第10話(仮)

 岡野がまず向かったのは件の娘の母親が勤める町工場だ。時給千円にも満たない仕事を朝の8時から夕方7時まで続けて、その収入だけが一家の家計だそうだ。あの男は働きもしない、そうと思い返すたびに腸が煮えくり返った。

「はぁ、そうですか。では、娘ともどもよろしくお願いします。」

 母親に生気はなかった。急な呼び出しに応じてひと通りの説明を聞き終えるまで、聞いているのかいないのか、まるで様子が解からない。ぽつんと一言返してから、仕事に戻ります、と言って戻っていった。完全に思考が麻痺している、あれでは娘を心配するどころではないだろう。母子に、自由になれたという実感が涌くのもいつになることか。

 とにかく母親の確保はこれで完了だ、岡野は携帯を取り出し中富に連絡した。

「中富さん、こちらは首尾よく奥さんを説得出来ました。7時にパート仕事が終わり次第、紹介のシェルターへ向かうと仰っています。」

 中富からの次なる指示は、学園へ向かうことだった。娘はまだ捕まらないようだ。日は暮れ始めている、夕闇の色が次第に濃くなっていく。急ぎ足で岡野は駅前のルートを辿った。途中で娘に遭遇できればと一縷の望みを掛けてこの道を選んだ。


 岡野は駅前近い路上に若い人影を見つければ、すぐに写真を片手に少女の行方を照会した。だが、見かける少女達は誰も彼女ではなく、また、彼女を見た者も現われなかった。捜索は困難を極めた。こちらで見つける事は非常に困難、そう何度も連絡を入れそうになった。時計を何度確認したものか、回数も覚えきれない。

 徒歩で母親の職場から娘の学園まではさすがに距離があった。駅を介したルートでは尚更に。校門に着く頃には完全に夜の帳が下りている。周囲はまだ蒼かった、月が明るく照らしており、かろうじてライト無しでも歩けた。

 正門はさすがに閉じられている。時刻を見れば6時30分を少し過ぎたところだ。二人が予定した新幹線の発着は確か9時だった、あと2時間弱でなんとか見つけねばならない。自然と焦りが生まれた。


 門柱の間から覗いた学園の様子は、すでに幾つか、職員関連の部屋を残して新校舎も旧校舎も明かりは落ちていた。特に旧校舎はもう閉館になっているらしく、真っ黒い影となって青黒い林の中に聳えていた。

 どのくらい経ったろう。ふと、岡野は目を凝らした。見間違いかと思ったが、確かに何か白いものがチラリと見えた。四角い大きな影の上辺、旧校舎の屋上付近か。

 また白い影が動いた。誰かが居る、そうと見る間に白い破片は人の上体の形を取り、屋上から乗り出した。

「あぶない……!」

 届くわけのない声を、思いがけずで発していた。


 人影は暗い林の間に身を躍らせた。月明かりの中くっきりと、人の形である事が確認できた。チラリと覗いた白いものは誰かの衣服で、屋上の、おそらくは囲いか壁のようなものへ上体を乗り上げ、そのまま頭から落下したらしい。壁際に沿って落ちていった。

 どうするべきか、内部では誰も気付く者は居なかったらしく、窓の明かりに浮かぶ人の影はどれも慌てる素振りも見せない。見ていたのはどうやら自分ひとりきりと知って、岡野は激しい葛藤に見舞われた。

 様子を見るべきか、今行けば助けられるかも知れない、あの高さでは無駄だろう、先生に迷惑が掛かる……様々な思考が一度に脳裡を駆けた。道の端に車のヘッドライトが見えたのはその最中だった。

 到着した中富の判断に従い、遅ればせながらも学園の事務方へと連絡を入れた。匿名にして、要件だけを告げて即座に切った。逃げるように学園を去ったが、その夜は一晩中眠ることは出来なかった。もちろん、先生には話していない、迷惑は掛けられない。


 自殺したのは誰だったのか、少女の捜索に戻ってからもその事が脳裡を離れない。岡野は駅前で車を降り、また少女の写真を手に人の間を渡った。心が浮ついて、この時に聞いた情報のほとんどは頭に入らなかった。

 十分刻みに中富からは連絡が入る、その度に互いが収穫無しを告げ合った。彼もまだ坊ちゃんを見つけられてはいなかった。時計を確認する、8時を回ってしまった。通りを歩く人々にはほろ酔いの顔が増えた。そのうちに中富からの定時連絡も途絶えた。

『すまん、連絡が遅れた。坊ちゃんは無事だ、そっちは?』

 中富から再びの連絡は日付が変わった頃に来た。

「こちらは収穫ありません。けど、坊ちゃんが無事でよかった……」

『彼女は来なかったよ。そちらももう引き上げてくれ、済まなかったな。』

 一抹の期待は掻き消えた。

「いえ、はい、それでは直帰させて頂きます。おやすみなさい。」

 じわりと汗が滲んだ、やはりという気持ちが徐々に膨らみを増した。


 翌日の朝刊は隅から隅までチェックした。ただの自殺ではない、学園の敷地内での事件だ、知れれば記事にならないはずはなかった。いったい誰が飛び降りたのか、確認する術はなかった。

 全国版も含め全ての新聞を取り寄せて確認したが、それらしき記事はない。どころか、件の少女には父親殺害の嫌疑が掛かり、指名手配に掛けられていた。現在も行方を捜索中だという。

 見間違いだったのか、確証が持てなくなってしまった。その後、中富に会うもやはり同じ事を言われた。正常ではない夜に見えた異常な幻想だろう、と。はっきりと見たと思ったが、朝にはもう自信は失せている、確かに幻かも知れない。だが彼女の行方は知れないままだ。

 何気なく付けたテレビに見覚えのある建物と、報道陣の詰め掛けている様子が映っていた。いつ頃に発覚したものか、レポーターの誰もその点には触れない。

『こちら、事件のあったアパートの前に来ています。ここの一階に住む男性が、包丁で刺されているところを発見されました。男性は死亡、現在、警察の現場検証が行われております。重要参考人として、この男性の、高校一年生になる16歳の娘の行方が捜索されている模様です。』

 テレビはどのチャンネルも、突如起きたこの事件を取り上げて報道していた。このところの平穏を破っての、久々の殺人事件だからだろう。岡野は短く紹介されるニュースを出来る限りと拾い集めた。

 女子高校生による、義父の殺害嫌疑。被疑者は逃亡、当時の服装は制服のスカートの上に白のタートルネックのセーターを着込んでいるものと思われる、報道はそう繰り返していた。中富から連絡が来たのもこの時分であり、彼は警察へ出頭するべきかの相談を持ちかけた。


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