第7話(仮)

 彼女の父親はひどい男で、修一郎は何度か直談判に向かった。その度に、ボコボコに殴られ、路上に吐いた。男は手馴れたもので、顔には傷一つ付けない。脅し文句の代わりに修一郎の目の前で娘の顔面に拳骨を食わせて、ある事ない事すべて週刊誌に売りつけるぞと、耳元へ厭らしく囁いた。金を要求される事もあった。出さなければ娘を殴った。

 非力で、誰に相談も出来ず、二人は追い詰められていった。


「どこか遠くへ逃げよう。」

 丸裸になっていく校庭の木々が、まるで自分たちの未来を描き出しているかのように見えた。だから、修一郎は思い余ってそう言った。誘いの言葉に、彼女は意外にも素直に頷いた。このところ、あの男の暴力は性的なものも含むようになっていたからだろう。

 他に逃げ込める場所などなく、家族への迷惑や将来のことさえ考えるだけの余裕がなくなっていた。逃げきれなければ二人一緒に死のうとさえ思っていた。

「創立記念日の夜がいい。その日、親父は記念の式典に呼ばれているから、俺は自由に動きやすい。普段は秘書の誰かが必ず見ていて夜は外出できないけど、その日なら、全員が出掛けるんだ。」

「本当にいいの?」

「他に手がない。……君こそ、本当にいいんだな?」

 ずっと耐えてきたのは母親の事があるからだ。あの男の凶暴さがそちらへ向かうと知っていて、娘は涙を浮かべた。解かっていても、もう限界だったのだろう。

「決行の日まで、ヤツに悟られないように気をつけて。そうだ、カムフラージュに今度の日曜日は二人で買い物に出よう。下調べで一度、電車にも乗ってみておいた方がいいし、逃亡の準備を密かに進めておくんだ。」

 金なら心配要らないと、修一郎は自身の預金通帳の残高を元にこの先の暮らしを計算していた。


 二人で出かけた先で、お揃いの白いタートルネックのセーターをユニクロで買った。逃げ続けるうちに冬が来て、きっと必需品となるだろう。あまり無計画な買い物は出来ない、この先はきっと長い。セーターだけをまずは買って、新幹線のチケットを予約した。

「アイツにバレないように気をつけて。今日のことでヤツが不満そうだったら、俺から金を引き出したって言って、これを渡して。」

 封筒に5万円を入れて、彼女に押し付けた。あの男はもう、彼が国会議員の息子だと知っていて手のひらを返したように丁重に扱うようになっている。父に迷惑を掛けないためにも、二人で消える以外の選択肢はないと思っていた。

「ありがとう、修一郎さん。嬉しい。」

 彼女は涙を溜めて、無理をして笑った。その笑顔が奮い立たせてくれた。


 待ち合わせの場所は市バスの停留所のひとつに決めていた。駅では誰に出くわすとも限らず、学校も異変に気付けば真っ先に追っ手が掛かる、だからあまり利用者はなくて駅には近い場所の停留所に決めた。思った通りで待ち合いのベンチには修一郎の他に人影はなかった。

 昨日まではまだ夜も暖かかったのに、この日になって急に冷え込むようになった。吐く息が白く染まり、そうこうするうちに天からは雪まで落ち始めた。手足は冷たくかじかんだが、心は温かだ。きっと彼女を救い出してみせる、熱を秘めた体内は冬などものともしなかった。


 どれくらい待ったか、約束の時間はとうに過ぎていた。もしかして時間を間違えたか、まさかアイツに見つかったのか、いや、それはない、夕方から出掛けるように指示して彼女は先に駅で時間つぶしをしているはずだ、だから父親に捕まることはない、その後、道路を挟んだ向こうの路線のバスから降りてくるのを待って……

 やってきたバスからも、彼女は降りてこなかった。


 見慣れた黒塗りの高級車が少し離れた路上に駐車した。運転席から、やはり見慣れた男が降りてきて、ゆっくりとした足取りで修一郎の座るベンチへと近寄ってきた。

「坊ちゃん、」

「人を待ってるんだ。最終までには、きっと、来るから。」

 そう言って修一郎はその場を動かなかった。


 ほとんど間を置かず、最後のバスのヘッドライトが路上に見えた。

 最終のバスは、降りる者が誰もなく、そのまま通り過ぎていった。


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