赤子の泣き声が聴こえるような気がするのだった。それは決まって同じラッパーのトラックを聴いたときにだ。

 傭兵たちは政府や法王を総代とする宗教的権威とは反目し合っていた。ニュートラルなものなどはまだなかった時代のことである。であればみなが憎しみ合っているということになる。仲裁が起きるときは、必ず金が動くのだから、憎しみはどこにでもついて回る。

 憎悪と恐怖とが魂を削り取る。削り取ることは磨くことと同じだ。余分なものから落とされてゆくのだから。大きな力によって、それは大河の流れや抗いがたい海潮のようなものであるとして、磨かれた魂はけっして失うことのできないもの以外を容赦なく奪いとるが、逆にいえば運よく生き残ることができているひとの魂には最も重要なものが残る。

 尊厳である。気高い魂とはこのことだ。

 高村浩介は書を焼き捨てようとしていた。十二月の寒い夜のことで、しかし暖をとろうとしていたのではない。傭兵たちの時代ならば、薪を絶やして寒さに震えようと決して書を燃さなかったことが美談になるだろうが、そして生きるためと割り切って叡智の結晶たる書物を燃しても責めるものもなかったろうが、いまは生産と消費の時代だ。さらにいってしまうならば、もはやその段階も過ぎ去ろうとしている。

 とはいえ高村も貴重な本はすでにゼミの後輩にゆずり渡す約束をつけてあった。いまから彼が焚こうとしているのは、ほとんど価値のない古本屋で簡単に手に入るような文庫本だけだった。

 高村は想像した。傭兵たちを雇い貴族を殺す大公は、当の貴族とみな知り合いなのだ。自分を殺そうとする者の顔も名前も知っていて、あまつさえ話したことさえあるというのはいったいどうしたことだろう。

 高村はアパートの裏手の河原でそれをしようと決めていた。だからその日、まずはあらかじめ用意しておいた一斗缶に乾いた草木を集めた。一週間前にも思い立ったが、いま一度踏切がつかず、そうこうしているうちに雨が降ってしまった。また大学に通ってぼんやりと日々を過ごす。やりおおせてしまわないうちは、まだそうするしかないのだと高村は諦めていたからだ。

 森の中から人影が現れて、その輪郭は薄ぼんやりとしている。女のようでもあるが、男のようにも見える。その人影は、まだ生まれていない者の影なのだ。あるいはもっと直接に将来と名づけよう。かき消してしまわなければ今がおぼつかないなら、そうするしかない。そいつはまだ人間じゃない。

 高村はそう考えていた。

 一斗缶にはいっぱいの菜種油が入っていたから、汗にまみれて家に運び込んだまだ暑い九月ごろには、高村にはまだ具体的なイメージがなかったから、この油をどうしようかということさえ考えていなかった。それから三ヶ月が経って、がむしゃらに買い込んだ容器に移された油はどれも酸化してほとんど駄目になってしまった。残ったのは缶だけだ。

 トートバッグに詰め込んできた本はそれほど重くなかった。譲り渡す予定でゼミ室に移してある少しでも貴重なものを除けば、思ったよりもずっと少なくなってしまった蔵書はしかし、それでもバッグの布地を装丁によってつつき回し、いびつな形にしている。

 高村はバッグの中身をすべて河原に放り出した。ふとページが汚れるのが気になって笑えてきた。これから燃やそうという本だ。

 ライターを点けて新聞紙を燃やすと、一斗缶の中に入れる。火が起きる。ついでに煙草にも火をつけて、深く吸い込んだ。甘い煙が肺のなかを満たして、ふと実家の父のことを思い出した。ヘビースモーカーではあったがふだん煙草を吸っても思い出すことのない人の記憶に戸惑うが、すぐに新聞紙を燃したからだとわかって高村は安堵した。

 実家のすぐそばにあったごみを燃すための古いドラム缶のことだ。それは錆び切っていて目の前のぴかぴかの一斗缶とは少しも似ていない。しかし高村の父はごみを燃すときかならずそばで煙草を吸っていた。高村もよく近くで遊んでいたから覚えていたのだろう。

 一瞬、本を焼くなんていったいどれだけばかげたことだと思いかけたが、高村は一冊目を手に取ると缶の中に放り込んだ。

 炎が立ち上がり、それから二年が経った。

 もう思い出すこともないような記憶のことだから、高村は本を燃やしたことなど忘れてしまっているだろう。

 彼はお茶を飲んでいる。喫茶店の席に座っていて、その対面には女がいた。浅黒い肌の健康的な女だった。

 高村の仕事は本を売ることだった。本は売れないが、家族を食べさせるくらいのことはいまではもう、できている。

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