って支配できるお力をお持ちの偉大な君主である。だが、決して全ては手に入らない」

 すると、兵士たちが男を捕らえ、道の脇へと連れていくと、地面に体を押さえつけた。それでも男は言い続けた。

「あなたはいづれ知ることになる。その命の限りを。己の限界を!ヒヒヒヒ」

 バステアス王は知らんふりをして、取り押さえられている男の前を通り過ぎた。ガジンは男を横目にしながら、バステアス王の後ろをついて行く。

「しかし、求めれば手に入りましょう。永遠の時を!」

 それが、ガジンが覚えている最初の時であった。

「次にあの男を見たのは、私が幾年ぶりかにバステアス王と共に参戦した戦の時でございます。その時、馬にまたがるバステアス王の足元にすでにあの魔術師がおりました。その後、私はレッド王子の指南役となり、戦から身を引きましたから、その時を最後にあの魔術師に会うことはございませんでした。しかし、まさかここで再会することになるとは……」

「ということは、あの魔術師との繋がりは最近のことではないということだな」

「そのように記憶しております」

「父上が魔術師を……。何かあるのだろうか」

「レッド王子、角をお持ちでしょう。バステアス王や魔術師にもお隠しになっておりましたね」

「ああ。何となく、父上にもあの魔術師にも秘密にしておきたくなったのだ。これは私にとって特別なものだから」

 レッドは微笑んでいた。その表情は林ではぐれる前とは違う穏やかさを持っていた。

「王子、よい出会いがあったのですね」

「そうなのだ。二人には話したいことがたくさんあるのだ」

 そう話すレッドは、まるで子どものように明るく楽し気な声だった。城の中、外にしても、レッドがそのように話すことはなかったので、ガジンとウイルは驚いた。同時に、嬉しくもあった。

「聞いてくれるか?」

「もちろんですとも」

「ぜひ、お聞かせ下さい」

 そうして3人は大広間を後にした。

                   ****

 城は5日後の戦支度でいろいろな人が出入りしていた。城中に足音と武器や甲冑の擦れる音が響いた。

 その日の夕方に城の門を最後にくぐってやって来たのは、薬売りのチェンだった。何十年、いや何百年生きているのかわからないようなしわくちゃの小柄なおじいさんであったが、足腰が強く、大きな声で愉快に話す元気で明るい人であった。体と同じくらいあろう大きさの薬棚をしょって、杖をカツンカツンと鳴らしながら城を歩けば、すれ違う使用人たちが「おかえりなさい」と声をかけた。チェンは片手をふりふりしながら「やあやあ、ごきげんよう」などと陽気に挨拶した。

 大広間の深紅のカーテンは夕焼け空を隠し、火の灯ったシャンデリアが大広間を照らした。その下を慌ただしく走る兵士や使用人、本を大量に積み重ねて持ち歩く者がせわしなく動いていた。そこでチェンを迎えたのはブルートの側近ムツジである。

「チェン様、こちらです」

「おやムツジじゃな。また背丈が伸びたようじゃ」

「私はまだまだ伸びますよ」

「それをブルート王子の前で言うてみ」

「それは気の毒なのでやめときます」

「ほっほっほ」

 二人は大広間から伸びる廊下へ、そしてその先にある武器庫へと歩いて行った。その途中、偶然にもレッドとウイルが反対側から歩いてきた。レッドはカツンカツンという聞きなれた音で、ムツジの後ろにチェンが隠れていることがわかった。再会が嬉しく、「チェン!」と呼びかけた。

「ああ、レッド王子。ごきげんよう」

 杖だけをふりふりさせているチェンに近づくと、レッドは腕を大きく広げてチェンを抱きしめた。

「久しいな、チェン。会えて嬉しいぞ」

「ほっほっほ。相変わらず細っちい腕ですこと。まだまだ、わしの方が腕っぷしがあるようじゃ」

「相変わらずはお前だ。元気で何よりだ」

 チェンは「ほっほっほ」と笑った。その時、「ほ?」と何かに気付いた。チェンは、まるで魔術師と同じようにレッドの体を回って見ていた。

「王子、薬の匂いがしますぞ。それも重厚で繊細、まるで神獣が爪のような匂い。何ですか?何を隠されている?ん?んん?」

「あ……、いや。今日の昼間に狩りから帰ってきたのだ。もしかしたら何か森のなごり香でもあったのかも」

 そこでムツジがぽろっと「それも4日かけての狩りです。獲物もしとめずにね」などとそっぽを向いて呟いた。するとチェンが大笑いした。

「何をごまかされている。獲ったのでしょう。わかりますわい。わしの鼻は犬以上に良いのですぞ。お忘れか」

「いやいや…」

「気になる。気になりますぞ。何です?この気配は…」

「チェン様、武器庫にて薬の仕度を兵士たちが待っております。参りましょう」

 ムツジがチェンの背中を叩いて前に進ませた。「ああん、王子!」とチェンは叫びながら、しかし前に押し進められて離れて行った。レッドは遠くなるチェンに向かって「また部屋に遊びに来てくれ」と手を振った。

「さすがチェン様。すごいお人です」

「わかる者にはわかってしまうのだな。匂いなど……」

 すんすんと自分の衣類の匂いをかいだが、よくわからなかった。ただ、マントや服からは、ほんのりと龍の谷の花の香りがした。

 武器庫では、戦準備のために兵士が何人も行きかっていた。その一角にムツジと兵士、チェンがいた。

「チェン様、今回の戦は南東の方にある国境での戦です。ここを突破すれば、弓より早く走る王の足が、その国を駆け、制圧するでしょう。少しばかり遠い場所での戦なので、どのような薬も十分に揃えておきたいのです」

「なるほど。それは長期の戦になりそうじゃな」

 チェンはしょっていた薬棚からぽんぽんと薬袋を取り出し並べた。薬棚の中からは、無限に薬が出てくるのではないかと思えるほど山のような薬が、ムツジと兵士の前に揃えられた。

「これくらいありゃ、切り傷、毒、火傷諸々の傷の対処はできるだろう。さて、お代はどこかな?」

「ここに」

 ムツジはじゃらじゃらと音がする金貨の入った袋をチェンに手渡した。それを耳元で揺らし、中に何が入っているのかを確かめるように音を聞いている。袋には、金貨に紛れて青い宝石が1つ入っていた。チェンはその音を聞いていた。

「お約束通り、確かにいただきましたぞ」

「よろしく頼む」

「はいはい。ではまた」

 チェンはさっさと荷をまとめ始め、薬棚をしょいこんだ。

「随分お急ぎのようだな」

「ほっほっほ。いつものことであろう。じゃあな」

 チェンは杖をカツンと鳴らすと、慣れた足取りで武器庫を出ていった。武器庫にはしばらくチェンの杖の音が聞こえ、それが徐々に消えていった。

 ムツジは兵士に薬を運ぶよう指示した。薬の山はどんどん小さくなる。その山の中に、赤い糸で閉じられた四角い包みがあった。ムツジはそれをさりげなく手に取り、胸の中にしまうと武器庫を出ていった。

 武器庫を出たチェンは長い廊下を歩いていく。しばらくすると、左脇に階段が見えた。それをカツンカツンと音を立てながら登っていく。そして2階の真っ赤な絨毯のひかれた廊下を歩いていくと、ある部屋の前で立ち止まり、その扉を杖で叩いた。扉が開くと、ガジンとウイルがチェンを出迎えた。部屋の中央にある机の奥にレッドが座っている。

「レッド王子、ごきげんよう」

「来てくれて嬉しいぞ。聞いてほしいことがあったんだ。忙しいところ申し訳ないが、少しよろしいか?」

「わしはこれが気になってしょうがなかったのじゃよ。ささ、早速」

 チェンは薬棚を降ろすとその上に座り、部屋の中央の机の上をじいっと見た。レッドは大鹿の角と青いマント、それから腰に下げていた小袋から、木の葉ほどの大きさの銀の龍の鱗を出して並べた。チェンは前のめりになり、見開いた目をきらきらさせた。

「なんと、これは素晴らしい!輝いておる。どれも甲乙つけがたく、人の手には余るものばかりじゃ!」

「あと、これだ」

 レッドは左手の手のひらを見せた。そこには、龍の谷の夜空から落ちてきた赤いひし形の宝石が埋まっていた。ガジン、ウイル、チェンがぐっと首を伸ばし、手のひらを覗き込んだが、ガジンとウイルは顔を合わせると首を傾げた。

「王子、これとは何でしょう?」

「あるではないか。手のひらに、埋まるように」

「何も見えません」

「……これは、森羅万象の世界において、その頂点に立つ力の結晶。腕のいい魔術師か、目の肥えた薬売りにしか見えますまい」

「チェンには見えてるのか?」

「もちろん。美しい赤い宝石ですぞ」

「はあ……」

 ガジンとウイルは見えないものを見ようと、眉間に力を入れいる。チェンは宝石を見るような眼差しでいた。

「レッド王子、これはどのようにして手に入れられたのですか?」

「手に入れたというと物々しい。託されたのだ。この角の持ち主に」

「なんと!」

 チェンが声を張った。ガジンとウイルはよくわかっていない様子である。

「では、この角の持ち主は、神羅万象のぬしだったのじゃな。それでこの重厚な気配がしたのか」

「チェンよ。もうちと分かりやすく言うてくれ。わしは何もわからないのだが。王子と狩をした時も、それは立派な鹿であったことしか覚えておらず」

「私もです」

「ガジン、ウイルよ。その鹿は、この国よりさらに広く緑の中に生きていた王じゃよ。それは人知を越えた力を持ち、森羅万象、偉大な自然界を治めし者。主とは本来、その身を自然界に隠しているから、人の前になど出て来ないんじゃよ。それが現れたこと自体、大変な幸運なのです。しかも、それを仕留められたなど……。相当な強い意思がなければできないことです」

 チェンは指先で一度ちょんと触ると身震いして、それ以上は何もしなかった。

「彼は怒っていた。私が中途半端な気持ちでいることを」

「彼とは?」

 よくわかっていない、という様子でガジンが言った。

「大鹿様だ。そう呼ばれていた」

「誰に?」

「このマントをくれた者だ。美しい谷だった」

 すると、上を向いて何か思い出そうとしているウイルが言った。

「……あの辺りに谷などございませんよ」

「いや、それがあるのだ!私はそこに落ちて怪我をして」

「「落ちた⁉」」

 ガジンとウイルが声を揃え、レッドの頭の先から爪の先までを一生懸命見回した。

「大丈夫なのですか?」

「痛いところは?」

「平気だ。そんなに心配するな」

「落ちた……。生きて帰って来てくれて良かったです」

「それで何日も動けずに行方不明となっていたわけですな」

「ああ。大鹿様の首をはねた時、霧がかかっただろう。山々が主を殺されて怒っていたのだ。そして主を殺した私を殺そうと谷へ……」

「それは違いますぞ」

 チェンが静かに言った。

「殺そうと思えば、レッド王子は主を殺した瞬間に死んでおりました。主を殺すとは、そういうものです」

「……そんな恐ろしいことを言わないでくれ」

「そもそも主が人間なぞに殺されることがありえないのです。主は、谷へあなたを導いたのではないですか?そういう考え方もできます」

「私を、谷へ……」

「谷の者は王子を救い、王子に機会を与えた。死へ報いる時を」

 目のない黒い大鹿を思い出す。それが美しい野原にぽつんと立っている。その野原に夜空が広がると、星が回って光の輪を書いた。その中心から星が落ちると、星はレッドの前で輝いた。レッドの隣には、衣装を着るリオがいる。そんな記憶と想像が広がると、隣に立っているリオの口が開いた。その言葉を思い出し、呟いた。

「次の主が決まるまで、これを守れ。谷で出会った子に言われたんだ」

 レッドのそばでリオが微笑んで言った言葉を思い出した。「大事にするんだよ、レッド」

 手のひらにある赤い宝石は、中でひゅんと火花のような光が走る。レッドはそれを固く握った。

「私は、全うしようと思う」

「さて、レッド王子。その主の角はこれからいかがされるのかな?」

 チェンが言うと、レッドは少し考えた。

「どうしたものか考えているのだ。部屋に置いておく、というのもいいものかわからないし。かといってずっと身につけておくには大きいし」

「1つ提案がございます。少しばかりでよろしい。私に薬を作らせてください」

「薬?」

「はい。鹿の角は良い薬になります。しかもそれは主の角!高値を付けても欲する者はあまたいる。売りに売れる。さすれば私は大儲け!へっへっへっへ」

「どのような病に効くのだ?」

「無気病です」

「無気病といえば、西で流行っている病です。まるで心を食われたように何もできなくなる病だそうです。それがひどくなると、不安と恐怖にかられて人を襲うというのです。理由は定かではありませんが、それは人にうつるようで、西の大都市は、無気病による治安悪化が問題になっていると聞いています。」

「そうか……。チェン、薬はどれくらいでできるのだ?」

「量にもよりますが、その角の半分だと3日、というところですな」

「1本だったらどうだ?」

「4日でやりきれます」

 レッドはそれを聞くと、角を1本手に取り、チェンに差し出した。

「1本を薬にしてほしい。半分はお前にやる。もう半分は、私がいただきたい」

「ほほう!」

 チェンは目をきらきらさせて角を見た。震える手で角を受けとる。

「半分も……!よろしいのですな」

「ああ」

「ありがたき幸せ」

 受け取った角を頭上へ掲げると、チェンはレッドに頭を下げた。

「さて、もう1本はどうしようか」

「王子、それでしたらこのガジンにも提案がございます」

「何だ」

「きっと王子らしいものにして見せまするぞ!」

                ****

 闇が月の光を覆う夜だった。城は静まり返り、空気は冷たく体をこわばらせた。それは孤独をあおり、明日の不安が押し寄せる。柔らかく暖かいベットは、安眠をもたらすものではなく、ただ時間だけを食っていく魔物の口のように思えた。

 そのため、ずいぶん昔に寝室は寝室ではなくなってしまった。ただただ振り回し続けた剣の傷が、壁や床、カーテンに残っている。光をまっすぐに受け止めていたはずの窓には、蜘蛛の巣のような亀裂が重なり、部屋の中に光を乱反射させた。それがチラッと動いただけで、無意識に手に握る剣が虚空を斬った。

 その部屋に一人うずくまるのは、バステアス王であった。そこはバステアス王が自身の姿を隠すためにあり、閉ざされた闇の怪物の住まう部屋のようだった。

「よろしいですか。バステアス王よ」

 高くも低くもなく、その声からは感情が全く見えなかった。それはとても不気味だったが、不安をあおるようなものではなかった。バステアス王にとって、それは闇の中に一人でいるところに伸びてきた救いの手のようであった。

「あなたは偉大なお人になれる。あなたは強い。だからこそ、常に上昇する風のように大きく、それが育む緑のようにその手は広く伸びていく。そこには言い知れぬ不安が募りましょう。その不安はあなたを強くし、いづれ、不死の魂を手に入れることができるのです。その時、あなたは永劫の至福を手にすることでしょう。手に入れましょう。私とともに、不死の力を!」

 うずくまるバステアス王の背中をポーンポーンとゆっくり優しく置く魔術師ハビカスの細々しい手が、バステアス王の孤独をほんの少し癒していた。

「手に入れましょう。龍の国を。その国の歌姫を」



 



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