龍の国の歌姫

高岡ミヅキ

第1話 龍の国

昔々、緑深い山々の谷に赤ん坊が一人捨てられました。

赤ん坊は、腹が減った、喉が渇いた、一人は寂しいと、ずっとずっと泣いていました。谷には赤ん坊の泣き声が毎日響き渡っていました。

しかし、とうとう赤ん坊は泣き止み、弱り果て、いよいよ呼吸も消えかけたその時、空から銀色の龍が降り立ちました。龍はその小さな口へ、自らの青い血を一滴落としました。

すると赤ん坊は呼吸を始め、ゆっくり、小さく泣き出しました。

龍はその赤ん坊を、龍の住まう谷へと連れて帰りました。


赤ん坊はすくすくと育ち、美しい歌声を持つ少女になりました。


                 ****

 林を駆ける馬が3頭、美しい緑に目もくれず、先を走る鹿を追いかけていた。鹿は木々の隙間を上手に縫い走っていくが、3頭の先頭を走る馬が徐々に近づいていく。

 その馬に乗る男は、赤いマントをはためかせ、腰の剣を抜くと、いよいよ鹿との距離を詰め、その首を斬った。鹿の体は地面に横たわり、首が転がる。

「王子、お見事!」

 後ろから他の2頭がかけよってきた。先頭を切った馬は足を止め、マントを羽織る男は地面に足をつけると、立派な角に手をかけた。

「一刀両断でございますな」

「大物にございます。持ち帰り、父君にごらんいただきましょう。さぞ喜ばれましょう」

「喜ぶか?褒めもされぬぞ」

「何をご謙遜を」

「そういうお方だ。私のことなど微塵もお考えなさらないだろう」

 男は両手で持ち上げる首を見つめ、ふうっとため息をつき、小さい声で呟いた。

「それでも、こうして小さな成果くらいお見せせねば、私のことなどさっさと忘れられてしまうだろうな」

「王子、何と」

「いや、何でもない」

「加工を加えるのがよいでしょう。上等な飾りになりますよ」

「ああ、それは良い。そうしよう」

 鹿の首からは濃い色の血がしたたり落ちる。潤んだ目玉は、さっきまで息をして動いていた証。すると、突然鹿の目玉がぐるんと動いた。男は驚き、血だまりの中に首を落とした。

「王子、どうされました」

「いや、目玉が動いたのだ」

 すると林中に雷の轟くような音が響き渡り、たくさんの鳥が羽音を立て飛んでいく。明るい空は急に暗くなり、霧が立ち込め始めた。

「一体何が起こっている」

「王子、馬へ!一旦林を抜けましょう」

「ああ。しかし首を」

 男はマントを取り、首を適当に包むと背負った。馬にまたがると、3人は急いで林を駆けて行った。

「どんどん霧が濃くなる」

「まるで、霧が追いかけてくるようですな」

 雷の轟くような音は重なり、霧や木々、馬や男たちの体を震わせた。

「これは一体何の音だ」

 赤いマントの男は後ろを振り返った。すると、そこにいるはずの二人の姿はなかった。馬を止め、辺りを見渡す。しかし、すぐそこにあるであろう木々でさえ見えないほどに、霧は濃く、二人の姿を捉えることはできなかった。

「ガジン!ウイル!」

 二人の名前を呼んでも返事はなかった。ただ霧の中に自分の声だけが響く。辺りに他の音がないか耳を澄ますと、ボタン、ボタンと重たい滴が落ちる音がした。振り返ると、それまであったはずの鹿の首が角を残して溶けていた。赤いマントは黒く染まり、またがる馬の腹をどろどろとした血が流れ、その滴が地面にボタン、ボタンと落ちていた。

「ああ、首が!」

 角を抱え、馬の腹を伝う血をすくうが、首の形はどこにもなかった。急に不安になり、一人でいられなくなった。

「ガジン、ウイル!お願いだ。返事をしてくれ!」

 二人を呼ぶ声は、霧の中に溶けて消えてしまう。不安は高まった。男は馬の手綱を取り、霧深い林の中へ駆けていった。

「とにかく二人と合流せねば」

 どこへ行けばいいかわからない。それでも、ただじっとしていることはできなかった。

 霧を割き、木々をかき分けて走って行く。すると突然霧が晴れた場所に出た。緑が広がり、遠くの山々、大河を見渡せた。男はほっとして手綱の力を抜いた、その時、すでに馬は崖の向こうへ走り切っていた。

 一瞬の浮遊感。そして馬と共に崖の底に広がる緑の中に吸い込まれていく。男の意識はそこで途切れた。

 その頃、霧の林を抜ける二人、ガジンとウイルの目の前の霧がすっと晴れた。二人は馬を止め、辺りを見た。

「霧が晴れましたな」

「一体何が起こっていたんでしょう……」

「霧は晴れたのだ。王子を探すぞ」

「はい」

 二人は来た道を引き返し、はぐれた男を探したが、それも結局は日暮れまでに見つけられず、二人は帰路につくこととなった。

                ****

 次に男が目を覚ましたのは朝だった。男の耳には、鳥の声や枝葉が揺れる音、水の流れる音が心地よく聞こえた。目を開けると、外から光が差す洞窟の中だった。ピチョンと滴が落ちる音が響く。

 男は体を起こそうとしたとたん、右手、胸、腹、両足に痛みを感じた。痛みをこらえ、上半身を起こすと、裸の体中に白い小さな花をつけた蔓が巻き付いていることに気づいた。

「なんだこれはっ」

 そう言うと、突然洞窟が暗くなった。見ると、外から大きな金色の目玉がギョロッと洞窟を覗いていた。男は怪物と目があったと思い、焦った。声も出ず、体も動かせずに左手だけがわたわたしていた。

 しばらくして目玉が上に消えて外の光が差すと、次に毛むくじゃらの頭がぴょこっと出た。

「本当だ。動いてる。目も開いてるわ!」

 青く光る髪が滝のように長いので一瞬わからなかったが、それは人のようだった。声は高く、背丈は低い。子どものようだった。洞窟から走って離れると、笑い声を出しながら、洞窟の前に体を下ろした見覚えのある馬を撫でていた。

 男はゆっくり体を起こし、蔓が絡まるのを取りながら洞窟を抜けた。ようやく光の向こうが見えた時、男は驚いた。そこは崖に囲まれた小さな谷で、地面は小さな白い花が咲く鮮やかな緑色でつやめいている。馬と毛むくじゃらの子供の後ろには青く澄んだ池があり、鈴が鳴るようなピシャンピシャンという音を立てては水面に波紋が広がる。見上げると、高い高い崖の壁に太い根をはって枝を広げる樹から、雨のように滴が落ちていた。それがまたきらきらと宝石のように輝いている。そして、その辺りを飛んでいるのは鳥ではなく、小さな龍である。龍の背や羽がくるっと動くたびに鱗が美しく光った。

「…まるで、夢でも見ているようだ」

 その時、男の隣に巨大な銀色の龍が腰を下ろしていることに気づいた。その目玉は金色で、さっき洞窟を覗きこんでいたのはこれだとわかった。

 すると子どもは背筋をピンと伸ばし、ゆっくり男に振り返った。

「しゃべった。人間の声。私わかる」

 子どもはわあっと声を出してやって来ると、そのまま男を押し倒した。痛がる男など無視して、顔や首、体をペタペタとさわった。それがくすぐったくてたまらない。男は我慢できずに笑いだした。

「あははは。やめてくれ!笑い死んでしまう」

 今度は身体中の匂いをかきだした。首筋、胸元、脇、腹、股関、足。すんすんという音と、生暖かい息が体をなめていく。恥ずかしくなり、顔を真っ赤にした。

「何なんだ、さっきから。やめてくれ…」

「なぜ?」

 子どもは長い髪の隙間から男をみつめながら、四つん這いで近づいてきた。そこで気づいた。揺れる髪でよく見えなかったが、胸から二つ、肉が垂れているのである。子どもは、いや子どもではなかった。立派に女の子であった。しかも真っ裸である。

 それに気づくと、もう直視できなかった。真っ赤な顔を余計に真っ赤にして、ぎゅううっと目をつぶってそっぽを向いた。その顔を追いかけるように女の子の頭がくいくい動いている。

「ねえ、なぜ?しゃべって、人間」

「人間って……。他に呼び方があるだろう」

「人間、名前あるの?」

「当たり前だろ」

「教えて」

「……レッド」

「レッド!」

「……君は?」

「私リオ!」

 男はレッドといい、女の子はリオといった。レッドは片目を薄く開けた。するとリオの顔がすぐ目の前にあったので驚いた。思わず両目を見開いてしまった。リオは金色のきらきらした目でレッドを見つめている。嬉しそうな、楽しそうな顔。

「私、私以外の人間は初めて見たわ」

「何だって?」

「人間て面白いのね。皆体の形が違うのかしら。だってだってだって、お乳がないわ。なのに股に何あるわ。私と違う」

 リオはレッドの胸と股関をペチペチ叩いた。レッドはいろいろな驚きのあまり言葉を失った。しかし、ペチペチと当たる手の感触は生々しく、自分が裸であることを思い出させた。

「やめろ!私の服を出せ!」

「服ない」

「はあ?」

「作ってるところ」

 リオは水面を指差した。レッドは四つん這いになってドドドと池に近寄った。すると、青い池の中で見覚えのあるマントや服が、ボロボロの状態でふわふわ浮かんでいるのが見えた。その回りを口から糸を垂らす魚が泳いでいる。糸は少しずつ絡み、服の裾を作っていた。

「なぜ、私の服はあんな無残な形になっている。一体ここはどこだ?なぜ私はここにいる」

「覚えてないの?レッドはこの谷に落ちて来たんだ」

「落ちた?」

「落ちてきた時は、服もレッドの体もすごい形だったんだよ」

 レッドは少しずつ思い出した。霧の林の中を駆け、ようやく抜けたと思った時の緑豊かな景色。内蔵が体内で浮かんで、支えを失ったまま空に立つような浮遊感。

「洞窟の蔓は体の傷を直してくれる治癒の草。白いお花が咲くほどに回復している証拠。レッドが人間の体みたいになるのに、3日かかった」

「3日?私は3日もここにいたのか」

「そうだよ」

「それはいけない。帰らなければ」

「それはダメ」

 リオはレッドの片足を掴んだ。

「君に止められる筋合いはない」

「レッドは謝らなきゃいけないもの」

「謝る?」

「レッドは大鹿様を殺した。大鹿様はこの国の主だったから、山も川も、谷も怒ってる。今帰ったら、また霧がかかる。レッドは霧から生きて抜け出せない」

 レッドは濃霧の林の中を駈けていた時を思い出した。辺りの光りも音も消え、どこを走っているのかわからない不安が押し寄せる。

「あの霧は、山々の怒りだったたいうのか」

「今帰ったら、次こそ殺される」

「そんな」

「だから謝って。大鹿様に」

 すると、水中のマントからふつふつと黒い血が水面で盛り上がり、その首をはねた大鹿となった。大鹿はゆっくりとレッドに近づく。レッドは後退りするが、大鹿はずずっと首を伸ばした。

 大鹿には目がなかった。それは目の前の鹿が既に死したものであることを感じさせた。それはとても恐ろしく、レッドの額や頬は汗で濡れる。立派な角がレッドの顔を挟んだ。

「なぜ私が謝らなければならない。私は狩をしたのだ。そして、この立派な大鹿を獲ったのだ。この国の主だと言ったか。それは違う。この国の王は私の父、バステアス・ゴールドだ!」

《人間の国の王など、森羅万象の小さな一角に過ぎない。何をもって王か。なぜ、我が首をはねたか。お前自身がそれを理解しないことには、我が怒りは収まらぬ。我を見よ。己を見よ》

 レッドの視界は目のない大鹿に迫られ真っ暗になった。レッドは思わず目をつむり、次に開いた時、レッドは見知った城の中にいた。

                 ****

 ゴールド王国を治める国王バステアス・ゴールドはレッドの父親である。「ゴールド国王は戦好き」と近隣国まで知れ渡るほど戦を繰り返すため、住まう城は頑丈にできていた。そのためか、城の中はいつも薄暗かった。廊下に並ぶ大きな窓からは、昼は生白い光、夕方は血のように赤い光が差し込んだ。レッドはいつの間にかその薄暗い廊下に立っていた。

「お兄様、お兄様!」

 パタパタと可愛らしい足音がした。振り返ると、妹のアリスがニコニコとして駆け寄ってきた。アリスは13歳でまだ身丈も小さく、いつもレッドを見上げていた。

「今日も剣舞の練習ですか。お兄様の剣舞はいつ見ても美しいですものね」

「え?」

 よく見ると、レッドは剣舞の服を身に着けていた。

「戦嫌いの臆病者には、勇ましい甲冑よりお似合いですわ」

 アリスの顔は白く、嫌味な笑みは不気味に浮かんでいるようだった。すると「あっ」とアリスはレッドの後ろを見た。レッドも振り返る。そこには、廊下をずんずんと歩いてくる父、バステアス王とレッドの弟、ブルートがいた。二人は王行な甲冑を見につけ、大きなマントをぶわっと広げ、薄暗い廊下を威風堂々歩いてくる。

 バステアス王がレッドの横を通り過ぎる。バステアス王は前しか見ていない。その視界にレッドは入っていないことは明らかだった。弟のブルートは横目でレッドを見るとほくそ笑んだ。白い光がブルートの笑みを引き立たせた。

「戦に出ても敵の一人殺せない役立たず」

 ブルートは小さな声で呟いた。その腕をぎゅうっと胸に抱きしめたのは妹のアリスだった。笑顔のアリスはブルートと肩を並べて一緒に廊下を歩いて行った。

 レッドは、いつも情けない気持ちになった。同時に嫌悪感を抱いていた。どうして家族のつながりは戦にしかないのか。どうして人を殺さなくてはならないのか。それが正しいことであるような考えしかできないのか。どうして自分は家族と同じように考えられないのか。どうして、自分ばかりがこの薄暗い城の中に置き去りにされるのか。できることはないのか。できることとは何だ。

「いつもいつも、どうして私だけが取り残される。戦を起こして、何を得ている。領土か。金か!いや、山のような屍だけではないか!」

 廊下の遠くの暗い所へと3人の姿は消えていった。声は、廊下のそこここに落ちる虚空に響いて消えた。

 すると、今度は終戦した戦場にレッドは一人立っていた。未だ濃く残る火薬の匂い、黒い煙、死体の腸をついばむ鳥。遠くから冷たい風が流れてくる。真っ赤な夕焼けが死体の影を濃くした。

 誰かがやってきて、死体を一つずつ荷台に積み上げていた。誰かは鎧や武器を集めては背中のかごに集めている。レッドは死体を一か所に集めて火をつけた。徐々に黒い煙が立ち、肉や鉄が焼けていく匂いがする。

 レッドが初陣を果たしてまもなく、バステアス王は「戦場の死体を集めてしろ」とレッドに命じたことがあった。レッドには、その命令の意図はわからなかった。レッドの手に死の感覚を持たせるためだったのか、非情さを持て、ということだったのか。それでも、レッドは少しでも認めてほしいという一心で、体の内側から出てくるものを吐きながらもやり切った。しかし、城に帰ったところで、自分に対する姿勢は一切変わらなかった。レッドは悔しくてたまならなかったことを思い出した。

「……って何だ。そんな言葉にして捨てるな。私を、捨てるな。どうすれば、認めてくれる。父よ、ブルートよ、アリスよ!」

「王子、王子!」

 その時、遠くからガジンの声がした。気付くと、レッドは揺れる馬の上にいた。手綱を掴み、林の中を走っていた。ガジンとウイルが両側を走っている。

「王子、あちらに鹿の影がちらと見えましたぞ」

「角がありましたから、牡鹿です」

「いざ、いざ!」

 ガジンは剣を抜き、鹿の方へと振りかざした。ガジンは父バステアス王の若き頃から使える武将であった。いくつもの武勇伝を持つ、その力強い腕がレッドは小さい頃から嫌いだった。その手でどれだけの人間を斬ってきたことか。

 レッドは手綱を振り、馬の足を早めた。鹿の姿はまだ見えない。

「レッド王子!牡鹿がおりました。あちらに!」

 ウイルがレッドと並走しながら指差した。ウイルはレッドの幼なじみである。2つ年上で、何でもそつなくこなせる、容量のいい人だった。いつも優しくて、レッドのことをいつも気にかけてくれた。

 ウイルとは初陣が一緒だった。我が国のため、父のため、華々しく初陣を果たそうとした。結果、レッドは敵兵をたった一人殺すだけで過呼吸を起こした。その間に背中を裂かれた。その責任をおって、ウイルは右手の小指を落とされた。その時、ウイルは「気にしないで下さい」と笑っていた。

 ウイルが鹿の方を指差すが、はめた皮の手袋の小指が、人差し指と一緒に立っている。ウイルの小指がないと思えた瞬間の罪悪感は、レッドの胸を締めつけ、背中の古傷がざわざわと動くように痛くなった。

「手出し無用!見ていろ!」

 レッドは手綱を強く振り、鹿との距離を縮めた。レッドには、鹿を狩る理由があった。

 戦に行っても役立たず。城の中でも必要とされず。どうしてこんなに情けない男なのか。いや、そんなことはないはずだ。示すのだ。強くある自分を。私にだって狩はできる。容赦なく、生きるものの首をはねることができるのだ。私は役立たずではない。我が国の、父の誇る王子になるのだ!

 そしてレッドは剣を振り上げ、大鹿の首を落とした。すると、今しがたまで生きて跳ねていた体は、グチャと重たく鈍い音を立てて横たわり、切り口から血がどろどろと流れて地面に染み込んでいく。首はその横を少し転がり、潤んだ瞳から少しずつ生気が失われていく。

 レッドの手には、立派な肉と骨を断った、生々しい重みが残っていた。手は震え、喉はひゅうっと空気の通る音がした。落ち着け、落ち着け。脂汗を額に浮かべ、レッドは早まりそうな呼吸をゆっくりとした。

「王子、お見事!」

「一刀両断ですな」

 二人がレッドのそばにやって来る。

「…ああ」

 大鹿の角に手をかけ、重たい首を持ち上げた。レッドは思った。私にだって、生きてるものの首をはねることはできるのだ。できるのだ!

 目の前の大鹿の目は潤んでいた。失われた視界にレッドはいる。達成感と同時に、後悔と罪悪感が込み上げる。

 持ち上げる手は小刻みに震え、潤んだ目に映る自分が悪魔のように見える。首からはボタボタと黒い血が落ちる。未だ手に残る首を落とした時の感覚。それは、自らの手で目の前の鹿を殺したことを実感じさせた。目の前にあるものは、まごうことなく、死であった。

《それで、お前は何を得た?》

 大鹿の口が開いた。レッドの持ち上げる首は、潤んだ目を失い、ただ黒く染まる大鹿の首になっていた。驚いた時には、辺りは真っ暗な霧に包まれていた。それはレッドの体を侵食しようとしているように、じわじわと体を闇に溶かしていた。

 恐ろしかった。恐怖と後悔、罪悪感がレッドの中を満たした。

「やめろ。やめろ!」

《何を得た?達成感か。優越感か。いや、違う》

「うるさい、うるさい!死んだものが口を聞くな」

《お前は、濃い、濃い死への恐怖を得たのだ。見てみろ。我はどこにいる?》

 気づくと、レッドは大鹿の角しか持っていなかった。首は角の下でドロドロと落ちたようだった。落ちたであろう地面は暗く、足元も見えないほど、闇は深まっていた。

 手が震え、とうとう角さえ持っていられず、闇の中へ落とした。落ちた音はしなかった。よく見ると、両手は血で濡れていた。思わず「うわああっ」と叫んだ。声は闇の中へ消えていく。

《お前は我を殺した。何を得たくて殺した》

「私は父に、…父に認められたいのだ。強い男だと。誇れる息子だと。嘲笑う弟に、妹に見せつけたかった。私は何もできない兄ではないのだと!」

《認めてもらうことに何の意味がある?》

「意味だと?それは……」

《己を見よ》

「私は、だから……」

《己を、見よ。我を見よ》

 闇深い正面から、花びらの舞う暖かな風が吹いてきた。黒い霧は晴れ、そこに花の咲く野原が広がった。ふわあっと膨らむ風がレッドを柔らかく包む。遠くには山が連なり、澄みきった空の高いところを鳥がのどかに飛んでいる。

「なんて美しいところだろう」

 そこに女の人がやって来た。艶やかな長い黒髪が風に揺れると、ちらっと耳飾りが見えた。大きな丸い青い鉱石の耳飾りは、その人の身分が高いことを表していた。女の人はしばらく歩くと、胸に抱えていた赤ん坊を静かに野原に寝かせた。

「ここなら、運がよければ銀翼の神のご加護を得られるわ。既にゴールド王国は我が国の大半を制圧した。もう、明日にも我が国は滅ぶのでしょうね。私は国に戻り、一人でも多くの民を守らなければなりません。わかってくれますか、リオ」

 女の人は、優しく赤ん坊の頭を撫でると、顔を両手で覆って泣きだした。

「ごめんなさい……。あなたを守れなくて、ごめんなさい」

 レッドは胸の奥がぎゅっとして苦しくなった。女の人にかけられる言葉もなく、苦しさに耐えるように目をそらすことしかできなかった。そんな自分が情けなく、腹が立った。

 しばらくして女の人は立ち上がり、振り返ると、そこに大鹿は静かに立っていた。女の人は膝をつき、頭を下げた。

「主様、どうかこの子を置いていくことをお許し下さい。私は国を、民を守らねばなりません」

《死ぬために戻るのか。おろかな》

「命は受け継がれ、私の死は誰かの生きる意味となりましょう」

《その子の名は?》

「リオです」

 二人の間からレッドに向かって強い風が走ってくる。顔を反らすと、そこに真っ黒な大鹿が立っていた。女の人と一緒にいた大鹿ではなく、死した大鹿である。花の咲く野原に、口も目も無くし、ただ静かに、レッドの前に立っていた。

 大鹿をじっと見つめていると、その低い声が思い出された。

《なぜ、我が首をはねたか》

「お前の首をはねたのは、私が何もできない役立たずではない、ということを父や弟、妹に見せつけるためだ。私の家族は、戦で功を成すことで繋がっている。そのような繋がりが、私は大変嫌だ。だけど、あの薄暗く大きな城の中で一人ではいられない。私は、どんな繋がりであろうとも、やはり父に認めてほしい。弟や妹にほんの少しでも慕ってもらいたい」

《何をもって王か》

 勇猛果敢で、誰もが頭を下げる中、王座に堂々と座る父は大きくて、レッドの憧れであった。自分もそうなりたいと思えた。しかし、思い出される父の姿は、家族のことなど省みず、ひたすらに戦に赴く勇ましい甲冑姿ばかりである。

「王とは、強く、気高く、勇ましい方のことだ。それは我が父だ。……私はきっとそうなれない。私は父とは違って、戦好きにはなれない」

 大鹿は何も言わなかった。ただ、耳をたて、レッドの言葉を聞いていることだけはわかる。青い空の下に広がる緑の美しい野原に、大鹿はポツンと立っている。それがとても異様に感じられた時、城にポツンと立っている自分の姿と重なった。

「ああ、そうか。私も同じなのだ。城にいても、戦場にいても、皆からすると、私は異様なものに見られていたのかもしれない」

 レッドは初陣を思い出した。砂の舞う戦場は鉄の匂い、煙の匂い、死体と武器に溢れていた。誰しもの心が鋭い刃のようで、少しでも触れば殺されるのではないかと恐怖し、殺気だっている。その空気を吸うことは難しく、自分がそこにいるということに非常な違和感があった。それでも、父や弟、妹に、勇敢に戦う姿を見せたいと思った。そうすることで、息苦しさからも逃れられると思った。

「私は、自分の居場所が欲しかった。だけど、そのために人を殺めることもできず、誰かに殺される覚悟もできていなかった。死を拒んでばかりで、それをよしとすることをただ否定し、ただ怒っていた。私は自分のことばかりだ。あの女の人のように、誰かの死を考えたことがなかった。こんな中途半端な者が、自分の勝手で生き物の命を殺めたのだ。そのようなこと、森の怒りにもなるはずだ。すまなかった。大鹿よ、すまなかった。私は考えなくてはならなかったのだ。もっと、これから……。大鹿よ。私はお前の死から、己を見たぞ」

 すると風に混ざって歌声が聞こえてきた。遠くからの声だが、広い野原に優しく、美しい声が響いていた。

「この歌声は…」

《お前を帰そう。リオがお前を呼んでいる》

「リオ……。さっきの赤子。あれはあの子か!」

《我はこの国の主であった。これから山々を治める次の主を決めねばならない。時間が必要だ。次の主が決まるまで、お前がこの国の山々を見守りなさい。これは私を殺したお前の責任だ。守れない時は、容赦なくお前を殺そう》

「誓おう。大鹿よ」

 大鹿は煙のようにすうっと消えていった。風の中に聞こえる歌声が少しずつ大きくなる。レッドは目をつぶり、その歌声に聞き入っていた。

 次に目を開けた時、レッドの頭はリオの膝の上だった。上を見ると、リオが気持ちよさそうに歌っていた。青い長い髪がレッドの頬で揺れてくすぐったい。相変わらず服は着ていないので、胸が空気を吸うたび膨らんでいるのが見えた。思わず目をつむり、その上に手のひらを重ねた。

 そこでリオがレッドが目を覚ましたことに気付いた。歌いながら、レッドの額や頬を撫でた。小さな谷は、リオの歌声でいっぱいになっていた。崖の側面から生える木からとめどなく落ちる滴の音も、谷に舞う風の音も、リオの歌声を引き立たせていた。

 優しい歌声と頬を撫でる小さな手の感覚が現実を感じさせた。日差しが暖かい。風が上等な布のようで心地よい。リオの柔らかいももが頭を包む。それが眠気を誘うようなやすらぎと安心感を与えてくれる。手で伏せた目の奥が熱くなって涙が溢れて流れた。鼻の奥がつんとしてたまらないけれど、歌の邪魔をしないように、出てきそうな声をぐっと喉の奥でこらえた。

                  ****

 ようやくズボンや上着を返してもらえたのは夜のことだった。谷から見上げる空は数多の星が輝いていた。運河が重なり、闇の奥にさらに闇があるように見える。それがとても不思議で、自分が立つ場所がこの世とは信じられなかった。

 すると、後ろから草をシャンとはむ音が聞こえたので振り返ると、白地に青い糸で草の刺繡がされた独特な柄のワンピースと、背丈より大きな古木の杖を持ってリオが立っていた。杖の頭には何個も鈴がついていて、振る度にシャンシャンと音がした。

「リオが服を着ている」

「服は嫌い。がさがさする」

 ぷんぷんしながらレッドの横まで歩いてくると、すっと空気を吸い、歌い出した。杖を高く上げ、空をかき混ぜるように動かすと、二人の上の星が強く輝きだした。歌声で谷が包まれると、星はゆっくりと回り始め、大きな光の輪を描いた。

「何が起きている」

「主様を探す呪文」

 すると雷の轟くような音が谷中に響き渡った。二人の後ろから銀色の大きな龍がやってきて、長い首を空に伸ばした。その喉の中から雷の轟くような音がゴロゴロと聞こえる。龍が口を開けた瞬間、耳が圧迫されているように感じ、レッドは思わず両耳を手で塞いだ。自身の内臓や骨が振動している。立っていられず、しゃがみ込んだ。リオは何ともないように立っている。

「どうして立っていられるんだ」

「慣れっこだもの。ねえ、聞こえてる?龍の歌声。綺麗でしょう」

「歌声?」

 耳の圧迫感、体中の振動ばかりで、音は何も聞こえなかった。龍は口を閉じ、首を下した。すると耳の圧迫感も体の振動も感じなくなった。何かが聞こえていたのではないが、龍の歌声を聞くということがどのような感覚なのかはよくわかった。レッドは耳から手を離し、ゆっくり立ち上がった。まだ胃腸が振動しているように思えて、お腹をさすった。

 空を見上げると、光の年輪はゆっくり逆向きに回り出し、元の夜空になった。星の輪の中心だったところから、小さな光の粒がレッドにまっすぐ落ちてきた。あまりの眩しさに目をつぶって両手で顔を塞いだ。眩しい中、ゆっくり目を開けると、

まん丸の光の粒が目の前に浮ていて、粒からは緑や青、黄色、赤の火花が散っている。

「何だ、これは」

「主様のかけら。ここに落ちてきたということは、まだ主様はいないということ」

「主様って?あの大鹿のことか」

「そうだった。でも大鹿様は死んでしまったから、次の主が決まるまで、このかけらを守らなければならない。レッドの元に落ちてきたということは、レッドはこれを守る役目を与えられたことになる」

 レッドはあの美しい野原に立っていた黒い大鹿が消える前に言った言葉を思い出した。

《次の主が決まるまで、お前がこの国の山々を見守りなさい。これは私を殺したお前の責任だ。守れない時は、容赦なくお前を殺そう》

 そしてレッドは答えた。 「誓おう。大鹿よ」

「そうだ。私は大鹿と約束をした。この国の山々を見守ると」

 レッドが両手で光の粒を包んだ瞬間、それは真っ赤な宝石になった。その中には火花が星のように飛んでいる。

「必ず、約束を果たそう。大鹿よ」

 すると宝石はレッドの左手に溶け込み、ひし形の宝石の頭が手のひらに残った。手は普通に動かせるようだった。また手のひらにあるひし形の宝石の感触はなかった。

「大事にするんだよ、レッド」

「当たり前だ」

「あ、そうだ!お祝いしよう。皆あ、お祝いしよう!」

 リオが叫ぶと、静かな谷がざわざわとし始め、大小さまざまな大きさや形の龍が集まってきた。リオは杖を振りながら歌い出すと、足元の緑に咲く小さな白い花が光り、それが空中に浮いて辺りを照らした。小さい龍がリオやレッドの周りを飛びながら、頬を撫で、髪でじゃれた。

「おい、リオ。これは何のお祝いだ」

「何でもいいの。皆に集まってもらって、レッドのことを覚えてほしいの。龍はお祝いが大好きよ」

「龍というのは、大変人懐っこい生き物なのだな。初めて触れるが」

「そんなことないよ。でも、優しい人のことはとっても大好き。皆、レッドが優しい人だってわかるんだと思う」

「私が…」

「大鹿様もよくわかっていたと思うわ。森羅万象の主だもの。主様はね、国を見渡し、誰しもを大事にして守ることのできるものがなるものなの」

「国を見渡し、誰しもを大事にして、守る…」

 レッドは思い出す。大鹿の言った《何をもって王か》という言葉。

「何をもって、王か…」

 谷は集まった龍が舞い、リオの歌声が響く賑やかな夜を過ごした。

 そうして次の朝、レッドはようやく直ったマントを羽織り、馬と共に帰り支度をした。池の魚たちが編んだ新しいマントは、まるでリオの髪の色のように真っ青で、風のように軽やかで、龍の鱗のようにつやつやと光っていた。

「見事な出来ではないか。よいものをもらってしまった」

「人間は服が好きねえ」

 そういうリオは、昨晩の恰好でいた。それも今朝レッドの前で脱ごうとしていたのを一生懸命レッドが説得して着ているのだった。そのため嫌そうにしている。

「生活をするためには必要なのだ」

「いらないと思う。聞いたことがあるわ。人間は服を着ることで、その心を隠したいのよね。そんな必要はないのに」

「…それが必要なこともあるのだ、リオ」

 レッドはリオの頭を撫でた。リオはくすぐったそうにしている。

「では、世話になった。ありがとう」

「また来て。私、あなたにまた会いたいわ」

「しかし…」

 辺りを見渡せば、この谷が人間ではないものたちの世界であることがよくわかった。豊かな緑に囲まれ、人間の手の加わっていない大自然。そこに龍がいる。人の出入りしていい場所とはとうてい思えなかった。

 すると銀の龍がレッドに首を伸ばした。その口にはさんだ自身の鱗を一枚をレッドに差し出した。レッドはその鱗を手に取った。

「カカもまた来ていいって言ってる。それはここと繋がる道を案内してくれるわ」

「そうか。ありがとう」

「あと、大鹿様から角をレッドにって」

「大鹿が?」

 リオは大鹿の立派な角をレッドに渡した。

「気を付けてね。また遊びに来てね」

「うん。また来よう」

「ねえ、レッド」

「何だ?」

「私はあなたの友達になりたい」

「…いいだろう。リオ、私たちは友人だ」

「うん!」

 レッドは馬にまたがり、リオが手を振るのに答えた。谷から離れるにつれて、徐々に霧がかかった。ゆっくり進んで行くと、霧が晴れ、見知った林に入った。馬は迷わず道を進み、その日の昼のうちに、レッドはゴールド王国に帰っていったのだった。

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