たとえば旅人が青い山を遠くに見つめているのを想像すると、缶ビールのプルタブを引き上げて缶の中に充填され行き場を失っていた空気が缶の外へ勢いよく流れ出てゆくときの音を思い浮かべるようなことが高村にはあった。なんでもないひとつの出来事と、それはたいてい視覚から得られるものだが、それとはまったく関連のなさそうに思えるひとつの感覚が連帯する。この傾向が高村に現れたのは彼が岐阜に生まれ、大学進学を機に東京に出たころからだった。その日も買い物のために家を出た高村は、そばに生えて伸び放題になっている木から繋がって、壁じゅうを蔦が張って不気味な雰囲気を漂わせている空家を見て、ふと酢酸のような鋭い匂いを鼻に感じた。だがそれが実体の香り、空気の中に酸性の蒸気が含まれているときに鼻を突き刺すようなあの現実の感覚でないことは、急いで空家から目を逸らせばすぐに匂いが消えてしまうことから弁別できる。

 手には表情がある。デッサンのために来てくれるモデルの人々の手を見ると、それぞれに喜びや悲しみ、くつろいだ気持ち、気がかり、苦しみ、そして怒りを見てとることがある。高村はそうしたむき出しの、彼にとってはあまりにむき出しの感情を手に見出すと、そっと目を伏せた。同級生はみなそうしたときにも変わらず指を動かして、精緻に姿を紙に写しとっていた。表情を見せるのは手だけではない。しかし高村にとり、もっとも雄弁なのは手だった。にこやかで機嫌の良さそうな人の手が怒っていると、高村はそっと口をつぐんで身震いした。そうしたモデルをデッサンしているとき、高村はずっと口の中に苦みを感じていた。化学的な苦みだった。

 大学を出た高村は理子のアパートに向かった。まえもって約束していた。理子は高村を迎え入れると、小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出して高村に渡した。理子の部屋は小さかった。彼女の身体は大きいから、余計にそう見えるのだ。男性の中でもそれほど小さくない高村にくらべても理子は大きい。とはいえ体つきは女性的でしなやかだ。理子は自身の背の高さを好悪問わずに意識するようなことを高村に言わなかったが、部屋の中に申し訳程度についているわずかな収納の中に上半身を突っ込んで奥のものを取り出そうとするときなどは窮屈そうにしていた。理子が缶ビールを開けてひと口飲んだ。アルミ、あるいはスチールが理子の指の力によって押し切られる小気味いい音と、ガスの噴出する音が混ざった。しかし旅人のイメージは高村にはなかった。それはずっと強いイメージとしてそこに理子がいたからかもしれないし、単に逆はないのかもしれない。

 理子は、理子という女を高村が見るときは日向にいるような暖かさだ。服を脱いだ理子の身体は健康的だった。そうした見てとれる健康が高村に太陽のイメージ、厳密にはその光の温かさの感覚を与えているのかはわからなかったが、理子をデッサンしているときの高村は幸せだった。理子の身体はなだらかな稜線を描いて、女性的で肉感的だった。セックスをするとき高村は理子の身体に情欲をいだいて愛し、いつもそれを求めたが、デッサンのときは違った。彼女の身体は高村にはミューズのそれに思えた。

 デッサンが終わると理子は小さく粗末なキッチンで焼きそばを作った。野菜のほとんど入っていない茶色の麺はソースでつるつると光っていた。高村より先に食べ終えた理子の唇は脂に濡れていて、ただ濡れているのではなく艶めいていて、高村がじっと理子の唇を見ていると理子はそっと膝立ちで高村のほうへ歩み寄ってくる。部屋は狭く、たった一二歩膝を擦り歩いただけで、理子は高村の目の前にまで迫って、高村がなにも言わないでいると、彼女は高村の唇を舐めた。そのときに感じた酸味が、焼きそばのソースの酸い味だったのか、木から伸びた蔦が空家に残るかつての暮らしの名残りを吸い尽くしてしまうあのイメージなのか、高村にはわからなかったが、いまやそんなことは彼にとりどうでもよいことだった。

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