第3話 記憶
「ねぇ、兄さん覚えてる?ぼくらが小学生だった頃、夏休みの夜、チョコバナナパンを求めて母さんと兄さんとぼくの三人で、コンビニへ行ったこと」
お正月、半年ぶりに帰省したぼくは、生まれ故郷の匂いに誘われて懐かしい記憶をふと思い出した。
「そんなことあったっけ?」
兄は居間で炬燵に入って蜜柑を食べながら、スマホでゲームをしていた。
「あったよ。あんまり美味しいから、あの夏はチョコバナナパンばっかり食べてたじゃないか」
「覚えてないな。小学生の夏休みか。懐かしいな。水風船で遊んだり、水鉄砲で遊んだり、プールに行ったり、バーベキューしたり」
「全部水じゃないか。」
確かに、それも懐かしい記憶だった。
見上げればどこまでも広がる青空に、真っ白に照り付ける太陽を反射するアスファルト、そんな灼熱の季節に行う水遊びは最高に楽しかった。
あの頃の幼かったぼくらがみた水飛沫は、どんな宝石よりも輝いて美しかった。
「はは。あの頃は、なかなか沈まない太陽が永遠みたいに感じられたな。」
「そうだね。」
ぼくはどうしてもチョコバナナパンのことが気になっていた。
白味噌の香りとともにお雑煮を持った母が居間にやってきた。
「ねぇ、母さん。昔、兄さんとぼくと三人ではまってたチョコバナナパンのこと覚えてる?」
「どうしたの突然?うーん、覚えてないな。」
夏休みから随分遠ざかった母は興味が無さそうに答えた。
「そっか…」
「作ってあげようか?チョコバナナパン。」
落胆した様子のぼくを見て母はよほどチョコバナナパンが食べたいのだと勘違いしたらしかった。
「いや、いいんだ。別に食べたいわけじゃないんだ。」
そういってぼくは、二人があの思い出を忘れてしまっていることにがっかりしつつ自室へ戻った。
それから少し経っても、兄さんも母さんも覚えていない、あのチョコバナナパンのことがどうしても頭から離れなかった。
あんまり気になるのでネットで調べてみても、最新の商品が出てくるばかりで、ぼくが本当に知りたいチョコバナナパンのことは全然わからなかった。
もう誰も、十年前に販売されていたチョコバナナパンのことについて気にかける人なんていないんだと思うと、まるでぼくの夏休みだけがパラレルワールドに存在していたような、孤独や虚しさを感じてしまった。
それどころか、自分しか知らないその記憶が果たして本当の記憶なんだろうか、もしかしたら捏造されたものじゃないんだろうかという疑心さえ生じてきた。
けれど確かにあの夜は存在したのだ。
小学生だったぼくの、夜道を歩くという非日常な体験にわくわくしたあの感情。
大好きだったチョコバナナパンが包装されていた袋に印刷されていた花火を見上げる麦わら帽子を被った小さな男の子と犬のイラスト。
それだけはしっかりと覚えているのだ。
けれど、せめて誰か一人でも、チョコバナナパンを覚えていたらいいのにとぼくは思った。
そしたら、この靄がかかった記憶が鮮明になるような気がした。
そしたら、あの夏の夜の空気の匂いがまた思い出せるような気がした。
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